きらきら 4

 携帯電話の着メロが鳴った途端に、獄寺はモニターから視線を外して、デスクの端に置いてあった小さな端末を取り上げた。
 液晶に浮かぶ名前を確認するまでもなかった。個別設定してある着メロだけで相手は分かっている。
「沢田さん?」
『──うん』
 通話ボタンを押し、開口一番、確かめるように名前を呼ぶと、相変わらず遠慮がちな声が返った。
『今、いい? 仕事が忙しいんなら……』
「大丈夫です」
 自宅で仕事をしていると綱吉に告げたのはまずかったのではないか、と今になって獄寺は時々思う。
 実際、システムエンジニアの仕事はスケジュールが無茶苦茶なのが常で、納期間際だと寝ている時以外は常に仕事漬けの生活になってしまう。それを知ってか知らずか、綱吉はいつも電話をかけてくる度に、今話をしても大丈夫か、と問いかけてくるのだ。
 おまけに綱吉は、ずば抜けて勘がいい。
『……忙しい時は忙しいって言ってくれていいんだよ。ごめん、すぐに切るから』
 普通に答えたはずの獄寺の声からすら小さな嘘を嗅ぎ取って、もとより遠慮がちだった声を更に申し訳無さそうなものに変えてしまう。
 自分に対してそんな気遣いをする必要はないのに、語学に堪能ではあっても言葉を使うのがあまり得意でない獄寺は、出会ってから七年近くを経ても、未だに上手くそのことを綱吉に納得させることができていなかった。
「いえ、本当に大丈夫ですから。納期まではまだ何日もあるんですよ」
『でも、仕事中だっただろ』
「休憩中でした」
『────…』
 獄寺君の嘘つき、とは聞こえてこなかったが、そう言われたような気はする。
 だが、ここで押し問答をしても自分に勝ち目はない。そうと分かっていたから、それよりも、と獄寺は水を向けた。
「何の御用でしたか? 俺の方はいつでも予定は空いてますけど……」
『……仕事の締切は、いつ?』
「明日も明後日も、丸一日、空いてますよ」
『いつ?』
 少しだけ強い口調で問われて、獄寺は口を閉じる。
 正直であることの美徳を認めたことなどないのに、昔から綱吉にだけは絶対に隠し事ができない。
「……来週の木曜です。金、土曜も全体テストの立ち合いなんで……」
『……じゃあ、土曜の夜には部屋に帰れる?』
「一応、その予定です」
『なら、来週の土曜と日曜はちゃんと寝てね。で、起きたら、また連絡くれる? 言っておくけど、ちゃんと寝て、起きてからだよ。スケジュールが押したからって、徹夜明けで連絡してきたら怒るから』
「沢田さん、俺の方は別に、明日ならまだ……」
 スケジュールは大丈夫だと言おうとした言葉は、駄目、とあっさり阻止される。
『自分じゃ気付かないんだろうけど。……疲れた声してるよ、獄寺君。昨夜、寝てないんじゃないの?』
 優しい、やわらかい声で問われて、心臓がどきりと騒いだ。
 心配されている。たったそれだけのことで、自分の理性は、容易くぐらつく。
『今夜も徹夜しないと間に合わなさそう?』
「……いえ、大体の目処は経ったんで……。一昨日、急に仕様変更の連絡が入ったんで、そのせいで昨夜は徹夜する羽目になったんです。でも、もう大丈夫ですから」
『そう。それならいいけど』
 あんまり無理しないでね、と言う綱吉の声は、やはり心配そうで優しくて。
 何だか泣きたい気分になったのは、本当に疲れているからかもしれなかった。
『じゃあ、今日はとにかく寝てね。それで、仕事が落ち着いて元気になったら、また連絡して』
「──はい」
『それじゃあ、また。邪魔してごめんね』
「いえ……、沢田さん」
 通話が切られてしまいそうな気配に、咄嗟に名を呼ぶ。
『何?』
「お電話、ありがとうございました。……正直、仕事で煮え詰まってたんで、俺、沢田さんの声が聞けて嬉しかったです」
『……うん。邪魔したんじゃなかったら、良かった』
「邪魔なんかじゃないです、絶対。この仕事が終わり次第、連絡しますから」
『うん、ありがと』
「……それじゃあ、また」
『うん。おやすみ、獄寺君』
「おやすみなさい、沢田さん」
 二、三秒の余韻を残して、静かに電話が切れる。
 ゆっくりと携帯電話を耳から離し、獄寺は電源ボタンを押した。
 そして、手の中の小さな端末をじっと見つめる。

「沢田、さん。……十代、目」

 二月始めの再会以来、綱吉からの連絡は、三日に一度くらいの頻度であった。
 メールだったり電話だったり、いつも他愛のない短い内容で、通話も長くとも十分程度で終わってしまう。今夜の会話は、まだ長い方だった。
 連絡をもらえたのが嬉しくて、もっと話をしていたいのに、もっと声を聞きたいのに、そのくせ、綱吉の口から否定的な言葉が出るかもしれないと思うと会話を続けることが怖くなって、言葉が上手く出てこなくなる。いつもその繰り返しだ。
「こんなんじゃ……愛想をつかされちまう、よな」
 今はまだ、綱吉は優しくて、こうして電話もかけてきてくれる。
 だが、もし電話がかかってこなくなったら、どうすればいいのか。
 確かに電話番号もメールアドレスも知っている。けれど、もし連絡しても応答してもらえなかったらと思うと恐くて、自分からは、一番最初の時や今夜のように、連絡をしてくれと言われて電話をかけるのが精一杯だ。
 自分がこれほど臆病だとは思ってもみなかった。
 だが、本当に恐いのだ。
 このまま、綱吉からの連絡がなくなってしまうかもしれないことを思うと――もう二度と会えなくなってしまうかもしれないことを考えると、夜眠ることもできない。
 一度目の別離は、どうにか耐えた。何とか生き延びた。
 けれど、もう一度失ったら、今度はもう生きてはゆけない気がする。
 誰よりも大切な人との別離を一度味わってしまったからこそ、二度目は耐えられないと分かるのだ。

 二年余り前、日本を離れた時には心臓が潰れるかと思った。
 あの事故以来、何もかもあまりにも辛くて苦しくて、いっそ正気を失ってしまいたいと何度思ったか知れない。
 大切な人を守りきれなかった自分を許せなかったし、誰かに罰して欲しかった。
 なのに綱吉を始めとして、誰一人自分のことは責めてくれなかった。
 だからといって、のうのうと綱吉の傍にいることはできず、リボーンに今後を問われた時は、迷わず日本を離れる道を選んだ。
 側に居る資格はないと思ったし、何よりも大切な人の傍を離れる、それがその時の自分にとって最も辛いことであり、最大の罰になるとも思ったのである。そして、それは事実だった。
 そうして綱吉の傍を離れてイタリアに戻り、その足で九代目にファミリーからの足抜けを求めたのは、いっそ制裁の私刑で殺されてもいいと思っていたからだ。まさか叱責の一つすらなく、総本部の敷地を出られるとは思ってもみなかった。
 だから、正門を出た時には、本当に途方に暮れていた。
 どこにも行く当てもなく、すべきこともなく。
 それでも呆然と蒼く澄んだ空を見上げた時、生きなければならないような気がした。
 こうして彼の傍を離れたにもかかわらず五体満足で生き続けることが、自分にとっての罰であるという思いも浮かんだ。
 たとえ魂が凍りついていたとしても、この心臓が動き続ける限り自分には死ぬ権利すらないという気がしたから、とりあえず日々の糧をどうするかを考え、そこから歩き出したのだ。

 あの時、他の国を行き先に選んでいれば、二度と再会することはなかっただろう。
 だが、迷いに迷って、結局、成田行きの航空チケットを買った。
 会えないと分かっていても、せめて同じ国にいたかった。どうしても望まずにはいられなかったのだ。
 せめて、せめてほんのわずかでも近い場所に、と。

「二度と会うことなんて、ねえと思ってたのに……」
 携帯電話を持ったままの手の甲を、額に押し当てる。
 この街は、並盛町からは離れている上に、広い。数百万人の人が暮らしているのに、まさか再会が叶うとは思いもしなかった。
 もちろん、心のどこかで期待していなかったといえば嘘になる。
 乗換えの駅のホームで、繁華街の雑踏の中で、駅前のカフェで、遠目にでも姿を見ることはないだろうかと、いつも行き交う人々の中に大切な人の姿を探していた。
 もし見かけることがあれば、その時、彼が幸せそうであってくれればいいと思っていた。

 なのに、まさか。

 再会するシーンも、想像したことがなかったといえば嘘だ。
 自分に気付いた途端、彼は表情をこわばらせ、嫌なものを見たとばかりに視線をそらす。そして、咎めるように「なんでここにいるの」と問いかける。
 そんな光景を何度、思い描いたか知れない。
 だから、会いたくてたまらないと思いながら、いつも再会することを恐れていた。
 償わなければと思いながら、彼に非難の目で見られることを恐れていた。

 なのに、彼は。

 人込みの中で、自分を見つけてくれた。
 名前を呼んでくれた。
 携帯電話の番号とアドレスを教えてくれた。
 もう一度会ってくれた。
 会いたいと言ってくれた。

 どれもこれも、この二年余り、欲しくて欲しくてたまらなかったものばかりだった。
 なのに、そんなにも与えてもらっていながら、自分は未だに何も返せずにいる。
 どうすればいいのか、何ができるのか、どれほど考えても分からない。
 『十代目』でなくなっても彼は彼らしく生きていて、けれど、彼の右目は、もう元には戻らない。
 その現実に対して自分ができることなど、どこを探しても一つも有りはしなかった。

 畜生、と自分自身に悪態をつきながら、唇を噛み締める。
 あの春の日、自分が彼の傍を離れなければ、きっとあんな事故は起きなかった。
 少なくとも、彼があんな酷い怪我を負い、たくさんのものを失うことはなかった。
 けれど、どれほど悔やんでも時間は戻らない。
 自分が犯した失態も、もう取り返しがつかない。
 愚かで無力な自分が償えることなど、一つもないのだ。

 なのに、そうと分かっていても、会いたいと思う気持ちを止められない。
 彼が連絡をくれることを、会いたいと言ってくれることを嬉しいと思う気持ちが止まらない。
 自分からは電話すらかけられないくせに、綱吉からの連絡を心待ちにせずにはいられないでいる。
 どこまで自分は卑怯で、身勝手なのだろう。
 そして、どこまで彼はこんな自分を許してくれるのだろう。

「……十代目……沢田さん……」

 今度、彼を失ったら、その時こそ自分は正気を失うだろう。
 何年経とうと、『十代目』であろうとなかろうと、彼は自分にとっての全てで、それは未来永劫変わらない。
 この命も魂も、最後のひとかけらまで彼に捧げられるべきもので、それ以外に存在価値などない。
 けれど、それは自分の勝手な思いだ。
 彼にとって、必要なものでは、ない。

 けれど、許されない思いだとは分かっていても。

「沢田、さん……」

 もう一度小さく名前を呼び、きつく唇を噛み締めた。

*               *

「とりあえず、こんなとこか。来週からは細かいバグ取りだな」
 無精髭にくわえ煙草の中年男が、大あくびをしながら首をこきこきと鳴らす。
 そして、赤く充血した目で獄寺を振り返った。
「悪かったな、今回も無理言って」
「いえ。引き受けたことっスから」
「あんたはそう言うけどな。そういう最低限のルールが守れねぇやつが多いんだよ、この業界。もともと業界全体の受注スケジュールが現実を無視してできあがっちまってるから、仕方ねぇんだが」
 言いながら中年男は立ち上がる。
 椅子に座りっぱなしで辛いのだろう。腰を叩きながら部屋の隅のディスペンサーに向かい、紙コップのコーヒーを注いで獄寺に差し出した。
 獄寺がそれを素直に受け取ると、自分もまた、もう一杯分の紙コップコーヒーを手に取る。
「助かってるぜ、実際。あんたは無茶な納期でもどうにかしてくれるし、急な仕様変更もきっちりこなしてくれる。今回のこれだって、あんたが手伝ってくれなきゃどうにもならなかっただろう」
「……世辞でもそう言ってもらえるのは、ありがたいです。次の仕事をもらえる見込みがあるってことっスから。俺も食ってかなきゃならないんで」
「あんたなら、こんなキツイ仕事しなくったって、取っ替え引っ替え、貢いでもらえそうなもんだがな」
 ちらりと横目で見て、男はにやりと笑う。そこに年上らしいからかいの色はあったが、同年代にありがちなやっかみめいたものは殆ど含まれていなかったせいか、獄寺の神経が逆なでされることは不思議になかった。
「そーいうのは苦手なんスよ。……昔から、色恋沙汰は下手で」
 そんな言葉がふっと口をついて出る。
 自分で驚きながら、それは多分、と獄寺は考える。
 この零細ソフトハウスの経営者が、少しシャマルに雰囲気が似ているからだ。くたびれ加減や、だらしのない外見から時折のぞく鋭さや、うさんくささでカモフラージュされた人間らしい温かみが。
 兄代わりというより父親代わりだった男を思い出させる。
「なんだ、好きな女がいるのか?」
「……片思いっスよ、ずっと」
「ふぅん?」
 少しばかり興味深げに獄寺を見やりながら、男が新たな煙草に火をつける。
 そして、ゆっくりと天井に向かって煙りを吐き出してから、再度口を開いた。
「なんなら話してみちゃどーだ? 他の連中は皆、連続徹夜で潰れてるからな。地蔵相手にでも話してると思いやいい」
 顎でエンジニア達の屍が累々と転がる室内を示しながらそう言った声は、ぞんざいなのに温かかった。
 ああ、やっぱりあの男に似ている、と独特の乾いた温かさを思い出しながら、獄寺はほろ苦く笑む。
「話す程のことはねーんです。……ただ、俺は馬鹿で、その人に取り返しのつかない真似をしちまったんで……」
 おやまあ、と男が眉を動かす。
「好きだとも言えなくなっちまったのか」
「……そういう、ことになりますかね」
 話しながら、獄寺は自分は疲れているのだろうと思った。
 普段なら決して他人には打ち明けないことを話している。
 三日続いた徹夜作業と、それ以前から降り積もっている葛藤に、心身が疲弊し切って、他人を遮断する壁にひびが入っている。そんな感じだった。
「すげー優しい人で。その人の人生を変えちまうような馬鹿をやった俺のことを、一言も責めないんです。俺は何を言われたって……殺されたって構わないのに。今でも、俺に笑ってくれる」
「――そりゃあ、いい女だな」
 でも、と男がこちらを流し見る。
「あんたは責めてくれた方が気が楽なんだろ。お前のせいで滅茶苦茶になったって」
「……でも、責められるのも恐いんスよ。今は笑ってくれてる人が、明日は違うかもしれねえ。考えるだけで、夜も眠れなくなる」
「……本気で惚れてんだな」
 からかうでも皮肉でもない笑みと共に男は言って、短くなった煙草を灰皿で揉み消した。
「苦しくて仕方ねえ。けれど、恋しくて仕方ねえ。だったら今はそのまま行くしかねーだろうよ」
「そのまま、っスか」
「ああ。この先、何か変わるかもしれねーし、何にも変わらねーかもしれねえ。いくら想像したところで、明日のことは結局、明日になってみなきゃ分かんねーんだよ。もう死にそうだと思っても、それでも好きで好きで仕方ねえんなら、それを抱えて生きていくしかねーだろ」
「……実感、こもってねーですか」
「おうよ。これでも昔はモテたんだぜ」
 ちょい悪オヤジを気取ったつもりか、男は徹夜明けのくたびれ切った顔でにやりと笑う。
「ま、結局、俺は彼女募集中になっちまったけどな。あんたの事情は相当に重そうだが、それでも本当にどうしようもなくなるまで、そのまんま行けばいいんじゃないかと俺は思うぜ。部外者の勝手な意見だが」
「そう、なんスかね」
「おう。年上の言うことは、とりあえず聞いたフリしとけ。どのみち、どうすりゃいいのかなんて分かんねーんだろ」
 そう言い、男はまた大きなあくびをした。
 そろそろ潮時かと、獄寺はぬるくなったコーヒーを一息に飲み干し、紙コップを握りつぶす。
「……じゃあ、俺もそろそろ帰って寝ます」
「おう。また週明けに頼むな」
「はい」
 紙コップを捨て、コートとバッグを拾い上げて出てゆこうとした獄寺を、男が呼び止めた。

「なあ、あんたくらいの男がそこまで惚れ込んでんだ。相当な美人なんだろうな?」
「――世界一の美人っスよ」

 その一言だけは。
 獄寺もほのかに笑って答えた。

to be continued...

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