きらきら 3

 明るい窓辺で改めて綱吉と向かいかい、その顔を見つめて獄寺は、とても綺麗になった、と素直に思った。
 出会った頃の綱吉は、どちらかというと少女めいた可愛らしい顔立ちの少年だったが、頬の輪郭から子供らしい丸みが消えた今は、可愛いというよりも綺麗という表現の方がしっくり来る。
 その凛として静かな憂いを秘めた雰囲気は古い写真で見たボンゴレの初代にも通じるもので、決して派手やかではないのに、一度気が付いたら目を離すことができなくなる類いの美しさだった。
 濃琥珀色の瞳と明るい色の髪、そして日本人にしては色素の薄い肌の色。
 久しぶりに目にする色合いの美しさに心を奪われながら、何を話せば、と獄寺は途方に暮れる。
 決して会いたくなかったわけではない。
 むしろ、その逆だった。
 会うべきではないと――会いたいと願う資格などないと分かっていても、願わずにいられなかった。
 ほんの一言でいい、もう一度声が聞けたらと我慢しきれずに電話をかけた昨夜、携帯電話を持つ手も、会話に応える声も震えていた。
 そして今も。
 表面だっては見えなくても、体の芯で何かが小さくおののいている。
 もう一度会えたことに、そして、会ってはならない人に会ってしまったことに、歓喜しながら怯えている。
 どうすれば、と思った時。
 獄寺君、と綱吉が呼んだ。

 綱吉の声は、あの頃と変わらず優しかった。
 争いごとを嫌う気性そのままに、日溜まりを思わせるやわらかな声がやわらかな口調で言葉を紡ぐ。
 その声であの頃、綱吉はよく獄寺を叱った。
 少し困ったような声で、そんなことをしちゃ駄目だよ、そんなことを言っちゃ駄目だよとたしなめられると、心の底から反省しなければならないような気分になる一方で、気にかけて下さるのだと心が浮き立った。
 ましてや、ありがとうとかすごいねなど言われたら、丸々一週間は背中に羽が生えたような気分でいられた。

 その何よりも好きだった声で、綱吉が、ありがとう、と言った。

「え……」
「昨日、電話してくれたことと、今日、会ってくれたこと。ありがとう」
「そんな……礼を言っていただくようなことじゃありません」
「そんなことないよ」
 綱吉は小さく微笑む。
 だが、その表情が少しだけ寂しげにも見えて、獄寺の胸は鋭い針で引っ掻かれたようにざわついた。
「でも今日、本当に都合は大丈夫だったの?」
「ええ。そもそも気にしていただくような都合なんて、俺にはないですよ」
「だけど、仕事、あるんだろ?」
「……まあ、一応は。でも自宅でやってますし……」
「そうなんだ」
 獄寺を見上げた綱吉の瞳が、不思議そうにまばたく。
 それから、遠慮がちに綱吉は首をかしげた。
「えっと……仕事って、何やってるか聞いてもいい?」
 答えたくないのなら答えなくてもいいと、逃げる余地を存分に与えられて、少しだけ獄寺は答えに迷う。
 だが、隠すほどのことではない。むしろ正直に答えた方が、綱吉を安心させられるだろうと思えた。
「フリーのシステムエンジニアです。ソフトハウスとの打ち合わせは基本、メールで十分ですし、ワークステーションが二、三台あれば、ある程度の規模までシステムは組めますから」
「……ワークステーションって、パソコンより機能の高いやつだよね」
 獄寺が知る限り、綱吉はパソコンを使えないわけではないが、得意としてもいなかった。
 どうやらそれは今でも変わっていないらしい。難しい問題を前にした時のように困惑ぎみにしかめられた眉に、獄寺は懐かしさと共に、うずくような痛みを胸に覚えた。
「ええ。俺が使ってる奴は、一台でパソコン四台分くらい働きます。そうじゃなけりゃ商売になりませんから」
「そっか、そうだよね。仕事道具なんだから」
「はい。……あと、こっちはオマケ程度のものですけど、少しだけ株もやってるんで……、今のところ食うには困ってません」
 きちんと生きているか、と問われたら全く自信はないが、それでもとりあえず、今現在の生計に後ろ暗い所はない。
 まさか綱吉に報告することになるとは予想もしていなかったが、ボンゴレを抜けた後、安易に裏稼業に身を落とさなかったのは、結果的には良かったということになるのだろう。
 そっか、と安堵の吐息まじりに綱吉が呟くのを耳にして、その思いはいっそう深くなった。
「良かったって俺が言うのは変だけど。でも、君が元気でいてくれて良かった。……あれから病気とか怪我とか、しなかった?」
「丈夫なのが俺のとりえですから」
 そう答えると、綱吉は淡く微笑む。
 あの頃の面影を残した、だが、どこか寂しげな影をひそませた笑みがいっそう彼の顔立ちを綺麗に見せて、獄寺は胸が騒ぐのを感じた。

 そんな風に笑わないで欲しい。
 もっと笑って欲しい。
 もっともっと声を聞かせて欲しい。

 ああ、けれどそんな風に願う資格すら、自分には、ない。

 相反する感情に、次に口にすべき言葉が分からなくなる。
 だが、入れたてのコーヒーの香りがその空白を救ってくれた。
 お待たせ致しました、という穏やかな店主の声と共に、二客のコーヒーカップが置かれる。
 ごゆっくりと告げて店主がカウンターに戻ってゆくのを待ってから、獄寺はそっとシュガーポットを綱吉の方に押しやった。
「ありがと」
 短く礼を言ってから、綱吉はゆっくりとシュガーポットに手をのばす。
 その動きは、かつてはなかった慎重さで彩られていた。

 だが、案じた程のことはなく、綱吉の手は殆ど迷いなくポットの蓋を開け、スプーン一杯分の砂糖をコーヒーに溶かし込む。
 それから綱吉は、獄寺を見てくすりと小さく笑った。

「大丈夫だよ、獄寺君」
「あ……」
 そんなに自分は心配げな表情で見つめていただろうかと不意に思い悩む獄寺に、綱吉は微笑みを深めて、少しばかり不可解な言葉を口にした。
「実験、してみる?」
「実験?」
「そう」
 綱吉はうなずき、テーブルの真ん中にシュガーポットと灰皿を並べて置いた。
「獄寺君、右目だけ閉じて、このシュガーポットに触ってみて」
「……はい」
 彼の言葉に逆らえるわけがない。大人しく獄寺は右目を閉じて、手をのばす。
 だが、両眼によって常に三点測量を行っている目測距離と、単眼視での目測距離には随分な差があり、思ったよりも先に手をのばして、やっと指先が冷たい金属に触れた。
「じゃあ、目を閉じたまま一度手を戻して、今度はこっちの灰皿に触ってみて」
 言われるままに、手を一度引っ込めて、再度のばす。
 と、今度は先程のような空振り感はなく、両眼視の時と大差ない感覚で、指先が冷たいガラスに触れた。
「ね、分かるだろ。一度触れば、脳がその距離感を覚えるみたいなんだよ」
「……そう、みたいですね」
「それを繰り返してるうちにね、周囲のものの距離感は、触らなくても最初から何となく分かるようになる。あんまり精確じゃないのは仕方ないけど、今はもう、ほとんど困ってないよ」
 そう言って微笑む綱吉の顔は、やはり優しくて、獄寺は何と答えればいいのか分からなくなる。

 ―――あれから二年以上の年月が経っている。
 綱吉の中では、もはや全てが過ぎたこととなっているのかもしれない。
 だが、幾年経とうと、彼の右目が視力をほとんど失ってしまったことは事実だ。
 そして、彼が『十代目』ではなくなってしまったことも。
 たくさん、たくさんのものを彼が失ってしまったことも。

 何年経っても、何一つ、戻らない。
 だから、自分の罪も何一つ、消えない。
 消えることなど、未来永劫、有り得ないのだ。

 なのに、自分を見上げる綱吉の瞳は、あの頃と変わらず澄んでいる。
 向けられる微笑みも、変わらず優しい。
 何一つ責められることもなく、それどころか、会いたいと言ってくれた。
 ありがとうと言ってくれた。
 それでは、どうすればいいのか分からなくなる。
 自分はどうやって、この人の優しさに報いればいいのだろう。
 何をすれば、ほんのわずかでも償えるのだろう。

 どれほど考えても、答えが分からない。

「――美味しいね」
 黙り込んでしまった獄寺に、淡くも寂しい微笑めいた表情を向けてから、綱吉はまなざしを伏せてコーヒーカップをそっと口元に運ぶ。
 伏せられた目元にかかる睫毛の影が金色に光って見えて、その美しさに獄寺はまた胸を打たれた。
 だが、その思いを隠すように目線を外して、自分もまたコーヒーカップを口元に運ぶ。
 心乱れた状態では味など分からなかったが、それでも丁寧に培煎され、サイフォンで入れられたコーヒーの華やいだ香りは、少しだけ物思いを慰めてくれるようだった。
「この店にはよく来るの?」
「そうですね。月に何度かってとこですけど。……俺の借りてるマンションは、ここからそんなに遠くないんで」
「……そうなんだ」
 綱吉は濃琥珀色の瞳をまばたかせて、小さく首をかしげる。
 短い沈黙の間、脳裏で地図を描いていたのだと分かったのは、じゃあ、と続けたからだった。
「俺のアパートの最寄り駅は神保町だから、地下鉄の路線は多分、違うね」
「……そういう、ことになりますね」
「そっか」
 溜息をつくような短い相槌が、何を思ってのことだったのかは分からなかった。
 分からないことだらけだ、と思いながら獄寺は、ためらいがちに尋ねる。
「沢田さんは……大学は……」
「あ、うん」
 綱吉は、あっさりと大学名を告げた。
「リボーンが大学受験まで面倒見てくれたから、何とか浪人せずにすんだんだよ。まあ、『オレが五年半、付きっきりでしごいてやったのに、この程度の大学しか入れねーのか』って呆れられたけど」
「リボーンさんが……」
「うん。あいつって口では何のかんの言いながら、面倒見のいい奴だから。結局、高校の卒業までうちにいてくれた」
「そう……だったんですか」
 てっきりリボーンも自分と同様、綱吉の退院直後に日本を離れたとばかり思っていたから、かなり驚きながらも、九代目とリボーンならそういう判断も有り得るだろう、と納得する。
 七年近く前にリボーンが日本へ送り込まれたのは、綱吉をボンゴレ十代目として教育するためだったが、不慮の事故によってそれが駄目になったからといって、あっさり契約を終了するには彼らも綱吉に対して情を持ち過ぎていたのに違いない。
 何も知らず平和な日々を送っていた少年を裏世界の事情で振り回し、挙げ句、片目の視力を失うという障害を負わせてしまった以上、せめてもの償いとして、大学受験がすむまで只の家庭教師としての契約の継続がなされたのではないかと獄寺は推測した。
「で、大学まで家から通えないことはないんだけど、電車を乗り継いで二時間くらいかかるから。母さんに頼んで、去年の春から一人暮らしさせてもらってるんだ」
 最初のうちは大変だったけれど、何もかも自分でやる生活にももう慣れたから不自由はないと、綱吉は微笑む。
 それから、微笑みを消して少しばかりおずおずと問いかけてきた。
「獄寺君は……今も一人暮らし?」
「はい。俺はずっと一人です」
 一人なのかと問われたこと自体に内心驚きながら答える。
 自分は八歳で実家を飛び出して以来、誰とも一緒に暮らしたことはない。今更、他人と生活を共にすることなど考えられなかったし、誰かと共にいたいと思ったこともなかった。
 もしあるとすれば……生活を共にするのとは全く別の次元で、目の前の人とずっと一緒にいたかった。それだけだ。

 毎日毎日、会って、話をして、笑い合って。
 離れてからも、そんな宝物のようだった日々を、いつも思い返さずにはいられなかった。
 あの頃、自分の生活は朝から晩まで『十代目』で占められていた。
 その日々がどれほど幸福だったか。
 毎日、幸せを噛み締めていなかったわけではない。
 だが、失って初めて、その本当の価値を知ったのだ。

 獄寺の返答に何を思ったのか、綱吉はまなざしを落として、指先でコーヒーカップの持ち手をなぞる。
 灰藍色と金泥の釉薬で彩られた欧州産の美しい磁器に、細い指先は不思議な程、似合って見えた。

「――じゃあ、」
 ためらいを含んだ声で、ぽつりと綱吉が呟く。
「また、会える?」

 会ってくれる?、と小さな声が問いかける。
 その言葉をどう受け止めればいいのか、分からなかった。

「――俺の方は、いつでも大丈夫です」
「……本当に?」
「はい。あなたに嘘はつきません」
 そう告げると、綱吉はやっとまなざしを上げた。
 太陽のかけらを含んだような透明な濃琥珀色の瞳は、どこか不安げにも寂しげにも見えて、獄寺はいっそう心が波立つのを感じる。
 だが、視線をそらさずにいれば、綱吉は小さくありがとう、と言った。

「そろそろ出よっか」
「……はい」
 うながされて、立ち上がった。
 そして、綱吉の手がレシートにのびる前に、その白いメモをさりげなく奪い去る。
「俺が出しますよ、これくらい」
「でも」
「これでも一応、人並みには稼いでますから」
 正確には人並み以上にだったが、自慢するべきことでもない。ただそうとだけ言って、カウンターに向かう。
 支払いを終えて店を出ると、眩しい冬晴れの空とは裏腹に冷たい風が頬を刺した。
「寒くないですか?」
 問いかけると、綱吉は肩をすくめるようにして笑う。
「平気って言ったら嘘だけど。でも、どうしようもないしね」
「タクシーくらい、すぐに呼びますけど」
「いいよ、タクシーなんて。歩いたって俺の部屋まで二十分もあれば着くし」
 相変わらずだねぇと笑いさざめいた綱吉の声が、ふっと途切れる。
 そして綱吉は、人通りの殆どない道の端で立ち止まった。
「沢田さん?」
「……あのさ」
 微笑みたいのに微笑みきれないような少し硬い表情で、前方のアスファルトを見つめたまま、綱吉はダッフルコートのポケットから携帯電話を取り出す。
 何かと考え始めるまでもなく、静かな声が言った。

「俺、昨日かけてくれた君の携帯の番号、まだ登録してないんだ。――登録、してもいい?」

 その言葉に、獄寺は心臓をわしづかみにされたような胸苦しさを覚える。

 何故、この人は。
 何故、こんなにまでも。

「―――…」
 ぐっと唇を噛み締めるようにしながら、自分の携帯電話を取り出し、開いた。
「……獄寺君?」
 不安げに名を呼ぶ声は聞こえたが、画面を見つめたまま答えずに手早くボタンを押す。
 五秒程のタイムラグがあって。

 綱吉の手の中の携帯電話が、あの頃彼が好きだったのと同じ歌手の最新ヒット曲を奏でた。

 綱吉が驚いたように、鳴り続ける手の中の携帯電話を見つめる。
 その顔を見つめながら、告げた。
「俺のメールアドレスです。いつでも連絡して下さい。電話でも、メールでも。朝でも夜でも昼間でも構いません」
 こちらを見た綱吉の目が驚いたようにみはられ、再び手の中の携帯電話の画面を見つめる。
 そして綱吉は、おもむろに指を動かして着メロを止め、ゆっくりと携帯電話のボタンを操作した。
 ほどなく登録作業が終わったのか、画面をもう一度じっと見つめてから、携帯電話を閉じる。

「ありがとう、獄寺君」
「いいえ」

 向けられた笑みを、懐かしくも切なく受け止める。
 今の自分に何ができるわけではない。
 それでも、この微笑みをこれ以上裏切らないことくらいはできるかもしれない、と再会してから初めて思った。

to be continued...

NEXT >>
<< PREV
格納庫に戻る >>