I am.

7.

「失礼します」
 ノックの後、中からの応答を待たずにドアを開ける。
 このドアに内鍵がかけられていた試しはないし、いちいち許可をするのも面倒だからと、上司から入室についてフリーパスの許可は得ている。
 そんなこの職場のやり方にも随分慣れてきたが、しかしまだ、馴染めないことがある。それはつまり、室内のこの現状だった。
「……またか」
 明るく広い、年代物の家具で統一された重厚な印象の執務室を一瞥して、隼人は溜息を噛み殺す。
 室内はもぬけの殻だった。
 本来ならば、ドアに向かって正面にあるマホガニー製の巨大な執務卓になければならない人影がない。
 歩み寄って卓上を確認すると、積み上げられた書類には一応、全てにサインがされているようだった。やることはやったからいいよね、という上司の声が聞こえるような気がして、隼人は眉を小さくしかめる。
 確かにこの積み上げられた書類――午前中に届けた分は、決裁が完了しているかもしれない。だが、この広大なボンゴレの総本部全体からボスに対して上がってくる書類は、とめどなく溢れ出す湧き水のようなものだ。ボンゴレそのものが壊滅でもしない限り、決して涸れて無くなることはない。
 しかし、現に書類を決裁する人間は不在なのである。手をこまねいていたら、滞った書類があっという間に溢れ出して決壊してしまう。
 仕方がない、と隼人は手にしていた新たな書類の束を一旦、執務卓上に下ろして、常備してあるクリップボードに、慣れた手付きで緊急を要するものから順番に重ねて挟み込んだ。
 そして、整理し直した書類を片手に執務室を出て階下に降りる。
 本館のエレベーターは何故か建物の端の方にしかないため、自分の足を使って階段を二階まで降りた所で、見知った顔に行き会った。
「よう」
「……ああ」
 気安く日本語で声をかけられて、短く返す。
 この山本武というボンゴレ幹部の青年は、ボンゴレ十代目の昔からの友人だという話だったが、日本生まれの日本育ちという割には、異様なくらいにこの世界に馴染んで見えた。今も鞘に収まった長刀を背に負っているのは、どこかのきなくさい、あるいは緊張感の漂う現場に出ていたからだろう。
 なのに、向けてくる表情は飄々として屈託がない。
 日常的に接するようになってからまだ日が浅いため、何がどうとは上手く説明できないが、感情の読み取りにくい黒い瞳といい、飄々としているくせに微塵も隙のない物腰といい、全くもって底が知れないと感じさせる男だった。
「あ、ツナの奴、またいねーのか?」
「ああ」
「そっかー……。俺も報告しなきゃなんねーんだけどなー」
 隼人が手にしているクリップボードに挟んだ書類の束を見て、執務室の現況を察したのだろう。だが、山本の呟く声には単なる確認だけではないものが混じっていたような気がして、隼人は青年の顔を見直す。
 と、何かを思う風に見えた山本が、気付いてまなざしをこちらに向けた。
「あ、俺の方は後でも構わねーと思うけど、一応、俺が帰ってきたことはツナに言っといてくんねーか」
「それはいいが……」
 自分と山本の関係を一言でいうのなら、同僚ということになるのだろう。だが、これまでずっと一人で何でもこなしてきたために、同僚という存在に対する距離感が全く分からない。
 だから、どこまで何を言ったものかと迷いながら、隼人は相手を見つめた。
「――何か気になることでもあるのか」
 何しろ自分は、ボンゴレに入ってからの日が浅い。組織に入ったその日から総本部内の全部署に一週間ずつレンタルされて、フルにこき使われるという荒技を課されたおかげで、組織の概要や主だった構成員の顔は覚えたが、本質から理解していると言えることはまだ殆どなかった。
 ましてや、あの上司のことは殆ど何も知らないに等しい。
 対して、おそらくこの組織の中であの上司について最も詳しい人間は、目の前のこの青年だった。
 自分が気付かなくて、山本が気付いている何かがあるのなら、それは聞いておく必要がある。そう思っての問いかけだったが、山本はそれを察したのだろう。大したことではないと、小さく肩をすくめてみせた。
「いや、なんつーか、ちょっと回数が増えてんなぁと思ってな」
「……不在のがか?」
「ああ」
 どう説明したものかと言葉を選ぶように、山本は小さく口元に苦笑を浮かべる。
「ツナは元々、デスクワークが好きじゃねーんだけどな。前はもう少し真面目にあの部屋にいたと思うぜ。でも、最近はいないことの方が多いだろ?」
「……………」
 獄寺が今の職に就いて以来、上司の脱走はほぼ毎日と言って良かった。天気が良かろうが悪かろうが、書類へのサインが一段落ついた途端、執務室から逃走する。
 といっても、総本部内の敷地から出ては行かないし、携帯電話も持って出ているのだから、完全な逃亡ではないが、しかし、執務室にいないことには変わりない。
「あ、誤解すんなよ。お前のせいだって言ってんじゃねーから。第一、ツナが逃げ出さないように見張るってのは、お前の仕事じゃねーだろ? 俺が言いたいのはツナの方」
 多分、と前置きして山本は言った。
「ツナはお前に甘えてんじゃねーかな。それがいいのか悪いのかは、俺には分かんねーけどな」
「……俺に甘える?」
 口に出して呟くと、それは異様な響きだった。
 彼は誰かに分別なく甘えるような気質には見えないし、自分もまた、誰かが甘えたいと思うようなやわらかさは微塵も持ち合わせていない。
 ゆえに、相手の言葉の意味が全く理解できず、顔を見返すと、山本は困ったように頭に手をやった。
「変な風に聞こえるかもしれねーけどな。……まあ、俺から見ると、無理はねーって気がする。それにツナは、俺には弱音は吐かねーんだ。頼りにはしててくれると思うんだけどな」
 その言葉尻には、かすかに自嘲も混じっていたかもしれない。だが、それを確認する前に山本は表情をいつもの飄々としたものに戻していた。
「ま、とにかく頼むわ。何でかっつーのは横に置いといて、ツナもお前に面倒みてもらいてーみたいだし」
「――おい…」
 横に置くなよ、と反射的に思ったものの、隼人がそれを口に出すよりも早く、山本は立ち話はここまでだとでも言うように右手を軽く挙げた。
「ツナには、後で報告に行くって言っといてくれ。そーだな、一時間後。四時から十五分くらいありゃいい」
「……分かった」
 隼人に質問をさせないのは、説明する気がないからだろう。そのサインは明確過ぎるほどに明確だったし、上司のスケジュール管理も自分の仕事の内である。これ以上の会話は今は無意味だと判断した隼人は、小さくうなずいて山本とすれ違った。
 そして、今の山本の言葉の意味を考えながら更に階下に降り、建物の外に出る。
 空を見上げて日射しの具合を確かめ、風が殆どないことを肌身で感じてから、一つの方角に向かって歩き出した。
 ボンゴレ総本部の敷地は広大だが、そのうち建物の敷地面積は三分の一ほどで、あとは広大な庭園が締めている。
 種々の様式を取り入れた複雑な庭園は幾つもの区画に分かれ、ありとあらゆる種類の花や樹木や流水、風雅な四阿(あずまや)に神話や伝説を題材にした怪奇彫刻(グロッタ)で彩られており、その中で隼人が目指したのは、総本部の西側にある区画だった。
 その区画では庭園内を巡る流水が池となり、この時期は色とりどりの睡蓮の花が池の半ばを埋め尽くす。そして、鬱蒼と茂る木立に囲まれた池を周遊できる小道には所々にベンチが置かれており、その内の一つに隼人は予想通り、目的の人物を見つけた。
「十代目」
 声をかけると、彼はベンチに腰を下ろしたままこちらに顔を向けて微笑む。
「隼人」
 逃走中を発見された犯人にしては、その笑みは随分と晴れやかで、隼人は一瞬、戸惑わずにはいられない。
 いつも彼はこうだった。逃走を悪びれもしなければ、反省してみせることもない。
 探しにきた隼人に嫌な顔を見せるでもなく、まるで待ち合わせでもしていた友人であるかのように迎えるのだ。
 その様子はひどく自然で、そんな彼を見る度に、隼人は何故彼がまるで日課でもあるかのように執務室から逃走するのか、考えずにはいられなかった。
 先程山本は、彼の脱走は隼人に対する甘えだと言ったが、果たしてこれがそんな可愛いものであるのかどうか。
 隼人が見たところ、彼は掴み所がないが決して浅薄な性格でもない。己の立場を重々承知しているらしい彼が頻繁に執務室から姿を消すのは、もっと深い何かがあるような気がしてならないのだ。
 だが、どれほど思考を巡らせたところで、隼人は彼のことをまだ殆ど知らない。彼の中に、山本の言うような極めて浅薄な部分がないと断言できるわけでもなかった。
「今日は早いね。俺が執務室を出てきてから、まだ三十分しか経ってないのに」
「俺が気付いたのは十分前です。その後、ここに来る途中で山本に行き会って、五分ロスしました」
「へえ」
 隼人が愛想なく事実を告げると、彼は目を丸くした。
「じゃあ、実質五分で俺を見つけ出したってこと? よくここが分かったね」
「――運が良かっただけです」
 その返答は、ほぼ嘘だった。
 各部署での研修を終えて、隼人が正式にボンゴレ十代目の秘書となってからかれこれ一月。彼の行動パターンは少しずつ読めてきている。
 季節がうつろえばまた変わるだろうが、今日のこの時間、この天候ならば、この場所にいる確率が一番高いと推測した。それが当たっただけのことだ。
 だが、それを正直に言わなかったのは、奇妙な自己防衛本能が働いたからだった。
 何となくのことで、具体的に何故と説明できるわけではない。ただ、自分の持てるものについて、彼にすべて明かすのは嫌だと感じたのだ。
 これまでにカテーナ絡みで幾つかの事柄について真実を打ち明けてしまってはいるが、すべてを言葉で説明してしまったら、本当に負けが決まってしまう気がした。――元から勝てるような相手ではないし、何が勝ち負けなのかさえ、実の所よく分かってはいないのだが。
 しかし、そんな隼人の内なる葛藤さえ見透かしているかのように、彼は小さく笑った。
「嘘」
「――何がです?」
「運じゃないだろ。俺は基本的に単純で、ワンパタだし。よく晴れて、ちょっと暑いくらいのこんな天気なら、涼しげな水辺で花盛りの睡蓮でも眺めてるはず。そう思ったんだろ?」
「―――…」
 ずばりと言い当てられると、本当に返答に困る。
 かすかに眉間にしわを寄せた隼人に、彼はまた微笑んだ。
「それより、書類は? 急ぎのサインがあるんじゃないの?」
「……分かっていらっしゃるのなら、最初から逃げ出さないで下さい」
「それは無理」
 きっぱりと否定しながら、彼は隼人を手招く。ベンチの隣に座るようにとジェスチャーされたが、どこの世界にボスの隣に腰を下ろす秘書がいるだろう。無視して隼人は、彼の斜め前に立った。
「急ぎの書類は幾つかありますが、最初にこちらをお願いします」
「内容は? 要約して」
 立ったまま告げた隼人を責めることなく、彼は先を求めて問いかける。
「フォルトゥーナ社に買収をかけている件です。交渉が折り合わないらしく、一千五百万ユーロの追加資金の増強を求めてきてます」
 そう答えると、彼は小さく眉をひそめた。
「それは投資に見合う利益があることなの?」
「――フォルトゥーナ社は、アパレルの製造メーカーとしては中堅どころです。悪い買い物にはならないと思いますが」
「そんなの、アパレルの製造メーカーなら、もううちの傘下に幾つかあっただろ? 買収にそれだけのお金をかけるのなら、うちで新しい工場を建てて、新しく二百人分の雇用を生み出す方がいいよ。却下。現状で折り合わないのなら手を引いて」
「はい。では次に、ルッキネリで先週起きた大火災で教会が焼失した件ですが……」
「あ、そっちはケチらなくていいよ。必要なだけの資金を使って。教会だけじゃなくて、被害にあった人たちにもね。下手に彼らに税金がかからないように、その教会かどっかの慈善団体を通すのがいいかな」
「はい」
 うなずき、クリップボードと万年筆を差し出してサインを求める。と、彼はさらさらとためらいのないペン運びで署名した。
 その調子で、持参した十二件の決裁をあっという間に終え、彼は「これで終わり?」と問いかけてくる。
「はい。――ですが、本当に書類の中身をお読みにならなくていいんですか」
「読んだって結論は変わらないよ。っていうより、下手に中身を熟読しちゃうと、返って俺は全然決断できなくなる性格だし。根が優柔不断だから、君の要約を聞いて、ぱっぱと判断するのが一番正しいんだよ、多分」
 困惑まじりの隼人の確認に、あっけらかんと彼は返してくる。
 正直な所を言えば、ここまでの彼の判断は、隼人には妥当だと思えるものばかりだった。自分が彼の立場だったら、多少の理由の差異はあれ、結論はほぼ同じだっただろう。
 だが、それと信頼されるということは別だ。彼のこういう態度は本当に扱いに困る。
 だから、ポーカーフェイスを作るのは止めて、気分のままに苦虫を噛んだ表情で苦言を呈した。
「俺を信頼されるのは結構ですが、俺が書類の内容を摺り替えて伝えていたらどうされるんです? サインをされる書類だって、一枚目のタイトルを確認されているだけでしょう。サインのページの書類が全く別件のものに摺り変わっていないと、どうして言えるんです?」
「それは多分、今この場で、そのクリップボードの書類を上から下まで全部確認しても、君が説明した内容と違うものはないし、サインだって正しく入ってるからだろうね」
「――だから、どうしてそう断言できるんですか」
「じゃあ賭けようか? 今からその書類を全部読んで、一枚でも俺が君から聞いた事実と違うものがあったら、俺の負けでボンゴレのボスの座から降りるよ。で、君に後釜を譲る」
「……止めて下さい」
 どこまでが冗談だか本気だか知れないが、実行されてはたまらない。諦めと共に隼人は自分の敗北を認めた。
 全体としてはともかく、この場は間違いなく自分の負けだろう。
 だが、信頼した方が勝ちというのは、一体どういうことなのか。信じた方が負け。隼人が生きてきた世界はそれが不文律であり、彼もまた、同じ世界の住人であるはずなのだが。
「あのねえ、隼人」
 不条理に悩んでいると、隼人、とまた彼は名前を呼んだ。
 遠い東の果ての国の青空のような、穏やかに澄んだ、やわらかな響きの声で。
「君が何か不正をしたら、俺はきっと分かるよ。いくら君がポーカーフェイスの名人で、嘘の達人でも、きっと俺は分かる。傲慢に聞こえるかもしれないけど、それが俺のたった一つの特技なんだ」
「――たった一つのかどうかはともかく、それは俺も聞いてますが」
 ボンゴレ内部に入るまで知らなかったことだったが、歴代のドン・ボンゴレは異様に勘が鋭く、判断ミスをすることが全くと言っていいほど無いという。
 今現在の十代目も例外ではなく、日本生まれの日本育ちでマフィアに縁なく成長した彼であるのに、重要時に決して判断を誤ったことがない。
 だからこそ、反目する勢力を内部に抱えつつも、彼はドン・ボンゴレの座から引きずり下ろされることなく至高の玉座に君臨し続けているのだという話だった。
「だったら、もう少し信じてくれてもいいんじゃない? 根拠は俺の勘だけだけど、一応、本当に大丈夫だと思って君に全部任せてるんだよ。――それとも、俺に信頼されるのは、そんなに居心地が悪い?」
「そういうわけでは……」
 ない、と言いかけて、言葉が止まる。
 居心地が悪い、と言い切るのは少し違う気がするが、だが、全く違うとも言えない。
 どうにも慣れないのだ。相手が彼だからというわけではなく、信頼されることそのものが。
 だが、それをどう伝えたものか。
 言葉を選びかねて彼を見つめると、深みのある瑪瑙の瞳は、やわらかな光を宿して答えを待っていて。
「――俺は、」
 その目は反則だろう、と心の中で訴えながらも、渋々隼人は白旗を揚げた。
 責められ、なじられるならともかくも、そんな全部を見透かし、許しているような目をされたら、何が何でも真実を話さなければならないような気になってしまう。
 おそらく真実を話さなくても、彼は責めないのだろうが、穏やかな許容は下手に信頼される以上に居心地が悪い。
 ゆえに、隼人はまたもや正直に心情を打ち明けるしかなかった。
「生まれた時からこの世界にいた人間です。ずっと信じた方が負け、裏切られる奴が悪いと思って生きてきました。……ですから、あなたに限らず、誰かに信頼されるというのは慣れないんです。正直、ものすごく困ります」
「――どうして困るの?」
 聞き返す声も、本当に分からなくて尋ねているというよりは、隼人の葛藤を承知した上で、それをやわらかく包み込むような響きで、ますます隼人はたまらなくなる。
「――どうしても、です」
 それ以上は、どうしても答えられなかった。
 どうして口に出せるだろう。どうすれば彼の信頼に応えられるのか、裏切らずに済むのか分からないからだと。
 彼は、隼人にカテーナを遅まきながらも守らせてくれた、いわば恩人だった。
 彼の恩情に対して借りを返さなければという思いもあるし、自分のような人間を必要だと言ってくれるのは、得難い話だという思いもある。
 だからこそ、彼に仕える気になったのだが、しかし、カテーナの住人のような昔なじみならともかくも、縁もゆかりもない誰かに信頼されるのは初めてのことで、どうして彼が自分を信じようとするのか、全く理由が分からない。
 どうして自分のような人間を、と思えば思うほど、彼の信頼を受け止めることが難しくなる。
 そして、受け止められないものを返せるはずがなく、今の隼人は、彼が投げてくる信頼というボールにどう反応することもできず、立ち尽くしているだけの木偶(でく)の坊だった。
 困り果てて口をつぐんだ隼人に、また彼は静かな声を響かせる。
「それじゃあ、俺が君を信頼するのを止めた方が、君に取っては楽?」
「――…」
 はい、と即答しようとして、声が出なかった。
 自分のような人間は信じない方がいい。これまで何度も自分から彼に告げたことなのに、彼の口から出ると、それは礫(つぶて)のようだった。
 彼が自分を信じるのを止めてくれたら。
 きっと楽になれる。こんな風に困惑しなくても済むようになる。
 そうと分かっているのに、うなずけない。
 どうすることもできず、再び固まりかけた隼人の耳に、ふっと彼が微笑む声が聞こえた。
「ごめんね。その方が君が楽だとしても、俺には無理。君がどんなに嫌だと言っても、俺は君を信じるよ。君には多分、慣れてもらうしかない」
「――どうしてですか」
 まなざしを上げて、隼人は彼を見つめる。自分はひどく途方に暮れた顔をしているだろうと思った。
 だが、こんな場面では到底、ポーカーフェイスなど作れない。そこまで器用にはなりきれない。
 しかし、そんな隼人を嘲笑うでもなく、彼は微笑んだ。
「何度も言ったと思ったけど。君はカテーナの件で、俺の気持ちを理解してくれた。それだけなんだよ、きっかけは。でも、結局の所、俺が勝手に信じてるだけだから。君はいつ、俺を裏切ってもいいんだよ」
 信じると言ったのと全く同じ口調で、裏切ってもいい、とはっきり彼は告げた。
「君は、俺が好き勝手してもいい玩具じゃない。君は一人の人間として、俺に復讐する権利も裏切る権利もある。君は君で、好きなようにしてくれていいんだ」
「――俺の方こそ、あなたを恨んではいないと何度も言ったと思いますが」
 またその話かと思いながら、隼人も言い返す。
 この件に関しては、彼は妙に頑固で、隼人が復讐したがっていると信じて疑わないのだ。
 おそらく彼は両親の愛情に包まれて、温かな家庭で育ったのだろう。実父が実母を見殺しにした、そんな家族関係の中で育った隼人の心理など、理解しようにもできないのに違いない。
 だが、実の父親を殺したいほどに憎む息子の心理が分からない彼で良かったとも、隼人は別の部分で思わずにいられなかった。
 彼はこのままでいいのだ。親子間での冷たく濁った憤怒になど無関係の人生であればいい。
 そう心の底から思いながら、隼人は小さく首を横に振った。
「この話は止めておきましょう。多分、堂々めぐりになります」
「――君がそう言うのなら」
 隼人の提案に彼も逆らわず、素直にうなずいてから、小さく首をかしげた。
「で、今処理しなきゃならない仕事はこれで終わり?」
「書類の方は。ですが、山本が報告に上がりたいとの伝言です。四時から十五分ほど欲しいとのことですが……」
「四時? もうあと十五分しかないじゃんか」
「そうですね」
 腕時計の針の位置を確認して眉をしかめた彼に、隼人は冷静に返す。すると、彼は大きく溜息をついた。
「仕方ないなぁ。戻るよ」
 溜息と共にベンチから立ち上がり、池にまなざしをやってから、木立の隙間からのぞく傾きかけた日射しを見上げる。
 それから彼は隼人にまなざしを向けた。
「行こうか」
「はい」
 まるで散歩の続きのようなのんびりとした彼の足取りに合わせて、隼人もゆっくり歩く。
 そして、もう一度、何故彼は執務室から出てゆくのだろうと考えた。
 いっそのこと逃走するのなら、もっと遠くに出てゆけばいい。携帯電話も置いて出てしまえば、隼人は容易に彼を探し出せなくなる。
 彼がしていることは、まるで子供の隠れ鬼だった。見つかることを前提に、決められた狭いエリアの中で身を隠す。そして、見つかってしまったら、よく見つけたね、と笑うのだ。
 何故、何度も何度も、飽きもせずに毎日そんなことを繰り返すのか。
「――まるで隠れ鬼ですね」
 考えるうちに何となくたまらない思いに突き動かされて、思わずそんな言葉が口をついて出る。
 すると、一歩前を歩いていた彼が肩超しに振り返った。
「そうだね」
 主語のない台詞だったのに、持ち前の察しの良さで何の話か察したのだろう。歩きながら隼人を見つめて、やわらかく微笑む。
 そして再び、前方へと向いて言葉を続けた。
「君はいつも俺を見つけてくれるから。それが嬉しいし、安心するんだろうな、多分」
「―――」
 それはどういう意味か、と考えて、毎度の脱走の理由の一端だと気付く。
 だが、見つけられて嬉しいとはどういうことなのか。彼は明らかに、執務室にいることを望んではいないのに。
 隼人がそう思うのと同時に、彼は何もかも見透かしているかのように、静かに答えを明かした。
「本当は俺、こんな仕事したくないし、あの部屋も好きじゃないんだ。だから、逃げ出す。でも、君がこうして俺を探して見つけてくれるのは、嬉しいんだよ」
「――どうしてですか」
「……子供の頃、かくれんぼをしたことがないから、かな」
 それはよく分からない答えだった。かくれんぼ、隠れ鬼は、子供なら誰でもやる遊びだろう。隼人ですら、姉や街の子供たち相手に経験がある。
 だが、彼は静かに前を向いたたまま続けた。
「俺は子供の頃、すっごくどんくさくてねえ。誰にも相手にされなくて、友達が一人もいなかったんだよ。本当は一度だけ、幼稚園の頃にかくれんぼをしたことがあるんだけど、その時も、一緒に遊んでた子たちは俺のことだけ探さないで帰っちゃったんだ。でも俺はそんなこと全然知らなくて、一生懸命隠れてて、でも日が暮れて暗くなってきてさ。心細くなってわんわん泣いてたら、俺を探してた母親が見つけてくれて家に帰れた」
 しんと静かな打ち明け話に、隼人は返す言葉を見つけることができなかった。
 子供同士ならば、時々ある小さないじめだ。だが、目の前の彼がそんな経験を持っているとは、想像すらできなかった。
 今の彼は、穏やかで美しい、だが一度牙を剥けば何者をも引き裂く黄金の獅子だ。誰もがひれ伏さずにはいられない。
 そんな彼にも、無力な子供時代があったという事実は、衝撃だった。
 けれど、そんなものかもしれないとも隼人は思う。彼の優しさは、上に立つ者が──満ち足りた者が与える 慈悲とは、どこか色合いが違う。もっと深く、共感に満ちた優しさだ。
 その優しさの理由が、そんな幼少時の経験の積み重ねからきているのだというのなら、それはそれで納得できる話だった。
「俺のかくれんぼ経験はそれだけだから、今、君が普通に俺を探して、見つけてくれるのが嬉しいんだよ」
「……俺でなくたって、あなたが居なくなれば皆、探しますよ」
 彼が逃走を悪びれない理由の一つは分かったが、その続きについてはまた別の話だ。
 隼人が彼の秘書となって、彼を探すようになったのは、このほんの一月の話で、それ以前は誰かが彼を探していたはずである。もっとも、山本の話によれば、これほど逃走は頻繁ではなかったということだったが。
「うん、探すだろうね。でも君が来る前は、見つかる前に戻ってたから。息抜きはしたかったけど、そのせいで十代目に相応しくないと責めるネタにされるのは嫌だったからさ」
 その言葉で、また一つ、理由が解ける。
 彼が安心して逃走できるのは、隼人が九代目ではなく十代目に忠誠を誓った部下だからだ。
 彼の逃走に渋い顔をしても、無駄な手間を取らされたと怒ったり蔑んだりすることはない。少なくとも、隼人の内にそんな気持ちはない。ただ、何故彼が毎日のように執務室から逃走するのか、それが不思議なだけだった。
「……俺は別に、あなたが執務室から逃走しても腹を立てたりはしません。どうしてなのだろうとは思ってましたが」
「深い理由なんかないよ、別に。ただ、あそこにずっといると息が詰まってくるだけ」
 ほのかに笑んだ声で彼は答える。
 だが、息が詰まると言いながらも、彼は総本部の敷地からは出てゆかない。隼人が書類を持参すれば、必ず内容を確認してサインをする。
 その事実が、彼の内にある覚悟を何よりも雄弁に語っている。
 確かに度重なる逃走も、隼人に見つけられることを喜ぶのも、彼の甘えだと一言で片付けてしまえるかもしれない。だが、そうと片付けてしまうには、彼はあまりにもギリギリの所にいるように思える。
 だから、隼人はできる限り素っ気ない口調で、こう答えた。
「別に構いませんよ。あなたが居なくなる度、俺は探しにいきますから。そして、あなたがどこに居ようと、必ず見つけて書類にサインしてもらいます」
 そう告げた言葉に、即答はなく。
 初夏の午後の風が吹き抜けるだけの間を置いて、静かに笑んだ声が返った。
「手のかかるボスで、ごめんね」
「いいえ」
 悪びれてはいない、けれど、いつかと同じ、悲しい諦めをかすかに含んだ声に、はっきりと隼人は答える。
 そして、彼はこのままでいい、と心の底から思った。
 平和な国で愛情深く育てられた、人間らしい寂しさも悲しさも知っているボンゴレ十代目。
 彼が犯罪組織の頂点に立ち続けることは、苦しいことの方が多いのだろう。それでも彼は逃げない。逃げたくてたまらなくても、必ず踏み止まる。
 この人でいい、と思った。
 自分が永遠の忠誠を捧げる相手は、この人で間違っていない。
 ならば、求められる限り、その役割を果たせばいい。それが今の自分のすべきことだった。
「あなたを探すことなんて、手がかかる内に入りません。あなた自身がおっしゃったように、あなたの居場所を推測するのは難しいことじゃありませんから。その点に限っては、俺の能力を信用して下さって結構です」
「――その点だけの、能力に限定?」
「はい」
 彼は、くすりと笑ったようだった。
 その声の響きに翳りはなく、隼人はかすかに安堵する。
 ボンゴレ十代目という至高の立場にある以上、彼が憂鬱を忘れられるのは、常にほんの一瞬でしかないのだろう。今の言葉のやり取りも、その一瞬であればいいと素直にそう思った。
「……うん。でも、それでもいいや。ありがとう、隼人」
「いいえ」
 そこまでのやり取りを終えたところで、本館に辿り着き、西側通用口から二人は中へと入る。
 そして、階段の所で彼は足を止めた。
「ここまででいいよ。ちゃんと真っ直ぐ執務室に戻るから」
「……分かりました。それでは俺は、この書類を各部署に届けてきます。次の書類は四時半にお持ちしますから、それまでは執務室にいて下さい」
「……逃げたら駄目?」
「駄目です。十五分くらい、我慢して下さい」
「仕方ないなあ。まぁ、いいよ。武と世間話でもしてるから」
 肩をすくめて彼は了承し、それじゃあ、と階段に向かう。
「また後でね。それから、今日の書類は四時半のを最後にしてくれると嬉しいな。残業は嫌いなんだ」
「……俺だって好きじゃありませんが、書類については各部署に言って下さい。期限ギリギリの書類を上げてくるのはそいつらですから」
「うーん。そのへんはまだ改善の余地があるなぁ。カイゼン、って英語にはなってるけどイタリア語にはなってないよね。この効率の悪さも、のんきで嫌いじゃないんだけど、最終的に困るのは俺だもんなー」
「この国の気質はカイゼンには程遠いですが、過去にはドイツ人に改善されたF1チームの例もありますからね。やってやれないこともないでしょう。もっとも、フェラーリはそのドイツ人が居なくなった途端、またスクーデリア・デタラメに戻りましたが」
「組織のカイゼンは、監督する人間次第ってことか。まぁいいや、その辺はまた今度考えよう」
 仮結論を出して、それじゃあ、と今度こそ彼は階段を上がってゆく。
 姿が見えなくなるまで彼を見送ってから、隼人もまた、歩き出した。

*            *

「実際のとこ、どうなんだ、ツナ?」
「どうって……何が?」
「あいつンこと。かなり気に入ってるだろ?」
「……そりゃあ、まあ。こっちの予想以上に真面目だし、律儀だし、デスクワークは有能だし。文句のつけようがないよ」
「とっつきが悪くて、愛想がない割に、人の感情には結構敏感だしな」
「うん」
「こっちが距離を取りたい、それ以上聞くなってサイン送ると、絶対に見逃さねーもんな。あいつ自身、踏み込まれたくない領域が大きいせいなんだろうけどさ。俺としては、すげー話しやすい」
「……確かにそういう所、あるね」
「ツナも楽なんじゃねーの、あいつと一緒に居ると」
「──何か、さっきから武の物言い、含みを感じるんだけど」
「そりゃあ、たっぷり含んでるからな」
「……もー。やめてくれよ、そういうの。はっきり過ぎるのも嫌だけど、含みがあるのはもっと嫌だなんだって」
「ツナは薄いオブラートに包んだ物言いが好きだもんなー」
「俺は日本人なの。繊細で曖昧などっちつかずが好きなの。──で? さっきから何を言いたいわけ? ってもう言わなくてもいいけど!」
「──面白ぇなー、ツナ。最近、あいつが絡むと結構別人だぜ。自分で気付いてるか?」
「──もー、うるさいよ。俺も悩んでるんだから、放っといてくれよ」
「あれ、別に悩む必要ねーんじゃねえ? あいつ、嫌いな人間の傍には絶対寄ってかないタイプだぜ。警戒心の強い野良猫そのまんまじゃん」
「……だから、色々あるんだって。俺の中にも」
「──色々考え過ぎだと思うけどな、俺は。あんまり悩むとハゲるぜ」
「……うちはハゲの家系じゃないから、いいんだよ。もー、そろそろ戻ったら? 報告済んだだろ?」
「おう。じゃあ、またな。何か進展あったら教えてくれ」
「………………教えないよ、何にも。っていうより、最初から進展なんかしないし。
…………………………………………………………………………………………
…………………………………………………………………………………………
…………………………………………………………………………………………
………………………………………………………………あー、もうヤだなー……」

to be continued...

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