I am.

6.

 春になった途端に、この島の空は晴れ渡る。
 水平線の透き通るようなアクアブルーから吸い込まれそうに深い天上のセレストブルーへと変化する空と、紺碧のティレニア海を横目に見ながら、隼人は西に向かって真紅のアルファロメオを走らせた。
 この車は、心ならずも故郷に戻ることになってから、金さえ積めば速攻で登録事務をしてくれるディーラーに頼んで買った間に合わせだったために、特筆するような性能は何もない。
 二昔前──フィアットに買収される前の古いアルファロメオなら、工場出荷時から故障しているようないい加減な造りゆえに返って面白いところもあったのだが、最近のモデルは出来が良くなってしまって、そこそこ安心してシートに体を預けていられる。
 楽といえば当然楽なのだが、高性能のスーパーカーに色気を感じる隼人にしてみれば、この車は長距離ドライブを楽しむというには物足りない、面白みの少ない車だった。
 だが、この車を運転するのも、あとわずかの話だ。ドン・ボンゴレの要請に従ってパレルモに赴いたら、後は本土に戻るだけでこの長いドライブは終わる。仮住まいの部屋のあるミラノに戻ったら、速攻でこの車は処分するつもりだった。そこには、本来の愛車がきちんとガレージに預けてある。
 カテーナからパレルモまでは、車で約四時間半。ボンゴレの総本部は、パレルモの中心部から更に四十分ほど離れた郊外。決して近い距離ではないが、嫌気が差すほど遠い距離でもない。
 車の性能は物足りなかったが、それでも交通量の余り多くない海と空に挟まれた州道をアクセルの全開手前くらいですっ飛ばすのは、それなりに爽快だった。
 そして途中で一度休憩を挟み、パレルモ郊外にあるボンゴレの総本部に着いたのは、午後を少し回った頃合だった。
 来るのは二度目だけに、要領も分かっている。正門前で門番に名前を告げると、「お待ちしていました」とあっさり錬鉄製の門は開かれ、そのまま建物正面の車止めまでアルファロメオを進めてエンジンを止め、車を降りて、近付いてきたまだ若いボンゴレの男にキーを預けた。
「十代目の執務室の場所はお分かりになりますか」
「ああ。中央四階の階段から右手に二番目の部屋だろう」
「では、直接どうぞ。ボスは既にお待ちです」
「分かった」
 それだけを告げると、ボンゴレの男は車を移動させるべく隼人から離れてゆく。
 平静を装いながらも、内心、隼人は呆れかえった。
 これが大ボンゴレのセキュリティだというのなら、まるでなっていない。ボディーチェックも案内人もなしに部外者を歩き回らせるなど、無用心にも程がある。
 隼人自身は今現在、ボンゴレに危害を加えるつもりなどないが、だからといって丸腰ではないのだ。スモーキン・ボムの異名は伊達ではなく、爆発物は今も複数身に着けているし、接近戦用のナイフも常に携帯している。
 だが、呆れる一方で、何かが胃の腑に落ちる感じもしていた。
 ここまで隼人に好きに行動させるやり方は、実に彼らしい。何度か目にした穏やかな笑みが、ふっと脳裏に蘇りかけて、しかし、隼人は急いでそれを打ち消す。
 これから本物に会うのに、下手に以前の記憶や印象を呼び起こすのは良いことではない。過去のイメージから作り上げた先入観が、何か重大なことを見落とさせる原因となることもある。
 それに、このラフ過ぎる応対が何らかの演出なのだとしたら、その意図を見抜く必要があった。
 単に歓迎しているだけであるのなら、ある意味底抜けであるし、もし油断させようという心積もりがあるのなら、その意味を考えなければならない。
 だが、油断させるといっても、その求める結果は危害を加えるか、利用しようとするかの二つに分かれる訳だが、冷静に我が身を振り返ってみて、己に利用価値があるのかといえば、それはゼロだった。
 元ジェンツィアーナが完全にボンゴレに服従し、カテーナに平穏が戻った今は、ボンゴレにとっての獄寺隼人という人間の存在価値は全くの無だ。むしろ、裏事情を知る者として消してしまいたい存在という可能性の方が、よほど有り得る。
(油断させて殺す? ……有り得ねぇな)
 何の後ろ盾もない一匹狼相手に、そんな面倒なことをする必要などどこにもない。ボンゴレは、いつでもあの世界最強の殺し屋を雇えるのだし、現に一月前まで、あの殺し屋に隼人に対して銃口を向けさせていたのだ。
 殺すのなら、隼人がカテーナを出た今日の朝、適当な場所で事故に見せかけるか、人知れず死体を始末して消息不明に仕立て上げるだろう。少なくともボンゴレの総本部まで辿り着けたはずはない。
(カテーナに引き続き、よっぽど汚ねぇ仕事を押し付けたい……。多少は有り得るだろうが、そんならもう少し、警戒なり緊張なりが見えるだろう)
 美しく磨き抜かれた階段を昇りながら、そうして一つ一つ、可能性を検証して潰してゆくと、このラフな応対について、残る答えは一つしか思い当たらない。
 つまり、本当に警戒していない、あるいは、歓迎している、だ。
 そんなこと有り得んのかよ、と押し殺した溜息混じりに心の中で呟いてみるが、他に可能性のありそうな答えがない。
 現に、ドン・ボンゴレは二週間前のカテーナで、隼人をパレルモまで赴かせる理由として、後始末と報酬があるとか言っていなかったか。
(それを額面通りに呑み込めってのかよ……)
 はっきり言って、無理な話だった。
 堅気のビジネスシーンならまだしも、マフィアの大ボスとチンピラのやり取りである。信義など求める方がおかしい。
 なのに、これまでに彼と交わしたわずかな会話を思い返すと、その有り得ない事象が、すとんと胃の腑に落ちてくるのだ。
 しかし、そうして何のてらいもなく、臓腑の真ん中に落ちてくるということを、一体どう受け止めればいいのか。
 たかだか五階分(注:欧州式では一階=地階、二階=一階、五階=四階)の階段なのに、妙な疲れを覚えながら隼人は目の前の扉を見つめる。
 木目の美しいマホガニーに嵌め込まれた、鈍い黄金に輝くボンゴレの紋章。
 半年振りに目にするその荘重な扉に少しばかり目を細めて、呼吸を一つ整え、そして、左手を上げてノックした。
「獄寺です」
 扉越しに名乗るとすぐに、「開いているから入って」と軽やかな応答が返ってくる。
 本当に底抜けなのかと内心思いながらも、獄寺はドアノブに手をかけ、なめらかに開閉するものの重い扉を開いた。
「隼人」
 中に入ると、部屋の主(あるじ)の顔を見るよりも早く、日本式の発音でやわらかな声に名を呼ばれ、思わず胸がどくんと鼓動を打つ。
 そうだ、と思い出した。
 こんな風に自分を呼ぶのは、彼だけだった。
 今ではルッジェーロ・ジェンツィアーナの名よりも獄寺隼人の名の方が通っているが、この国の人間は、この国の発音でHayatoと第二音にアクセントを置いて呼ぶ。母国語の発音であるのに、何故か隼人は、その発音に慣れなかった。
 だが、ドン・ボンゴレは違う。日本生まれで日本育ちの彼は、隼人、と第一音に軽いアクセントを置き、母音が際立つすっきりとした発音で呼ぶ。
 それはひどく軽やかで、澄んだ音に聞こえた。
「よく来てくれたね、遠いのに」
「いえ。それほど大した距離でもありませんから」
「そう? 俺だったら五時間もなんて、運転するのにうんざりするけどな」
「運転は嫌いじゃありませんから」
「そうなんだ」
 そういえば、この島に入る時も空便や船便ではなく、車だったっけ、とドン・ボンゴレは軽く首をかしげる。
 そんなことまで知っているのかと思いつつ、隼人はうなずいた。
 半年前、カテーナに戻るに当たって他の移動手段を使わなかったのは、一気に故郷に着くことに抵抗があったのと、また、自分の意志で動かすことができる乗り物以外によって、故郷まで運ばれることに抵抗があったからだ。
 丸二日近くをかけて、自分の運転する車で故郷まで戻る。あの時、その道の先に待ち受けているものを受け止めるには、それだけの行為と時間が必要だった。
「ミラノからの距離に比べれば、相当に近いですよ」
「比べるのがおかしいよ、その距離は」
「ですが、俺はまたこれから、その距離を走るつもりなので」
 そう告げると、ドン・ボンゴレは隼人を見上げて目をまばたかせる。それから、いつもの笑みで微笑んだ。
「……そう。大変だね」
 ドン・ボンゴレの相槌には、数秒の間があり、そのことが微妙に隼人の感覚に引っかかった。返答に詰まるような会話ではなかったはずである。
 だが、違和感の理由を窺うよりも早く、ドン・ボンゴレが執務席の椅子から立ち上がる。
 そして、彼に手振りでいざなわれるままに、隼人は応接セットの方へと移動し、美しい織り生地が張られたカウチへと腰を下ろした。
 改めてドン・ボンゴレに向かい合い、主題に入る前に、と一番最初に言わなければならないと思っていたことを切り出す。
「ドン・ボンゴレ」
「うん?」
「あなたは護衛を置かれないんですか?」
「置かないよ」
 即答だった。
 昼食を食べたかどうかを聞かれたよりも軽く答える彼に、獄寺は反射的に溜息をつきそうになるのをかろうじて抑える。
「ドン・ボンゴレ。部外者の俺がこんなことを言うのはおかしな話ですが、無用心過ぎます」
「そうかな」
「そうですよ。部外者と一対一で会うこともですが、それ以前に、俺をここまで案内人無しに来させるなんて、無謀にも程があります」
「でも、君は真っ直ぐにここに来ただろ。一歩も寄り道せずに」
 至極あっさりと切り返すドン・ボンゴレの声は、やわらかく笑んでいた。
「見張らせてたわけじゃないよ。ただ、君はそうするだろうと思っただけ。で、正解だった」
「……見張らせていたわけじゃないのなら、どうして俺が、どこも覗き見しなかったと分かるんですか」
「んー、勘、かな」
「勘?」
「そう。俺、心理学とかって全然知らないけど、何となくね、目の前の相手が善いか悪いかは分かるんだ。だから、君がどこかに寄り道したら絶対に気付くと思うし、そんなことをする人間だったら、そもそも案内人を省略したりなんかしない」
 その程度には用心してるよ、とドン・ボンゴレは微笑む。
 だが、その答えも微笑みも、隼人を困惑させただけだった。
 そんな風に信用をあからさまにされても困る。自分は誰の信用にも値する人間ではないし、信用されたところで応えられるだけの信義を持たない。
 だから、こう答えるしかなかった。
「あなたは、俺を何か勘違いなさっているんでしょう。俺はそんな正しい心構えのある人間じゃありません」
 隼人の言葉に、ドン・ボンゴレは少しだけ興味深げな表情でまばたきする。
 だが、口に出してはこう言っただけだった。
「……君がどんな人間かについては、俺は論評する気はないけど。今回は、君はどこにも寄り道せずに俺の所まで来た。それはそれで、事実としていいんじゃないの?」
「──それは構いませんが、こういう扱いをされるのは、俺は不本意です」
「じゃあ、見るからに強面(こわもて)の案内人をつけて、俺も護衛に囲まれてる方が良かった?」
「そちらの方が明らかに正しいでしょう」
 そういう態度を見せ付けられれば、返って、そんなものだと受け流しただろう。扱いにくく油断のならない一匹狼として遇されるのには慣れている。
 逆に、こんな風にあけっぴろげに迎え入れられてしまうと、覚えるのは困惑ばかりだ。
 ここまで来て思い知るのも情けない話だが、自分には友好的な人間関係という経験があまりにも少ない。
 親しみを見せ合うような関係に慣れていないから、どんな態度を取れば良いかも判断がつきかねるし、相手をどう捉えれば良いのかも分からなくなる。
 そして、その『分からない』権化であるドン・ボンゴレに対し、警戒心を持つように進言したのは、もちろん応対に呆れ果てたからであるが、一面では、自分にしてみれば精一杯のお節介でもあった。
 これ以上のやわらかさを出すのは、自分には不可能に近い。そう思いながら、隼人はドン・ボンゴレを見つめた。
「……やっぱり君で良かったなぁ」
「は?」
 つくづくとこちらを眺めながらの微笑と脈絡のない言葉に、隼人は思わず眉をひそめる。
「君で良かった」
「……カテーナのお話ですか」
「そう」
 良かった、と言われる心当たりは一つしかない。だから、そう聞き返すと、ドン・ボンゴレはうなずいた。
「俺、そういう勘だけは本当にいいんだよね。君を選んで正解だった」
 言いながら、ドン・ボンゴレは腕を伸ばして、卓上に置いてあったクリーム色の横長の封筒を取り上げる。上質の厚手の紙のそれは、封はされていなかった。
 ドン・ボンゴレはその封筒を手に取り、中から一枚の紙を取り出す。それが何であるかは、きちんと表を見るまでもなく察しが付いた。
「君としたい話は幾つかあるんだけど、まずはこれね。今回の報酬」
 応接セットのテーブルに、隼人の方に向けて置かれた小切手は白紙ではなく、既に金額が書き込まれていた。
 だが、ユーロの記号の後の数字にゼロが五つ続く額面を一瞥して、
「要りません」
 と、隼人は答える。
「金のためにやったことじゃありません」
「それは分かってるけど。でも、ボンゴレは君を半年間、ボンゴレの利益のために拘束した。その間の遺失利益として受け取ってもらえないかな」
「受け取れません」
 短く隼人は繰り返す。それは痩せ我慢でも何でもなく、本心だった。
 そんな隼人を、ドン・ボンゴレは美しい瑪瑙の瞳で真っ直ぐに見つめてくる。
 好意を拒絶する隼人に対して、怒りを抱いた風ではない。ただ、何故、と真意を静かに問いかけるような深い輝きに、隼人は少しためらった後、観念して心の中の閂(かんぬき)を一つだけ、外した。
「カテーナは俺の故郷です。ジェンツィアーナは俺のファミリーです。俺は守るべきだったものを、守れなかった。あの馬鹿親父がプレドーネに手を出したことは、かなり早い段階で気付いていたのに、何の警告もせずにファミリーを見殺しにしました。
 ……あなたの要請を受けて、カテーナに戻ってから気付きました。俺が、父親だけならともかくもファミリーまで見殺しにしたのは、過去の罪の贖(あがな)いでも何でもなかったのだと」
 母親を死に追いやった父親を許せずに、見殺しにした。そこまでなら、隼人は自分の心に折り合いをつけることができただろう。
 だが、父親の側近たちの死と、ファミリーの崩壊に打ちのめされた住民たちの悲嘆は、古い罪が償われたのではなく、単に新たな罪が生まれたことを隼人に自覚させるには十分だった。
「俺は今でも、父親を許す気はありません。ですが、憎いのなら、自分の手で直接殴るなり、殺すなりしていれば良かったのだと今は思ってます。ファミリーにあんな思いをさせる必要など、なかった」
 決して父親だけが愚かだったのではない。早い段階から、ボンゴレの鉄槌を呼び寄せかねない可能性を知りつつ、遠く離れて沈黙を保っていた隼人も、父親と同じくらいに愚かで無責任だったのだ。
 捨てたはずだったものと正面から向き合って、初めてそのことに気付いたのである。
 世界には、決して捨ててはならないもの、あるいは、捨てたつもりでも決して捨てられないものもあるのだ。
「ですから、その小切手は受け取れません。俺は、俺が守るべきだったものを、あなたの要請を受けたことで遅まきながら守った。それだけのことですから」
「……そう」
 隼人の懺悔を静かなまなざしで聞いていたドン・ボンゴレは、分かった、とうなずく。
「じゃあ、これは無しにするね」
 そして、手に取った小切手を何のためらいもなく二つに引き裂いた。
 それから静かなまなざしに、ほのかな微笑をたたえて隼人を見つめる。
「ごめんね。君の気持ちを侮辱するつもりはなかった」
「……侮辱でも何でもないですよ。これくらいのことは」
 侮辱というのは、もっと下劣で激しい屈辱感を伴うものだ。ドン・ボンゴレの言葉も態度も、それには程遠かった。
 むしろ、今の隼人が感じているのは、深く心に染み入るような安堵だった。
 誰かにこれほどまで心の内を晒したことなどない。家族でさえも疎遠だった隼人にとっては、本心を吐露できる相手などこれまで一人もいなかった。
 ドン・ボンゴレは美しく軽やかな見かけに反して強い意思の持ち主であり、小切手を拒絶する真の理由を告げない限り許してはくれなさそうで、真実を告白する以外に道はなさそうだった。だから、本心を告げたのだが、しかし、彼ならば、という思いが根底になかったといえば、それは嘘だった。
 大罪の告白すら、彼ならば、静かに受け止めてくれる。
 そんな気がしたのは、昨年の初冬と二週間前の二度、ドン・ボンゴレと交わした会話のせいだった。
 秋の終わりとも冬の初めともつかない曇った空の下、あるいは小さなホテルの一室で、いつもいつも、彼は先に自ら罪を口にして、これが自分のやり方だ、と詫びた。
 その許しを請うでもなく、ただ彼自身も哀しさを感じているような静かな微笑みは、隼人の中に強い印象を残したのだ。
 ──そう、印象深い人間だった。
 隼人と年齢は変わらないのに、同じ世界に生きているのに、決定的に異なる何かがドン・ボンゴレにはある。
 それこそが隼人に罪の告白をさせた原因に他ならなかった。
 そして、懺悔を終えた隼人の内には、不思議な安堵が満ちている。それが、美しいとは到底言えない感情の動きを理解し、受け入れてもらえたことに対する安堵であると気付くには、少しばかりの時間が必要だった。
「──あと、それ以外のお話とは?」
 胸の内に満ちている慣れない感情を持て余して、隼人は話の方向を変えるべく切り出す。
 と、ドン・ボンゴレは、ああ、とうなずいた。
「その話をする前に、ちょっと確認したいんだけど。君は二週間前、これからの予定はないと言っていたけれど、それには変わりない?」
「はい」
 何故そんなことを聞くのかと思いながらも、隼人はうなずく。
 もともとフリーで動いていたのだから、仕事は不定期であり、ボンゴレの話を受ける以前の依頼は全て始末をつけてからこの島に渡った。そして、その後の予定は全て白紙だ。半年後の自分が生きているかどうかさえ分からなかったのに、裏社会の仕事など請けられるはずもない。
 これからミラノに戻っても、再び顧客を得るには少しの時間がかかるだろう。半年もあれば、いくら裏社会といえど、客は逃げる。そして、スモーキン・ボム程度の仕事人は、それこそこの国だけでも掃いて捨てるほどにいるのだ。
「そう。じゃあ、俺からの提案なんだけど」
「はい」
「ボンゴレに入る気はない?」
「──は?」
 にっこりと極上の笑顔で言われた言葉に、思わず隼人はぽかんとなる。
 今、彼は何を言ったのか。
 それも、輝くような笑顔で。
「給料はもちろん、衣食住も保証するけど。俺の傍で働くのは嫌かな?」
「……ドン・ボンゴレ」
「うん?」
「その冗談は、冗談になりません」
「冗談なんかじゃないよ。本気」
 笑顔での返答に、隼人は本気で困惑して眉をしかめる。到底、正気の申し出とは思えなかった。
 だが、過去にもあちこちのファミリーから声をかけられたことはある。それらは主に、隼人の持つ破壊力に注目しての鉄砲玉としての誘いだった。
 危険な場所で使い捨てる。それには最適の人材だという自覚はある。なにしろ、どこの組織とも繋がりがなければ、命や金に対する執着もないのだ。組織が使い捨てにしたところで、どこから報復される恐れもない。スモーキン・ボムとはそういう存在だ。
 だから、これまでフリーの仕事人として、他に引き受け手がないような危険な仕事を幾つも請け負ってきたし、その面でだけは重宝されてきた。
 だが、ボンゴレは違う。無力化したとはいえ、カテーナの町が隼人の背後にはあることを知っている。せっかく沈静化した問題に、火の付いたダイナマイトを投げ込みたいとは思わないだろう。
 ならば、鉄砲玉以外に、自分にどんな使い道を見出したというのか。
「……一体、俺をどんな風に使おうとお考えですか」
「うーん。一言で言うなら、俺の秘書かな」
「──は?」
 またも思いもかけない単語に、隼人は再び眉をしかめる。
 一体どれだけ突拍子もないことを言い出せば、目の前の相手は気が済むのだろう。
 秘書。
 復唱するだけでも可笑しいし、絶対に正気ではない。
「ドン・ボンゴレ」
「何?」
「失礼ですが、正気ですか?」
「……本当に失礼だなぁ。正気だよ、もちろん」
 どこがですか、と言い返したかったが、かろうじてそれは抑える。
 一つ深呼吸して気持ちを落ち着かせ、改めて、彼と目線を合わせる。正面から見つめた瑪瑙色の瞳は美しかったが、隼人の反応を面白がっている光もはっきりと読み取ることができた。
「どうしてそんな判断をされたのか、伺ってもいいですか」
「そりゃ、君を気に入ったからだろうね」
「───…」
 そうあっけらかんと言われても困る。一体どうしたものだかと考える隼人に、ドン・ボンゴレは小さく笑った。
「からかってるわけじゃないよ。君を困らせてるのは申し訳ないとも思うし。でも、半年前に君が面倒事を引き受けてくれた時から、目星はつけてたんだ」
 そして、穏やかな声で続ける。
「君の経歴は全部調べたよ。君の持つスキルは、どれもこれもハイレベルで広域に渡るけれど、特に突出しているものがない。身内とも相談して、君みたいな何にでも器用なタイプは、特定の専門部署に配置するより、何にでも不器用な俺のサポート役に徹してもらうのが一番適任だと思った」
「──俺は、あなたのお傍で役に立つような人間じゃありませんよ」
「そんなことないよ。俺はパソコン使うのも下手だし、語学も日本語とイタリア語しかできないし、もともと政治にも経済にも興味なんかないし、計算も苦手だし、社交も得意じゃないし、ワインもグルメも薀蓄には興味ないし。育ちが育ちだから、マフィアのボスとしてはものすごく低レベルなんだよ」
 低レベル、と胸を張られても困るが、しかし、それが自分なのだと踏まえているのか、ドン・ボンゴレの言葉には己に対する小さな溜息はあっても、卑下の気配はなかった。
「とにかく、誰かに助けてもらわないと、マフィアのボスなんてやってられないのが俺なんだよ。だから、君にも助けてもらえると嬉しいっていう話なんだけど」
「────」
 助けてもらえると嬉しい。
 まるで宇宙人語のようだった。どこか奥地の未開の民族の言語だって、ここまで不可思議には聞こえないだろう。
 困惑しきって、隼人はドン・ボンゴレを見つめた。
 ここまで言うからには、おそらく彼は本気なのだろう。だが、分からない。どうして自分のような人間を選ぶのか。
 その困惑が表情に出たのか、ドン・ボンゴレはやわらかく微笑んで、「隼人」と呼んだ。
「どうしてなのか分からないって言いたそうだね」
「……はい。分かりません」
 どうして自分なのか。ドン・ボンゴレの側近ともなれば、自薦他薦を含めて星の数ほども候補者がいるだろう。
 だが、そういった『選ばれた』人間ではなく、何かを破壊したいと思う時以外、誰にも相手にされないはみ出し者の自分を選ぶという。
 その理由がどうしても分からなかった。
「……そうだね、君には全部話すべきかな。人生を変えてくれって頼んでるんだから」
 物を思うようにわずかに首をかしげて、ドン・ボンゴレは呟く。
 そして、改めて隼人を見つめた。
「君は、俺が『十代目』と呼ばれているのを聞いた?」
「……はい」
 確かに車止めの所で、若い構成員が「ボス」ではなく「十代目」と呼ぶのを聞いた。だからうなずくと、ドン・ボンゴレは小さく微笑む。
「どうしてうちの連中がそう呼ぶのか。答えは簡単で、うちにはまだ『九代目』が健在なんだよ。もう隠居されてるんだけど」
 ボンゴレ九代目の銘は隼人も知っている。一見、マフィアの大ボスとは思えないほど穏やかな物腰で、実に賢明な人物であり、歴代のボスがマフィア界の伝説となっているボンゴレに相応しい当主だったと評されている。
「『九代目』がいるから、俺は『十代目』。ああ、そう呼ばれるのが嫌なんじゃないよ。九代目のことはすごく尊敬してるし、俺みたいなのが跡継ぎで申し訳ないと思うくらい。……ただ、実質ボスが二人いるのに等しいんだよ、今のボンゴレは」
 そこまで言って、初めてドン・ボンゴレは小さな溜息に表情を曇らせた。
「俺は、日本生まれの日本育ちで、中学生になるまで自分がボンゴレの後継者だということも知らなかった。家庭教師としてうちに来たリボーンのスパルタ教育のおかげで、そこそこ見られるようにはなったと思うけど、やっぱり違うんだよ。生粋のマフィアの構成員が求める理想のボスとは」
 ドン・ボンゴレは、はっきりとは言わない。だが、十分に察することはできた。
 おそらく今のボンゴレ内部には、若い『十代目』を認めない旧勢力が居るのだ。それも少なからぬ数が。
「育ちが違う以上、俺は生粋のボスらしいボスにはなれないし、それは追々、皆にも慣れて諦めてもらうしかない。少しずつ状況は良くなってきてるんだよ。でもまだ、いざという時に動かせる手駒が少ないのは事実なんだ」
 正しくは、心底信頼して動かせる手駒、だろう。
 ボンゴレの構成員は末端まで数えれば一万人とも言われ、それらの人員は全て、ボスの一言で動かすことができる。
 ただ、十代目である彼が確実に信用して動かせる構成員は──正確には、ボスの命令に忠実に構成員を動かす幹部は、決して多くはない。そう隼人は理解した。
「……あなたのおっしゃる意味は分かります。人材を必要としていらっしゃることも。ですが、俺を選ばれる理由が分かりません」
 そう告げると、ドン・ボンゴレは真面目な目で隼人を見つめ、それから、初めて隼人の前でまなざしを伏せた。

「……君はきっと、俺を裏切らないから」

 その一言は、午後の日差しがいっぱいに入る明るい部屋に、しんと響いた。
「いざという時には、という意味だよ。俺は、自分が君の父親の敵だということを忘れてない。君はいつでも俺に復讐していいんだ。それだけの権利がある。……でも、君は、たとえ心の中でいつか俺を殺したいと思っていても、俺が君を信頼して頼んだことは絶対に成し遂げてくれる。俺を殺すのは、その後で、その前にはきっとならない」
「──俺は、」
 隼人の中には父親の復習をしようという気持ちなど微塵もなかった。父親を殺したいほど憎んでいたのは隼人自身であり、彼には恨みなど全くない。
 だが、そう告げようとした隼人を、顔を上げた彼の微笑が遮った。
 静かで、どこか哀しい何かを諦めたような微笑。それは、冬の初めに母親の墓の前で見たものと同じ微笑みだった。
「君は、カテーナを滅ぼしたくない俺の気持ちを分かってくれた。過酷な仕事を押し付けた俺を許してくれた。そういう君だから、俺の傍で俺を支えて欲しいと……思った」
 深い瑪瑙色の瞳は、懺悔のように聞こえる告白にも揺れない。だが、その真っ直ぐな瞳はどこか張り詰めていて、不用意に触れたら砕けてしまいそうな気が隼人にはした。
「ドン・ボンゴレ」
 銘を呼ぶと、再びまなざしは伏せられる。
「勝手なことを言ってるのは分かってる。君が俺を好きになれないのも、君に恨まれるのも当然だと思う。でも、俺は君の中にある誠実さが欲しい。これまで、どんなに酷い依頼でも、どんなに酷い雇い主にでも、依頼を果たすまでは決して裏切らなかった、君の誠実さが」
 それは、と思う。
 どんな酷い仕事でも裏切らなかったのは、金が欲しかったからだ。
 生きている人間である以上、霞を食って生きてはゆけない。そして、一つの仕事を終えた次には、金を使い果たす前に次の仕事が必要だった。だから、裏切らなかった。ほとぼりが冷めるまでは、報復もしなかった。
 ただそれだけのことで、決して誠実だったわけではない。
 だが、そう思いながら顔を伏せたドン・ボンゴレを見つめて、隼人は初めてその肩の薄さに気付く。
 細身であることは分かっていたが、あの戦闘技術が嘘のように彼の肩は薄い。ガリガリではないが、骨格自体が華奢なのか、線が細い、という表現がぴったりだった。
 うつむいたその姿に、もしかしたら、と考える。
 時に黄金の獅子を思わせる彼は、この上なくボスに相応しいボスでありながら、ボスには全く似つかわしくない一面を心の中に秘めているのではないか。
 それは驚くような無防備さや優しさとなって現れ、人を魅了する一方で、善には程遠いマフィアのボスの座にある彼の心を苛み、更には、ボスに相応しくないという悪評をも呼ぶ。
 彼の強さと優しさ。それはまるで諸刃の剣のようだった。
「ドン・ボンゴレ」
 もう一度、隼人は彼の銘を呼ぶ。そして、彼が顔を上げるまで待った。
 隼人が待っていることを察したのか、ゆるゆるとドン・ボンゴレは顔を上げる。隼人を見つめる瑪瑙色の瞳にはいつもの笑みはなく、ただ張り詰めた色がある。
 初めて見るその色に、それを打ち砕いてはいけない、打ち砕きたくない、と隼人は心の底から思った。
「カテーナの広場で、俺はボンゴレに永遠の忠誠を誓うと言いましたね。あれは住民を代表する者としての言葉でしたが、俺の本心でもあったんです」
 隼人の言葉に、ドン・ボンゴレは小さく目を見開く。
 無防備なその表情は、年齢よりも随分と彼を若く見せた。
「もちろんあの時は、あなたにお仕えするとか、ボンゴレに入るとか、そんなことは全く考えてませんでした。ただ……ジェンツィアーナの無念を受け止めて下さったあなたは、永遠の忠誠を誓うのに値する人だと思った。それは本当です」
「……本当に……」
 瞠った目で隼人を見つめたまま、呟くようにドン・ボンゴレが問いかける。
「本当に……いいの……?」
 これほど執拗に口説いておきながら、何とも不思議な問いかけだったが、それが彼らしかった。
「はい」
 初めて感じるような晴れやかな思いと共に、隼人はうなずく。
 そして立ち上がり、応接セットのテーブルを回り込んで、彼の傍らに膝まづいた。
「今この時より、永遠の忠誠を誓います」
 誓句を捧げ、彼の手を取って甲に口接ける。
 そして、再び立ち上がった。
「ミラノの仮住まいを処分しなければなりませんから、着任まで一週間ほどお時間をいただけますか」
「うん、それは勿論」
 隼人の問いかけに答えるドン・ボンゴレは、どこか呆然としているように見えた。もしかしたら、獄寺が要請を受けるとは予想していなかったのかもしれない。
 期待はしていなくとも、要望だけは告げてみる。それだけの思いを懸けていてくれたのだとすれば、自分のような人間にとっては実に得がたい話だった。
「今日のお話はこれで終わりですか?」
「うん。……これからすぐにミラノに発つの?」
「はい。そのつもりですが。今から出れば、ぎりぎりメッシーナの連絡船の最終便に乗れますから」
「そう。じゃあ、今日はありがとう。色んな事を含めて全部」
「いえ」
 短く応じて、カウチに腰を下ろしたままの彼を見つめる。
 自ら選択したこととはいえ、彼が今この時から自分のボスだとは、何故かひどく不思議で、新鮮な気がした。
「それでは失礼します。ドン……」
 呼びかけて、ふと止まる。ドン・ボンゴレというのは外部からの呼称だ。彼の部下となった以上、相応しい呼び方とは言えない。
「──十代目と……お呼びしても?」
 彼自身は好きな呼び名ではないのかもしれない。だが、ボンゴレ内部では誰もボスと呼んでいないというのなら、他に適当なものがない。そう考えての呼びかけに、しかし、彼はうなずいた。
「うん。……名前で呼んでくれてもいいけど」
「それは無理です。たとえ命令でも」
 ボスを名前で呼んで許されるのは、家族か親しい友人か、目上の人間だけだ。隼人は決して、そんな立場にはない。
「それでは十代目、今日はこれで失礼します」
「うん。ミラノまで気をつけて。あまり無理して走らないで、時々休憩入れてね」
「そのつもりです」
 幾ら自分でも、ミラノまでノンストップで走ろうとするほど無謀な馬鹿ではない。
 向けてくれた微笑に笑みを返して、ドアに向かい、一礼して部屋を辞去する。
 そして、ドアを閉めてから、自分が微笑んでいたことに気付いた。
「──っ…」
 笑ったことなど、一体いつ以来か。覚えすらないのに、彼の前で微笑んでいた。
 そのことに気付いて、顔から火が出そうになる。誰かの前で、普段見せない表情を見せるのがどれほど恥ずかしいか、今初めて思い知った。
 だが、それが嫌な気分なのかというと、微妙に違う気がするから更に困る。
 滅多にないことはいえ、笑うくらい大したことではない、反射の一つなのだからと自分に言い聞かせて、ぐらぐらする自尊心をどうにか立て直し、隼人はドアに飾られたプレートを振り返る。
 そして、ドアの向こうに居る人物のことを思い、それから仮住まいに戻るべく、ゆっくりとその場を離れた。

*            *

「……笑うと、あんな顔になるんだ…………………………………………………
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………………………………………………………………………………………」
「ツナ、遅くなって悪ぃ」
「……あ、武。おかえり。もうそんな時間?」
「なんだ、ぼーっとしてたのか? で、あいつどうだった? ちゃんと来たんだろ?」
「うん。受け入れてくれたよ。仮住まいを処分したら、来てくれるって」
「そっか。やったじゃねーか」
「うん」
「……の割には、なんか元気なくね?」
「そう?」
「ああ。なんかいつもと違うぜ」
「……まあ、彼とは色々話したから。俺も業が深いなぁって思っただけ」
「……そっか」
「うん」
「ま、あんま気に病むなよ。今度からはあいつも一緒に荷物持ってくれるんだからよ」
「うん、分かってる」

to be continued...

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