I am.

5.

 ドン・ボンゴレがカテーナへ視察に行く、という知らせが入ったのは、いつかの言葉通り、町がアーモンドの花に覆われ始めた頃だった。
 重苦しい冬空の雲が消え去り、青く晴れ渡った空にシチリアの太陽が眩しく降り注ぐ。
 エトナ山麓で少々春が遅い地方とはいえ、日差しに眩しさばかりでなく暑さを感じるようになるのは、もう時間の問題であり、今はまだ、かろうじて日差しが温かく心地良いと言える、そんな季節だった。
 そして、知らせから十日後。
 カテーナの町は静かにその日を迎えた。




 二台の車で、五人。
 ドン・ボンゴレと、護衛を兼ねていると思われる側近らしい男と、例の凄腕の殺し屋と、管理事務職らしい男が二人。
 それがドン・ボンゴレの一行だった。
 この国に君臨するドンの中のドンの道行きとしては、予想外に少ない人員だったが、もしかしたら当代のドンは、仰々しいことが好きではないのかもしれない。確かに彼の持つ独特のしなやかな雰囲気と、そういった重々しい演出は全く相容れないものだった。
 それに、若く、線の細そうな容貌ではあっても、彼には衆目を集める何かがある。
 それは、まなざしの配り方であったり、表情であったり、綺麗に伸びた背筋と歩き方であったり、ささやかな手の動きであったり、そんな全てが、少しでも敏感な人間には彼の内側に秘められたものを知らしめる。
 隼人もまた、彼に町の有力者を紹介し、町のあちらこちらを案内しながら、彼のなめらかな身のこなしから、彼が相当の修練を積んでいることを見て取っていた。
 腕の立つものは、普段歩く時の体重移動からして違う。
 ドン・ボンゴレの動きからは特にこれといった武術の系統は判別できず、おそらく総合的に様々な体術や武器を使った戦闘を叩き込まれているのだろうと思われたが、護衛兼腹心であるらしい背の高い東洋系の青年の動きは、明らかに東洋の古武術の達人が持つものだった。
 隼人も生まれた時から裏世界にいた者として、これまで様々な強さを持つ者たちを見知っている。だが、記憶にあるそれらのすべてと比較しても、彼らの身のこなしは別格といってよいレベルであり、こんな化け物クラスがごろごろしているボンゴレに父親は喧嘩を売ったのかと、改めて暗澹たる気分にならざるを得なかった。
「これで市内は大体、ご案内しましたが……」
「うん」
 隼人が告げると、ドン・ボンゴレは満足したとばかりにうなずく。
 二人の会話は、周囲をというよりはカテーナの住人を気遣って、ずっとイタリア語だった。
 日本名を持つドン・ボンゴレは、生粋のシチリア人のようにパレルモ訛りのイタリア語を話す。そして隼人もまた、故郷を離れていた十五年余りの間、その殆どを本土の中部から北部で過ごし、標準語のトスカーナ方言を使っていたのに、故郷の訛りを忘れ去ることができなかった。
 そんな二人が、シチリアの片田舎で、土地の言葉で会話をしている。その光景はどこか滑稽であると、心のどこかで隼人は思った。
「十分に見せてもらったよ。うちが送ったお金も、上手く町のために使われているようだし。もうカテーナは大丈夫かな」
「はい。そのつもりです」
 隼人の言葉に微笑んでうなずき、ドン・ボンゴレは周囲を見渡す。
 今、一行がいるのは町の広場だった。教会と市役所、そして昔ながらの商店が周囲を取り巻いており、町のシンボルとして一本だけ、アーモンド畑から離れて植えられた木が満開の花を春風に吹き散らしている。
「アーモンドの花が満開の今が、カテーナの一番綺麗な季節かな」
「はい。初夏にはジャカランダも良く咲きますが、町の者にとってはアーモンドが一番です」
 古来からの生活の糧(かて)であり、町のシンボルでもあり。
 アーモンドの花が咲くと、町の住民たちは春が訪れたことを実感する。それはおそらく、何百年も前から変わらないカテーナの町の風景だった。
 その思いを込めて告げた隼人に、ドン・ボンゴレはまっすぐなまなざしを向ける。
「カテーナはいい町だね。決して豊かではないけれど、人々は町を誇りに思う気概を失ってない」
 春の日差しの下、その目は虹彩の金の筋が光をはじき、綺麗な琥珀色に透けていた。
「君も御苦労様。難しい仕事をよくこなしてくれた。心から御礼を言うよ」
「ありがとうございます、ドン・ボンゴレ」
 丁重に返しながら、隼人は体の影でぐっと拳を握り締める。
 とうとうこの時が来た、という思いに知らず、体に力が入る。こんな武者震いのような感覚は、それこそ十代以来の久しい感覚だった。
「俺の功績を認めて下さるのなら、お言葉に甘えて一つ、お願いがあるのですが」
 身の内の震えをぐっと抑え込みながら、まっすぐにドン・ボンゴレの瞳を見つめ返す。
 その隼人のまなざしから、ドン・ボンゴレもまた、視線を逸らさなかった。
「何? 俺にできることなら聞くよ?」
 二人きりの会話ではない。
 ドン・ボンゴレの傍には護衛の男がいるし、少し離れたところにはリボーンもボンゴレの職員二人も居り、更にその周囲にはカテーナの町の住人がいる。
 そして、隼人もドン・ボンゴレも全く声をひそめはしなかったら、二人の会話は居合わせる全ての人々の耳に届いているはずだった。
 静かに一つ呼吸を整え、隼人は口を開く。

「一度だけで結構です。俺と手合わせを」

 その声がしんと静まった石畳に響き渡り、一瞬の間を置いて周囲がどよめく。
 ドン・ボンゴレもかすかに目を瞠ったが、しかし、すぐにうなずいた。
「いいよ。獲物は何?」
「ナイフで」
 素手で、とは言わなかった。
 素手で人間を殺すのは、案外に難しい。プロボクサー並の固い拳で頭部を数回殴れば、致命傷のダメージを脳に与えられるが、少なくとも隼人にはそれだけの技量はなかった。
 それでは意味がないのだ、ただの殴り合いでは。互いに命を懸ける、そういう戦いでなければ、意味がない。
 だが、ドン・ボンゴレは武器の選択にも事も無げにうなずいた。
「分かった。リボーン」
 そして、少し離れた位置にいる殺し屋に声をかける。と、名を呼ばれた殺し屋は、面倒くさげにダークスーツの上着の内から刃渡り20cm弱の戦闘用ナイフを引き出し、無造作にドン・ボンゴレに向かって投げた。
「刃毀れさせたら、十倍返しで弁償だぞ」
「分かってるって」
 投擲の要領で遠慮なく投げられたナイフの柄を、ドン・ボンゴレは林檎でも飛んできたかのように体の正面であっさりと掴み取る。
 恐ろしい程の動体視力と反射神経であり、また、戦闘用ナイフの扱いにも長けていることがそれだけで知れた。
 もとより勝てると思って申し込んだ勝負でもなかったが、予想以上の強敵だと自嘲しつつ、隼人もまたネクタイを外してスーツの上着のポケットにしまい、その上着そのものを脱いで、住民の輪の中にいたホテルのオーナーに預けた。
 坊ちゃん、と案じる声で小さく昔の呼び名を呼んだレオナルドに小さな笑みを向け、広場の中央に戻りながらホルスターから同じく刃渡り20cm弱の戦闘用ナイフを抜く。
 向かい合って立つと、ドン・ボンゴレは上着を脱がないばかりかネクタイもそのままだった。
 逆に、人前では季節を問わず、まず上着を脱がないこの国で下着に等しいワイシャツ姿になった隼人は、最初から自分の方が分が悪いと宣言しているようなものである。
 だが、それは事実だったから、取り繕おうとは思わなかった。
 捨て身で起死回生を狙うだけの価値がある。これは、そういう戦いだった。
 正面から観察すると、ドン・ボンゴレは左脚を後ろに引き、半身(はんみ)になってはいるものの、ナイフを構える位置は低く、完全な自然体を保っている。攻守自在に変化できる形であり、攻めにくい、と隼人は目を細めた。
 どう足掻いても、きっと彼には勝てないだろう。だが、引き下がるわけにはいかない。
 細く息を整え、石畳を蹴る。
「!」
 心臓を狙った最初の突きは予想通りかわされた。だから、そのまま勢いを殺さず、立て続けにナイフを振るう。
 全身の筋肉を稼動させ、連動させて、よりコンパクトに、鋭く。
 これまでの二十四年に身に着けた全てを絞り出し、憎いわけでもない相手に必殺の一撃を繰り出す。
 憎しみはなくとも、刃先に殺意を込めることはできた。否、殺意を込めなければ、返り討ちにされる。それが手合わせ──殺し合いだ。
 だから、隼人は一切のためらいを覚えずにナイフを繰り出し続ける。
 今のところ、ドン・ボンゴレは隼人の攻撃を立ち居地すら殆ど変えずにコンパクトにかわし、あるいは、ナイフの刃をもってはじき返すパーリングのみで自らは攻撃してこないが、隼人を見つめる目は本来は瑪瑙色であるだろう虹彩が金の輝きを帯びた琥珀に輝き、獲物を前にした獅子のように気配が鋭さを増している。
 観察されている、と思った。
 呼吸の間合い、リーチの長さ、あらゆる筋肉の動きの癖。琥珀の瞳は全てを冷静に見つめている。その感覚に、肌がピリピリする。
 おそらく隼人の技量の観察を終えた途端に、彼は逆撃してくるだろう。そうしたら、地に倒れ伏すのは隼人の方だ。
 そうと分かるからこそ、決定打を繰り出せない自分に隼人は歯噛みした。
 近年は以前ほど積極的に喧嘩を買わなくなったが、十代半ばを過ぎた頃からストリートファイトでは、ほぼ負け知らずだった。だが、目の前の相手は格が違う。
 町の喧嘩屋になら全勝、プロの軍人や傭兵、殺し屋相手なら、一定以上のレベルには勝てない。その程度の技量しか持たない隼人が勝てる相手ではない。彼は本物の戦闘のプロだった。
 最大最強のマフィア・ボンゴレ。
 その頂点に君臨するドン・ボンゴレは、ただ血筋だけでその地位に就いたわけではない。彼自身が最強なのだ。
 クソッ、と胸のうちで自分と相手との技量の差に毒づきながら、顔面に向かってフェイントをかけつつ、頚動脈を狙う。
 だが、必殺のはずのそれも小さな動きでかわされ、次の瞬間、ドン・ボンゴレにナイフの柄で左肩を強く鋭く突かれた。
 東洋の格闘技の打撃法のように、回転をかけながら鋭く突いて鋭く引く。その衝撃は思いがけず強烈で、一瞬揺らいだ上半身に気を取られた隙に、今度は軸足を強くドン・ボンゴレの足になぎ払われる。
 時間で言えば、一連はほんの一秒ほどの出来事だっただろう。
 バランスを失って石畳に手を着いた隼人の喉下に、戦闘ナイフの刃が突きつけられた。
「……参りました」
 息が上がっている隼人に対し、ドン・ボンゴレは呼吸すら乱れていない。完敗だった。
 負けを宣言すると、ドン・ボンゴレはかすかに笑んでナイフを引く。
 そして、隼人が立ち上がるのを待ってから、ゆっくりと周囲を見渡した。
 周囲は、しんと静まり返っている。それは、隼人が勝てなかったことに対するカテーナ住民の落胆であり、とどめを刺されなかったことに対する安堵であり、また、ドン・ボンゴレの勝利に対する当然の思いだった。
 その静寂を見つめて、ドン・ボンゴレは口を開いた。

「次は? 彼だけじゃないだろう、俺をせめて一発殴りたいと思っているのは」

 凛と響いたその声に、思わず隼人はドン・ボンゴレの顔を見つめる。
 だが、彼は隼人にはまなざしを返さなかった。
「昨日までは俺はパレルモにいて、手の届かない相手だったかもしれない。けれど今、俺はここにいる。もやもやにケリをつけたい人間、恨み憎しみを晴らしたい人間は、全員、かかって来ればいい」
 ドン・ボンゴレ、と隼人は声に出さず呟く。
 ───そもそも、隼人が手合わせを求めたのは、元ジェンツィアーナに残る遺恨にケリをつけてしまいたかったからだった。
 ジェンツィアーナの跡取り息子であった隼人が、ドン・ボンゴレと手合わせして完膚なきまでに惨敗する。それは、カテーナの町の新旧の支配者の交代の象徴として、最も分かりやすい形だった。
 隼人の敗北を目の当たりにすれば、住民たちはジェンツィアーナの支配が終わったことを肌で感じるだろう。そう計算してのことだったが、ドン・ボンゴレの発言は、そんな姑息な目論見など遥かに超えていた。
 挑発というには、あまりにも静かなドン・ボンゴレの金のまなざし。
 だが、その先で、ざわめく住民の輪が躊躇いながらも、かすかに動こうとする。その兆しを見て取った隼人は、動きが奔流へと変わる前に鋭い声を発した。
「一人ずつだ! これ以上、町の名前を汚すんじゃねえ!」
 卑怯者、愚か者とさげすまれるのは、死んだ父親だけで十分だった。
 ジェンツィアーナは滅びた。だが、カテーナの町は、これからもボンゴレの支配下で生きてゆかねばならない。
 それならば、守らなければならない信義というものがある。
「一人ずつだ。ナイフは俺のを貸してやる。不慣れなのは我慢しろ」
 もう一度繰り返すと、一歩前へ出かけていた男たちは顔を見合わせ、やがて、一人がゆっくりと進み出てきた。
 ルチアーノ、と隼人は心の中で名前を呼ぶ。
 彼が男盛りだったのは、十五年前の話だ。元々肉付きが良い男だったが今はすっかりたるんで、幼かった隼人をよく肩車してくれた肩も昔は雄牛のようだったのに、随分と筋肉が痩せてしぼんでしまっている。
 だが、その皺の刻まれ始めた大きな手に、隼人は自分のナイフを渡した。
「見届けて下せえよ、坊ちゃん」
「坊ちゃんはやめろっつっただろ」
 隼人がカテーナに戻ってきて、早、半年。
 ルチアーノは、一番最初の夜に、何故今頃戻ってきたのだと問うて以来、殆ど隼人とは口を利こうとしなかった。
 だが、時折向けられる視線で、懐かしさと悲しさ、悔しさが入り混じった彼の思いは伝わっていたから、隼人も何も言わなかった。
 言える言葉などなかったのだ。
 十五年前のあの日、自分は家を出るしか考えられなかったし、ボンゴレに脅迫されなければ、決してこの町に戻って来などしなかった。
 そこに選択の余地などなかったが、それは隼人の言い分で、ルチアーノの言い分は、また別にある。
 両者の間に歩み寄りの余地はなく、お互い、相手の言いたいことは分かる。けれど、という状態のまま、時間だけが過ぎた。彼との関係に限っていえば、そういう六ヶ月だったのだ。
 もちろん、隼人を許容しなかったのはルチアーノ一人ではない。カテーナの町には、そういう男たちが他にも何人もいた。
 その男たちが、今、隼人のナイフを受け取ろうと待っている。その様子を、隼人はただ黙って見つめた。
「お初にお目にかかります、ドン・ボンゴレ。ジェンツィアーナのルチアーノと申します」
 ルチアーノの名乗りに、ドン・ボンゴレは静かにうなずく。そして、ゆっくりと半身に構えた。
 合図はなかった。その瞬間、火花が散ったようにルチアーノが地面を蹴る。
 彼は大男であり、年を取ったとはいえ、その膂力はまだ目を瞠るものがある。が、ドン・ボンゴレの敵ではない。
 隼人を相手にした時と同様、攻撃をかわし、あるいは、はたき落とす形でルチアーノのナイフをいなしながら、機を見はからって左手の手刀でルチアーノの右手首を強く叩き、ナイフを取り落とさせたところで、首筋に自分のナイフを突きつけた。
「そこまでだ。──次!」
 正味にして、三十秒ほどの攻防。たったそれだけだった。
 だが、無情だとは心の底で思いつつも、隼人は鋭く采配の声を上げる。
 ルチアーノも他の男たちも、自分かドン・ボンゴレの息が絶えるまで、血みどろになって殴り合いたいだろう。勝てないのなら、とどめを刺して欲しいだろう。
 しかし、それは叶わない願いだ。
 彼らの命を奪うことなどドン・ボンゴレが許容しないだろうし、彼らが無用に傷つくことは隼人が許さない。
 もう一度、勝てなかった悔し涙に暮れ、自分の無力を嘆いて、ジェンツィアーナがもう無いこと、新たな支配者がボンゴレであることを噛み締める。
 これは、そのための儀式だった。
「次!」
 兵学校の鬼教官よろしく隼人が声を発するたびに、肉体は無傷でも魂と心が傷だらけの男たちが、地面にくず折れ、泣きむせぶ。
 固い石畳を拳で殴り、吠えるように慟哭する。
 戦いには参加しない男たちも目を潤ませ、女たちもすすり泣く。大事な日だからと家の中に閉じ込められている子供たちも、両親が帰宅すれば、本当の意味で今日、ジェンツィアーナが滅びたことを知るだろう。
 その全てを隼人は見つめていた。
 そばかすだらけのまだ十代の少年。彼の父は、隼人の父親の側近で、ドンの死に殉じて死んだ。
 パン屋の主人。隼人の計画する町の復興計画には、最初から積極的に参加していた。それだけ町を愛していた。
 石工の先代の親方。隼人の祖父に目をかけられていたという、ジェンツィアーナの古株。ナイフを持つ手が老齢のせいで震えているのに、まっすぐに体ごと、ドン・ボンゴレにぶつかっていった。
 一人ひとりが、思いを込めてドン・ボンゴレに立ち向かってゆく。
 一番最初の隼人の敗北で、一矢報いることさえ難しい相手と分かっただろうに、誰一人ひるまない。
 彼らこそが、ジェンツィアーナ。
 隼人と父親が、守らなければならなかったはずのものだった。
 ───やがて、最後の一人の手からナイフが落ちて。
 もう誰も周囲の輪から出てこないことを目で確認してから、隼人はゆっくりと彼らの元に歩み寄った。
 石畳に膝を折って泣いている青果屋の若主人の肩を叩いて、立ち上がらせ、住民たちの輪の中に帰らせる。
 そして、自分のナイフを拾い上げた。
 のべ三十一人もの男たちの手を渡ったそれは、幾つかの小さな刃毀れを生じている。ドン・ボンゴレの巧みなパーリングによるものか、石畳に落ちた時の衝撃によるものか。
 傷だらけのナイフは、そのままジェンツィアーナの象徴となって鈍く春の陽光を反射している。
 それをじっと見つめた後、隼人は刃を自分の側に向けて、ナイフをドン・ボンゴレに差し出した。
「────」
 ドン・ボンゴレは、まだ呼吸は乱していなかった。だが、額にはうっすらと汗が浮いている。彼もまた、限界のある人間である証拠だった。
 彼はナイフを見つめ、まっすぐに隼人の目を見つめてナイフを受け取る。
 金属の重さが完全に相手の手に移ったところで、隼人は一歩下がり、その場に片膝を付いて頭(こうべ)を垂れた。

「我らカテーナの住民一同、本日よりボンゴレに永遠の忠誠を誓います」

 その声が朗(ろう)と広場に響くと、隼人の背後で住民たちが一斉に頭を垂れる気配がした。
 しんと静まり返った、傾いた日差しの中。
「ありがとう」
 穏やかで深い響きのドン・ボンゴレの声が一同の耳を静かに打った。




 ドン・ボンゴレを迎えての正餐は、市長卓ではなくホテル・フィオレッタで開かれることになっていた。
 市長の自宅はそれなりに古く、カテーナの市内ではそこそこ立派な建物だが、所詮は田舎の名士の邸宅の域を出ない。
 対して、隼人が滞在し続けているホテル・フィオレッタは田舎町のホテルではあっても、建物は綺麗に磨き抜かれ、至る所に花が溢れている。
 加えて、オーナー夫人は町一番の料理上手で、ドン・ボンゴレのための正餐の用意をと言われても、一瞬たじろぎはしても、すぐに立ち直ってお任せ下さいと胸を叩く精神的な強さを持ち合わせており、今夜のもてなし役にはぴったりだった。
 広場での、ただ手合わせと呼ぶには随分と複雑な陰影を持った出来事の後、隼人はドン・ボンゴレ一行をホテルに案内し、自分自身もそのまま専用の客室に引き取った。
 シャワーを浴びて汗を流し、正装に着替える。(といっても、ボンゴレ側はタキシードは持参していないということだったから、ディレクターズスーツ止まりだった。)
 その間もずっと、隼人は手合わせのことを思い返していた。
 素晴らしい技量だった。隼人の攻撃を全て見切り、予測してかわし、あるいは叩き落とす正確な技術。小さな円を描く最低限の動きで構成された巧みなフットワーク。そして、隼人を加えてのべ三十二人と対峙し続けた、驚異的な集中力。
 隼人は、町の喧嘩屋はもちろん、玄人との戦いも数え切れないほどにこれまで経験している。だが、あれほど無駄がなく、洗練された戦い方をする人間には出会ったことがない。
 そして、戦い方以上に───。
「!」
 その先に思いを馳せかけた時、部屋のドアがノックされた。
 ミランダのノックではない。彼女のノックの仕方は、欧州人らしい素早い連続の四回ノックだ。
 今聞こえたのは、ややゆっくりと二度叩く音。東洋人、というよりも日本人のノックの仕方である。
 相手が誰かと考えるまでもない。慌てて隼人はソファーから立ち上がった。
 ここは執務用の部屋ではなく、居間兼寝室として借りている部屋だから、内鍵をかけてある。手早くそれを外し、ドアを開けた。
「ドン・ボンゴレ」
 予想通りの相手が、廊下に立っていた。そして、もう一人、例の護衛兼腹心らしき東洋人の青年。二人だけであることを素早く目で確認して、隼人は出入り口の立ち位置を譲った。
「どうぞお入り下さい」
 ドン・ボンゴレ相手に、部屋の前で用件は何だと問答できるわけがない。わざわざ部屋を訪ねてきたのなら、当然何らかの話があるに決まっていたし、また、この後の晩餐会では話したくない、あるいは話せない内容であることは考えるまでもなかった。
「すみません、片付いてない上に、こんな格好で……」
 応接セットに案内しながら、簡単に詫びる。
 部屋は広めのツインで、持ち込んだ私物は少ないものの、半年も暮らしていればそれなりに小物の置き場が決まり、応接セットのテーブルにもベッドサイドにも、それぞれ灰皿だの何だのが乗っている。
 そして、隼人自身はといえば、ネクタイとベストまでは身に着けていたものの、スーツの上着はまだ着ておらず、目上の人間に対するには、少々非礼な格好だった。
 だが、不意打ちの訪問であることは彼らもわきまえているのだろう。それらの一切を咎めることなく、ドン・ボンゴレはソファーに腰を下ろした。
「構わないよ。長居する気もないから、気は使わないでくれると嬉しい」
「はい」
 くつろいだ姿勢になったドン・ボンゴレの手振りでの許しを得て、向かい側のソファーに隼人も腰を下ろす。
 隼人が姿勢を落ち着かせるのを待って、ドン・ボンゴレはまず、自分の左隣に腰を下ろした青年を紹介した。
「彼は山本武。俺の昔からの友人で、俺がボンゴレ十代目になってからも色々と助けてくれてる。まあ、腹心の部下ってとこかな」
「よろしくな」
 日本語で気安く挨拶してくる青年を隼人は見つめる。
 背格好は自分と大して変わらない。日本人としてはかなりの長身ということになる。今は一見、武器を帯びていないが、昼間は長刀を背に負っていた。相当の使い手だということは身のこなしだけで分かる。
 そして、改めて向き合えば、表情は屈託がなく明るいが、目の色だけが不思議なほどに深かった。目だけが笑っていないというのではなく、確かに笑っているのに、黒い瞳の奥には底無しの何かがある。
 この男も、と隼人は思った。何か途方もないものを抱えている。
 油断すべき相手ではない。だが、ドン・ボンゴレの腹心であり、瞳の奥の底無しの何かが自分に向けられていない今は、真っ向から警戒すべき相手でもない。
 だから、ただ短く名乗った。
「獄寺隼人だ」
「ああ、聞いてる。会えるの、楽しみにしてたんだぜ」
 朗らかな言葉にどう答えるべきか迷い、ドン・ボンゴレへとまなざしを向ける。と、彼はやわらかく微笑んでいた。
「君が難しい仕事を引き受けてくれたから。お手並み拝見と言うと聞こえが悪いけど、この半年、君の名前はうちで結構な話のネタになってたんだ」
「はあ……」
 どう受け取るべきか、隼人は迷う。
 この二人に関しては、さほど悪い評価の会話ではなかったかもしれない。少なくとも、言葉尻にそんな気配はない。
 だが、他のボンゴレの面々はどうだったか。くだらないことをするという声もあったかもしれないし、失敗すると予想する声もあったかもしれない。
 あるいは、カテーナを殲滅せず、迂遠な温存策をとった若きドン・ボンゴレに対する悪評もあったのではないか。
 少なくとも、隼人がボンゴレの構成員であったとしたら、潰すべきものを潰さないドン・ボンゴレのやり方は歯痒く感じただろう。利害関係のない第三者であっても、さっさと潰せばいいだろうにと思うのがせいぜいに違いない。
 今回は潰される側であったからこそ、ドン・ボンゴレの温情をカテーナが生き延びる唯一つの術であり、希望だと感じて、それにしがみついたのだ。
「ドン・ボンゴレ」
 この件について初めて彼の立場にまで思いが至り、隼人は深く頭を下げる。
「御温情をありがとうございました。カテーナの全住民に代わって御礼申し上げます」
 唐突ではあると自分でも思ったものの、そうせずにはいられなかった。
 カテーナに温情をかけたことで、実際の戦闘という意味ではボンゴレに損失はなかっただろう。だが、力がものを言うこの世界でその策を採ることが、本当に弊害が一つも生じなかったとは考えられないのだ。
 もちろん最善策と考えて、ボンゴレは隼人を召喚したはずだったが、六ヶ月の猶予をカテーナに与えるその裏で、ドン・ボンゴレが払った代償も必ず何かあったはずである。
 しかし、
「そんなこと。御礼を言うのはこっちの方だよ」
 隼人の言葉に、ドン・ボンゴレは小さく笑った。
「今日のこともね、助かった。君のおかげで、やっとカテーナに対する警戒を解くことができる。この意味は大きいんだよ。うちは大所帯だから、案外あちこち手が回りきらなくてさ」
 最後の一言は、ほのかな苦笑に彩られていて。
「分かると思うけど、一つのファミリーを本当に潰すのはとても難しいんだ。完璧にやるなら、最後の一人まで消すしかない。一人でも残せば、報復の可能性が消えない。──でも、そんなことにエネルギーを費やすのは無駄な話だ。人を殺していいことなんか殆どない。ましてや報復を恐れて殺すなんて、無意味すぎる。
 だから、君が居てくれたこと、君がやってくれたことにはすごく大きな意義があるんだ。君が居なかったら、俺は本当にこの町を地図上から消すしかなかった。そして、それを揉み消すためにどれくらいの金をばら撒いて、一体何日眠れない夜を過ごさなきゃならなかったか……。君の存在が在るとないとでは、天国と地獄くらいの差があったんだよ」
「ドン・ボンゴレ……」
「この六ヶ月も良くやってくれたと思うけど、今日のことも、本当にいいパフォーマンスだった。……パフォーマンスと言ってもいいよね?」
「はい」
 確認するような問いかけに、隼人はうなずく。
 彼の言う通りだった。住民たちに遺恨を胸の奥深くにしまい込ませるパフォーマンス。それを意図して隼人は手合わせを申し出たのに、結果としては、住民たちが遺恨を晴らすステージとなった。
 そう舞台を作り変えたのは、彼だ。
 隼人の意図を察し、住民たちの胸のうちを察して、自らを全て引き受けて立った。
 途方もない英断であり、勇断だった。
「俺の不躾な申し出を受けて下さったことは、御礼の言葉もありません。ましてや、その後のことは……」
「御礼を言いたいのはこっちの方だよ。君が手合わせを申し出てくれたから、俺もきっかけを掴むことができたんだ。……ああいう負の気持ちを抱いたまま、ボンゴレに従わなきゃならないことは、すごく辛いことだと思うから。彼らと手合わせできて良かったと思う」
「……はい。ですが、俺はお詫びを申し上げなければいけません。あなたが俺を殺せないことを承知の上で、真剣での手合わせを求めたのは卑怯でした。本当に申し訳ありません」
 あの手合わせで、もしドン・ボンゴレが隼人を殺したら、あの場に居たカテーナの住人はこぞってドン・ボンゴレに報復しようとしただろう。そうなれば、いつか彼が明かした最悪のシナリオが、そのまま完成してしまう。
 ドン・ボンゴレは、そんな結末は決して望まない。そう確信があったからこそ、隼人は衆人の目の前での手合わせを求めたのだ。
 もちろん、隼人とて本当にドン・ボンゴレを害するつもりはなかったが、また手加減するつもりもなかった。本気でぶつかり合わなければ、単なる茶番劇になってしまうからこそ、殺意を込めてナイフを握った。
 だが、自分は殺されないことを承知の上で命がけの手合わせを求め、自分の方は本気の殺意を込めるというのは、どう考えても道義に反する。裏通りでの喧嘩ならまだしも、一つの町の尊厳を懸けての戦いに相応しいやり方ではない。
 結果的にドン・ボンゴレは、隼人の描いたシナリオを超えて動いてくれたものの、だからといって、全て計算ずくだった隼人の策略を、ドン・ボンゴレが許容してくれるかどうかについては、また別の問題である。
 ゆえに、断罪を覚悟の上で隼人は告げたのだが、しかし、ドン・ボンゴレは再び小さく笑っただけだった。
「勝ったら君を殺さなきゃいけないような場面だったら、俺は受けなかったよ。君の判断は正しかった。君は、君ができる最上のことをやり遂げたんだ」
 そう言い、ドン・ボンゴレはやわらかく微笑んだ。
「君が居てくれて良かった。ありがとう。君にとって辛い役目だということは分かってたのを、あんな言い方で無理に押し付けたのに、この町を守ってくれて、本当にありがとう」
「ドン・ボンゴレ」
 何と答えればいいのか分からなかった。
 それくらい綺麗で、優しい笑みだった。
 深みのある美しい瑪瑙色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめている。
 何だかいたたまれないような気分になって、隼人は目を逸らした。
「──俺は、自分が生まれ育った家が燃え落ちるのをこの目で見ました。父親がどうしようもない大馬鹿野郎だったことは分かってますし、あの死に様も当然だったと思ってます。ただ……、この町が城のように燃え落ちるのは見たくなかった。それだけです」
 素っ気ない口調で告げると、うん、と穏やかに受け止める声がして。
 彼がどんな反応をしたのか、気を引かれてまなざしを戻すと、また、ひどく優しい笑みを目が合って、隼人は内心、かなりうろたえた。
 憎しみや軽蔑、恐怖を込めて睨みつけられることには慣れているが、優しい笑みというと全くというほど縁がない。かろうじて数えられるのは、ビアンキとミランダの笑みくらいだろうか。あまりにも慣れていなさ過ぎて、どんな表情を返せばいいのかすら分からない。
 だが、ドン・ボンゴレは隼人を長く混乱の中には置いておかなかった。
 表情こそ変わらなかったものの、次の話題へと移る。
「あと、今後の件だけど、君はこれからどうするつもり? カテーナに残る?」
「あ、いえ。俺の仕事は終わりましたから。ここは引き払います。一旦、本土に戻って……どうするとはまだ決めてませんが」
 救われたような気分になりながら答えると、分かったとドン・ボンゴレはうなずいた。
「それじゃあ、ここを引き払ってからでいいから、パレルモに顔を出してくれるかな。報酬の支払いの件もあるし」
「報酬なんて別に……実費も殆どかかってませんから、必要ありません」
「そんなことないだろ。半年分の宿泊代だってタダじゃないだろうし」
「……そのあたりは目下、交渉中です。俺としてはきちんと払いたいんですが……」
 何しろ、あのオーナー夫妻である。半年に及ぶ滞在の途中から、月払いの約束だった宿泊代は要らないと言い出したのだ。
 自分の家の部屋の掃除はするのが当たり前だし、食事だって自分たちの食事を少し余分に作って提供しているに過ぎない、お代なんかもらえない、と。
 もちろん隼人は何を馬鹿なことをと、二人の商売っ気のなさに意見したら、反論が三倍になって返って来た。
 最終的には、相手が何を言おうと正当な代金を支払うつもりだが、彼らも言い出したら退かない強情さを備えており、そこに辿り着くまでにはまだ厳しい攻防が待っていると思って間違いなかった。
「そうなんだ。じゃあ、まあその辺は、こっちもまた後日ということで。面倒だろうけど、とりあえず顔だけ出してくれると助かるよ。それなりに後始末もあるから」
 状況を察して楽しげに言うドン・ボンゴレに、隼人はうなずく。
「はい、分かりました」
 車で本土へ戻ることを考えると、パレルモはまったく正反対の方角への寄り道となるが、絶対に嫌だと拒否する理由もない。
 承諾すると、ドン・ボンゴレもうなずいて、それじゃあ、と立ち上がる素振りを見せた。
「そろそろお暇(いとま)するよ。また晩餐の席で会おう」
「はい」
 会話の間中、天性の性格から来るものらしい明るい表情で黙っていた山本という青年も立ち上がり、連れ立って彼らは二人を出てゆく。
 彼らがエレベーターホールに姿を消すまでわずかばかり見送ってから、ドアを閉め、隼人は息をついた。
 やっと終わったのだ、という実感が急に襲ってくる。
 もうこれで全て、片はついた。ドン・ボンゴレの承認があるのだから、間違いない。
 これで、この町を出て行ける。
 そう考えて。
「────」
 隼人はゆっくりと窓際により、夕闇に沈んだ町並みを眺めた。
 古く小さな、豊かでもない町。けれど、父と母と先祖の墓のある町。沢山の懐かしい人々が今も暮らす町。
 自分の、故郷。
 ガラス窓越しに、ぽつぽつと灯る町明かりをじっと見つめて。
 隼人は静かに眼を閉じた。

*            *

「どうだった?」
「いいんじゃね? 俺はああいう奴、好きだぜ」
「やっぱりなー。武は気に入ると思った」
「うん。なんつーか、普段は愛想悪そうだけど、こっちが背中預けるつったら、何で俺がとか文句言いながら、絶対裏切らなさそーな感じ」
「そうなんだよね。一皮剥いたら、不思議な律儀さというか、真面目さというか。ホント、ここまで完璧にやってくれると思わなかった」
「この町が好きなんだろ。じゃなきゃ、こんな面倒な真似やらねーよ」
「だと思うんだけど、正面切っては大事とも好きとも言わないしねぇ。シャイなのか、ひねくれてるのか……」
「両方じゃね? けど、スモーキン・ボムか。確か技能はすごかったよな」
「うん。色々できるみたい。爆弾作るのも、仕掛けるのも、あとハッキングの腕もかなりのものだよ。今日のナイフ戦闘もかなりいい筋行ってたし。あと語学も得意って。日本語も全然不自由ないみたいだし、他にもクロアチア語とかトルコ語とかまで。北部だとそっちからの移民が多いからかな」
「……でもよ、この調査書見ても、何かぴんとこねーっつーか」
「あ、やっぱり思う?」
「思う思う」
「そーなんだよね。この世界のことは何でも大概できるんだけど、どれも超一流じゃないっていうか……」
「どれもこれも、一流から一流半の間ってとこじゃね? 悪くねーけど、超すごくもねー」
「うん。典型的な器用貧乏って感じ。だから使い所が困るんだ。どこにも所属しないで一匹狼やってたのも分かるよ。あーもー、やっぱりリボーンの言う通りにするしかないかなあ」
「あー、リボーンさんの案はアレだろ」
「うん、アレ」
「確かになー。この調査書見て本人に会うと、すげー納得できるぜ」
「うーん」
「ん? ツナは気が進まねーのか?」
「進まないっていうか……」
「でも、ああいうタイプ、好きだろ? 見え見えの貧乏くじ引く自爆タイプ。俺は下手に器用で利口な奴より、よっぽど好感持てるし、信用できると思うけどな」
「……だから、深みにはまりそうで困ってんだけど……」
「? 何か言ったか?」
「ううん。この件はもうちょっと考えるよ。少なくとも、数日は猶予がありそうだし」
「おう、それでいいんじゃね? 急がなきゃなんねえ理由も今はねーしな」
「うん、そうする」

to be continued...

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