刺さったままの刺の数。





夢見る頃を過ぎても   −第二章−

6.若葉







 少しずつだが、雨足は弱くなりつつあった。
 窓の外を見てみれば、西の空が少し明るい。この分だと、昼前には雨は上がりそうだった。
 しばらくの間、外を眺め、太公望は再び膝の上に視線を落とす。
 ───膝の上に置いた手のひらには、白い薬包が一つ。
 言葉もなく、小さなそれを見つめ続ける。
 朝早い庵には、雨音以外の音は聞こえない。
「───…」
 やがて、太公望は小さく息をついて立ち上がり、白い薬包を戸棚の上の薬籠の引き出しにしまった。
 そしてまた、ぼんやりと降り続く雨を見つめる。
 細い雨に打たれて、草木の葉が細かく揺れ動いている。庭のあちらこちらにできた潦(にわたずみ)に、次々と波紋が生まれては消える。
 薄い灰色に閉ざされた空の下で、長雨に洗われた若葉は、鮮やかな翡翠色に揺れている。
 春の雨の降りそそぐ静かな風景を、太公望はただ眺め続けていた。





 雨が上がったのは、予想通り昼前だった。
 することもなく、書物と窓の外の風景を交互に見ていた太公望は、ふと空を見上げ、立ち上がる。
「虹……!」
 雲間から差し込んできた陽光を受けて、鮮やかに虹が架かっていた。
 言葉もなく七色の階(きざはし)を見つめていた太公望は、背後に人の気配を感じて振り返る。
「楊ゼン」
 歩み寄って来る青年の名を呼ぶと、彼は優しく微笑った。
「起きて大丈夫なのか?」
「ええ。ちょっと頭痛がするだけですから。寝ていなければならないほどのことじゃないんですよ」
 一人で寝台に横になっているのも飽きました、と笑いながら言う楊ゼンを、太公望はもの言いたげなまなざしで見上げる。
 ───このところ、楊ゼンは彼らしくもなく、今一つ冴えない表情をしていることが多かった。
 それで夕べ、太公望が理由を問い詰めたところ、楊ゼンは、本格的に記憶が戻り始めた影響か、少し頭痛がするのだと渋々白状したのだ。
 それを聞いて、太公望は即座に、明日は一日寝ているよう命令したのである。
 だが、厳命したにもかかわらず、半日も経たないうちに起きてきてしまった相手に微妙な表情を向ける太公望に、
「本当に大したことはありませんから」
 楊ゼンは微笑しながら片手を上げて、太公望の髪を軽く梳くように撫でた。
「やっと雨もやみましたね。何を見ていらしたんです?」
「うむ……」
 納得しきれない様子で曖昧にうなずく太公望に構わず、窓際に立っていたままだった彼の隣りに来た楊ゼンは、何かを言うまでもなく空に架かる七色の光の弧に気付いて、軽く目を見開いた。
「──虹ですか」
 空を見上げる青年の横顔に、太公望は肩を軽くすくめるようにしてうなずく。
「知らせにいこうかと思ったら、誰かは自分から起きてきてしまったのだよ」
 困った奴、と言いたげな太公望に、楊ゼンは笑みを浮かべてまなざしを隣りに戻す。
「知らせようと思ってくれたんですか」
「…………」
 甘やかな声に、太公望は窓の外を向いて答えない。そんな太公望の細い肩を、楊ゼンは手をのばして自分の胸に抱き寄せた。
 不意の動作に一瞬、驚き迷うような間の後、しかし太公望も抗うことなく肩の力を抜いて、とんと軽く楊ゼンの胸に寄りかかる。
 そして、二人は灰色の雲が残る空に架かる虹を、無言で寄り添ったまま見つめた。
 ……やがて、虹の色が幾分薄らいだところで、そっと太公望は楊ゼンから身を離した。
 そして、
「本当に大丈夫なのか?」
 顔色を確かめるように青年を見上げる。
「痛み止めの薬丹もあるが……」
「大丈夫ですよ。頭痛にも多少波があって、ひどく痛むのは時々だけなんです。今は本当に平気ですから、そんなに心配しないで下さい」
 常と変わらぬ優しい笑顔でたしなめられて、太公望は眉をしかめた。が、それ以上は何も言えず、するりと楊ゼンの腕から抜け出て、部屋の中央にある卓へと向かう。
「──で、また何か思い出せたのか?」
 そして椅子を引いて腰を下ろしながら、さり気ない調子で問いかけた。
「いえ……」
 そんな太公望に浮かぶ微妙な表情を隠しつつ、楊ゼンもまた、卓の角を挟んだ席に着きながら答える。
「うつらうつらしている時に、映像は色々浮かんで来るんですが、どれも細切れの断片ばかりで……。前後関係も分かりませんから、繋ぎようがないんです」
「まあ、二百五十年分の記憶だしのう……」
「元の絵が分からない状態で、一万ピースのジグゾーパズルをしているようなものですよ」
 溜息をつくようにして楊ゼンは告げた。
 困惑をにじませたその様子に、太公望は小さく苦笑を浮かべる。
「とりあえず戻りかけているのは確かなのだから、気長に思い出してゆけば良いよ。焦る必要などない」
「そうですね……」
 素直にうなずきはしたが、しかし、楊ゼンはふと思い付いたように言葉を続ける。
「──でも…」
「何だ?」
 楊ゼンの声に暗さはなかった。
 だから、つい気軽に問い返した太公望は、こちらに向けられている楊ゼンの甘やかな瞳に悪戯めいた光が浮かんでいることに気付いて、思わず彼の顔を見直す。
 蛇の潜んでいた藪を突ついてしまったか、と内心、身構えた途端。
 笑みをにじませた声が、低く心地よい響きを紡ぎ出す。
「浮かんで来る映像は、やっぱりあなたが一番多いんですよ。あなたと出会ったのは、ほんの四十年前なんでしょう? 二百五十年近く生きてきたはずなのに、不思議ですよね」
 甘く笑いかけてくる楊ゼンに、小さく目を見開いた太公望は返す言葉を見つけられない。
「自分でも呆れるくらい、あなたの面影ばかりなんです。けれど、何か少し安心しましたよ。以前の僕が、いい加減な気持ちであなたに接していたわけじゃなかったと分かって……」
「──わしは茶でも煎れてくる」
 そこまで聞いて、太公望は立ち上がる。
 薄く染まった頬を隠すように、さっさと居間を出ていきかけて。
「呂望?」
 居間の出入り口で、足を止める。
 そして、肩ごしにちらりと楊ゼンを振り返った。
「──おぬしは、」
 少しだけ躊躇うように、言葉に短い空白を挟んで。
「おぬしは、いつでもわしの傍に居てくれたよ。本当にどんな時でも……」
 小さな声でそれだけ言い、太公望は足早に廊下に姿を消した。




 居間に一人取り残された楊ゼンは、想い人が姿を消した居間の出入り口を見つめたまま、くすりと笑った。
「でしょうね……」
 口元に滲む笑みは、太公望には決して見せない苦さが滲んでいて。
 ゆっくりと椅子の背凭れに楊ゼンは体重を預け、思案するように口元に右手の指を当てる。
 ───脳裏に浮かんでは消える、無数の映像。
 明らかに戦場と分かる風景の中での厳しい表情や、強く優しい笑顔。
 二人きりで向き合っている時の、今と同じような切ない瞳。
 そして。
 今以上に辛そうな、言い知れぬ痛みをたたえた、けれど静かなまなざし。
 どれもこれも、すぐ近くに長年居なければ得られないだろう鮮やかさで、自分と彼のかつての関係を伝えてくる。
 だからこそ、少しだけ心が苦い。
「あなたは……」
 彼が何故、自分からは過去を語ろうとしないのか。
 もう、分かる。
 語らないのではなく、語りたくない──口に出せないのだ。
 何故なら、まだ彼の傷口は塞がっていないから。
 断片的な映像から読み取れる戦いは、とてつもなく規模が大きく、熾烈で長かった。
 ───元絵のないジグゾーパズルでも、散らばった無数のピースを眺めていれば、何となく見えてくるものがある。
 激しい戦乱の中枢に位置していた呂望と、彼の一番近くに居た自分。
 戦いが終わった後、自分たちが共に居られなかった理由が何だったのか。
 それも、もう分かる気がしていた。
 楊ゼンは自分の手を見つめながら、先程、うたた寝から目覚める直前に見た映像を思い返す。

 あの、まっすぐにこちらを見つめていた瞳。

 他のどの記憶の断片とも異なった色をしていた。
 たとえ押し隠されていても決して消えることはなかった優しさも、温もりもない。
 哀しみさえ浮かんでいないその瞳は。
 ただ、強かった。
 まるで宝玉のような硬質なきらめきを保ったまま、底を見通すことも許さず、ただ凛と……毅然としてそこに佇んでいた。
 決して冷たくはなかった。
 けれど、その瞳に言い知れぬ衝撃を──痛みを、その時の自分は感じ取っていた。
 何故、彼のそんなまなざしを目の当たりにすることになったのか、そして、それを見た自分がどうしたのかは、まだ思い出せない。
 それでも、自分たちの過去に刻まれた、拭い切れない苦痛の存在だけは感じ取ることができる。
「あなたが思い出したくなかった気持ちも分かりますよ……」
 こんな記憶を、誰が保っていたいだろうか。
 間違いなく愛し、愛されていたはずなのに、あの瞳が告げていたものは。
 ───明らかな、訣別。
 それまでの日々をすべて振り切ったからこそ、この自分に対して、彼の瞳はあれほどの毅さを見せていたのに違いない。
 おそらく、どちらも心の底では望んだ別れではなかっただろう。
 そうでなければ、こんな風に呂望が受け入れてくれたはずがない。
 あの瞳に、過去の自分があれほど痛みを感じたはずがない。
 けれど。
 間違いなく、離れてしまったのだ。
 自分たちは。
 そうして修復することもできないまま、時間だけが過ぎて。
 たまたま、記憶が──辛いだけの過去が消えて。
 束の間の夢のような、薄氷の上の楼閣のような幸せを、得た。
 だが、目を閉じ耳を塞いでも、もう記憶は蘇り始めている。
 正常な姿に戻ろうとしているそれを、どうすることもできない。
「──!」
 改めて記憶をなぞったせいか、鈍い痛みを側頭部に覚えて、楊ゼンは眉をしかめる。
 この頭痛も、もしかしたら思い出したくないという無意識の抵抗かもしれないと、そう思った時。
 呂望の戻って来る小さな足音が聞こえた。
 すぐに楊ゼンは立ち上がり、出迎える。
「楊ゼン」
 ちょうど居間の出入り口で、茶器一式を盆に載せた呂望と出会い、
「僕が運びますよ」
 その細い腕から盆と鉄瓶とを取り上げた。
「すまぬのう」
「いいえ」
 そして二人は連れ添って卓に戻り、呂望は茶の支度を始める。
 普段、呂望は茶を煎れてくれとねだるばかりで、彼が自分から進んで動くのは、今のように何か状況的に立場が悪くなった時など、わずかな場合に限られる。
 が、それは茶を入れるのが下手だということは意味せず、彼が丁寧に煎れた少し薄めの茶は、いつも優しい味と香りがした。
「──わしの生まれ故郷では、南方産の茶は滅多に手に入らぬ高級品でのう」
 茶壺(急須)に葉を入れながら、ふと呂望が言った。
「わしは一族の統領の家の生まれだったが、それでも年に数回しか茶は飲めなかった」
 彼が、そんな風に自分のことを話すのは初めてのことで、楊ゼンは少し驚きつつも聞き入る。
「茶を煎れるのは、いつも父の役目だった。小さな器に注がれた茶はいい香りがして、ほんのり甘くて……子供心にも本当に美味いと思ったよ」
「──あなたが仙界入りしたのは……」
「十二の時だ。──その少し前に村が襲われて、一人きりになったところをスカウトされた。他に選ぶ道もなかったからのう」
 言葉を失った楊ゼンに、呂望はやわらかに微笑いかけた。
「それで、ずっとわしは家族は全員死んだと思っていたのだが……実は、妹が生き延びていたらしい。彼女には再会できんかったが、その曾孫に会えた」
 言いながら、優しい光が呂望の瞳に浮かぶ。
「その娘は、妹と顔は似ておらなんだが、勝ち気な性格がそっくりでな。二人の子供の母親となったよ。旦那は早くに亡くなったが、それでも息子たちのために頑張っておるようだ。
 一生、共に生きていくと決めたのだから、彼と共に造ろうとしたものを私は造り続ける、とな。幸せそうに笑って、わしに言いおった」
「素晴らしい女性ですね」
 百年近くも前に時間の止まった呂望にとって、その女性は妹か姪のような存在だったのだろう。その優しい微笑みに、血族の女性に対する愛情や、誇りに思う気持ちが垣間見えた。
「うむ」
 うなずいた呂望は、ふと楊ゼンを見て表情を変える。
「楊ゼン、おぬし顔色が……」
「平気ですよ」
 聡い、と思いながらも笑みを浮かべてみせる。
 が、そんなものが呂望に通用するはずもなかった。
「それが平気という顔色か!? 具合が悪くなったのなら、さっさと言わぬか!」
「これくらい、何でもありませんから」
「やせ我慢も大概にせよ。とにかく、辛いのなら薬を飲め」
 ややきつい声で言いながら、呂望は戸棚の上から薬籠を下ろす。
「……一人暮らしにしては、随分ぎっしり詰まってますね」
 呂望が次々に開ける引き出しには、色とりどり、様々な大きさの薬包が几帳面に詰められていて、呂望の手元を覗き込んだ楊ゼンは、呆れたように呟く。
 痛み止めはどれが一番いいか、とぶつぶつ言っていた呂望は、手を止めないまま答えた。
「太乙の奴が、新薬ができる度に持ってくるのだ。食事代わりの仙丹だけで良いと、わしはいつも言っておるのだがのう」
「新薬って……大丈夫なんですか?」
「多分な。少なくとも、わし相手に人体実験をする気はなかろうよ。昔、一度開発中の妙な薬を飲まされた時に、思いっきり仕返しをしてやったからのう。あれで懲りたはずだ」
「……何をしたんです?」
 あっさりと答えた呂望に、かえって不穏なものを感じて、楊ゼンは尋ねる。
 と、呂望は顔を上げ、悪戯小僧のような笑みを浮かべた。
「太乙はナメクジが大嫌いでな。こんな小さい奴を見ただけでも大仰な悲鳴を上げるのだ」
「……で?」
「あやつの工具箱に、大事な工具の代わりにナメクジを三十匹ばかり入れてやった」
「……何ということを……」
「だが、あやつが大事にしている工具は全部、よそに出しておいてやったから、結局捨てる羽目になったのは空の工具箱一つだよ。大した被害ではなかろう」
 物理的には、そうかもしれない。
 だが、精神的にはどうだろうか。
 工具箱を開けるたびに、ナメクジが入っているかもしれないと想像するのは、嫌いな者にとっては相当な苦痛であるに違いない。
「……仮にも兄弟子に無茶なことしますね」
「面白かったぞ」
 にんまりと悪戯小僧の顔で笑う呂望に、小さく吹き出しかけた瞬間、不意に鈍い痛みが走る。
「楊ゼン」
「──大丈夫ですよ、呂…」
 名前を呼びかけて、ふと途中で言葉が止まった。
 ───?
「楊ゼン、どうしたのだ?」
 ひどく痛むのかと心配げに呼ぶ声に顔を上げ、改めて彼を見つめる。
 大きな深い色の瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。
 ───呂望?
「すみません……」
「楊ゼン?」
 ───違う……?
 奇妙な違和感に。
「僕は……本当にあなたを『呂望』と呼んでいましたか……?」
 突き動かされるように深く考える間もなく、そう問いかけていた。




 その途端、呂望は大きく目をみはった。
 驚き──というより、まるで怯えたように。
 そんなまなざしで、こちらを見つめてきたから。
「──違うんです、呂望……!」
 思わず立ち上がっていた。
「僕は……!」
 だが、何を言いたいのか、何を言えばいいのか分からないまま言葉を捜した自分に、ふっと呂望は微笑んだ。
「良いよ……」
 ひどく寂しげに数度まばたきして、ゆっくり視線を背ける。
「──嘘をつく気はなかったが……『呂望』は、わしの昔の名で仙界での通称ではない。そして、おぬしはいつも、通称でわしを呼んでおった」
 そして、もう一度、何かを諦めたようなまなざしを向け、
「思い出したか?」
 そう問うてきたから。
「いいえ」
 かぶりを振る。
「何となく違和感を感じただけなんです。──すみません。あなたを傷つけるつもりはなかった」
 深い色の瞳は、張りつめてどこか頼りなく揺れている。
 そのまなざしが胸に痛くて。
「記憶を失う前の僕が、あなたをどう呼んでいたかなんて関係ないんです」
 嘘偽りのない本心を言葉にする。
 彼に、届くように。
「あなたは僕に『呂望』と名乗った。通称ではなく昔の名前を……。あなたは僕に『呂望』と呼んで欲しかったんでしょう?」
「──構わぬよ。昔の名でも通称でも。どちらもわしの名であることに変わりはない……」
「でも今の僕にとって、あなたは『呂望』なんです。それが僕の大切な人の名前です。それに通称が何であれ、僕の知っている今のあなたには、『呂望』という名が似合ってますよ」
 そう言った言葉に。
 呂望は目をみはった後、小さな花が蕾を開くように、泣きそうな顔で微笑んだ。
 そして、滲みかけた涙を紛らわせるように数度まばたきして。
 視線を手元に落とし、薬籠の引き出しから小さな包みを一つ取り出す。
「痛み止めだ。おぬしの症状に効くかどうかは知らぬが、気休め程度にはなるだろうよ。催眠作用もあるはずだから、それでまた眠れば良かろう」
「一人で寝るのには飽きたんですが……」
 白い薬包を受け取りながら戯れ言を返せば、馬鹿者、と呂望は少し赤くなった目で睨んできた。
「病人が何を言っておる。大人しく寝ておれ」
「添い寝してくれたら、大人しく寝ますよ」
「信じられるか」
 いつもの調子で言いながら、呂望は卓上の鉄瓶の温度が下がっていることを確かめ、空の茶器に白湯を注ぐ。
 それを見ながら薬包を開いて、中の三粒の薬丹を口に放り込み、白湯を受け取ろうとした。
 だが。
「────」
 呂望は自分で茶器に口をつけ、そっとこちらの衣服の胸の辺りを引いた。
 誘われるままに口接けを受けて、ほのかな苦味のある薬丹を白湯で飲み下す。
「──呂望…」
 呂望が自分から口接けてくることは、あまりない。
 だから、呼び名のことで動揺させたせいかと思ったのだが、目を開けた呂望は、ひどく切なげな瞳でまっすぐに見つめてきて。
「──愛しておるよ」
 小さな声で、だが、はっきりと言った。
 これまで「好き」とさえ、一度も口に出しては言ってくれなかった相手の思わぬ言葉に、一瞬耳を疑う。
「呂望?」
「これまで一度も言ったことがなかったな。記憶を失う前も後も……。こんなことになるのなら、もっと早く言えば良かった。もっと何度でも……言えば、良かった」
 微笑みながら言う呂望の深い色の瞳に、見る見るうちに涙が滲む。
「何を……」
 言っているのか、と問いかけた視界が突然、くらりと揺れて。
 思わず呂望を見返すと、大きな瞳はきらめくものを滲ませたまま、静かにこちらを見つめていた。
「タイムリミットだよ、楊ゼン」
 一服盛られたと悟ったものの、眩暈はひどくなる一方で、身体を支えきれずに思わず床に膝をつく。
 なのに。
「すべて夢だったのだ……」
 涙に濡れた呂望の声だけは、奇妙にはっきりと耳に届いた。








「おぬしは夢を見たのだよ。目覚めればすべて忘れてしまう、淡い淡い夢を」
 床に膝をつき、額に薄く汗を滲ませて懸命に意識を保とうとしている楊ゼンに、太公望はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「何もかも、幸せな春の夜の夢。現実ではなかったのだ。おぬしはただ眠っていただけ。目覚めた時には『呂望』のことなど微塵も覚えておらぬし、思い出せもせぬ」
「…呂…望……」
 見上げてくる苦しげなまなざしに。
 涙をいっぱいに浮かべた瞳で、それでも太公望は微笑みかける。
「記憶を失ったのに、それでもまた、おぬしはわしを愛してくれた。もう十分だよ」
 あふれだした涙が、やわらかな線を描く頬を伝った。
「眠るのだ、楊ゼン。そして、すべて忘れてしまうが良い」
 その静かな禍言(まがごと)に抗いきれず。
 楊ゼンの体が、がくりと崩れ落ちる。
「もう二度と、うたかたの夢など見てはならぬよ……」
 小さく呟く太公望の足元に。
 零れ落ちた涙が黒く滲む。
「楊ゼン……」
 うつむいて忍び泣きながら。
 雨上がりの明るい陽射しの差し込む居間で、太公望は床に付した楊ゼンを見つめて長い間、立ち尽くしていた───…。









....To be continued









お久しぶりもいいところの「夢見る頃を過ぎても」です。
春からこの方、半年以上も放ったらかしていたのですが、とうとう周囲からのプレッシャーに負けて、続きをアップとなりました。

細かいことはさておき、これで第二章は完結です。
続いて第三章に入るのですが、これが全面改稿しなければならない代物なので、正直、さくさくと更新できるとは口が避けても言えません。
もとがスランプ期に製作したものなので、ストーリー自体も欠陥だらけ、文章も日本語になってない有り様で本当に手間がかかるのです〜。

というわけで、本当は皆さんにこの作品の存在を忘れていただきたいところなのですが、「削除したりしたらタコ殴り」と友人達に脅しつけられていますし、存在を忘れて下さらない素敵な読者様は、気長〜に気長〜に待っていただけたら嬉しいかなと思います。m(_ _)m



NEXT >>
<< PREV
BACK >>