刺さったままの刺の数。





夢見る頃を過ぎても   −第二章−

5.翠雨







「呂望、この書物はどちらへ?」
「右から二つ目の棚の上から三段目だ」
 言われた通りに、楊ゼンは手にした書物を書棚に収める。そして、小さく溜息をついた。




 朝から降り続ける雨を見つめていた呂望が、突然、今ひとつ使い勝手の悪い書庫の整理を始めると言い出してから、既に二刻。
 書庫となっている庵の部屋は、格別に広いわけではないが、壁全面が書棚なのに加え、天井近くまである書棚が背中合わせにして3列、並べられている。
 そこにぎっしりと書物が詰められているために、いつまで経っても整理が終わらない。
 古今東西の書籍を分野別、年代別に並び替えていくのは、単調だがきりのない作業で、二人掛かりでも、まだ半分ほどの書棚しか片付いていなかった。
 しかも、自分一人だったら、こんな面倒なことは絶対にしない、などと呂望が口にするから、余計に楊ゼンは溜息をつきたくなる。
「呂望、これは───」
 内容が多岐に渡っていて分野を分けがたい書物を手に、棚を回りこみ、楊ゼンは一瞬、絶句した。
「何してるんです!?」
 ここの書棚は天井近くまである高さだから、当然、作業は踏み台がないとどうにもならない。だから、呂望が踏み台の上に立っているのは当たり前だった。
「書物の整理に決まっとろうが」
 だが、あろうことか、呂望は両手に大量の書物を抱え、踏み台の一番上で作業をしているのである。
「じゃなくて! どうしてそんなに山程の書物を持って、そんなところに上っているんです!?」
「いちいち上ったり降りたりするのは面倒だろうが。省エネだよ、省エネ」
「そういうのは物臭というんです。危ないからせめて半分、書物を下ろしてください!」
「そう怒鳴らずとも平気だ。──おや、キツイのう。こっちの厚さなら入るか……」
 素知らぬ顔で呟きながら、呂望が腕に抱えた書物の中から1冊を抜き出した時。
 その1冊に引きずられて、他の書物までが腕の中から飛び出しかけた。
「あ…っ」
 それを戻そうとして、踏み台の上で呂望の体が流れる。
「危な……!」
 そのままバランスを崩して、書物と共に落ちてくる呂望を、楊ゼンはとっさに飛び出して抱きとめた。

 ───!!

 危ういところで受け止めたものの、自分と呂望、双方の勢いを殺しきれずに楊ゼンは体勢を崩しかける。が、どうにか持ちこたえた。
「大丈夫ですか!?」
 一つ息をついて腕の中の呂望に声をかけると、呂望は大きく目を見開いたまま楊ゼンを見つめる。
「──驚いたのう」
「驚いたじゃないですよ! だから危ないと言ったのに……。僕が向こうの棚で作業してる時だったら、まともに床に落ちてましたよ!!」
「そうだのう……」
 叱り付けられても、まだ驚きが抜け切らないのか、呂望は改めて自分が上っていた踏み台を見上げ、床に散らばった書物に視線を向けて、首をすくめた。
 そんな呂望に、楊ゼンは厳しいまなざしを向ける。
「いいですか? もう絶対に3冊以上の書物を持って、踏み台に上がったらいけませんよ」
「それでは、いつまでたっても終わらんではないか」
「駄目です。どうしても上がりたければ、今みたいに僕が傍にいる時だけにして下さい」
 きっぱりと告げて楊ゼンは、不満げに顔をしかめる呂望を、そっと下ろして床に立たせ、
「どこか、ぶつけたりはしませんでしたか?」
 改めて、気遣わしげな瞳で問いかけた。
「大丈夫だよ。──おぬしのお陰で助かった」
「それが分かったのなら、もうこんなことはしないで下さいよ」
 安堵の溜息まじりに言いながら、床に散らばった書物を楊ゼンは手早く集める。
 そして。
 ふと、太公望が上がっていた踏み台を見つめた。
「楊ゼン?」
 が、呂望に呼ばれて我に返った楊ゼンは、何でもない顔で振り返り、集めた書物の山を手渡す。
「何でもありません。──いいですか? またこれを全部持って上がったら承知しませんからね。1冊2冊減らしただけで、全部じゃないと詭弁を言うのも駄目ですよ」
「う──…」
 先手を打たれて釘を刺された呂望は眉をしかめたが、それでも渋々3冊だけを手にとって踏み台に上がった。
 それを見届けて、楊ゼンは自分の持ち場に戻る。
「3冊ですよ」
 念を押して、書棚を回り込み。
 そして。
 楊ゼンは自分の手を見つめた。

 ───何だ?

 落ちてくる呂望を抱きとめた瞬間。
 妙な感覚が脳裏を走ったのだ。
 ───もしかして……あのときの記憶か?
 自分が記憶を失った原因が、呂望をかばって渓流の巨石から落ちたことだというのは最初に聞いている。
 そして、脳裏を走った妙な感覚は、具体的なイメージ映像というわけではないが、敢えていうなら既視感に一番近かった。

 既にその感触を知っている、という感覚。

 断言はできなかったが、しかしそれは、記憶を失ってから初めての感覚だった。
 ───戻るのかもしれない。
 そう思い、楊ゼンは見つめていた手を握り締める。
 過去を思いだしたいと強く思ったのは、まだほんの数日前のことだ。
 なのに、安堵感は不思議となかった。むしろ、奇妙な戸惑いが胸の裡に広がってゆく。
 だが──いずれにせよ、ことがはっきりするまで呂望には話せない。
 ひとまず想いを振り切って、楊ゼンは書庫を片付ける作業を再開した。







           *           *







「──ゼン、楊ゼン」
 居間の窓から降り続く雨を見つめていた楊ゼンは、名を呼ぶ呂望の声に気づいて振り返った。
「どうしたのだ? 先程から……」
「───よく振ると思って、外を見てただけですよ」
「ふむ」
 咄嗟のごまかしをどう取ったのか、呂望は楊ゼンの隣りに歩み寄ってくる。
「春の長雨というからのう。鬱陶しいが、若葉が鮮やかに見えるから、わしは嫌いではないが……」
 言いながら、楊ゼンと並んでしばらくの間、呂望は細く降り続く銀の糸を見つめる。
 その横顔を見て、楊ゼンも再び雨の風景に視線を向けた。
 確かに彼の言う通り、若葉の緑は春の雨に洗われて、いっそう鮮やかで。
 細かな雨粒に打たれるままに、軽く揺れているのが案外、見ていて楽しく飽きない。
 しばらく黙ったまま、庭の様を見つめていたが、やがて呂望が楊ゼンを見上げた。
「雨を見ておるのも風流で悪くないが、良ければ一極囲まぬか? さすがにわしも、五日も雨が降り続くと退屈になってくるのだ」
「いいですよ」
 微笑んでうなずけば、呂望も明るい表情でうなずき、窓際を離れてゆく。
 その小さな後姿に。
 幻のようにもう一つ、小さな後姿が重なることに、楊ゼンはかすかに眉をひそめた。

 ───今の呂望の服装とは異なる、深い青の上着と、兎耳のように結んだ髪を包む白い布。

 そして、碁盤を用意した卓の傍らでこちらを振り向いて、手招いた呂望の表情にも──今よりも闊達で、ほんの少しだけ少年じみた笑顔が重なる。
 その陽炎のような笑顔を見つめながら、楊ゼンはそちらへと歩み寄った。
 碁の腕はほぼ互角で、今のところ、わずかに呂望が勝ち越している。
 楊ゼンが先手を譲ると、遠慮なく呂望は石を置き始めた。
 盤上を見つめ、先を考えながら、楊ゼンは脳裏にちらつく記憶の幻影のことを思う。


 淡い幻が呂望の姿に重なり始めたのは、四日前からだった。


 長雨が降り始めたあの日、書庫を整理している最中に、踏み台から落ちた呂望を受け止めたのが、やはり引き金になったらしい。
 その晩、夢を見たのだ。
 ───見たことのない服装をした、呂望の夢を。
 夢とはいっても、それはほんの断片的な映像だった。
 見えたのは、凄まじい風の壁を前にして、何かを守るかのように立つ後姿。
 音も何もなく、時間にしたらほんの数秒の、けれど一度見たら忘れられないほど鮮烈に印象が残る映像に、眠ったまま夢の中で、『呂望』だ、と強く思ったのだ。
 閉ざされた記憶の中で、かつて自分が確かに見た『呂望』の真実の姿を。
 見つけた、と思った。
 そして、それ以来。
 時折、陽炎のように、かつての面影が見えるようになったのだ。

 ───凄惨な戦いの中に身を置き、それでも強く、優しく笑う人の姿。

 今のどこか寂しげな、深い痛みを抱えている呂望の姿と相反するようなイメージなのに、その面影は違和感もなく重なるのは、彼の持つ、そこにいてくれるだけで何かが癒されるような優しい温かさと、隠しきれない悲しみの気配のせいだろう。
 見た目の印象に差があろうと、今も昔も彼の雰囲気は同じだった。
 おそらく、かつての彼も、強い笑顔の裏で心は慟哭していて、自分はそのことに気付いていたのに違いない。そうでなければ、これほど鮮明に、彼の姿を心に焼き付けているわけがなかった。
 強くて優しくて、そして哀しい、少年の姿をした道士。
 彼を夢の中で見た時、切ないほどに胸が痛んだ。
 だが、それは今現在、呂望を見る時に感じる、もどかしさや愛しさとはどことなく違っていて。
 敢えていうならば、やるせない哀しさをより多く含んでいた。
 その今の自分のものではない痛みに、ようやく、かつての自分が彼を愛していたこと、そして、今の想いは、決して過去に引きずられた故の感情ではないことを確信できたのだ。

 ───けれど。

 まだ呂望には、何も話していない。
 というよりも、どう言えばいいのか分からないのである。
 今のところ、かつての彼の面影がちらつくだけで、他の人物や状況を理解できるような風景の映像が見えるわけでもなく、『記憶が戻った』状態には程遠い。
 それに何よりも、呂望がどんな反応を示すのか予想がつかなくて、どうしても口には出せないでいた。
 記憶が戻りそうだと言えば、おそらく呂望は動揺するだろう。
 それは、予想がつく。
 けれど、その後、どんな表情を見せるのか。
 それが、どうしようもないほどに不安だった。
 恐れている、と言ってもいいかもしれない。
 記憶が戻った自分を呂望が拒否するかもしれない可能性が……、自分の記憶が過去を語ろうとしない呂望を傷付けるかもしれない可能性が、何よりも怖かった。
 しかし、十日ほど前の夜の呂望の後姿も、重く心にのしかかっていて。


 自ら過去を語ることはなく、けれど記憶が戻らないことに苦しんでいる呂望。
 彼が本心では何を望んでいるのか、この期に及んでも分からない。
 だが、タイムリミットが近づいていることは確かだ。
 彼の本心がどうあれ、遠からず記憶は戻ってしまうだろうし、彼が苦しんでいるのを知っているのに、記憶が戻らないふりをし続けることもできない。
 真実を告げなければならなかった。
 けれど、どんな風に切り出せばいいのか。
 分からない。


「──楊ゼン、どうしたのだ? 上の空だのう」
 不意に届いた呂望の声で、楊ゼンは思索から引き戻される。
「あ、すみません。ちょっと他所事を……」
 そして。
 謝罪しながら顔を上げた瞬間。

 ───!?

 卓の向かい側の呂望に。
 呂望ではない人物の面影が重なった。

 ───誰だ?

「楊ゼン?」
 気遣わしげに名を呼ぶ呂望を改めて見つめたが、もう見知らぬ面影は見えない。
 だが、ひどく胸が苦しい。
 呂望の姿を見る時の切なさとはまた異なる、異様なまでの懐かしさと苦しさが湧き上がる。

 ───この感情は何だ? あれは……誰だ?

「呂…望……」
「どうしたのだ、楊ゼン」
 心配そうな表情の呂望に。
「すみません……。どうしても聞きたいことが、あるんです」
 楊ゼンは、それでも精一杯、心の動揺を抑えて口を開いた。
「……何だ?」
 だが、それでも異変を感じたのだろう、問い返す呂望の瞳に、不安げな表情が浮かび上がる。
 それを見ながらも、楊ゼンは得体の知れない感情に押し流されるように、言葉を紡ぎだす。
「あなたは、僕の身近に居た人物のことをご存知ですか?」
「──知っておる。が……、おぬし……」
 低い、どこかせっぱつまったような余裕のない声に、呂望は大きな瞳をみはり、楊ゼンを見つめた。
 真実を明かすには、あまりにも唐突に過ぎると楊ゼン自身も分かっている。
 けれど、どうしても訊かずにはいられなかった。
「では、長い黒髪の……謹厳そうな風貌ですが、温かい目をした方を……おそらく仙人だと思いますが、あなたはご存知ですか……?」
 その問いかけに。
 呂望は表情を凍りつかせた。







「お…ぬし……記憶が……?」
 ようやく絞り出した声は、自分でもはっきり分かるほどかすれていた。
 動揺を表すまいと思っても、うまく表情や声がコントロールできない。
 だが、楊ゼンもひどく動揺しているようで、彼らしくもなく、かすかに焦燥の色を浮かべたまま、小さくうなずく。
「──はっきりとしたことは、まだ思い出せないんです。ただ、先日から時々、かつてのあなたの姿が脳裏にちらつくようになって……。でも、今見えたのは、あなたではなかった。あれは誰なんですか?」
 そう尋ねてくる楊ゼンの声も、常になく揺れていた。
 低い声を聞きながら、太公望はそっと深く息を吸い込んで、動揺する心を押さえつける。
「そう、か……」
 多少低かったが、その声はいつもの調子を取り戻していた。
 そして、太公望は微笑未満の静かな表情を浮かべ、楊ゼンを見つめる。
「おぬしが見たのは……既に鬼籍に入っているが……おぬしの親代わりだった人物だよ。おぬしがほんの子供の頃から、おぬしを育て、慈しんでくれた……」
「親、代わり……?」
「うむ。──話せば長くなる。茶でも入れてこよう」
「あ、お茶なら僕が……」
「よい。少し待っておれ」
 いつもと同じように静かに微笑して、太公望は居間の出入り口に向かった。
「呂望」
 それを、楊ゼンが呼び止める。
「すみません、先に一つだけ……。その方の名前は、何とおっしゃったのですか?」
「──玉鼎」
 太公望は出入り口で振り返り、何年も口にしていなかった懐かしい名前を唇に載せる。
「玉鼎真人。それが、おぬしの師父の仙号だ」






 汲み置きの水を鉄瓶に注ぎ、かまどにかけて種火を大きく煽り立てる。それだけのことに、多少の時間が必要だった。
「──どうして……」
 壁に背を預けて、太公望は震えの止まらない自分の両手を見つめる。
 否。
 手だけではなかった。
 壁に寄りかかっていなければその場に崩れ落ちてしまいそうなほど、がくがくと全身が震えている。
「望んで……いたことだろう……?」
 呟く声さえ、ひどく頼りない。
「最初から分かって……」
 いずれ楊ゼンの記憶が戻ることは、今回の事の大前提だった。
 戻ると分かっていたから。
 終わると分かっていたから、安心して夢を紡ぎだしたのだ。
 終わらなければ、夢ではないのだから。
 そして、この夢がなかなか終わろうとしない苦しさに、近頃は夜もまともに眠れなかったではないか。
 自分を抑え切れなくなるのが怖くて、怯えていたはずだ。
 なのに、どうして。
 こんなに自分は震えているのか。
 ようやく、身を灼くような苦しい夢を終わらせることができるのに。
 どうして安堵できないのだろう。

 ───これを最後に、君は本当に楊ゼンを失ってしまうんだから。

 耳に蘇る、太乙真人の声に。
 太公望は大きく身体を震わせる。
「自分で決めたことではないか。古い名前を名乗った時から……」
 ほんの少しだけ、タイムリミットのある甘い夢を見るだけだと、自分に言い聞かせて『太公望』の名を遠ざけた。
 けれど、本当は、こんな休息など自分には許されないと知っているから、太乙真人の手を借りて、全てなかったことにすると最初に決めたのだ。
 無かったことにしなければ、きっと未練が残ると思ったから。
 これを最初で最後の夢にするために、自分で選んだ結末。
 なのに。
「今更……何を……?」
 どうして、震えが止まらないのか。
 何に、こんなに動揺している?
 何に怯えている?

 ───楊ゼンを失ってしまうんだから。

 耳の奥でこだまして消えない、兄弟子の声。
「まさか……」
 自分を嘲笑おうとした声が震えて、言葉にならない。
「──楊、ゼン…」
 その名を口にした瞬間に、後悔する。
 込み上げた苦しさに、思わず胸元の服をきつく握り締める。
 そして、堅く目を閉じた太公望の耳に。
「!」
 突然、激しい蒸気の音が届いた。
「湯が……」
 慌てて壁際を離れて、かまどから鉄瓶を下ろし、火に灰をかける。
 そして。
 一つ深呼吸して、強引に自分を押さえつけて。
 太公望は盆に茶器を載せ、鉄瓶を片手に楊ゼンの待つ居間へと戻った。






 卓上でゆっくりと茶を入れ、太公望は先程と同じように椅子に腰を下ろす。
 そして、正面から楊ゼンを見つめた。
 それを待っていたように、楊ゼンは口を開く。
「あなたは僕の……」
 が、言いかけて言葉を探した楊ゼンに、
「師匠、とおぬしは呼んでおったよ」
 太公望は静かな声で告げる。
「……あなたは、僕の師匠を良くご存知だったんですか?」
「うむ……」
 うなずいて。
「もっとも玉鼎のプライベートについては、太乙の方が付き合いが長かった分、詳しい。わしは、玉鼎の洞府に行く機会がなかったから、おぬしらがどんな風に暮らしていたのかは知らぬ。──だが、玉鼎は本当にできた人物だったよ。生真面目で実直で、寡黙で不器用だが情が深くて……。信頼と尊敬に値する人物だった」
 少しだけ遠いまなざしで太公望が語るのを、楊ゼンは声もなく聞いた。
「おぬしのことも、実の息子のように大切に思っておったよ。最後まで……おぬしを案じ続け、守り通して、逝った……」
「僕を……、いえ、それよりも何故、師匠は……?」
 楊ゼンの声が、少し波立つ。
 その動揺を浮かべた瞳をしばし見つめてから、太公望はまなざしを逸らし、目を伏せた。
「──わしが殺したのだよ」
「え……!?」
「わしが、玉鼎を死なせた」
「───…」
 思わず立ち上がり、信じられないと言いたげに見つめてくる楊ゼンの表情を、太公望は直視することができなかった。


 あの時、何をどう選んでいたら、玉鼎を──十二仙を死なせずにすむことができたのか、今でも分からない。
 けれど、目の前で彼らの生命が、蛍火のように煌きながら消えていったのは事実。
 あの光景を導いたのは、間違いなく自分自身だったから。


「──師匠が」
 とてつもなく長く、重く感じられる沈黙の後、楊ゼンの低い声が静かに問いかける。
「師匠が亡くなったのは、あなたが以前に言っていた、妖怪仙人との争いの時ですか?」
「……うむ」
「では、その時、僕はどちらの側に?」
「……わしの、指揮下に」
 感情を抑えた声での質問に、太公望はまなざしを逸らしたまま、短く答えてゆく。
「──ならば、全てがあなたの罪というわけではないでしょう?」
 その果てに告げられた言葉に。
 思わず顔を上げる。
 と、楊ゼンは強いまなざしを向けていた。
「僕の師であるというのなら、人並み以上の力量の持ち主でしょうし、そんな人物が死に至るというのであれば、相当に厳しい状況だったはずです。
 何があったのかは思い出せませんが、あなたが仲間を見殺しにするような人でないことくらいは僕にも分かってます。あなたは助けたかったのに、結果的に僕の師匠は亡くなってしまった。そうでしょう?」
「楊ゼン……」
「僕に記憶がないからといってそんな言い方をしても、引っかかりませんよ。あなたは、そういう形で師匠が亡くなったことで、僕に負い目を感じているんでしょうが、師匠が僕を守り通して言ったというのなら、僕もあなたと同罪……、むしろ、僕の罪でしょう」
「違う!」
 低い声に、思わず太公望は声を上げる。
「おぬしの罪などではない! あれは本当にわしの……!!」
 だが、ゆっくりと卓を回り込んで太公望の傍らに立った楊ゼンが、右手を上げて人差し指の指先をそっと太公望の唇に当て、言葉を止めさせた。
 そして、椅子の背に手をかけ、上体をやや傾けて太公望の瞳を見つめる。
「──あなたが今まで何も言わなかったのは、こういうことがあったからですね?」
 言葉もなく、太公望は楊ゼンを見上げた。
「多分、これだけじゃない。あなたのことだから、きっとまだ沢山、辛かった過去の出来事を僕に隠してる」
「楊ゼン……」
 静かな声と言葉に、太公望は応とも否とも言えないまま瞳を揺らす。
 が、楊ゼンはそんな太公望を見つめたまま、
「でも……あなたが僕に応えてくれたのは、過去の負い目からではないでしょう? そう思う僕は間違ってますか……?」
 続けた。
 その思いがけぬ問いに太公望は目をみはり、かぶりを振る。
「──否…」
 間違っている、と言えたら良かっただろう。
 負い目のせいだとうなずけば、楊ゼンはこれ以上、触れようとはしなかったかもしれない。
 けれど、今はまだ、彼を傷付けるような嘘は口にできなくて。
 太公望は細い手をさしのべ、
「負い目を感じないとは……言わぬ」
 楊ゼンの頬にそっと指を触れる。
「だが、わしは本当に……」
 それ以上は言葉にならない。
 切なげに揺れる瞳を見つめ、楊ゼンは頬に触れている太公望の手を包み込むように握り、華奢な体を抱きしめた。
 きつく抱きしめられて、太公望も楊ゼンの首筋にすがりつく。
「──愛してます」
 低く楊ゼンはささやいた。
「過去に何があろうと関係ない。僕はもう、あなたさえ居てくれたらいいんです。あなたを……愛してる」
 そのまま深く口接けられて。
 太公望は、その甘さに酔う。
 胸の痛みさえ酩酊を煽ることにしかならず、何も考えられないまま、絡みつき、誘う熱い舌に応えた。
 煽り、煽られて、何度も角度を変えながら深い口接けを繰り返す。
 そして、ようやく離れた楊ゼンの唇が耳元に移動し、細いうなじへと降りていっても、太公望は抗わなかった。
 呼吸を乱したまま、熱っぽい感触を受け止める。
 長く深い口接けで煽られた躰よりも、記憶の片鱗が見え隠れし始めていると知って動揺した心が、楊ゼンを欲しがっていた。
「楊ゼン」
 目を閉じて、何度でも青年の名前を呼ぶ。
 けれど、それで心の波は静まりはしなかった。
 むしろ、呼べば呼ぶほどに、心が揺れる。
 ───与えられる熱に溺れてゆきながら。
 太公望は、慄え続ける己の心を意識の奥底でいつまでも感じていた。









....To be continued









ようやく更新です。前回をupしたのは、いつでしたっけ? もう記憶のどこにもありません(-_-)

何度も書きましたが、この作品は太公望=伏羲の設定が出てくる以前に書いたものなので、今回は終盤の方を少々書き直しました。が、もとからあった楊ゼンの台詞の大半を流用したら、痛いの何の……。
初版では、ちょっと切なかっただけのシーンが激痛に見舞われてしまいました。
己の真実を知った時、太公望がどんなに辛かったか、今更ながらに痛感してしまいます(-_-;)

とりあえず、次回でようやく中篇が終わります。つまりは、まだ2/3しか終わってないということですが、トロトロのろのろと頑張りますので、よろしくです〜。m(_ _)m



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