冬物語 〜11. 蜜柑〜












その質問を口にすることができたのは、最後の客がドアを出て行った後だった。

「これ、何ですか?」
「蜜柑に決まってるけど?」
「いえ、それは分かるんですが・・・・」

けろりと返事をした酒場のオーナーに、楊ゼンは内心、頭を抱える。

「どうしてバーのテーブル毎に蜜柑が積んであるんです?」
「積んであるって、大げさだねえ。各テーブル毎に三つだよ」
「それはそうですけど・・・・」

どう尋ねたものか、と楊ゼンは日本語の選択を悩んだ。
相手が本気なのか、分かってはぐらかしているのか、判定しにくい辺りが非常にやりにくい。
と、その時、コーヒーポットを手にしたバーテンが、カウンターへと戻ってきて。
3客のカップにコーヒーを注ぎながら、楊ゼンに目配せした。

──いわく、何も言うな、聞くだけ無駄だ、と。

さりげない、だが、あまりにも明確な教示は、くっきりと読み取れて。
楊ゼンは諦める。
そして、無言で自分の前にコーヒーカップが置かれるのを待った。
ほどなく、お疲れ様、というお気楽な声と共に、熱い湯気の立ち上るカップが銘々に配られて。

「うーん。カクテルだけじゃなくて、コーヒーを入れるのも上手いんだから、アルバイトにしとくのが惜しいな」

その馥郁とした香りに太乙が感嘆まじりの溜息をつき、カウンター席に座ったバーテンに向かって、カウンター越しに身を乗り出した。

「ねぇ太公望、本気でうちに就職する気、ないかい?」
「ない」

にべもない返答をして、太公望は自分のカップを取り上げる。
そして一口飲んでから続けた。

「第一、コーヒーだけで言うのなら、楊ゼンの方が上手いぞ」
「そうなんだ?」
「うむ」
「へえ・・・。楊ゼン、この季節だけでいいから、うちでバイトする気は?」
「駄目。こやつは、わし専用」
「うわー、ケチだなぁ」

自分をさしおいて交わされる会話に、楊ゼンは苦笑する。
実のところ、楊ゼン自身は、コーヒーの入れ方が太公望よりも上手いと思ったことはない。
心理的な部分を差し引いても、太公望が入れてくれるコーヒーの方が遥かに味も香りも好きだった。
だが、それは恋人の方も同じなのかもしれない、と思う。

「でも、評判いいんだよ。ダルマストーブで沸かした湯で入れる炭焼きコーヒー」
「・・・・良かったですね」

それ以外に言いようもなく、楊ゼンは背後の床に置かれた旧式のストーブを振り返る。
オーナーが古道具屋で探してきたというダルマストーブは赤々と灯油を燃やし、その上に載ったヤカンはしゅんしゅんと蒸気を上げて、傍らのワゴンにドリップ式のコーヒーセットが鎮座ましている。
店を入った途端、否が応でも目に付くそれらを初めて見た時、ここは一体何屋だったかと楊ゼンは一瞬悩んだものだ。

「本当は、あと焼き餅も限定メニューで作りたかったんだけどさ。太公望に反対されて・・・・」
「当たり前だ。醤油を付けて焼き海苔を巻いた餅に会わせたいのは、普通なら緑茶かほうじ茶だぞ」
「カクテルやコニャックじゃだめかなー?」
「そんな食あたりを起こしそうな組み合わせを、バーのオーナーが考えるな」
「つまんないなぁ」

太乙は本当につまらなさそうだったが、太公望は構わずにコーヒーを飲み干したカップを、わざと音を立ててソーサーに戻す。

「たわけたことを言っておらずに、さっさと片付けるぞ」
「はいはい」

渋々太乙は応じ、こうしてバー・窖ANAGRAは店仕舞いの準備を始めた。









「それで、あの蜜柑は何のつもりなんです?」

帰り道、楊ゼンは隣りを歩く恋人に対して、その質問を繰り返した。
もっとも、オーナーの性格は、大体分かっている。
何となく答えも分かっていたのだが、怖いもの見たさというか、妙に事実を確認したい気がしたのである。
対する太公望の返答は、至極短いものだった。

「見たまんま」
「・・・・つまり、お客へのサービス、ですか?」
「うむ」

溜息まじりに、太公望は頷く。

「餅は駄目でも、これならいいだろう?、だと。ビタミンCはアルコールを分解するのに必要だし、風邪予防にもなるし、だそうだ」
「はあ・・・・」

クリスマス駄目でも、冬の情緒ならいいということなのだろうか。
しばし、楊ゼンは悩む。

「で、お客さんはどうなんです?」
「妙な顔をするのと、面白がるのと半々という所か。半分ぐらいの客は食べてゆくぞ」
「結構いい確率ですね」
「予想外に、な」

隠れ家めいた小さな酒場で、蜜柑の皮をむく客たちの図というのは、絵になるものなのかどうか。
一瞬楊ゼンは悩んだが、太公望はもう考えるのをやめたらしい。

「まぁ、放っておけばそのうちに飽きるだろうよ」
「・・・・だといいですね」

それぞれに溜息をついて。
お互い、この話題には切りをつける。

「そういえば、実家に戻ってる間に録画しておいたビデオですけど・・・・」
「ああ、見るものは見ないと、溜まる一方だな」
「今夜はどれにします?」
「そうだのう・・・・」

他愛ない会話を交わしながら家路を辿る二人を、満天の星空だけが見守っていた。















というわけで、ストーブその後。
太乙さんの趣味はとどまる所を知らないらしいです。

でも、確かにアルコール分解する時には水分とビタミンCが大量に必要なんですよ。
お酒飲む人は気をつけましょう。



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