番外 #002:夜光雲







ふと湖底から泡沫が浮かび上がるかのように、意識が浮上する。
ゆっくりと目を開いた太公望は、見覚えのない色の天井を見上げながら、ぼんやりと記憶が覚醒し、思考がまとまるのを待った。

「──楊ゼン…?」

細切れになった古いフィルムのような記憶の断片を繋ぎ合わせ、ここにいるはずの青年の名を呼ぶ。
だが、返事はなく、全身を覆うけだるさにかすかに眉をしかめながら頭を動かし、室内に目を向けても、やはり求める人影はなかった。
けだるさに再び目を閉じ、どこに行ったのだろう、と考える。
見捨てていった、とは思わなかった。
彼は、おそらく彼自身が思っているよりも、律儀で生真面目な性格をしている。たとえ内心では愛想を尽かしていたとしても、発作を起こして倒れた雇い主を放って出てゆけるような真似はできない。
だとすれば、必要なものを調達しに行った、と考えるのが自然だった。
食料か、医薬品か、暖防具か、あるいはそれらの全てか。
調達して戻ってくるには、少なくとも一、二時間はかかるだろう。表通りの店が開いている昼間ならまだしも、時刻が時刻であるために、いくら不夜城の陰区とはいえ、それらを揃えるにはそれなりの手順が必要になる。
そして、楊ゼンがいつ出て行ったのか分からない以上、いつ戻ってくるかを推測することもできない。
カードを使えば簡単に答えの出ることではあったが、楊ゼンに対してそれはしたくなかった。

「……今、あやつが居らぬのも巡り合わせの一つ、か」

溜息混じりの声で小さく呟き、太公望はいつもとは比べ物にもならない緩慢な仕草で、古びた寝台の上に体を起こす。
発作を起こした後はいつものことだが、どうにもならないほど体が重く、動くのが億劫だった。
だが、今はそうと言っていられる場合でもない。上掛け代わりに毛布の上に重ねられていた自分のブルゾンに手を伸ばして、内ポケットからカードの束を引き出す。
そして、ごく軽く切り混ぜた後、手札を三枚、無造作に選んで表に返した。

「ああ、やはりな……」

先程、意識がはっきりと覚醒したときに感じたことだった。
運気が夕刻とはまったく変わっている。年に一度二度、あるのだ。嵐の中の風見鶏のように、運気が激しく揺れ動き、変転することが。
今夜がまさにそれだった。
肌を刺すようだった冷たい死の気配は遠ざかり、代わりに雲間に星明りが見える。けれど、その光はほんの一瞬だけの幻のような光で、夜明け前にはまた消えてしまうだろう。
そして夜明けと共に、再び冷たい波が押し寄せてくる。──今度は太公望ではなく、傍らにある青年をめがけて。
それは、今この瞬間、雲間に頼りなく光っている星を掴まぬ限り、今度こそ避け得ない。

だから目覚めたのだ、と太公望は理解していた。
発作はやり過ごしたとはいえ、体にかかった負荷は大きい。普段ならば、朝まで昏倒したままのはずである。
なのに、肉体の欲求に反して、意識は目覚めた。このまま眠っていたのでは、すべてを喪ってしまうと察知したからこそ。

ここで動いても、即、生命の危険はない。
だが、動かなければ、確実に生命が喪われる。──今度は自分のではなく、彼の命が。

彼は今夜、この安全な隠れ家へと自分を導き、発作からも携帯薬を服用させることで救ってくれた。
久しぶりに大きな発作だったから、彼が傍にいなかったら、自力で薬を服用できたかどうかは分からない。
確実なのは、間違いなく彼は、契約通りに自分の命を救ってくれたということだ。
ならば、それに自分は報いなければならない。──否、本当は報酬も何も関係ない。ただ、自分は彼を失えないのだ。
そう思いながら、不調ゆえの重い息を吐き、太公望はゆっくりとブルゾンを羽織る。
そして、ふと、気付かれてしまったな、と心の中で呟いた。

知られる気はなかった。
本当にこの心臓があと一年半余しかもたないことも、たびたび発作を起こしていることも、常に飛刀を隠し持っていることも。
共に暮らしている以上、いずれ気付かれるとしても、それは最後の最後であって欲しかった。
けれど、今夜、彼にはそれらの全てが分かってしまっただろう。

「仕方がない、のう」

それも全て巡り合わせだ。
唯々諾々と流される気はないが、決して逆らえない流れというものもある。
分かってはいるし覚悟もしているが、少し辛いな、と思いながら太公望はゆっくりと床に降り立つ。
そして、上着の内ポケットにいつも収まっているペンとメモ用紙を取り出して、手早く「夜明けまでに戻る」と一言だけの伝言を書き記した。
これを見たら怒るだろうな、と青年の顔を思い浮かべて微苦笑しながら、メモを古ぼけた卓の上に置き、重い足を無理やり動かすようにして歩き出す。
そして、薄暗い廊下をたどって屋外へと出ると、真夜中を少し過ぎたばかりの夜空を見上げ、それからゆっくりと猥雑な喧騒の中へと姿を消した。

ひとたび奈落に迷い込めば二度と生きては出られぬ陰区から、中区の下町、そして少しばかり上等な市街地へと歩を進めれば進めるほどに、この街の見せる顔は変わる。
その最上──少なくとも見かけばかりは──である苑区は、今夜も下界のことなど何も知らぬげに悠然ときらびやかな姿を見せていた。
夜更けのことであるし、またそれぞれの家屋敷が広大な敷地を誇っているために、塵一つない街路には虫の声や風のざわめきといった、かそけき物音しか聞こえてはこない。
本当に人が住んでいるのかと疑いたくなるほどの静けさが、星の光の下に広がっている。
その中を、太公望は足音をほとんど立てずに、ゆっくりと歩いた。

正直なことを言えば、もう少し早く目的地に着きたかったが、自分の体がそれを許さない。
夜明けまでは、あと三時間余り。
ぎりぎりの綱渡りになるな、と心の中で一人ごちる。

餌に食らいつかせる自信は──ある。
問題は、それまでにどれほどの時間がかかるか、ということだった。

夜明けまでに。
そう、もう一度心の中で呟いて、太公望は立ち並ぶ豪邸の中でも一際広大な敷地を持つ、だが、派手やかさでは周囲に劣る門扉の前に立った。

途端、時代錯誤とも思える屈強な門番たちが、身構えて誰何(すいか)の声を上げる。
だが太公望は眉一つ動かさず、朗々と透る声で名を告げた。

「我が名は太公望。夜分におとなう非礼は承知の上、玄華公主にお目通りを願いたい」

そして、これを、と竜紋の刻まれた飛刀を一本、柄を向けて差し出した。

「……しばし、お待ちなされよ」

四人いた門番のうち一人が、飛刀を受け取った同僚へと何かを囁く。
そして彼らはうなずき合い、すぐさま一人が門の内へと消えた。

彼らのやり取りを見る限り、彼らのうちの幾人かは太公望の顔を見知っているようだった。
太公望も普段、顔を隠して商売をしているわけではないし、門番たちも非番の際には下町に繰り出すことも珍しくなく、また中区や陰区の生まれである者もいるに違いない。
名が知られているからこその問題も多いが、少なくとも今は、それが役に立ったようだった。

そうして待つこと十数分余り、やっと門番の一人が戻ってくる。
それから、太公望に向かって丁重に拱手した。

「どうぞこちらへ」
「うむ、すまぬな」

太公望が足を踏み出すと共に、荘重な構えの門扉が、ゆっくりと重々しい動きで奥に向かって開かれてゆく。
その奥には等間隔で並ぶ常夜灯に煌々と照らし出された、真っ直ぐな石畳の道が、黒々とした木立の中をどこまでも続いており、その手前、開ききった門の向こう側に、ひょろりと痩身の中年男が拱手して深々と頭(こうべ)を垂れていた。

「御案内をさせていただきます、陳逸と申します」
「手数をかける」
「いいえ。では、こちらへ……」

何とも芝居がかったことだ、と歩き出しながら太公望は思う。
門番たちが揃いの短衫なのはともかくも、前を行く中年男も王朝時代の官服のような絹の上下を身に着けている。背丈が小柄なこともあって、その後姿は、どこか宦官を思わせるものがあった。
そして、その宦官もどきに案内されて、広大な庭園から、やや地味だった門扉とは比べ物にもならない壮麗を極める邸内へと導かれ、あでやかな色彩の調度で飾られた回廊を歩むこと数分。
一際、細工と色彩に精緻をこらした扉の前で、男は立ち止まった。

「御開門、御開門」

丁重に拱手し、その小柄な体のどこからと思うような声を張り上げる。
すると、先程の門扉開門の再現とばかりに、ゆっくりと大扉が奥に向かって開き始める。
扉が完全に開かれ、動きが止まると、男は奥に対して丁寧に一礼し、

「太公望様をお連れいたしました」

そう告げて、深々と頭を下げたまま脇に退いた。
進めということだなと解釈して、ゆっくりと太公望は室内へと進む。その背後で、再びゆっくりと大扉が閉ざされた。

そこは、きらびやか、という言葉では収まらない空間だった。
贅を尽くした室内は、国宝級の調度品や美術品で飾られ、華やかな色彩を所々に置かれた玄黒の小物や飾りが引き締めている。
悪趣味のぎりぎり一歩手前で踏みとどまっている、危ういほどに退廃的で華美な部屋の中央、深紅の際立って美しい蜀江錦を張った、絢爛豪華な椅子……玉座と呼ぶ方が正しいそこに、彼女は、いた。

彼女また、美しい、という言葉では収まらなかった。
月光に照らし出されたように光り輝く烏羽玉(ぬばたま)の髪、幾万の金剛石を集めたよりも美しくきらめいている大きな瞳、その瞳を彩る長く濃い睫、天上の匠が一刷きしたような柳眉、真っ直ぐに通った鼻筋、牡丹花の蕾を思わせるみずみずしい紅唇、華奢で繊細な顎から首への線。
練り絹のような白い肌は、天井からの豪奢な明かりを受けて真珠のきらめきを放っている。
細く、完璧な骨格の上をふっくらとしたやわらかな肉が覆う、すらりと長い手足。
豊かな胸は丸く、美しい形で盛り上がり、柳腰と呼ばれるにふさわしい胴から腰への線は、この上なくたおやかに見るものを魅了する。
──まさに艶麗の極致。美の化身。
類(たぐい)まれという比喩を越えた女神の美貌だった。

「ようこそ我が家へ。御高名は聞き知っておりましてよ」

そう告げる声も、迦陵頻伽もかくやと思わせる天上の調べのような美しさだった。
だが、眉一つ動かさずに太公望は彼女に向かって拱手する。

「お初にお目にかかる。このような夜分に来訪した非礼を許されたい」
「構わなくてよ。妾にとっては、まだ宵の口。この時刻においでになる客人は、貴殿が初めてではないわ」

動じる色を全く見せない太公望を、彼女もまた面白げに見つめた。
そのまなざしに露とも注意を払わずに、太公望は彼女の向かい側の長椅子に腰を下ろす。
そして、改めて彼女と目線を合わせた。

彼女の年の頃は、太公望が知る限りは、およそ四十。
だが、正面から見ても、まったく年齢は分からない。
まるでそんなものなど存在しない本物の女神であるかのように、二十歳を過ぎたばかりにも、実年齢よりも遥かに齢を重ねているようにも見える。
美しい美しい女。
そんな彼女を、太公望は何の感情もこもらない瞳で見つめた。

「単刀直入に申し上げよう。──わしの護衛から手を引いてもらいたい。今夜、早急に」

率直に過ぎる太公望の言葉に、彼女は虚を突かれたというよりは、興の醒めたまなざしで口元に浮かぶ笑みを薄くした。

「──これはこれは。音に聞こえた太公望殿とは到底思えぬ御言葉だこと。そのような申し出、妾がうなずくとでもお思いになって?」
「興醒めであろうと意にそぐわなかろうと、うなずいてもらうしかない。あれに手を出されては、わしが困る」
「妾は何も困らなくてよ」

嫣然と彼女は笑み、手にした美しい扇をわずかに開いて、笑んだ口元を隠すようにする。

「あの犬は妾の獲物。ずっと昔からそう決まっていたの。自分の獲物を狩って何を悪いことがあって?」
「わしにとっては必要な人間だと言っておる」
「妾の知ったことではないわ」

楽しげに彼女は言葉を続ける。

「太公望殿。妾は貴殿が何をどこまで知っているかなど、興味はないのよ。妾はただ、憎いだけ。ただただ憎い。筋違いであろうとなかろうと妾の知ったことではないわ。あの顔。あの女に良く似たあの顔をこの手で切り刻んで、犬にくれてやっても、まだ飽き足らない──。そんな獲物を軽々と手放すとでも?」

歌うように言い、手放すことなど有り得ない、と彼女は小さく声を立てて笑った。

「そんな御用件でしたのなら、わざわざお会いする価値などありませんでしたわね。どうぞお帰りになって構わなくてよ」
「話は最後まで聞かれた方が良かろう、玄華公主」

彼女の笑みに、すっと切り込むように太公望は醒めた口調で告げた。
そして、まっすぐに彼女の美しい顔を見つめる。

限りなく美しい顔。
憎しみを語っていても清純極まりなく無垢に見えるかと思えば、笑んだ途端に、崩れ散る寸前にまで咲き誇った大輪の緋牡丹のような凄絶な何かが覗く。
女神の美貌は、聖でも魔でもなく、そのどちらをも内包して比類なき輝きを放っている。
たとえるならば、彼女は金粉を刷いた漆黒の薔薇だった。
宇宙の深淵のように黒々と内から溢れ出る輝きは、艶やかに黄金を帯びている。
だから、彼女を知る人は、彼女をこう呼ぶのだ。
黒い華ではなく、玄い華。

──玄華公主、と。

太公望は、昔から彼女の存在を知っていた。
これまで一度も顔を合わせたことはないし、無論、客として迎えたこともない。
だが、この街の裏に潜む深い深い闇──混沌に身を浸していれば、嫌が応にも彼女の存在、彼女の名は耳に入ってくる。
その美しさ。
その冷酷さ。
彼女を彩る逸話は数限りなく、そのどれもが華麗で、血の臭いと数多(あまた)の人々の悲嘆の苦鳴に満ちている。
そして、そんな彼女こそが、あの青年の血と苦鳴を欲しているのだと気付くのには、多くの時間は必要なかった。

占おうと思って、したことではない。
ただ、あの青年に請われてカードを引いた時、山の手……苑区の方角から強烈な何かを感じた。
そして、誰彼の客の求めに応じて何かを占った時、その結果から彼女の存在を感じるたびに、そこから伸びた蜘蛛の糸のような何かが、傍らの青年にも絡み付いていることに気付かざるを得なかった。
だから、知っていたのかと聞かれるのならば、最初から、と答えるしかない。
全て根拠も何もない、感覚だけが全てのことではあったが、一番最初に巡り合った夜、彼が手傷を追っていた原因も元を突き詰めてゆけば彼女に突き当たること、そして、彼の師父が無残な死を遂げたことも彼女の謀(はかりごと)によるものだということは、誰に言われずとも分かっていた。

そして今夜、彼女美しい指先は、自分に向かって伸びた。
彼を『太公望』の名の元に庇護している。その理由の為だけに。
だから、自分もこの場に立っている。
己の命ともう一つ、青年の命の為に。

「知らぬようだから言っておくが、あやつは『竜の牙』を持っておる。無闇に手を出せば、おぬしとて、そうそう無傷ではいられまいよ」

しんと凍るような声に、彼女の顔から一瞬笑みが消える。
だが、次の瞬間、彼女は再び声を上げて笑った。

「竜の牙とは、呆れた話だこと。それほどにまでお気に召して? あの犬が?」
「気に入る気に入らぬは関係なかろう。あやつは護衛としては優秀だ。『太公望』が優秀な護衛に竜の牙を預けることに、何の不思議がある?」

そこまで言って、太公望は一旦言葉を切る。
本調子でない体には、ここまで歩いてきたこと、そして横になるのではなく、身を起こして座っていることですら負担になる。
体のことを思うなら早く話を切り上げなければならなかったが、そうしたがっていることを彼女に悟られるわけにはいなかった。

「それに、わしの申し出は無期限ではない。──あと一年半だ。その期間が過ぎれば、おぬしが何をどうしようと、わしは一切の口出しも手出しもせぬよ」
「……それは、どういう意味かしら?」
「わしが、口出しも手出しもできぬようになるからだ。幾らわしとて、あの世からこの世に介入することはできまいよ。現に、祖父や先祖が夢枕に立ったことは一度もない」
「────」

今度こそ、太公望の言葉は彼女の興味を引くことに成功したようだった。
思案するように、彼女は手にしていた扇をぱちんと閉じる。
そして、ゆっくりと美しい紅唇を開いた。

「貴殿は、いなくなるというのね? 一年半後に」
「間違いなく」

その答えを聞いて、彼女は嫣然と笑む。
ひどく楽しげに。

「面白いわ。とても面白くてよ。貴殿には己の死すら読むことができるのね。占い師は普通、自分のことは占わないと聞くけれど」
「占うつもりなどなくとも、分かってしまうこともあるものだ。世間にも、虫の知らせという言葉があるだろう。このような生業(なりわい)を持っておれば、尚更に、な」
「そう。ならばこういうことなのね。貴殿は一年半にいなくなる。それまで、あの犬を貴殿の手に預けておけと」
「その通り」

太公望がうなずくと、彼女はまた思案に戻ったようだった。
美しい眸(め)が半ばまで伏せられ、閉じたままの扇が小さく揺れる。

おそらく彼女は秤にかけているのだろう。
私情を優先して、自らの立場や家業に傷をつけるべきかどうか。
言ってみれば、これは彼女と太公望がそれぞれに持つもの──この街の表と裏に有している影響力の大きさの競い合いだった。
太公望の名がこの街の表裏全てに知れ渡っているのに対し、玄華公主の名は、表においても裏においても上層のごく一部の人間しか知らない。
だからといって、それは彼女の影響力が弱いということを意味しなかった。
富裕の生まれではあっても高貴な血を引いているわけではないのに、彼女に冠せられた呼び名は『公主』。
つまり、この混沌とした街で、そう呼ばれるだけのものを彼女は有しているのだ。

「──もし妾が、貴殿の申し出を飲めば……一年半の退屈しのぎに何をいただけるのかしら」
「今、この場だけに限り、望むもの全ての答えを」

長い長い沈黙の後、ようやくまなざしを上げて問うた彼女に、太公望は即答する。

「……そう。では、これから年内に行われる取引で、最も大きいものの場所と日時を。取引される商品は問わないわ。薬でも武器でも情報でも、人間でも」
「良かろう」

醒めた氷のように輝く瞳で告げた彼女にうなずき、太公望はブルゾンの内からカードを取り出す。
そして、いつもと同じように手際よく切り混ぜ、手札を開いた。

「──十二日後の深夜、金浪湾の東端。扱われる商品は薬。150万ドルは下るまいよ」
「そう」
「他には?」
「必要なくてよ」

にべもなく言い、これで終わりとばかりに、彼女は扇をぱちんと鳴らした。

「これで取引は成立ということでよくって?」
「うむ」
「そう。ならば、お引き取りいただけるかしら」
「無論。時間をとらせて申し訳なかった」
「構わなくてよ。それなりに有意義だったから」

太公望が立ち上がると、彼女も優雅な動作で立ち上がった。
さやさやと絹の擦れ合うひそやかな音が響き、ふわりと甘い香りが太公望の鼻をくすぐる。
踵の高い靴を履いているからだろう。目の前に立った彼女の目線は太公望と殆ど同じだった。

「今夜、貴殿を見失ったと報告を受けた時は、まさかこんな風に直接来るとは思いもしなくてよ。妾の手を逃れるなんて、大したものだとは感心していたけれど」
「その後、すぐさま次の手を打つるおぬしもな。わしが来ねば、今度こそあやつの息の根を止めるつもりであっただろう」
「勿論よ。本当ならば半年以上も前には、そうできていたはずなのに。いつもいつも邪魔をするのは貴殿ね? あの犬が逃げおおせたと聞いて、どれほど妾が腹を立てたか……。だから、今夜は貴殿を先に始末しようと思っていたのに」
「すまぬな。これも巡り合わせだ」
「残念よ、本当に。もっと早くに妾こそが巡り合いたかったわ」

そう言った彼女の美しい手が太公望の肩に触れ、陶然と笑んだ女神の美貌がゆっくりと近づく。
しっとりと重ねられた唇は、真綿を絹でくるんだようなやわらかさとみずみずしさに溢れ、甘くとろけるような香りと味わいだった。
顔色一つ変えずに太公望はそれを受け止め、やがて離れていった彼女の、自分と同じくらいに醒めた瞳を見つめる。

「またお会いできれば良いけれど。貴殿の命があるうちに」
「縁があれば」
「ええ」

縁など呼び寄せるもの、とばかりに微笑んで、彼女は太公望から離れる。
そして、いつの間に手にしたのか、竜紋の飛刀の刃を明かりに閃かせた。

「これは記念にいただいておいてよ」

そう言う間に、何が合図だったのか廊下へと続く大扉が、ゆっくりと開き始める。

「構わぬよ」

それだけを言い置いて、失礼する、と太公望は絢爛豪華な部屋を出る。
そして、来た時の手順を全く逆回しにして、表へと案内され、門扉が再び閉ざされるのを背後に聞いた。

「絵に描いたような伏魔殿だったが……やはり侮れぬな」

歩き去る足を一時止めて振り返ると、どこまでも続くような石塀と、その向こうの木立は星明りさえ受け付けぬかのように黒々と闇にそびえている。

占いの要望を直近の取引一つで済ませた、ということは、それだけの価値しかこの取引に認めなかったということだ。
そして、返されなかった竜紋の飛刀。
おそらく彼女は、一年半の期限を待つことなく、隙あらば、あの飛刀で太公望と護衛の青年を切り刻もうとするだろう。
その時こそ、彼女の持つ最も美しい笑みを浮かべて。
そういう女だ、と太公望は思う。

太公望とて、彼女の全てを承知しているわけではない。
彼女の素性は承知していても、彼女があの青年をあれ程までに憎む理由については、今夜やっとその一端を知ったばかりである。
だが、これまでの経緯に反して、彼女に対する感情は何一つ湧いてはこなかった。
彼女が成してきた所業の大半は知っているし、今夜、我が身に降りかかった災難も、彼女の指示によるものだったと最初から分かっていたが、しかし彼女に対しては憤りも憎しみも感じない。
ただ、彼女は怨讐の女神なのだ、と思った。
彼女が抱えているもの、それ全てを晴らすまでは決して止まらない。──全てを晴らしたところで、止まれるかどうかすら定かではない。
その姿に感じるものがあるとすれば、ほんのわずかな憐れみ、それだけだった。

「……戻らねばな」

今夜の隠れ家を出てから、どれほどの時間が過ぎているのか。
ここまで一時間ほどはかかる道程だったから、少なくとも二時間近くは経過しているはずである。
幾らなんでも、楊ゼンも戻っている頃合だった。
メモ書きがあるとはいえ、あの不思議に生真面目な部分を残している青年は、今頃本気で気を揉んでいるだろう。
だが、少なくとも夜明けと共に待ち構えていた危機は、ひとまず去った。
何気なく内ポケットから引き出したカードも──月の逆位置。最悪の状態を脱したことを告げている。

とりあえず今はこれでいい、と心の中で呟いて、夜明け前の冷たい闇の中を、太公望はゆっくりと歩き出した。









「玄」は、ただの黒ではなく、宇宙の深淵の色です。
夜空ではなく、無限の混沌と広がりを示す色。
そして150万ドルには、旧固定レートの360円を乗算。

話の筋があちこち意味不明ですが、謎解きはもう少し先に。
今しばらくは、焦れったさと作者に対するイライラをお楽しみ下さい。

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