#072:喫水線







崩れ落ちる体を反射的に腕を伸ばして抱き止め、最初に思ったのは、毒、だった。
昼間、外出していた際に飲食した何かに毒が含まれていたのか、あるいは、すれ違いざまに毒針を打ち込まれたのか。遅効性の神経毒の名前とその解毒法がいくつも脳裏に瞬時に浮かぶ。症状を確かめようと細い顎に手をかけ、仰向かせようとして。
自分の間違いに気付いた。

呼吸すらままならぬ苦痛にきつく顔をしかめ、全身をかすかに震わせながら左胸をきつく押さえ込むその姿に、発作が起きたのだと理解するまでには、数秒が必要だった。

「師叔!?」

その瞬間、自分を襲った衝撃は何だっただろうか。
まさか、という思いと、どうすれば、という思いと。
滅多にあることではないが、その数秒の間、確かに自失していた。

毒ならば常に身に着けている解毒剤が数種ある。怪我なら幾通りでも手当てのしようがある。だが、病(やまい)では手の施しようがない。
医師を、と思った時、楊ゼンは太公望の手がかすかに動くのに気付いた。

呼吸さえままならないほどの苦痛に苛(さいな)まれていては、指先すらまともに動かせないのだろう。だが、きつく目を閉じ、途切れがちに細く苦しげな呼吸をこぼしながらも、左手の指先がおののきながら上着の打ち合わせの辺りを彷徨っている。
それは苦痛にあえいでいるというよりも、何かの目的を持った動きのように見え、次の瞬間、楊ゼンは太公望が求めているものが何なのか理解した。
失礼します、と断るのももどかしく、太公望の手を押しのけるようにして上着の内側、内ポケットを探る。
と、それはすぐに指先に触れた。

薄いアルミに印刷されたアルファベットと数字からなる記号を読み取り、それが間違いなく自分と雇い主が求めているものだということを確かめてから、白い錠剤を一錠、ケースから押し出す。
そして、やや強引に太公望の口を開かせ、舌下にそれを押し込んだ。

それだけの処置をしてしまえば、後、できることは何もない。
背中を冷たい汗が伝いおちてゆくのを感じながら、ただ腕に抱いた人の様子を見守る。
その楊ゼンの腕を、ふと宙を彷徨った太公望の手が掴んだ。
苦痛に耐えかねたのか、すがる縁(よすが)が欲しかったのか。まるでそれが、唯一つ、自分を浮世にとどめる命綱であるかのように、どこにこんな力があったのかと驚くほどのきつさで楊ゼンの腕に細い指が爪を立てる。
その衣服の上からの感触は何故か、楊ゼンの胸にも奇妙な痛みをもたらした。

針で刺されたような。
茨の棘で引っかかれたような。
鋭く、その後も、じくじくと果てなく続く痛み。

と、唐突にその指の力が緩んで。

「師叔?」

呼んだ先で、細い肩が溜息のような震える吐息を零し、そのまま胸の中へと崩れ落ちてくる。

「師叔!?」

焦燥に駆られ、重ねて呼んだ声に返事はなく、肩を抱くようにして仰向かせると、彼は完全に意識を失っているようだった。
顔色は真っ白に褪せて血の気がなく、額に冷たい汗に濡れた髪が張り付いている。
だが、薄く開かれた唇からは浅くか細い、しかし、規則正しい呼吸が零れていて。
思わず楊ゼンは、大きく安堵の息をついた。

どうやら最悪の事態は脱したらしい。
とはいえ、予断が許される状況ではなく、ひとまず寝台に寝かせようと腕の中の人を抱き上げて立ち上がる。
その瞬間、そのあまりの軽さに驚いた。

確かに彼は小柄な方だが、腕に感じる重さは、女性の平均体重よりも軽いと感じられるほどだった。
身長とのバランスを考えると、肉付き云々以前に骨格そのものが華奢なのだろう。もしかしたら、先天性の心臓疾患がもたらした発育不良もあるのかもしれない。
確かに一度だけ見た、彼の素の姿はしなやかではあったが細く、乱暴に触れたら壊れてしまいそうな儚さがどこかに隠れていた。そんな風に思い返しながら、数歩の距離を移動して、そっと寝台にその体を横たえる。
そして、上着を脱がせて、その単なる布地だけではない重さに、また目をみはることとなった。

格別上等の仕立てでもない、ありふれたブルゾン。
だが、その内側には目立たないよう幾つもの隠しがあり、合計四ヶ所に四本ずつ、柄に象嵌で竜紋の刻まれた飛刀──スローイングナイフが仕込んであった。
彼が武器を手にしているところなど、これまで一度も見たことがない。半年近くを共に過ごしているが、彼が日常に扱う刃物は、せいぜいが鋏か料理用の包丁止まりである。
まさか、と思うが、しかし、こうして衣服に仕込んである以上は、彼は間違いなくこの武器を扱えるのだろう。少なくとも、飛刀は投げ方も知らないような素人が持つ武器ではない。

「───…」

埃をかぶった電灯の、ややぼやけたような光を受けて、細身の刃が鋭く光る。
その輝きを見つめ、それから意識を失った雇い主の顔を見つめて、もしかしたら、と楊ゼンはこれまで何度も思ったことを、改めて考える。

彼は本当は、護衛など必要とはしていないのではないか。
病魔という手に負えぬ代物を身中に巣食わせているとしても、あの神業に等しい真実を見通す力と、自在に飛刀を操る技術を持っているのならば、そうそうたやすく余人に傷つけられることは考えられない。
彼という人間を深く知っているわけではないが、これまで共に過ごした短い月日からの印象をまとめる限り、彼は独りで生き、独りで死ぬことを恐れない強さを持つ人物であるように思える。
そんな彼が、何故、護衛を求めたのか。
そればかりは何度考えても分からない。
また、たとえ尋ねたところで、本心を見せぬ彼から答えが得られるとは考えにくかった。

分からない、と思いながらも楊ゼンは、手にしていた飛刀を元通りに上着の隠しに戻す。
それから、自分はこれからどうするべきか、少しの間迷った。

順当に考えるならば、太公望が目覚めるのを待ってから指示を仰ぐべきだろう。
今夜、安全な隠れ家であったはずのマンションを危険だと言い、飛び出したのは太公望の判断である。楊ゼンはそれに従っただけだった。
だが、その太公望自身が今は人事不省となっている。
発作が起きなければ、何らかの指示があったはずだが、今はそれを望めない。
不測の事態が起きた今、ならばどうするべきかを考えると、楊ゼンが採り得る行動は、太公望が目覚めるのを待つか、自分の判断で動くかの二つしかなかった。

埃っぽい毛布をそっと太公望の体にかけ、額に汗で張り付いた髪を払ってやる。
この状況で、彼一人をおいてここを出てゆくのは、相当の心理的な抵抗があった。
万が一敵襲があったら、今の彼は身を守るすべがない。だが、それ以上に、楊ゼンには彼の体の状態が案じられた。
ニトログリセリンが効いたということは間違いなく狭心症の発作だが、狭心症が起こる心臓疾患は幾通りかある。
心臓の冠状動脈に異常があることは確かだが、それ以上のことは、専門の検査をしなければ判らないのだ。そして、その結果を知っているのは、彼自身と彼の主治医、それくらいだろう。

発作を起こし、症状が収まりはしたものの意識を失った彼を、このままにしておいてもいいものかどうか、判断をするすべが自分にはない。
ならば、それを知るだろう人物に頼るしかなかった。
太公望の主治医──それは、彼と初めて出会った夜に、自分の怪我の治療をした闇医者である。彼の診療所は陰区のはずれにあり、ここ陰区の最も奥に近い区域からだと多少の距離があるが、それでも片道一時間はかからない。
そして、発作を起こす直前、太公望は、この古い集合住宅は安全だと言ったのだ。
今は、その言葉を信じるしかなかった。

「──二時間で戻ります」

必ず、と意識のない雇い主に告げて、楊ゼンは踵を返す。
部屋から出る時、一度だけ振り返り、そして古ぼけた寝台に横たわる姿を心に焼き付けるように見つめ、そしてドアを閉めて歩き出した。

屋外は、いつの間にか夕闇の帳に包まれていた。
だが、たとえ世界に夜が訪れたところで、この街は真実の夜を知らない。
苑区は燦然と家屋敷や庭園にまばゆい常夜灯をきらめかせ、特区にはイルミネーションを輝かせた高層ビルが乱立している。そして、陰区は闇の中でしか生きられないモノのように黄昏時から蠢き始め、街角の至る所に灯った猥雑な明かりの下で裏街に生きる男と女がひしめき合うのだ。
その中を楊ゼンは、用心深く周囲に神経を配りながら、足早に通り過ぎていった。
陰区の法規制など無視して建て増しを繰り返された建築物の間を縫う路地は、無秩序に交差し、繋がり、曲がりくねっていて、知らない者が足を踏み入れるとたちまちのうちに迷い、袋小路に突き当たってしまう。
だが、その路を楊ゼンは勝手知ったる者の足取りで、陰区の外れまでほぼ直線を描いて歩いた。

古ぼけたビルの一階にある診療所は、さすがに陰区らしく、こんな時間でもまだ明かりが灯っていた。
とはいえ、煌々と照明が輝いているわけではない。入り口上の小さな白熱灯と、ドアにはめ込まれた波ガラスの小窓から零れる白橙色の光が、まだ営業中であることを示しているだけである。
その出入り口の前で一旦立ち止まり、中に人の気配があることを確認してから、楊ゼンはゆっくりとドアを開けた。

「──おや、いらっしゃい」

机に向かい、分厚く大きな本のページを繰(く)っていた闇医者は、すぐに気づいてそう声をかけてきた。

「久しぶりだね。今夜はどうしたんだい?」

楊ゼンが彼と会うのは、約半年ぶりだった。
だが、闇医者の方はしっかりと楊ゼンを覚えていたらしい。今夜は怪我はしていないようだけど、とどこかとぼけたような口調で言い、とりあえずこっちへ、と指先で手招いた。

「怪我でもなさそうだし、病気でもなさそうだ。私に何か用かな? それとも、太公望に何か?」
「──先程、発作を。一時間くらい前です」
「おやおや」
「すぐに薬を服用して症状は治まりましたが、僕が出てくる時は意識を失ったままでした」
「……そう」

ふむ、と闇医者は考え込むような顔をわずかにしながらも、何でもないことのようにうなずく。
その様子を見つめながら、楊ゼンは何とはなし不快なものが込み上げてくるのを感じた。

闇医者は、年の頃は三十前後といったところだろうか。
背が高く細身で、黒のタートルネックセーターに少しよれた白衣を羽織っており、白皙の、と称しても良いほどに整った顔は、常にどこか皮肉めいた微笑で覆われており、考えていることがひどく読みづらい。
器用そうな長い手指を持ち、瞳の奥に宿る高い知性は疑いようもないが、表情は、けだるげにも物憂げにも見える。
少なくとも、長時間相対していたい相手ではなかった。

「あの人に対して、今夜中にすべきことはありますか」

さっさと聞くべき事を聞いて、戻りたい。
そんな思いで問いかけると、闇医者は、まるでどうでも良いことのように、小さく肩をすくめて答えた。

「いいや。彼が目覚めたら、近いうちにまた診察を受けに来るように言っておいてくれるかな」
「……それだけですか」
「うん」

感情を消した、だが、かすかに剣呑さのちらつく声で言った楊ゼンに、あっさりと彼はうなずく。

「薬が効いたんなら、まだ大丈夫だってことだよ。効かなかったら、お手上げ。他の内臓ならともかく、壊れてるのが心臓じゃあ、日進月歩の医学も今のところ手の打ちようがない。発作が起きないように大人しくしてろって言って、聞くような患者でもないしね」

その言葉は、不吉な予感のように鼓膜に響いて。
思わず、楊ゼンは尋ねていた。

「あの人の心臓病は、そんなに重いのですか」
「あれ、聞いてるんじゃないの? 余命一年半って」
「────」
「……はぁん、なるほどね」

押し黙った楊ゼンの顔をつくづくと眺めて、闇医者はわずかに目をすがめる。

「つまり君は、今夜、彼が発作を起こすまで信じていなかったわけだ。この街に、『太公望』の予言を信じない人間がいるとはね。ちょっと驚いたよ」
「……あの人も、万能ではないでしょう」
「ないけどね。『太公望』の言葉は、まず外れた試しはない。百発百中だからこそ、『太公望』なんだよ」

百発百中。
それは少なくとも、楊ゼンが知る限りでは事実だった。
彼が何かを読み違えたことなど、この半年の間に一度もない。
けれど。

「加えて、医師としての私の診断も同じだ。彼の母親は二十三で亡くなったそうだが、それはおそらく妊娠と出産で心臓に大きな負担がかかったからだろう。彼には出産はありえないから、その分、多少は長持ちしているようだけど、三十までは絶対に持たない。特にこの一、二年は、加速度的に発作の回数も増えているし、どれほど長くとも、あと二年を超えるということはないと見ているよ」

──容赦のない言葉に。
世界が真っ白に色褪せたように感じた。

「君、名前は?」
「──楊ゼンです」
「そう、じゃあ楊ゼン。君はこの先も彼の傍にいるつもりなら、最低限の覚悟はしておいた方がいい。──結局、命あるものはいずれ死ぬ、それだけのことではあるけれどね」
「……分かりました」

それ以上、闇医者と交わすべき言葉は見つからなかった。
聞くべきことは全て聞いた。潮時だろうと、短く辞去の挨拶を告げて、楊ゼンは小さな診療所を出る。
途端、冬の初めの冷気が肌を刺した。

少しずつ夜が更けるにつれて、気温も下がってきている。
外気温の変化──とりわけ寒さは、人間の体に負荷をかける。心臓を患っているのであれば、尚更にこたえるだろう。
あの古い集合住宅には暖房設備がない。行火(あんか)のような何か暖を取れるものと、消化の良さそうな食料を調達してから戻ろう、と歩き出しかけた足が、しかし、意に反して止まる。

──命あるものは、いずれ死ぬ。
それは真理だ。永遠に存在するものなど、何一つない。
ましてやこの街にあっては、朝動いていたものが、夜に動かなくなっていることなど日常茶飯事だった。
そして、彼自身もそれは承知している。
あれほど繰り返し、当然のことのように口にしていたではないか。
あと二年、あと一年半、と。

「───…」

人の生き死になど、飽きるほどに見てきた。
人の命も、もはやその数を思い出せないくらいに奪ってきた。
今更だった。
どれほど稀有な存在であろうと、所詮、命は命。人は人。いずれは火が消える灯火(ともしび)でしかない。

───けれど。




二時間で戻ると約束した。
意識が戻った時に自分が傍にいなかったら、彼は不審がるだろう。
それとも、いつも自分が出かける時と変わらず、気にしないだろうか。
あるいは、このまま自分が戻らずとも──気にしないのだろうか。

「──馬鹿なことを……」

思いを振り切るように顔を上げて、楊ゼンは歩き出す。
その後姿は、すぐに陰区の猥雑な光と闇の中にまぎれて見えなくなった。










またまた前回から間が空きました。

舞台は、今から数十年前を想定。
なので、人工心肺は実用化されていますが、3時間を超える心臓手術にはまだ対応できていません。
つまり、タイムリミットはタイムリミット、です。


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