#036:きょうだい







一夜の仮宿に戻る途中で、何か温かいものを、とその店に立ち寄ったのは、おそらくは無力感からくる感情に流されたからだった。

何もできない、と感じたことは、これまでに何度もある。最たるものは、数ヶ月前の養父の死だ。
あの時も、自分は何もできなかった。だが、今夜の無為もそれに匹敵する。優れた殺人の技など、病の前では何の役に立たない。
だからこそ、せめて体を温める何かをと考えた、己の卑屈でつまらない思考を自嘲しながらも、楊ゼンは闇医者からの帰途、夜街で明け方まで営業する菜館の一つへと足を向けた。

体を温めるといっても、一晩身を潜めるための仮宿である。暖房器具などは持ち込めない。
となれば、体内から温めるしかないのだが、太公望が食事を摂れる状態であるのかどうかは、借宿まで戻ってみないと分からないことである。
それでも、何かしら摂取できるのであれば、熱いスープが良いのではないかと考えた結果の選択が、夜街でも美味いと割合に評判のいい菜館行きだった。

夜明けまで数時間という時間帯であっても、それなりに客の入っている菜館で、浅黒い顔に人生の年輪を刻んだ愛想のない店主と交渉し、古ぼけた保温容器込みで種々の具が煮込まれた一見、薬膳のようなスープを求める。
そして代金を払い、店を出たところで、

「あれ、楊ゼンさん?」

正面から快活な声がかけられた。

まずは、自分の名を呼ばれた、そのこと自体に驚く。
自分の名は、この街では殆ど知られていないし、気配を絶ち、周囲に己を溶け込ませる術も身に付けている。
そんな自分に路上で気付くことができる人間は、余程特殊な存在であるといわざるを得ない。
とはいえ、その声は聞き覚えのあるもので、その持ち主が数少ない例外であることには瞬時に気付いた。

「……珍しいね、こんな所で会うなんて」
「俺っちは、いつもこの時間はこの辺に居るさ。楊ゼンさんが居る方が珍しいんさ」
「そうだね」

相手の指摘に苦笑未満の表情で応じ、楊ゼンは、彼ならば自分を見つけることができても仕方がない、と嘆息する。

黄天化という名の彼は、まだ二十歳になるかならないかの青年だが、この街の顔役の一人の息子だった。
その顔役と太公望は古くからの懇意であるらしく、楊ゼンも太公望の使いとして数度、顔役のもとへ赴いたことがある。
その際に天化とも顔を合わせており、言葉を交わしたこともあった。
とはいえ、ほんの数度すれ違った程度で、自分の隠形の技を看破する辺りに、楊ゼンは彼の資質を見た思いがした。

彼のことを良く知っているわけではない。
しかし、顔役の長男ではないにもかかわらず、天化こそが次代の顔役だと街の人々が口にしているのも、さもありなんと思えるだけのものが彼にはある。
今はまだ若くとも、父親の顔役に良く似た義に厚い明朗な性格と、裏町に生きる者としての感覚の鋭さを、この先二十年ほどの時間をかけて磨き上げれば、彼もまた、この陰区の歴史に名を残す顔役の一人に成り得るだけの器量を有していると、楊ゼンもこの年下の青年を評価していた。

そして、今夜の彼は一人ではなく。

「天化、知り合いか?」
「あ、うん」

ひょこりと天化の後ろから、天化と同年か、少し年かさの青年が顔を出す。
青年は天化より背が高く、顔立ちは端整と呼ぶにはいささか足りないが、人目を惹きつける何かがあり、飄々とした表情の中で目だけが鋭い。だが、そこに浮かぶ屈託のない光が、その鋭さを明るく彩っている。
その青年を見た途端、どこかで、と楊ゼンは思った。
本人に会ったことはない。だが、似た誰かを知っている。
それは誰か、と記憶を検索し始めたものの、そんな楊ゼンに構わず、天化があっさりと彼の名を口にした。

「あ、そっか。姫発さんは本人に会ったことはねえさ? この人、例の人さ。太公望師叔の……」
「ああ! あんたが当代尊主の『牙』か!」
「姫発さん、声でかいさ!」
「あ、悪ぃ悪ぃ。つい」

姫発、という名で楊ゼンは、さほど悪びれもせずに頭に手をやる青年が何者であるのかに気付いた。

「まさか俺が『牙』に会う機会があるとは思ってなかったから、つい叫んじまった。悪いな、あんた。俺は姫発。俺の親父には会ったことあるだろ?」
「……ええ、何度か」

姫、というのは、太公望が懇意にしているあの老政治家の名前だった。
今の自分たちが暮らすあの部屋の貸主。そして、自分たちが出会ったあの屋敷の持ち主である。
その子息が、今、自分の前にいる。
あの老政治家を三十五年ほども若返らせたら、こんな感じだっただろうかと思わせる容姿を目の当たりにするのは、何とも奇妙な感覚だった。

「姫発さん、この人は楊ゼンさん。──でも、何で楊ゼンさんはこんな時間に、こんな所に居るさ? 師叔に何かあったさ?」

天化の後半は自分に向けられた問いに、鋭い、と改めて思う。
おそらく単に路上で会っただけならば、こんな真夜中を遥かに過ぎた時間帯であっても、天化は何も問わなかっただろう。
だが、今の楊ゼンは明らかに、保温容器に入った食料を持ち帰ろうとしている。
そこから天化は何らかの異変を察知したに違いなかった。

「師叔の具合、悪いさ?」

ひそめられた声に、楊ゼンは改めて天化の顔を見直す。
──知っているのだ、彼は。
自分が今夜初めて、正しく理解したことを。
そう思い、一瞬、胸の内に湧き上がりかけた何かを反射的に押さえ込んで、楊ゼンは二人の青年を見つめた。

どちらも共に、太公望が親しく気にかけている人物の身内である。
太公望の秘密主義な性格を思えば、彼らであっても己の不調を告げられるのは本意ではないだろう。しかし、楊ゼンとしては他にも彼らと話したいことが──より正確に言えば、尋ねたいことがある。
ゆえに、躊躇いは一瞬だった。

「歩きながら話そう」

いつまでも一つ所に立って話をするのは、自分たちの流儀ではない。
天化と姫発も、すぐさまそれに応じて歩き出した。

「今夜は少し事情があって、師叔は陰区に居る。体調も良くはない」
「……発作、起こしたさ?」
「──今は落ち着いているはずだけどね」

楊ゼンが肯定すると、天化は溜息をつくように、そっか、とうなずいた。

「親父が聞いたら、また心配して怒るさ……」
「うちの親父もだな。太公望の奴、他人が何を言っても聞きやしねぇから、腹立ちの持っていきようもねぇし。ああ、ヤだヤだ。親父が怒ると、家の中ピリピリしちまって余計に帰りたくなくなるんだぜ」
「うちも。親父や姫発さんの親父さんを怒らせるなんて、師叔のやり方は潔いっていうよりも、無謀さ。俺っちには言われたくないだろうけど」
「まったくだ」

太公望は馬鹿だと言わんばかりの気安い親身な言葉の数々に、楊ゼンは、この二人も太公望との付き合いはそれなりに長いのだろうと感じる。
彼らにとって太公望とはどういう存在なのだろうかと思いながら、楊ゼンは、それよりも、と気になっていたことを口にした。

「一つ、聞いていいかな」
「何さ?」
「さっき、姫発さんが僕のことを『牙』と呼んだけれど、それはどういう意味を持っているんだい?」

常であれば、他人に何かを尋ねるなどという真似は絶対にしない。
だが、この件だけは特別だった。
おそらく今、彼らに聞かなければ、自分はこの件に関して半永久的に知り得ない。もし知る機会が他にあるとしたら、それは最低最悪の状況下でのことではないかという直感が、楊ゼンにその問いを口に出させた。

「────」

その楊ゼンの問いかけに二人は目をみはり、それから顔を見合わせて、目配せを送り合う。
無言のうちにどんな押し付け合いがあったのか、口を開いたのは、天化の方だった。

「あのさ、楊ゼンさん。もしかしなくても……師叔は何にも説明せずに『竜の牙』を渡したさ?」
「その通りだよ」
「……あー。それって、すっげぇ師叔らしいんだけど……」
「相変わらず最悪なのな、あいつ」

二人とも呆れ果てた溜息をつく。
だが、太公望が何も説明していないのだからと、そこで話を終わらせはしなかった。

「つまりな、あんたの持ってる『竜の牙』は、太公望の代理人の証明なんだ。で、その代理人は『牙』って呼ばれる。あんただけじゃなくて、太公望の先代の時も先々代の時も、ずっとな」

考える時の癖なのか、頭に手をやりながら姫発が言葉を選び選び、説明をし始める。

「あいつん家は代々、『尊主』って呼ばれてきたこの街一番の占い師の家系で、昔っから山程の顧客と、同じくらいの敵を持ってて。『牙』っていうのは、街一番の占い師に死なれたら困る奴らが、考え出したシステムなんだけどな」
「『竜の牙』は元々、師叔ん家の家宝さ。で、『尊主』は、その『竜の牙』を一番信頼する人間に預けて、その『牙』からの要請があれば、『尊主』の客は何を差し置いても『尊主』を守るために動く。これは、この街のほんの一握りの人間しか知らないトップシークレットなんさ」

天化の言葉に、姫発は大きくうなずいた。

「俺は十八になった時に、親父に教えられた。うちで知ってるのは、親父と兄貴と俺の三人だけ。天化、お前んとこもそうだろ?」
「ああ。うちも、親父と兄貴と俺っちだけさ。──だから、楊ゼンさん。俺っちたちは、あんたから頼まれ事をされたら。それが何だってするさ。これまで師叔は、俺っちたちを何度も助けてくれたんだから」
「逆に言えば、『牙』から頼まれるまでは何にもするな、ってことなんだけどな。でも、それも当の『牙』が事情を知らないんじゃ、意味ねぇんだけど」
「その辺が師叔らしいさね……」

嘆息する天化の声には、苦さよりも悲しさの方が多く含まれているように響いて。
そのままの瞳で、天化は楊ゼンを見上げる。

「楊ゼンさん。師叔が『牙』について何にも教えなかったのは、意地悪とか、自分で意味を調べろとかいうことじゃないさ。多分、師叔は俺っちたちに助けられたくないんだと思う」
「天化の言う通りだ。あいつは昔っから意固地なんだよ。人に借りを作るのが大嫌いなんだ。それも等価交換どころじゃねえ。自分は一分もいらない、与えっぱなしがいいって無茶苦茶な性格をしてやがる」
「そうさ。でも俺っちは、それでも楊ゼンさんに『竜の牙』を渡したことは意味があると思うさ」

考えるようにしながら、天化は一言一言、言葉を紡いだ。

「師叔はもう十年以上、『尊主』の地位についてる。でも、これまでは誰にも『竜の牙』を渡さなかったさ。どんなに親父がうるさく言っても」
「右に同じ。うちの親父も時々こぼしてた。せめて『牙』が居れば、ってな」
「肝心の意味を教えてなかったんだから、意味は半減どこじゃねえけど。それでも、楊ゼンさんは師叔が『竜の牙』を預けてもいいって思った人間さ。だから、楊ゼンさんは楊ゼンさんの好きなようにやればいいと、俺っちは思うさ。『牙』が『尊主』のためにやったことを怒れる奴は、この街にはいねぇんだから」
「”尊主の為に”って制限はつくけどな」

茶化すでもなく、姫発が口を挟む。

「でも、俺たちもあいつとは子供の頃からの馴染みだけど、あいつの本当の心の部分には寄せ付けてもらえなかった。年の差とかだけじゃなくて、あいつはいつも、俺たちとの間に線を引いてたんだ。……多分、子供の頃から、自分が長生きできねぇって知ってたせいなんだろうけど」

街明かりに、少し遠い目をした姫発の目が淡く反射する。
その目を姫発は、真っ直ぐに楊ゼンに向けた。

「楊ゼン。俺はあんたに、太公望のために何かしてやって欲しいとは言わねぇ。そんなこと言ったら、あいつに絶交されるからな。だから、頼みたいのは一つだけだ。──最後まであいつの傍に居てやって欲しい」
「俺っちも同じさ、楊ゼンさん」

天化の瞳も、姫発と同じくらいに透明だった。
私利も私欲もなく、ただ誰かのためを思って悲しんでいる。

「俺っちたちにとって師叔は兄貴みたいなもんさ。何でも知ってて、ちょっと意地悪で、でも優しくて……。困ったときの師叔頼み、がずっと俺っちたちの合言葉だったさ」
「ちょっとした悪戯が親にバレた時は、叱られてこいってあっさり突き放されたけどな。本当にヤバいって状況では絶対に力を貸してくれた。マジで命を助けられてんだよ、俺も親父も。天化だってそうだ。この街の何十人、何百人が、あいつに命を拾ってもらってる」
「うちの親父なんて、師叔が居なかったら少なくとも十回は死んでるさ」

だから、と二人は言った。

「師叔には生きてて欲しい。うんと長生きして、ヨボヨボのじいさんになって欲しいさ。でも、それは言えねぇから……、そんならせめて、最期くらいは誰かと居て欲しい」
「あいつは先代の祖父さんが死んでから、ずっと一人だったんだ。誰も寄せ付けなかった。そういうあいつが、あんたを選んだんだ。だから、俺たちはあんたに頼むんだよ。あいつを裏切らないでやってくれって。傍に居てやってくれって」
「師叔のことだから、最後には楊ゼンさんのことも追っ払おうとするかも知れねぇ。それでも、言うことを聞かねえであげて欲しいんさ、その時だけは」

切々とした言葉だった。
黙って聞きながら楊ゼンは、太公望は知っているのだろうか、と思う。
自分がこれほど思いを寄せられていることを。
存在を望まれていることを。
自分の存在には何の意味もないと語った、あの人間は。
もし分かっていないのであれば、それはとてつもない傲慢だった。

「……僕に何ができるのかは分からない」

静かに告げた言葉は、自分でも思いがけないほどに真摯に響いた。
それは、彼らの真摯さのせいだろうと考えながら、そのままの口調で続ける。

「あの人の前では、むしろ、何もできないと感じることの方が多い。ただ、僕にもあの人に命を救ってもらった借りがある。だから、それを返すまではあの人の傍に居ると、それだけは約束するよ」
「それで十分さ」
「ああ、それだけでいい。ありがとうな、楊ゼン」

心底安堵したように、年来の友人を見るかのような瞳で二人は楊ゼンを見つめる。
そのことに違和感はあったが、不思議に居心地の悪さは感じなかった。

「それじゃ、僕はもう戻るから」
「あ、師叔が居るのは、こっから近いさ?」
「俺たちも行きてぇな。しばらくあいつの顔、見てねぇし」
「心配しなくても大丈夫さ、俺っちたちは師叔に怒られ慣れてるし」
「本気で怒ってるんじゃなけりゃ、あいつの怒り方は別に怖くねぇしな」

悪戯盛りの頃の面影そのままに勝手に行動を決める二人に、まぁ仕方がないか、と楊ゼンは諦める。
体調が悪いところにこの二人を連れて行って、太公望が歓迎するとは到底思えなかったが、彼らもそれを承知の上であるのなら、甘んじて太公望に叱られることを受け入れるだろう。
幼い頃からの思い出を共有している彼らに、自分が口を挟むことは何一つないように思われた。

「それなら行こうか。師叔が居るのは、この先の奥にある古い共同住宅だよ」
「お、あんた話が分かるなぁ!」
「楊ゼンさんは良い人さー」

まるで友人扱いだ、と改めて楊ゼンは苦笑するような気分になる。
こんな風に同年代の青年とまともな会話をするのは、初めての経験だった。
自分には似合わないと思うが、それほど悪い気分でもない。楽しいというには足りなかったが、それでも足早にここを離れたいとは感じない。
この感覚も太公望が居なければ、味わうことのない気分の一つだと思うと、更に不思議な気分だった。





*           *




「ここさ?」
「そう」

三人とも成年男子なだけあって、歩く速度は相当に速い。
共に行こうと言ってから十分足らずで、その古い共同住宅には着いた。
今は電気も通じていない建物ではあるが、割れた窓ガラスから街明かりが差し込み、通路を歩くのには特に支障もない。
加えて、天化も姫発も夜目が利く方なのだろう。取り立てて暗いとも何とも言わず、足取りも乱れはしなかった。

その部屋の前で、ちょっと待っていて、と楊ゼンは身振りで二人をとどめる。
そして、一人、扉の前に立った。

扉越しに中をうかがうが、気配らしい気配がない。
まだ昏倒したままなのだろうかと眉をひそめながら、用心しつつ、そっとドアノブに手をかける。鍵のかかっていないそれは、自分がこの部屋を出た時と同じく、かすかな手応えと共に回った。

「──師叔?」

扉を開けた途端、ざわりと全身が緊張する。
誰も居ないということは、その瞬間に分かった。たとえ意識が無いにしても、気配がなさ過ぎる。同時に、室内が乱れた気配も、死の気配もない。
薄暗い室内は、ただ静まり返っていた。

「……楊ゼンさん、どうしたさ?」
「あの人がいない」
「え!?」

廊下からの訝しげな問いかけに楊ゼンが短く応じると、二人も急いで室内に入ってくる。
そして楊ゼンがしたように、狭い室内を見回した。

「争ったような気配はねぇな」
「その寝台に寝てたんさ?」
「そう。発作を起こした後、意識を失ったから、僕が寝かせた」
「上掛けはめくれてるけど、無理やりはがしたって感じじゃねぇ……、あ、あったぜ」

寝台に歩み寄り、寝具の様子を目で確かめていた姫発が、毛布の上から何かを取り上げた。

「太公望の書置きだ。あいつ、ものぐさを装ってるだけで、そういうとこは結構マメなんだよ」

姫発が差し出した小さな紙切れを、楊ゼンは受け取る。
そこには自分が残した書置きの下に一言、「夜明けまでに戻る」とだけあった。

「──何考えてるんだ、あの人は!」

呟いた声に、思わず本気の憤りが籠もる。
だが、二人の青年たちは、怒るだけ無駄だとばかりに首を振った。

「そういう人なんさ、師叔は」
「夜明けまでに戻るって言ったんなら、そろそろ戻ってくるだろ。そういう約束は太公望は守るぜ」
「……君たちは、腹は立たないのか!?」
「んー。微妙?」
「俺たちは慣れちまってるからなぁ」

二人は顔を見合わせて、それぞれに肩をすくめる。

「あのさ、楊ゼンさん。師叔は無茶なことすっけど、それにはいつも理由があるさ。多分今夜も、どんだけ体調が悪くても、出かけなきゃなんねえ用があったんだと思うさ」
「そうそう。で、あいつが戻るって言ったなら、それは絶対。『太公望』なんだからよ」
「もちろん俺っちたちも、心配はしてるさ。発作を起こした後は、いつもすっげえしんどそうにしてるし」
「普通なら半日は動きたがらねぇからな。逆に言えば、今夜はそれだけ無理をする理由があったってことなんだよ」

口々に言う彼らに、そういうものかもしれない、と楊ゼンは考え直す。
そもそも今夜、ここに非難したのは、危機が迫っていると太公望が言ったからだった。あの緊迫感は、決して狂言ではなかったように思う。
だが、それでいながら不調を押して動いたということは、それなりに理由があるからだと考える方が妥当だった。

「とりあえず、待とうぜ。あと一時間もすりゃ夜が明ける。太公望もそれまでには帰ってくるだろ」
「俺っちもそう思うさ」

言いながら、彼らはとりあえず座るかと、埃っぽい寝台に腰を下ろす。
懸念がないわけではないが、緊迫感はない。そんな彼らの雰囲気に楊ゼンも諦めて、持ったままだった保温容器を小さな卓の上に置いた。
そして、二人を振り返ろうとした時。



「なんだ、いつの間に二人増えたのだ?」



戸口に馴染んだ気配が、ふわりと現れた。

「師叔!」
「太公望、どこに行ってやがったんだ!」

楊ゼンが反応するよりも早く、天化と姫発が飛び出してゆく。

「大丈夫さ? どっこも怪我してねぇさ?」
「お前な、無茶も大概にしろよ。発作起こしたんだろ!?」

わらわらと取り囲み、心配の言葉を投げかける二人に、太公望は呆れたように肩をすくめた。

「無事だし、どこも怪我などしておらぬ。とにかく座らせてくれ」
「あ、うん」
「そ、そうだな。話はそれからだな」

ゆっくりと部屋を横切って寝台に近づく太公望の後を、いかにも心配げな青年が二人ついて歩くのは、何とも奇妙な光景だった。
が、到底笑えるような気分ではなく、楊ゼンは太公望を見つめる。
そんな楊ゼンにまなざしを向け、太公望は静かに笑んだ。

「すまなかったな。急に状況が変わった」
「先にここを離れたのは、僕の方ですから」
「それは構わぬよ。どうせ、わし一人で出かけなければならぬ用だったからのう」
「そうですか。ともかく、ご無事で良かった」
「うむ」

その会話に歯がゆくなったのだろう。姫発が、苛々と足を踏み鳴らす。

「おい楊ゼン、お前、腹立ててるんじゃなかったのか!?」
「そういう君こそ、慣れてるんじゃなかったのかい」
「慣れてたって、こいつの顔を見たら腹が立ってくんだよ!」

「ふぅむ。おぬしら、わしの知らぬうちに随分と親しくなったのだな」

「全部、てめぇのせいだろ!!」
「なんで他人事みたいな顔してるさー!?」

とは言われてものう、と寝台に腰を下ろした太公望は、肩をすくめる。
それだけの仕草だったが、そこにいつになく酷い倦怠感を楊ゼンは感じ取った。
薄明かりの中では顔色など分からないが、この距離からだと、目元がうっすらと落ち窪んでいるのは見て取れる。
だが、楊ゼンが何かを言うよりも早く、太公望は疲れの滲んだ声を二人の青年にかけた。

「すまぬが、今は少し休ませてくれ。今日中に部屋に戻るから、おぬしたちはまたそっちへ訪ねてこい。少なくとも、追い返しはせぬから」
「……おう、分かった」
「師叔、本当に大丈夫さ?」
「大丈夫だよ。多少無理はしたが、休めば元に戻る。だから二人とも、そんなに心配せずとも良い」

太公望が笑むと、天化と姫発はまるで叱られた幼子のように肩を落とし、不安げなまなざしを太公望に向ける。
だが、それ以上ごねて、太公望の体調を更に悪くさせる気はないらしく、そういうことなら、と名残惜しげに一歩下がった。

「じゃあ、明日、会いに行くから。部屋に居ろよ?」
「今日はもう、動いちゃ駄目さ。楊ゼンさんの言うこと聞いて、大人しくしてるさ」
「分かっておるよ。わしもそこまで馬鹿ではない」
「そこまで馬鹿だから、心配してるんだろうが!」
「そうさ! 師叔はもっと自分を大事にしなきゃ駄目さ!」
「はいはい。分かったから、おぬしたちは帰れ。一日に一度くらいは、親に顔を見せるように言っておるだろう?」
「──っとに腹の立つ野郎だな、てめぇは!」

まるで泣きたいように顔しかめながらも、姫発は、楊ゼンを見やる。

「頼むぜ、楊ゼン。本当に、この馬鹿野郎がこれ以上馬鹿をやらねぇように、がっちり見張っててくれ」
「目ぇ離しちゃ駄目さ、絶対に」
「……さっき言ってたことと、まるで違うんだけど、君たち」

思わず微苦笑を覚えながらも、楊ゼンはうなずいた。そうでなければ、彼らは永久に帰ろうとはしないだろう。
そして彼らが居る限り、太公望もまた休めない。
それは確かだった。

「じゃあな、太公望。明日行くまで大人しくしてろよ」
「絶対に無理しちゃ駄目さ」
「分かっておるよ。二人とも、心配かけてすまなかった」
「本っ当に馬鹿だぞ、てめぇは」

馬鹿だと繰り返しながらも、二人は部屋を出てゆく。
やっと静かになったところで、太公望はほのかに苦笑したまま、目に見えぬ支えを失ったかのように仰向けに寝台に転がった。

「……本当にすまなかったのう、楊ゼン」
「いえ、僕は何も。あなたが無事なら、それで十分です」
「その返事、いかにも優秀な護衛らしいのう」

くすりと小さく笑って、太公望はまなざしを楊ゼンに向ける。
そのまなざしは、薄暗い室内でもはっきりと分かるほどに深く、透明だった。

「楊ゼン、今日からはしばらく静かに暮らせるぞ」
「……どういう意味ですか」
「敵の親玉と話をつけてきた。一時的な取引だがな、向こうが大人しくしているのに飽きるまでは、手を出してこぬはずだ」

その言葉に、まさか、と楊ゼンは思う。
まさか、太公望は知っているのだろうか。
あの女のことを。
あの女と、自分の関係を。
だが、どれだけ見つめても、太公望の瞳は静かだった。
深い深い海の底のように、宇宙の深淵のように静かで、全てを包み込み、全てを拒む何かが湛えられている。

その瞳の前では、何もかもが無意味だ、と不意に悟った。

太公望に分からぬことはない。
何を隠し立てしようと、それは意味を成さない。
ただ、彼が口にしようとしない、そのことには意味がある。
太公望が口にしないことは、無いのと同じ。何も知らないと言っているのと同じだ。
全てを知る彼は、天才的に知らぬふりが上手い。彼自身が本当に何も知らないと、情報を思考から遮断してしまえる程に。
いつの間にか、そのことに楊ゼンは気づいていた。

「少し休む。起きたら、その中身を食べて、それから部屋に戻ろう」

卓上の保温容器に気付いていたのかと思いながら、楊ゼンは寝台に歩み寄った。

「それなら、きちんと布団の中に入って下さい。これ以上体調を悪くされたら、僕が天化君たちに責められます」
「そうだのう」

薄く笑って寝具の中にもぐりこもうとする太公望を助けて、肩まで毛布を引き上げてやる。
すると、太公望は疲れ果てた溜息を一つ、ついた。

「……ありがとう、楊ゼン」
「いいえ」

短くかすれた謝辞を最後に、ことんとスイッチが切れたかのように太公望は眠りに落ちる。それはむしろ、気力の限界で気を失ったと言った方が正しかった。
その傍らに、卓の所から椅子を引き寄せ、楊ゼンは腰を下ろす。
もう夜明けは間近だったが、眠気は感じなかった。
今夜はもう、何もすべきことはない。何もできることもない。
このまま朝を待とうと、そう思った。









とりあえず、一段落。長かった夜が、やっと明けます。
明けたところで、本当の意味で平穏かどうかは別の話ですが、その辺りはまた次回にて。


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