#001:雨垂れ








窓ガラスの向こうから、雨音がどこか遠く響いている。
その静けさが心地よかった。






部屋にいるのは、今は太公望一人だった。
楊ゼンは居ない。二時間ほど前に、少し外出すると断って出て行った。
彼が今、この街のどこに居るのか、何をしているのか、太公望はまったく知らない。興味がないのではなく、楊ゼンが何をしようと全く構わないのだ。だから、何も聞かないし聞こうと思ったこともない。
金でボディガードを雇った立場の者としてはあるまじき態度だとは分かっているし、当の青年でさえ訝しく思っていることも知っている。
けれど、太公望にしてみれば、楊ゼンを含めて他人からどう思われようと、それは一切関係のないことだった。
自分の行動の意味は、自分だけが分かっていればいい。
このまま楊ゼンが不審が募らせて何かを問うてくれば、答えられる範囲で答える準備はあるし、第一、時が来ればすべて分かることだ。
他人が思うほど自分の器は深くない、むしろ底が浅い、と太公望は自嘲と呼ぶには少し足りない乾いた思いと共に、膝の上に広げた書物のページをめくる。

ひそやかな雨音を聞きながら、そろそろ帰ってくるだろうか、と脳裏の片隅で考える。
楊ゼンは頻繁に──それこそ数日毎に外出するが、しかし勤めを果たす気はあるのだろう、不在が三時間を越えることは、まずない。
だから、今日もあと一時間もしないうちに戻ってくるだろうと思われた。
しかし、別にそれを超過したところで・・・・それこそ無断外泊をしたとしても、太公望には青年を咎める気はない。もともと彼の方は乗り気でなかったものを、こちらが強引に引き止めただけの関係である。
本当に危険が身に迫った時には、まず九割の確立で自分は感知できるはずだから、その時にさえ傍に居てくれればよかった。
否、その時にさえ居なくてもいい、と思う。
二年という期限付きの面倒な仕事を、不承不承ながらであっても彼は引き受けてくれた。それだけで十分に足りているのだ。
個人のボディーガードという青年の行動すべてを制約する仕事内容に対し、太公望が支払えるものは少ない。
せいぜいが金──相場の報酬を遥かに超える額ではあるが──と、大して当てにならない占いの結果、それと幾つかの社会的政治的な保証だけである。
青年の能力に対して引換えにできるものが少ない以上、彼に多くを求める気は太公望にはなかった。

膝の上に広げたページの文章をゆっくり目で追いながら、意識の一部を窓の向こうへと向ける。
霧雨に煙った街はいつもと同じく雑多な気配が渦巻いており、極彩色、無彩色、蛍光色、あらゆる色が混沌としたそれは、雨雲にも似た重い灰色を呈して街を覆っている。
だが、そこからこちらへと鋭く飛び込んでくるものは何もなく、今日はもう自分に関わる事は、おそらく何も起きないだろう、と太公望は感じる。
とはいえ、この感覚は絶対ではなかった。時として、重大すぎる出来事は、本当に事が起こる直前まで何一つ前兆が感じ取れないことがある。
つまりそれは、避けがたい・・・・抗いがたい時の流れに出会ってしまうといういうことであり、結果がどう転ぶかは、本人の身の処し方によって全く変わってくる。
思いがけない幸運になるかもしれないし、命を落とす可能性もなくはない。逆に、目に見える変化は何一つ起こらないことすらあるのだ。
その結果を予測できるものは、居るとすればの話だが、神しかありえない。少なくとも人間には不可能だった。
つまり、違う言い方をするのなら、事前に予兆が感じ取れるものであれば、人の身でも流れを変えることが可能だということになる。
たとえば太公望のカードのような媒体を得て、起こり得るべき未来を回避することもできるし、何も知らずに取った行動の結果が予兆とは全く異なる結果を引き出すこともある。
そのいい例が、太公望自身と楊ゼンの出会いだった。

己の手札は、決して嘘をつかない。
あの日、あの時間、あの場所で自分たちが出会うことは、絶対の才能を持つ太公望には何年も前から分かっていた。
そして、その出会いが何を意味し、何を引き起こすのかも。
全てはカードが教えてくれていた。
だから、それを避けたければ、日時か場所をずらせば済んだ。あるいは、あの晩、仮の住まいだった屋敷から一歩も出なければ良かった。
それだけのことで、少なくとも、あの時に二人が出会うという結果は回避できたのだ。
けれど、それをしなかったのは。

出会いたかったからだ。
『WHELL OF FORTUNE』が示した、ただ一人の相手に。

どんな形であれ・・・・相手が何者であれ、出会ってみたかった。
それ以上の理由も、それ以下の理由もない。
運命が用意した一瞬の邂逅を逃したくなかった。
それだけだ。

「───・・・」
広げた書物から少しだけまなざしを上げて、太公望は一月半ほど前の出会いを遡る。
──血の臭いを濃くまとわりつかせ、手負いの獣と称するには鋭すぎる、強い瞳がこちらを見つめ返した。
あの瞬間、確かに自分は歓んだのだ。
カードの示した相手が、一目で分かるほどに強さに満ちた存在だったから。
これならいい、と思った。
そして、声をかけて、更に確信を深めた。
おそらく絶体絶命といっていいほどに追い詰められた状況にありながら、冷静に駆け引きに応じられる怜悧さ、重傷を負いながら苦痛をあらわにしない精神力。
更には、たがえることなく自分のもとへたどり着いた運の強さ。

──本当は、彼の命はあの夜、尽きているはずだったのだ。
彼を生かしたのは、ほんのわずかな髪一筋ほどの可能性。
敵の包囲網をかいくぐり、あの館へたどり着いて、『THE HERMIT』と出会うこと。それが万に一つの生への絶対条件だった。
それをわずかでもはずせば・・・・たとえば曲がり角を一つ違えれば、あるいはあと2時間でも時間がずれていれば、99%の確立で彼は命を落としていただろう。
誰が決めたのでもない。幾つもの偶然と必然が重なり、あの夜は、そういう巡り合わせになっていたのだ。

「おぬしにとっては不本意だったかもしれぬがな・・・・」

ゆっくりとした動きで本を閉じ、太公望はいつでもそこに置いてあるカードへと手を伸ばす。
ローテーブルの上、裏向きに重ねた手札の中から、迷いもせずに一枚を抜き出す。

──KNIGHT OF WANDS

当たり前のように手にしたカードを、太公望は見つめる。

「・・・・運命など信じなくていい。手札の示す未来は絶対。だが、それが全てではない」

低く呟き、もう一度、カードに描かれた図柄を見つめ、山に戻す。
と同時に、インターフォンが鳴り、ドアロックの解除される音が小さく聞こえた。

帰ってきたか、と思いながら、太公望は脇に置いた書物を再び膝の上に持ち上げる。
そして、先ほどのページを開いたところで青年が居間へと入ってきた。

「只今、戻りました」
「うむ」
「僕の留守中に何か・・・・」
「あったように見えるか? 今日も、世は全てこともなし、だ」

軽く笑って答えると、対応に困るのか表情を変えないまま、わずかに戸惑うのが感じられる。
裏社会に属す身でありながら、どこかひどく生真面目な部分を残している青年は、規格外の雇い主に対し、いまだにどう接すればいいのか掴めないでいるようだった。
だが、それをどうにかしてやろうという気は、太公望にはさらさらない。
これが自分なのだ。
規格外の雇い主にどう対応するかは楊ゼン次第であり、それがどんなものになろうと構わなかった。
手札が示した自分たちの未来図は知っているが、現実の関係を作るのは『今』ここに居る二人なのである。
厭われようと憎まれようと、自分に否やはない。
楊ゼンには彼の思うとおりに行動してくれれば、それで十分だった。

「おぬしも帰ってきたことだし、コーヒーでも入れるか。今日は少し冷える」
「それくらい僕がしますよ」
「構わぬよ。コーヒーを入れてもらうために、おぬしを雇ったわけではないしな」

では何のために、と反射的に問いかけたい色を一瞬、青年が瞳に走らせたのには気付かないふりをして、太公望はソファーから立ち上がる。
キッチンへ向かったその後を楊ゼンも追い、ケトルに蛇口の水を注ぐ太公望の隣りで、食器棚から二客のコーヒーカップを下ろし始める。
その隙のない手指の動きを、さりげなく見やって。
手早くドリップの用意をしながら、太公望は口元にかすかな笑みを刻んだ。











というわけで、マヨイガ第5話。初めての太公望視点です。
しかし、視点が変わったところで、彼が何を考えているのかは、やはり謎のままなのでした。

このインターバルをはさんで、次からはまた少しストーリーが動き始めます。
というわけで、待て次号。


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