#061:飛行機雲







───楊ゼン、か・・・・?
───はい。お久しぶりです。
───・・・・大きくなったな。

その時、その人の見せた瞳の色。
その意味を理解できたのは、ずっとずっと時間が過ぎた後のことだった。












相変わらず、空はどんよりと曇っていた。
季節柄、仕方のない話だが、今にも泣き出しそうな空の色というのはどうにも鬱陶しい。
自然、足早に通り過ぎようとする自分を無意識に制御して、周囲の風景に気配も存在も溶け込ませるように常に調節しながら街を歩くことには十年以上も昔に慣れたが、今日に限ってそんな習い性が自分にあることに意識が向くのは、行く先の関係だろう、と楊ゼンは自分の心理を図る。
行きたくない場所か、と問われれば微妙に異なる。
行きたい場所というわけでもないのだが、行きたくないわけでもない。

行くべきではない場所。
できることならば極力、近寄るべきではない場所。

そんな場所に対する感情を、どうやったら表現できるものか。
普段なら外を出歩く時には考えない、私的な物思いが脳裏を占めるのは、結局のところ、その感情が原因だった。

───感情は常に完璧に制御しろ、と散々叩き込まれたのにな・・・・。

物心ついた頃から受けてきた訓練では、普段から感情を殺すこと、仕事をする時は完全に感情を切り離して行動することを徹底的に教えられた。
いちいち目の前の相手や状況に心を波立たせているような人間に、この街の暗部に関わる仕事を請け負えるはずがない。
殺せと言われたら、相手が老人であれ赤ん坊であれ、確実に殺す。そんな自分の行いに動じない精神を持った者だけが、この街では生き残れるのだ。

組織から離れて個となった今でも、自分が通り過ぎてきた道を懺悔する気にはならない。
生き延びる努力をしてきただけだ、と単純にそう思う。
標的を殺せなければ、自分が廃棄されて抹殺される。その現実を前にして、自己犠牲精神を発揮できるほど善人には生まれついていなかったから、躊躇いもせず、自分が生きる方を選択し続けてきた。それ以上でもそれ以下でもない。
今、個となった自分が一人の人間の側に付くことを選んだのも、こうして動いていることも、生き延びることを選択した結果の一つでしかないのだ。
袋小路で追い詰められた時、行く手を遮る高い壁を何とかして越え、生きるためには考えるしかなかったし、真実を追求するしか手立てがなかった。

・・・・結局のところ、狡猾な策にはめられたのだということは、分かっている。
敵は、こちらが真実を追求したくなるように仕向け、その結果、組織に反逆する、あるいは離脱することを目論む者として抹殺の対象となるように図った。
ただ、その図式は分かっても、分からないのはその理由である。
否、分からないわけではない。証拠がないだけで、一連の出来事の裏に潜むものを察することが出来たからこそ、策にはめられたのだということを看破することも出来た。もっと言うのなら、相手がそうなるように仕向けて、巧妙に隠したように見せかけた情報を眼前にちらつかせたのだ。
こちらが真実のかけらを得て、動かざるを得なくなることすら、敵にとっては予定調和でしかなかった。

───けれど・・・・。

向こうの唯一の誤算は、自分を殺しきれなかったことだろう。
確かに深手は負った。追い詰められもした。
けれど、自分は生き延びたのだ。
偶然・・・・相手に言わせれば必然らしい、一つの出会いが生へ続くの道を拓いた。
あの時、彼が門を開いてくれなければ、おそらくあの夜が空ける前に自分の命は尽きていただろう。それは分かっている。
だが。

───運命なんてあるものか。

そんな一言で片付けられるのなら、人の人生などどれほど容易く、虚しいものであることか。
天に定められた道など有り得ない。
生を形づくるのは人間だ。あらゆる人間の悪意、善意、そんなすべてが絡み合って、それぞれの人間の歩いてきた一本の綱のような道ができるのであり、足を踏み出すその前の虚空に道筋などあるはずもない。

脳裏に浮かんだ深い色の瞳を振り払うように、軽く頭を一振し、気配を周囲に溶け込ませ、その一方で周囲のあらゆるものに対して探査を向ける方へと感覚を集中させる。
街中を流れる水路を兼ねた川に架かる橋を渡れば、道は街の北端を構成する閑静な住宅地と差し掛かる。
同じような富裕層の住まう地域であっても、交通の便の良い中心街にある高級住宅地とは趣の異なる、古き良き時代の面影を残した風雅な佇まいの邸宅や、瀟洒な趣を見せる高級マンションが立ち並ぶ区域には、人通りも数えるほどしかない。
その中を気配をひっそりとした街路に消しながら、十分過ぎるほどに周囲を警戒しつつ、さりげなく一つのマンションの入り口へと足を踏み込む。
そこで一旦足を止め、前後左右の気配を伺うが、感覚に引っかかるものは何もなく、それを確かめてからエントランスの脇にある入力端末に暗証番号を、自分の身体で手元を隠すようにしながら手早く入力し、数秒のタイムラグの後、開かれた自動ドアをくぐる。
そこでもう一度、背後の気配を伺ってから、何基も並んだエレベーターのうち、最も東側にある一基へと乗り込んだ。

重力で床に押し付けられるささやかな違和感に十秒ほど身を任せていると、エレベーターは古式なベルの音を響かせて、わずかなショックと共に止まった。
すぐには飛び出さず、一秒二秒、開扉ボタンを押したまま、通路に人の気配がないことを確かめて、ゆっくりとエレベーターの昇降箱を出る。
そして、目の前にあるドアへと歩み寄り。
ゆっくりと呼び鈴を押した。












「無事でいたのか・・・・」
「無傷というわけにはいきませんでしたが。どうにか命だけはありますよ」
「そうか」

自分の言葉に相手の鋭い理知的な瞳が、ひどくやわらいだ光を滲ませるのを楊ゼンは何ともいえない気分で見つめた。
ここに来るのも、この人物に会うのも、一体何年ぶりだろうか。
脳裏で指折り数えようとした時、相手の低い声が、玄関先から室内に進むよう勧めた。

「久しぶりなのに立ち話もない。遠慮せずに上がれ。今、茶でも入れよう」
「いえ、どうぞお構いなく。一つだけ、お伺いしたいことがあるだけですから」
「・・・・楊ゼン・・・・?」

訝るように名を呼んだ相手を、楊ゼンは感情を見せない瞳で静かに見返す。
本来、喜怒哀楽を表に出す性格ではない相手が、明らかに困惑とこちらを案じる色を滲ませ、わずかに眉を顰めている。
その表情だけで、楊ゼンは彼が求める答えを持っていることを理解した。

「師匠、あなたは僕の両親の姓名を御存知ですね? 母親だけではなく、父親の方も」

残酷だと自分でも思いながら、楊ゼンは問いかけではなく、単なる確認を紡ぐ。
その言葉に、相手の顔色が翳るというよりも緊迫を帯びるのを見つめながら、あえて無感情な声で静かに続けた。

「僕は、あなたが母とは幼馴染だったと言いながら、母の名前を決して教えてはくれなかったのは、組織の掟のせいなのだと思っていました。単なる駒に血の繋がりなど意識させる必要などないからなのだろうと。ですが、そうではなかったんですね」
「楊ゼン」
「あなたを非難したいわけじゃありません。ただ僕は、両親の姓名を確認しなければならなかった。そして、それを知っていて答えてくれるだろう相手は、師匠、あなたしか居なかった」
「楊ゼン!」
「不肖の弟子が御心労をおかけしていることは本当に申し訳ありません。でも、僕はここで理不尽に生を終えるわけには行かないんです。身勝手だということは百も承知していますが、自分が無意味に死を与えられることだけは絶対に許容できません。そのためなら敵が誰であれ、全身全霊を挙げて抗います」

静かに言い切り、楊ゼンは改めて、師と呼んだ男の瞳を見つめる。

「──ほんの乳飲み子だった僕を、あなたは物心がつくまで男手一つで守り育ててくれた。その間もその後も、どれほどの辛苦を僕のために味われたのか・・・・」
「そんな、辛苦だなどと・・・・」
「師匠。あなたが僕に与えて下さったものは一生、忘れません。もう二度と、こうしてお目にかかることはないと思いますが・・・・・」
「楊ゼン」

どうにか引き止めようと言葉を探すような、師の瞳に楊ゼンは淡い微笑めいた表情を浮かべてみせた。
その淡い表情に、相手は戸惑うように唇を引き結ぶ。
厳しさと鋭さを併せ持つ、だが長い年月を耐え忍び、己を磨いてきた深さを持った初老の男の容貌を見つめながら、楊ゼンはゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

「子供の頃、二人でいるとよく実の親子だと間違われましたよね。血の繋がりがあるんですから、似ていて当たり前なんですが・・・・」
「楊ゼン」
「あの頃から何度も思っていましたけれど、本当に、あなたが僕の父親であれば良かった」

それだけを告げて、楊ゼンは深く一礼する。

「静かにお暮らしのところをお騒がせして、本当に申し訳ありませんでした。どうぞ末永く御壮健でいらっしゃいますよう」
「楊ゼン!」

出て行きかけた青年の背中を、初老にさしかかった男の声が引き止める。

「本当に・・・・そうなのか!? あの男を殺したのは・・・・お前の技か!?」
「はい」

悲痛な響きを帯びた低い声に答える楊ゼンの声には、一片の逡巡もなかった。

「ですから、もう闘うしかないんです。殺さなければ殺される。それだけです」

背後で、床に膝をつく重い音が聞こえた。
だが、楊ゼンは振り返らない。

「お暇申し上げます、玉鼎師匠」

その言葉を最後に、ドアは静かに閉ざされた。












遅くもなく早くもない、普通の歩調で歩きながら、楊ゼンは数年ぶりに見た師の風貌を脳裏に思い返す。
最後に会った時は、師はまだ四十代だったが、第一線から引退した相手に遠慮してこちらが音沙汰を無くしている間に五十の坂を越えてしまい、その分、明らかに老いていた。
あの頃はまだ、白髪も皺もなかった、と何ともいえない気分と共に、年月の速さを噛み締める。

彼のもとに引き取られた時は乳飲み子であり、もちろんその頃の記憶はない。
だが、一番最初の記憶は、あの無骨な手だった。
・・・・名門に生まれた古武術の達人として、本当なら表舞台で脚光を浴びながら行くこともできたはずの人生を、一人の赤ん坊のために投げ打ち、陽の当たらない世界で生きることを選んだ。
だからといって、彼の精神が闇に蝕まれたかといえば、そうではない。
どこに立っていても、あくまでも師は、真っ直ぐで、無骨で、生真面目な一人の武人だった。
そんな高潔といってもいい人格の持ち主が闇の組織に関わり、たとえ自ら他人を殺めることはなくとも、殺人技として少年少女に武術を教えることに、どれほどの苦悩を抱えていたか。
そして、成長した養い子が、組織の中でも一、二を争う腕利きとして仕事を請け負う姿に、どれほどの悲痛を感じていたか。

けれど、それ以外に生き延びる道はなかったのだ。
養父も、養い子も。

たとえ異国に逃げたとしても、裏の世界は地球を網羅している。
逃げ続けるだけでは、いずれ力尽きる日が来る。それが分かっていたから、養父は毒で毒を制するため裏社会に身を落とし、木を林の中に隠すために養い子をも組織に預けた。
一体それ以外に、無骨で不器用な武人であった男に、どんな道の選びようがあっただろうか?
そして、現に楊ゼンは、幼少の頃から叩き込まれた殺人技術によって、今も生き延びている。彼の選択は、決して間違ってはいなかったのだ。

暴力で暴力を制したところで、何も残らない。
だが、だからといって理不尽な死を、どうして従容と受け入れられるだろう。

生まれたからには、生きたい。
永遠など望みはしないが、どれほどの辛苦を嘗めてでも、無様に地を這いずってでも、生きる方法がある間は生き続けたいのだ。

──養父は、どんな手段をもってしても小さな赤ん坊を生き永らえさせたいと願い、そしてまた、養い子もその願いを受け継いだ。それだけのことだった。




上空を掠めていくジェットエンジン音に、楊ゼンは歩きながら顔を上げる。

「飛行機か・・・・」

今にも泣き出しそうに厚く雲が立ち込めた空に、白い一筋の飛行機雲は浮かび上がらない。
だが、幼い頃の良く晴れた日、どうして飛行機の後ろには雲が出来るの、と問うた自分に、無骨な師は生真面目にその理由を教えてくれた。
水蒸気だの上空の気温だの、幼児には師の教えてくれた雲の出来る仕組みは難解でよく理解は出来なかったが、それでも、いつでも手を繋いでくれて、話し掛けたら絶対に答えてくれる師が、幼い子供にとっては唯一絶対の安心できる存在だった。

「本当に、あなたが父親だったら良かったのに」

子供の頃から何度もそうではないのかと疑い、そう願ったことをもう一度、自嘲するように低く呟きながら、楊ゼンは川に架かる橋を渡り終える。
その時。






強い地揺れとともに、背後で大きな爆音が響いた。





「────っ!!」

振り返った目に、上空に激しく立ち上る雲と同じ色をした煙が映る。
その煙が立ち昇っているのは──死神の舌のような赤い炎がちらちらと見えるのは。


───瀟洒な古いマンションの、上層の東の角部屋ではないだろうか?


「な・・・ぜ、何故・・・・っ!?」

気配はなかった。
ここへたどりつくまでの間も、マンションに辿り着いてからも。
この三ヶ月間、一度も追跡者の影を感じたことはない。それほどまでに、彼のもとへ身を寄せたことは完璧なカモフラージュとなっていたはずだ。
なのに、どうして。



───まるで見せしめのように。



「どうして・・・・・!?」

激しく燃え上がり始めた炎を遠く見上げながら、楊ゼンは必死に思考を巡らせる。
今のは、間違いなくガスではなく爆薬による爆発。
しかも、あれだけの広さのある部屋を一息に吹き飛ばすには、それなりの量が必要となる。たとえば、発破や手榴弾を一つ二つ投げ込んだくらいでは、ああまでも厚いコンクリート壁は崩れない。
だとすれば。

「事前に・・・・仕掛けてあった?」

あの地区のマンションは、いずれも古いもので、いまだにエレベーターが手動のところも少なくない。電気でも水道でも、修理工を装って各部屋の天井と床の隙間に、壁と壁の間に仕掛けをすることは容易いだろう。
そうして隙間なく爆薬を仕掛けた上で、室内、あるいはエレベーター当たりに小型カメラでも仕掛けておけば。
あとは獲物がかかるのを待つだけだ。
実際に使われるかどうかは分からない、だが、実行の機会にめぐまれたら、これほど有効な罠もない。

「僕が・・・・訪ねなければ・・・・」

かすれた声で呟く端から、否、という答えが返る。
どのみち、敵は彼を生かしておく気はなかったはずだ。ただ、その瞬間が訪れるのが少し早いか遅いか。それだけの差でしかなかっただろう。

ぎり、と唇を噛み締め、口の中に広がる鉄錆の味を感じながら、楊ゼンは惨事の現場に背を向ける。
どれほど駆けつけたくとも、現場に行くわけにはいかなかった。曇天に燃え上がる炎は、敵の誘いでもあり、師の警告でもある。

───何があっても生きることを考えろ、楊ゼン。

二十年もの昔、師の元を離れて組織へと預けられることになった日の朝、自分の前でかがみこみ真っ直ぐ目を合わせた彼は、怖いほどに真剣な顔でそう告げた。
そして自分も、意味が分からないながらも、真剣に、はい、と答えたのだ。

その師に対する最後の手向けは、このまま他人の顔で街路を歩き続けること、それ以外になかった。













マヨヒガ第6話。
ようやく話が動き出しました。
ここからは怒涛の展開です。以下、待て次号。

(なお、この話は深崎めぐみちゃんに捧げます。ものすごく頑張ったで賞(^_^))



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