番外 #001:鼓動







「まだ、彼と一緒に居るんだって?」

そう問われて。
シャツのボタンを止めていた手が、一瞬止まった。

「……それが?」
「珍しい、というより、らしくないなぁと思ってさ」

手にしたペン先で卓上のカルテを小突きながらの相手の台詞に、黙ったまま身支度を整える。

「君が護衛を雇うのは、一応、主治医として文句はないけどね。ちょっと意外」

ずっと一人だったくせに、と皮肉でもなく言われて、確かに傍目にはそう見えるだろう、と他人事のように考えた。
これまで何度、誰に忠告されようと、身近に他人を置いたことはなかった。
それが、刻限が迫った今になって、他人を金で雇い、身の安全の確保を図るようになったのだ。
自分の心臓が抱える欠陥を知らない人間には、何かまずいネタにでも足を突っ込んだのかとでも思うだろうし、欠陥を知っている数少ない人間には、目の前の彼が言う通り、奇異な行動と映るに違いない。
そう、自分のことをわずかでも知っている人間であれば、どうしてこの期に及んで、『太公望』が他人を傍に置くと思うだろう。
事実、他人を求めたことも、必要としたことも、これまで一度も無い。
そしてこれからも、そんなことはこの脆弱な心臓が止まる日まで、きっとないと断言できた。──今現在傍に在る、唯一つの例外を除いては。

「君が何をしようと知ったことじゃないけど、火遊びは程々にしときなよ。恋愛沙汰は、君の心臓には荷が勝ちすぎるから」
「分かっておるよ」

短くそれだけを答えて、上着を羽織る。
屋外の気温は、温暖な地域であるとはいえ、そろそろ真冬用のコートが欲しい頃合となりつつあった。

「ではな。また来る」
「……何事も無ければ、一ヵ月後に」

素っ気無い自分の返事に、仕方ないとでもいうように薄く笑んで、闇医者は告げる。
無言でうなずく以上にすべきことはなく、そのまま黙って、剥き出しの壁に今にも崩れそうな亀裂が走る古ビルを後にした。










冬の訪れを最初に実感させるのは、風の冷たさよりも日の短さだった。
つい先日までは、まだビルの隙間に輝きを弱めた太陽が見えていたはずの時分なのに、今日の空は早くも黄昏時の薄灰蒼に染まろうとしている。
たとえ真冬になろうと雪が降ることはまず無いこの街であっても、冬至の近い頃合の、それも夕暮時ともなれば、風が吹き抜けるたびに体温が奪われてゆく。
わずかに身震いして、太公望は通りを歩く足を速めた。

定期健診のために闇医者を訪れるのは、月に一度のことだったが、その際に太公望が楊ゼンを同行させることはなかった。
少し出てくると言い置き、一時間ほどで戻る。毎回それの繰り返しであり、立場をわきまえている青年がそれに口を挟んでくることも無い。
もっとも彼が、内心では雇い主が一人で外出することをあまり快く思っていないことは何となく察せられていたが、太公望としては、自分の病状を彼に聞かせるつもりはなかった。
どうせ、あと一年半で終わりだと分かっている以上、それ以上の情報は誰にとっても絶対必要なものではない。
その観点から言えば、定期健診そのものが不必要な行為ではあったが、それでも最後まで生き抜くために、最低限の用心はしておきたいという程度の感覚で、太公望は闇医者の所に通っていた。

絶対の運命などというものは、この世界にはない。
小石が一つ、道に転がった程度のことでも運命はたやすく流れを変える。
それを知り尽くしている太公望にしてみれば、生れ落ちて間もない頃から引き当て続けてきた残り一年半という期限ですら、絶対に近い定めであっても、不変のものではなかった。
世界は不確定要素に満ち、いくらでも運命は揺らぐ。
祖父が予期せず、路上に骸(むくろ)となって転がったように、自分とて一瞬後に生を終えている可能性は、いつでも踏み出した足の先にある。
それが分かっている以上、残り一年半というカードの告げる期限に甘んじて、無防備になる気は太公望には無かった。

ビルの隙間から上空に垣間見える冬の黄昏空を見上げ、自分が出かける少し前に知人に使いに出した青年も、そろそろ部屋に戻っている頃合だろうか、と思う。
今日、赴かせたのは祖父の生前から懇意にしている、裏世界の顔役の一人だった。
大した用事があったわけではなく、最新のささやかな裏情報を手土産としただけだったが、だからこそ、その顔役ならば青年をわざわざ使いに出した意図を汲んでくれるだろう、と思っていた。
───『竜の牙』を携えた、『太公望』の使い。
それがどれほどの意味を持つか、まだ楊ゼン自身が気づいているとは思えない。
古馴染みの老政治家から、『竜の牙』が最高権力府への通行手形にすらなることは教えられたようだったが、これまで己の能力のみを頼りとして凄惨な裏社会を生き抜いてきた分、実感としては、その価値はまだ薄いのだろう。
だが、それこそが太公望にしてみれば、好都合だった。

自分が彼に与えることの出来る代償など、数えるほどしかない。
二年という月日以上に、彼から奪うもののことを考えれば、この国の裏世界で絶対的な威力を持つ『竜の牙』ですら寡少に過ぎた。
半年前のあの日、その運命の糸を選び取った自分を悔やむ気はないし、この先、何に懺悔する気もない。
数少ない代償と引き換えに許しを請う気もなかったが、それでも全てが終わる日のことを思うと、締め付けられるように体の芯が痛む。
けれど、それすらも今の自分にとっては、生きていることの証の一つだった。









「──?」

不意に違和感が飛び込んできたのは、仮住まいであるマンションが通りの向こうに見える距離まで来た時だった。
何がというわけでもなく、突然、背筋がざわりと騒ぐ。
そして、足を進めれば進めるほどに不快な寒気が首筋をかすめる感覚が強まってゆく。

(まずい……!)

これといって辺りの風景に変わったことがあるわけではない。
怪しい人影も見当たらない。
けれど、五感のすべてが異常を──危険を訴える。
───ここは、死地だと。
今すぐ逃げ出さなければ、間違いなく命がない。
予感などという生易しいものではない全身を貫く確信に、渾身で抑え込まなければ見境なく駆け出してしまいそうな衝動をこらえつつ、太公望はようやく辿り着いたマンションの玄関を通り抜け、エレベーターに乗り込む。
そうするあいだにも、ざわざわと全身が総毛立つ感覚はひどくなる一方で、太公望はきつく両手を握り締めた。

(大丈夫だ、まだ間に合う)

大丈夫だ、と呪文を唱えるように自分に言い聞かせ、もどかしいほどにゆっくりと目的階まで上昇して開いた匣(はこ)の扉を足早にすり抜けて、仮寓の部屋の扉を慌しく開錠する。

「楊ゼン! 戻っておるか!?」

後ろ手に扉を閉め、叫ぶように呼ぶと、護衛の青年はすぐに奥の居間から姿を現した。
常日頃、大声を上げることのない雇い主の様子に、只ならぬ事態を察したのだろう。太公望に向ける楊ゼンのまなざしは鋭く、その抜き身の刃のような硬質な色に太公望は、ほんのわずかではあるが身中の緊張が和らぐのを感じた。
───そう。大丈夫。
今の自分は一人ではない。
そして、刻限はまだ訪れていない。
必ず、死地を脱する手段はどこかにある。
何があろうと生き延びてみせる、と自分に言い聞かせるように胸のうちで呟き、改めて目の前の青年へと視線を向ける。

「何が起きましたか」
「いや、まだだ。これから起きる。現金と武器、どちらも必要最小限だけを持て。すぐにここを出る」
「はい、直ちに」

何が、とも何故、とも楊ゼンは尋ねなかった。
すぐに身をひるがえして奥へと戻ってゆき、太公望もまた、彼を追う様にして居間へと駆け込み、卓の上にいつも通り置いてあったカードを掴む。
続けて、上着の隠しに仕込んである複数の秘武器を手早く再確認して、玄関へ戻りつつ、手の中のカードを一枚だけ引き抜いた。
その図柄を確かめる間に、楊ゼンが戻ってくる。

「用意は済みました」
「よし、行こう」

カードを一まとめに戻して上着の内ポケットへとしまい、部屋を出る。
そして、まだこの階に留まっていたエレベーターの匣に乗り込んでから、ようやく太公望は楊ゼンの顔を正面から見上げた。

「今夜一晩だ。今夜をしのげば、明日の夜……遅くとも明後日には戻ってこられる」
「一晩……」

呟きながら眉をしかめる楊ゼンは、それ以上の情報を欲しているように見えた。
それも当然のことだろう。これから起こる厄災の種類、あるいはその後ろにあるもの。その情報があるとないとでは、対処法がまったく変わってくる。
太公望とてそのことを分かっていないわけではなかったが、しかし、今はそれを説明する時間すら惜しかった。

「とにかく、ここを離れる。話は落ち着ける場所に行ってからだ」
「はい」

エレベーターから降り立ったマンションのエントランス付近には、まだ何の気配もなかった。
かろうじて間に合ったのだろうと思いながら、太公望は外へと出る。
雇い主がさりげないそぶりながらも緊張に張り詰めているのを感じ取っているのだろう。付き従う楊ゼンも無言のまま、自然体に見える仕草のすべて、ありとあらゆる神経に何が起ころうと対処できるだけの力を溜めているのが伝わってくる。
ほんの数分の間に黄昏の色を増した街を、先程戻ってきた道を辿るように裏町の方へと向かいながら、太公望は首筋にまとわりつくちりちりとした不快感を振り払うように、小さく身震いした。

(どこに、行けばいい?)

ほんの一晩だけだった。
一夜限りの嵐のように、不意の天雷のようにそれは通り過ぎる。上手くやり過ごすことができれば、それで終わる。
だが、その為には、それをやり過ごすだけの隠れ家が必要となる。
何者も来ない、何者にも気付かれない小さな窖(あなぐら)。
嵐の襲来を察した小動物が身を隠すような小さな巣穴さえあれば、この一晩は過ぎる。
けれど。

「──駄目だ…」

呟いて、太公望は足を止める。

「師叔?」

この街は、海岸に近い最先端のビルやマンションが立ち並ぶ特区、海が見下ろせる丘陵地に旧家の邸宅が立ち並ぶ苑区、中流階級の住む地区から下町へとゆるやかに変化する内区に分かれており、内区の最奥にまともな人間ならば足を踏み入れることのない裏街がある。
行政からも社会からも見捨てられた、陰区と密かに呼ばれるその街には、ありとあらゆる犯罪と快楽、暴力と恐怖がせめぎあっており、危険極まりない地区だったが、太公望と楊ゼンにとってはそれぞれに馴染みの場所だった。
だが、太公望は今、その陰区へ踏み込む一歩手前で立ち止まったまま、動けなかった。
陰区の複雑に入り組んだ路は、全て覚えている。建物の一つ一つが、どこの勢力下にあるものなのかも知っている。
森の中に木の葉を隠すように、この街は一晩の嵐をやり過ごす巣穴となってくれるはずだった。
だが。

(今のわしでは、見つけられない───)

陰区ばかりでない。
特区からここまで歩いてくる間、どこにも安全と感じられる路も建物もなかった。そして、目の前に広がる陰区の荒れた町並みも、自分の目には闇色をした岩窟のように、あるいは地平まで続く広大な墓所のように見える。

───逃げ場が、ない。

今夜の自分は、どこをどう歩いても死地に踏み込んでしまう。
蛾が灯に吸い寄せられるように、死神の構えた刃にまっすぐに飛び込んでいってしまう。
目の前の街並みを見据えたまま、太公望は背筋を伝い堕ちる冷たい汗に身体を震わせた。
どうすれば、と思った時。

「師叔? どうかされましたか?」

低く抑えた声で名を呼ばれて、ふっと意識が呼び戻される。
そういえば一人ではなかったのだと思い出し、傍らの青年を振り仰ごうとしたはずみに、上着の裡からカードが一枚、磨耗して荒れた石畳の上に落ちた。
あ、と思う間もなく、楊ゼンが身をかがめてそれを拾い上げる。
そして、差し出されたそれは。

───THE HERMIT

隠者が闇中に小さな灯を掲げるその図柄に太公望は息を呑みながら、青年と初めて出会った夜を思い出す。
あの時、この手札が暗示していたのは自分のことだった。
そして、今は。

「そ…うか。おぬしが居たな……」

差し出されたカードにしばらく見入り、太公望はそれを受け取って元通り、上着の隠しにしまう。
そして、気を取り直すように一つ息をつくと、護衛の青年の顔を真っ直ぐに見上げた。

「楊ゼン。今夜、事を仕掛けてきた相手が誰かは、今の段階では特定できぬ。見当はついておるがのう。だが、そやつらは今夜、わしがどう動こうと、必ずわしを追い詰める」
「それは……」

太公望の才があれば事前に回避できるのではないのかと言いたげな青年の言葉を、太公望は小さくかぶりを振ることで遮った。

「今夜のわしは、何をどう動いても真っ直ぐに死地に足を踏み入れてしまう。生地を探し出すことができぬのだ。絶対に。現に、今も闇の中にあるかのように世界が何も見えぬ」

太公望自身の命運は、今夜、尽きている。
このまま動いていても、助かる道はない。唯一つ、手元に残された導(しるべ)を除いては。
だから、と青年を見つめる。

「おぬしが見つけてくれ。目の見えぬわしの代わりに、わしとおぬしが今夜一晩、生き延びられる道を」
「僕が?」
「そう。幸い、にわか盲(めくら)になったのはわしだけであるらしい。おぬしなら必ず、安全な巣を見つけることができる。あの夜のわしが、そうであったように」

その言葉に楊ゼンは、はっとした顔になる。
占術には一切関心を示さない彼だが、並外れて鋭い頭脳の持ち主である。あの日の手札の図柄くらいは覚えていたのだろう。

「──本当に僕でいいのですか?」
「おぬしでなければ、駄目だ」

きっぱりとしたその声に。
楊ゼンは思案するように、まなざしの色を深くした。
その様子を太公望はじっと見つめる。
待つ時間は、さほど長くなかった。

「こちらへ、師叔」

先に立つ形で、陰区へ向かって歩き始める。
あえて迷いを持つことを己に禁じることに慣れたその背に、太公望も無言で従う。
そして、半歩前を行く姿を──均整の取れた肩の線や、広い背で揺れる首筋で一つに束ねた長い髪、そんな彼を一つ一つ形作るものをそっと見つめて。
それから静かに目線を逸らした。












「ここです」

先に立って扉を開け、内部を確認した楊ゼンが招き入れたそこは、古い集合住宅だった。
住民は殆どいないのだろう。通路にも足跡が残るほど埃や砂が積もり、窓ガラスも砂色に曇っている。
だが、下町の喧騒からは隔てられており、別世界のようにひっそりと静まり返っていた。
ゆっくりと足を踏み入れ、太公望は室内を見回す。
埃っぽい小さな部屋で、あるものは空っぽの壊れかけた戸棚と、簡素な寝台、古ぼけた小さな円卓と椅子が一客。
砂色に曇った窓から淡く差し込む街明かりに照らされているものは、それだけしかない。
けれど、太公望はこの数時間の間で初めて、ようやく深く呼吸ができるのを感じた。

「……ここなら大丈夫だ」
「そうですか」

太公望が言うと、楊ゼンはほんのかすかな表情の動きではあったものの、明らかにほっとした様子を見せた。
彼なりに雇い主の身を案じ、考え抜いた結果にこの隠れ家へと案内したのだろう。たとえ義務感に縛られてのものであってもその心持ちが嬉しく感じられて、太公望はかすかに口元に笑みを刻む。
だが。

「──!」

異様な緊張が続いていたのがまずかったのか、それともその緊張が不意に解けたのがまずかったのか。
どくん、とやけに大きく響いた胸の鼓動に、太公望は先程まで首筋にちりちりと感じていた感覚とはまるで異なる戦慄を覚える。

(こんな、時に……!?)

動転しながら楊ゼンへと視線を向けると、彼は寝台にかけてあった敷布をはがし、その下のマットレスがまだ鼠に齧られていないことを確認しているようだった。
だが、どれほど周囲を見渡そうと、小さな部屋には二人の間を隔てるものが何もない。
この部屋を飛び出せば話は別だが、それはせっかく逃れた死地へと舞い戻ることを意味している。
今のこの状況下で、太公望が成すすべはなかった。
駄目だ、と思う間にも胸の鼓動は狂ったように脈拍を増してゆく。

「師叔、寝台は何とか使えそうです。とりあえず休んで──」

振り返った楊ゼンの声の後半は、もう太公望の耳には届かなかった。
無意識に左胸を抑えた手のひらの下、欠陥品の心臓が悲鳴を上げる。

「───っ!!」
「師叔!?」

心臓を鷲掴みされ、捻り上げられるような痛みが全身を貫いて。
太公望は、異変を察して駆け寄った楊ゼンの腕の中に崩れ落ちた。









とんでもない所ですが、以下次号。
毎回、極悪ですみません……。


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