#040:小指の爪







「・・・・・・鬼の霍乱」






「誰が鬼だ、誰が」

さりげない呟きを耳聡く聞きつけて、毛布にくるまったまま、恋人が文句を言う。

「『帝国ホテルの缶詰シリーズを見舞いに持って看病しに来い』と、レポートの締切直前の恋人にメールをくれる人ですよ」
「見舞いに手土産も、一人暮らしの恋人の看病にレトルト食品も常識だろうが」
「帝国ホテルのレトルトのどこが常識ですか」
「何が悪い。一度食いたかったのだ」
「熱のせいで、ろくに味もわからないくせに」
「何を言う。その見るからに高そうな缶詰が並んでいるのを見ればこそ、早く治そう!という気にもなるのだぞ」
「はいはい。お手軽で結構ですね」
「・・・・人が体調悪いと思って、いい態度だな、楊ゼン?」
「いいえ、とんでもない。目一杯、心配してますよ」
「嘘つけ」

多少、熱があったところで、この人の口の悪さは変わらないらしい。
ベッドに横になったまま、憎らしい言葉が、次から次に飛び出てくる。

それでも、顔色はいいとは言いがたかった。
熱がそれほど高くない分、どうしても血色がくすんで見えるし、きめの細かな肌にも艶が足りない。
いつもは強い光を持っている瞳も、こころなしか輝きが弱く見える。

「とにかく、普通のレトルトお粥も買ってきましたから、食べられるようなら食べて下さい。風邪なんて、栄養を摂って、暖かくして寝ていれば良くなりますから」
「分かっとるわい」

不機嫌に言い返す人の、髪をさらりと撫でる。
と、こちらをちらりと見上げてから、彼は目を閉じた。

その表情が、いつになく気持ち良さそうで。
思わず、笑みが零れる。

「お粥、温めてきますから。少し待っていて下さい」

自然、こちらの声も優しくなるあたりが現金だと、自分の事ながら少々苦笑して、そっと傍を離れてキッチンに向かった。





体調が悪くとも、食欲はあるらしい。
もしかしたら、食欲は無くとも食べなければならないと思っているだけかもしれないが、温めたレトルトのお粥は、綺麗に消えてなくなった。
ついでに、やっぱり僕の買ってきた100%のグレープフルーツジュースを飲んで、またベッドの上で毛布にくるまって丸くなる。
まるで、病気のネコか何かのようだな、と思いながら、デスクの椅子を引っ張ってきて、その横に腰を下ろした。

やわらかな髪を、ゆっくりと指で梳くように撫でても、振り払われることはない。
普段、鬱陶しいと感じたら本当に容赦のない人が、口ではなんと言おうと大人しくしていることが、具合の悪さを感じさせて、少し気になる。

と、髪を撫でていた手が、不意に細い手に掴まれた。

「先輩?」

普段はひんやりとしている冷え症の指先が熱をはらんでいて、その熱さに一瞬、どきりとする。
だが、呼びかけに返答はなかった。
起きてはいるのだろうが、こちらの手を掴んだまま、目を閉じている。
鬱陶しいのなら、手は払いのけられて終わりのはずだ、と不思議に感じて問いかけた。

「別に掴まえてなくても、勝手に帰ったりしませんよ?」
「当たり前だ」

阿呆と言わんばかりの短い返答に、じゃあどうして、と思いかけて。

気付く。

掴まれたままの右手を小さく動かして、逆に熱を帯びた手を軽く握り締める。
そして数秒待ったが、振りほどかれることはなかった。

「熱が下がるまで、ここに居ますから。気がすむまで寝ていていいですよ」

声に笑いを滲ませたら、おそらく機嫌を損ねる。
そう思って、できる限りいつもと同じ声で告げ、今度は自分の手の中にある、一回り以上、細くて小さな手にまなざしを向けた。

肉付きの薄い手は、指も爪も長くて、形が綺麗だった。
女性なら、さぞマニキュアが映えただろうと思う。
けれど、その中で小指の爪だけが、少し短くて丸みを帯びているのが意外で、ひどく可愛く見える。
この爪が、背に立てられた時の感触を一瞬思い出しかけ、この人に知られたら何を言われるか知れたものではない、と即座に妄想を振り払った。
病気で弱っているとはいえ、恐ろしく勘のいい人なのだ。
ただでさえ毎度突き落とされているのだから、墓穴は自ら掘らないに限る。

そのまま黙って静寂に付き合っていたら、やがて、もともと力の抜けていた手が、ほんの少しだけ手の中で重さを増した。
眠ったのだろうと思って顔を覗き込むと、薄く開かれた唇からは規則正しい寝息が零れている。
目を閉じたその表情に、思わず見惚れた。

「目を開けてる時と閉じてる時で、これだけ印象が違う人も珍しいな・・・・」

いかにも悪戯っぽく輝いている瞳が、見えるのと見えないのとでは全然違う。
静かに眠るこの人は、本当に綺麗で、いっそのこと清楚で可憐とさえ形容できる。
もちろん、こんならしからぬ風情のこの人より、普段の不敵な表情の方が何倍も魅力的なことに変わりはないのだけど、見慣れていない分、つい、どきりとしてしまうのだ。

「本当に詐欺師だな、これじゃ」

性悪な恋人にも、そんな相手に恋をした自分にも溜息をついて。
目覚めないことを祈りながら、そっと口接ける。

「どんなに性格が悪くても愛してますから。早く元気になって下さいね?」





そして、風邪を移された挙句、今度は見舞いと称してやってきた恋人に、眠っている間に顔に油性マジックで落書きをされたのは、また後日の話。










コンビニの2人。
自分が風邪を引いたので、風邪ネタを考えてみました。
体調悪くて甘える時でさえ、ひねりの効いている師叔が好きです。
ちなみに帝国ホテルのレトルトシリーズは、私が食べてみたいモノ(笑)

しかし、このシリーズの楊ゼンて、書けば書くほど不幸になる気が・・・・・。合掌。


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