「こんにちは、マクドールさん」
「いらっしゃい、セイ。よく来たね」
 いつも通り、笑顔で迎えてくれたティルに、セイもまたいつものように笑顔で挨拶をして。
「マクドールさん、これから僕に付き合ってもらってもいいですか?」
「いいよ。どこかに行くの?」
「はい。とりあえず今日はお城に行って、それからまた明日、出かけるんですけど……」
「分かった。少し待ってて、支度するから」
「はい」

 そして、いつもと同じように仲良く、他愛のない事をあれこれと喋りながらバナー峠を越え、夕暮れ時に辿り着いたクォン城で一泊して。
 次の日の朝。






「ちょっと待ってて下さいねー」
 城内のレストランでティルと二人、美味しいモーニングセットを楽しんだ後、セイは何かを思い出したように、厨房の方へと向かう。
 そして、数分後、藤製のバスケットを手に笑顔で戻ってきた。
「それは何?」
「後でのお楽しみです。じゃあ、出かけましょう」
「いいけど……。今日はどこに行くのかも、まだ聞いてないよ? 明日はティント方面に行くって言ってたけど……昨日も結局、今日の予定は教えてくれなかったし」
「それも秘密です。そんな遠くじゃないですよ」
「……何か企んでるね、セイ?」
 自分もまた面白げに笑いながら、軽く目をすがめてみせたティルに、セイはにっこりと笑顔を返す。
「いいよ、付き合おう。何をしてくれるのか、楽しみにしてるよ」
「はい、マクドールさん」
 弾んだ声でうなずいて。
 行きましょう、とセイは歩き出した。






「セイ、僕が持つよ」
「平気ですよー。そんなに重くないですから」
「でも城からずっとだし……もう一時間くらいは歩いたよ?」
「平気ですってば。力には自信ありますし、もう少しですし」
「そう?」
 年上の沽券に関わるんだけどな、などと呟きながらも、ティルは無理やりにセイからバスケットを取り上げようとはしなかった。
 セイが何かを企んでいて、バスケットもその企みの内というのならば、それを妨げるのは好ましいことではない、と判断したのだろう。ただ時折、気遣うように隣りを歩く少年にまなざしを向けながら、デュナン湖に沿って北へとゆるやかにうねる細い道を歩いてゆく。
「あ、マクドールさん、こっちです」
「うん」
 クォン城からずっと続いていた細道をはずれ、セイは緑草に覆われたなだらかな坂を上り始める。
 そして、あちらこちらに春から初夏にかけての草花が咲いている小高い丘の頂上、大きく枝を広げた樹の下で、セイは足を止めた。
「はい、着きました」
「ここは……?」
「僕のお気に入りの場所なんです。お城に住み始めたばかりの頃、この辺を探索してて見つけたんですよ」
 にっこりと木漏れ日のような明るい笑顔でティルを見上げて、セイは答える。
「マクドールさんに来てもらう時はいつも、ばたばたしてばかりだから、たまにはと思って……。今日はシュウさんにお休みもらったんです。明日からまたちょっと、ティント方面に出かけなきゃいけないのは本当ですけど」
「……僕の、ために?」
「うーん」
 どうなのかな、とバスケットを草の上に下ろしながら、セイは小さく首をかしげるようにした。
「マクドールさんが喜んでくれたら、って思ったのは本当ですけど……。でも、自分のためなのかもしれません。マクドールさんにはいつもすごく良くしてもらってるから、何かお返ししたい、っていう気持のためにやったようなものですし。自己満足っていうんですよね、こういうの」
 苦笑するようにティルを見上げたセイに、
「言わないよ」
 ティルは、短く、けれどはっきりと透る声で答える。
「相手が喜びもしないことをするのなら、それは自己満足だけど。セイのは違うよ」
「マクドールさん……」
 緑陰の下、涼やかな漆黒の瞳を優しく笑ませて、ティルはセイを見つめる。
「僕が今、すごく感激してること、分からない? セイ?」
「……喜んで、くれてますか?」
「当たり前だよ。嬉しくないわけがない。セイが僕のために考えて、してくれた事なのに」
「ここまで……用件も言わずに、グレッグミンスターから来てもらったのに?」
「そんなことは何の問題にもならないよ。嫌なら最初から来ない。昨日だって君が呼びに来てくれて、それが嬉しかったから僕は来たんだよ?」
 噛んで含めるように言い聞かせると。
 じっとティルを見上げていたセイは。
「──良かったぁ」
 大きな花が開くように笑った。
「セイ?」
「マクドールさんが喜んでくれなかったら意味がないから。僕だけ嬉しくて楽しくても、それじゃ仕方がないし……良かった。喜んでもらえて」
「今更、僕が喜ばないかも、なんて思わないの。嬉しいに決まってるでしょ」
「でも、もしかしたらと思って……」
「仕方ないねぇ」
 肩をすくめるようにして二人は笑い合い、そしてティルはセイが開いたバスケットの中を覗き込む。
「……何だか色々入ってるね」
「昨日の夜のうちに用意しといたんですよ」
「ああ、何か用があるって二時間くらい出ていった時……これだったんだ」
「はい」
 大きな赤のギンガムチェックのクロスを広げ、そこに手際よく、セイはバスケットの中身を出してゆく。
 冷めないように綿入りのキルトで二重にくるんだポットにティーセット、木の実やゴマ入りの香ばしい3種類のパン、ハイ・ヨー自慢のハムの塊、白身魚のフライ、それから、ブランデー漬けのドライフルーツをたっぷり使ったバターケーキ、紅茶の入りクッキーに果物。
「お湯まで持ってきたんだ?」
「はい。ここじゃちょっと薪(たきぎ)が集まらないと思って」
「それはそうだね」
 改めて周囲を見回して、ティルはうなずく。
 おそらく楡(にれ)の木だろう。大きく枝を広げた巨樹の周囲には他に目立った樹木はなく、野茨や白丁花(はくちょうげ)といった背の低い潅木が、所々で可憐な花を咲かせている。
 向こうの丘に見える薄紅の花房をふわふわと風になびかせている高木は、その形からすると槐樹(えんじゅ)だろうか。
 そして、目の前には穏やかな春の終わりの日差しの下、きらきらと漣を水晶のように弾き返しているデュナン湖の水面が遠く続いていて。
「本当に……とても綺麗な所だね」
「はい。……気に入ってもらえました?」
「うん、すごく。ありがとう、セイ」
「はい」
 礼を述べたティルに、セイははにかむように笑って、ポットの湯をティーポットに注いだ。
 ゆっくりと茶葉を蒸らし、丁寧にカップに注ぎ分ける。
 その様子を見ながら、ティルも草の上に広げられたクロスに腰を下ろした。
「はい、マクドールさん」
「ありがとう」
 勧められたカップを手に取り、一口飲んで。
 ティルは軽く目をみはる。
「セイ、このお茶……」
「あ、すごいですね。やっぱり分かるんだ、マクドールさん」
「手に入れるの大変だったんじゃ……?」
「ゴードンさんにお願いしたんです。すごく張り切ってくれたんですよ。一度こういう良い物を仕入れると、信用が高くなって他の良い物も仕入れやすくなるからって」
「それはそうだろうけど、でもすごいね。おそらく仕入先はトランだろうけど、グレッグミンスターの問屋でも、これだけの品はなかなか入荷しないんだよ」
「はい、運が良かったってゴードンさんも嬉しそうでした。ついでに交易で高く売れるような他の物も色々仕入れたみたいですし、面倒をかけちゃいましたけど、良かったかなって」
 もう少し資金の援助額を増やしてあげられるといいんですけど、と微苦笑しながら、セイは他の食べ物も勧める。
「どれも美味しいと思いますよ。ハイ・ヨーさんも張り切ってくれましたし」
「うん、いただくよ」
 あれこれと摘みながら、この十日間ほどの空白時間にクォン城で起きたこと、あるいはグレッグミンスターでの日々を語り、穏やかに時間は過ぎて。
「あれ」
「どうしました?」
「このクッキー、ハイ・ヨーじゃないよね。フルーツケーキもそう思ったけど、甘さがかなり控えめで……」
 言いながら、ティルは武術の達人である割には爪の形の綺麗な、長い指でもう一枚、クッキーを摘んで口に運ぶ。
「生地に入ってる紅茶の葉も……このお茶と同じ? ……もしかして、セイ?」
 確かめるように、まなざしを向けると。
 ティルの瞳を見つめ返して、セイはふわりと、はにかんだ笑みを見せた。
「どうして分かっちゃうのかなぁ」
「そりゃ分かるよ。ハイ・ヨーとは全然違う味だから。……わざわざ今日のために?」
「──はい。昨夜、厨房を借りて……」
「そうなんだ」
 うなずいて、ティルはもう一枚、クッキーを口に運ぶ。
 そうして、ゆっくりと味わって。
「うん、すごく美味しい。いつものハイ・ヨーの味だと、少し甘すぎるように思うんだけど、これはすごく僕の好み。──気付いてたんだ、僕が甘すぎるのは苦手だって?」
「だって……お茶もミルク入れる時以外は、お砂糖入れませんし、レストランでも、ちょっと甘いかなと思うものをマクドールさんが頼むことはないですし。グレッグミンスターのお屋敷でいただくグレミオさんのお菓子も、甘さ控えめですし。だから、甘い物は嫌いじゃなくても、甘すぎるのは嫌なのかなって……」
「正解。すごいね、セイ」
「そんなことないですよ……」
 さすがに恥ずかしくなったのだろう、うつむいてしまったセイの赤くなった耳を見つめて、ティルは微笑む。
 そして手を伸ばし、やわらかな栗色の髪を長い指先で梳くように撫でた。
「ありがとう、セイ」
「……はい。僕も嬉しいです、マクドールさんに喜んでもらえて」
「うん」
 頭を撫でられておずおずと顔を上げ、まだ少し恥ずかしそうに、それでも嬉しげに笑ったセイに、ティルも微笑み返す。
「──今日は一日、お休みなんだよね?」
「はい。夕方に帰るって言ってあります」
「じゃあ、今日は一日ここで、君とのんびりしよう。こんな風に景色のいい場所で、何事もなしにゆっくり過ごすのが僕は一番好きなんだよ。……それも知ってた?」
「あ、と……ええと、……はい。ビクトールさんとフリックさんに、ヒントもらって。そうなのかなって……」
「そう」
 またもや、うつむいてしまうセイの頭をもう一度撫で、そしてティルは紅茶の入りクッキーをつまみ上げた。
「セイ」
「はい?」
「口、開けて」
「え?」
「ほら」
 急かされて、慌ててセイは口を開ける。
 そこにティルは、手にしていたクッキーを半分に割って入れた。
「? マクドールさん?」
「せっかく作ってくれたのを僕一人で食べるのもね。自分で食べても美味しいだろう?」
「あ、はい……」
 もごもごと口を動かしながらも、セイはうなずく。
 そんなセイに微笑って、ティルも残り半分のクッキーを口元に運んだ。






「あれ……」
 空になったティーセットや器をバスケットの中に片付けていたセイは、ふと隣りが静かなことに気付いて、そちらを振り返る。
「……マクドールさん?」
 そっと呼びかけても返事はなく。
 草の上に広げたクロスの上に横になり、組んだ両手を枕代わりにティルは眠っていた。
「…………」
 クォン城に泊まる時、ティルはいつもセイの部屋にある予備のベッドを使うが、ティルの方が寝付くのは遅く、起きるのも早いために、セイがティルの寝顔を見たことは殆どない。
 少々物珍しくて、起こさないように気をつけながら、セイはそっと眠るティルを見つめる。
 こうして印象に残る涼やかな漆黒の瞳を閉じていても、母譲りという彼の顔立ちの秀麗さは際立っており、見ているだけでも少しだけ鼓動が速くなるような感じがして。
「……ありがとうございます。いつも僕のこと助けてくれて。今日みたいな御礼で良かったら、また幾らでもしますから……」
 そっとそっと囁き、セイは音を立てないようにしながら片付けを終え、自分もまた、クロス上に空いた空間に横になる。
 初夏を思わせる心地よい風と共に、遠い湖のさざなみの音、そしてさわさわとした葉ずれの音と鳥の声が聞こえてきて、セイは目を閉じる。
 そして。
 隣りで眠っていたはずのティルが、目を開き、ちらりとセイの方を見やって、
「──僕からの御礼は、またそのうちにね」
 楽しげに小さく囁いた声は、もうセイには届かなかった──。

End.

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