宵も更けて、喧騒に満ちていた城内が少しずつ静まり始めた頃。
コンコン、と正軍師の居室がノックされて。
「──少し、いいかな」
扉を開けた正軍師に、にこりと笑みかけたのは。
いまや同盟軍内で知らぬものはない、トランの英雄、その人だった。





「──軍主殿は」
「今、眠ったところだよ。やっぱり疲れているようだね」
「そうですか」
 勧められた椅子を断り、トランの英雄は出入り口のドアに軽く背を預けるようにして気楽な姿勢で腕を組み、卓の向こうの椅子に腰を下ろした正軍師を見やる。
「それで、何の御用ですか」
 相手が誰であれ、部外者と話すことなど何もない、と言いたげに、広げた書類に再び視線を落としながら問う正軍師に、しかしティルは表情を僅かに動かすこともせず。
「ちょっとね、忠告。君があまりにも、軍主を信じていないから」
 常と変わらぬ口調で、淡々と告げた。
「──どういう意味ですかな」
「その通りだよ。今回のミューズの件……。君はセイを試しただろう?」
「──…」
「あの子はハイランドの企みに気付いていた。しかも事前に、それを君に伝えたそうだね。なのに君は、自分の企みを隠したまま、セイを言いくるめてミューズに向かわせた。
 ミューズに赴いたこと自体は、ハイランドの意向を確かめるのに良い方法だったと認めるし、僕をセイの個人的な護衛に選んだのも良い判断だったと認めていいけれど、ビクトールを……そう、よりによってビクトールを会議場に遅れて向かわせることを隠したのは、軍主に対して重大な裏切りだよ」
「……私は裏切ったつもりなどありませんが」
「そう? でもセイは、ひどく傷ついていたよ。自分が子供で政治も軍事も何も知らないから、正軍師に大切なことを話してもらえないんだとね。ビクトールのこともそうだ。
 亡くなったアナベル市長と親しかったというのなら、彼は間違いなくミューズ市内の地理には熟知しているだろう。加えて彼の才覚があれば、どんな窮地に陥ったとしても最悪の事態にはならなくてすむ可能性が高い。──そう考えたのならそうと、事前にセイに告げるべきだった。ミューズで万が一のことが起きた時、一番頼りになるのはビクトールだと、そして彼は、そんな風に気を遣われることをむしろ嫌がるだろう、とね。
 なのに、君はその手間を惜しんだ。──それは何のためか? 答えは一つだ」
 ティルの漆黒の瞳が、まっすぐに正軍師を貫く。
「あの瀬戸際で。セイが幼馴染ではなく、同盟軍を選ぶかどうか。それを君は知りたかったんだ」
「───…」
 向けられた視線を、しかし正軍師は表情を変えることなく受け止めて。
「……だとしたら、どうだとおっしゃるんです?」
「別に。ただ、君は自分の思惑を優先して、精一杯に勤めを果たそうとしている軍主を裏切り、傷つけ、泣かせた。それがどういうことなのか、少し考えてもらいたい。それだけだよ」
「私が軍師失格だとでも?」
「受け止め方は君の自由だ」
 ティルは、あくまでも淡々と言葉を紡いでゆく。
 燭台でかすかに揺らめく蝋燭の炎が、扉を背に立つ秀麗な姿容をやわらかく照らし出し、その中で、ティルはわずかに目線を高く上げた。
「セイは確かに将としての教育は全く受けていない、市井の子供だ。けれど故ゲンカク師の手によって、人間としての教育は深すぎるほどに受けている。
 ゲンカク師を僕はよく知らないが、よほど高潔な人格者だったのだろうね。そういう人物に愛情深く育まれたあの子は、決して裏切らない、嘘もつかない。どこまでも真っ直ぐに、ひたむきに生きようとする強さと潔さをもった子だ。それを見込んで軍主に推戴したのなら、今更試すような真似をするのは愚かというものだろう」
「……確かにマクドール殿のおっしゃる通りかもしれない。しかし、軍主殿はまだ幼い。幼い心は、ともすれば揺れる」
「軍主となることを承諾して、ここまで戦ってきたセイが今更、幼馴染と再会して心を揺らすとでも? 甘すぎるよ、シュウ」
 軍師の名を呼び、ティルは小さく肩をすくめた。
「そんな甘い性根では、全ての星の頂点に立つ天魁星は務まらない。セイはすべてを覚悟して、その上でここに居る。強い子だよ」
 敢えて、天魁星、と彼自身も好んでいるわけではない呼称を口にして。
 ティルは、底知れず深い色をした瞳をシュウに向ける。
「軍師であるなら、己の策に異を挟むことなく用いる度量を持った軍主を最大限、尊重すべきだ。……少なくとも、マッシュは僕に何も隠さなかった。兵力も財力も、あらゆる面において情報を与えてくれたよ。だからこそ僕も彼を最大限、信じることができた。あのレオンですら、一般兵には何一つ知らせようとはしなかったけど、僕に対しては、己の採り得る策については常に報告を怠らなかった」
 マッシュ、とその名を口にした途端。
 ほんのかすかながらもシュウの表情に苦いものが走った。
「貴殿と軍主殿は、成長過程において大いに異なる面があります。それに私はマッシュ師とは違う。マッシュ師は既にこの世のどこにも居られない。比較する対象にはなりえない。それは貴殿が一番ご存知だろう?」
「君は何を聞いていた? 将としての教育を受けていなくても、セイは立派な軍主だ。敵と刃を交えることに躊躇いを覚えたりもしないし、戦場で臆することもなく判断も確かだよ。
 試しに、自軍と敵軍の短所長所と注意すべき事のみ伝えて、一軍を預けてみるといい。よほど不測の事態が起こらない限り、セイは必ず勝利する」
「…………」
「そして、マッシュは確かにもういない。けれど、彼の存在は……教えは、彼と接した誰の心の中にも残っているはずだ」
 静かに静かに、あるいはどこか優しい響きさえ滲ませて、ティルは今はもう亡き名軍師の名を繰り返し、唇に上らせる。
「僕は彼の生き方、高潔さを心の底から尊敬していた。叶うことならば、何事もなく戦争を終えて、彼をセイカの村に帰してあげたかったよ。彼が一番望んだ、子供たちとの平和な生活に戻らせてあげたかった。
 そして、彼の目で見て欲しかった。今のトラン共和国を。一旦、解放軍の軍師となってからは死ぬ間際まで、決して迷いや苦渋を口にしなかった彼の苦悩の答えを。子供たちが飢えることも帝国兵士に虐待されることもなく、元気に走り回り、楽しそうに学校に通っている様をね」
 そして、ティルは静かなまなざしで同盟軍の正軍師を見やる。
「マッシュの死は、間違いなく僕の責任だ。僕は彼の生き様も、最期も忘れない。……彼の死を持ち出したくらいで、僕を動揺させられるとでも思ったのかい?」
 穏やかな言葉は、皮肉ですらない、事実を告げる声だった。
「あいにく、そんな程度の性根ではリーダーは務まらなかったし、この魂喰いとも付き合えないんだよ」
 残念だったね、とティルは背を寄りかからせていた扉から身を起こす。
「さて、言うべきことは言ったし、それではお暇(いとま)しよう。夜更けに邪魔をして悪かったね」
「──マクドール殿」
「何?」
 呼び止められて、ドアノブに手をかけたまま、肩越しに振り返る。
 いつになく険しいまなざしで、正軍師はトランの英雄を見つめていて。
「何故、貴殿は他国の事にそこまで口出しをされるのか?」
 厳しく問う声に、しかしティルは、常のさらりとした風情のまま、答えた。
「ああ。君の気には障っただろうけどね。ちょっと見ていられなかっただけだよ。セイがあんまり辛そうに泣くから。このままだとセイも同盟軍も、ますます苦しいことになるような気がしてね、差し出口を叩いた」
「───…」
「心配しなくとも、だからといって、ここに居座るような真似はしないよ。明日、セイが起きたらグレッグミンスターに帰る。それじゃあね、おやすみ」
 今度こそ引き止める余地も与えずに部屋を出て、ティルは朧な月光の差し込む廊下へと足を踏み出す。
 城内のあちらこちらにいる不寝番の兵を驚かせないよう、完全に足音を消すことはせずに存在を明らかにしながら、ゆっくりと階段を昇り、最上階の城主の部屋へと辿り着き、敬礼する警護の兵に目礼を送ってから、そっと音を立てぬようにドアを開ける。
 そして、天蓋を開いたまま、淡い月光が落ちかかる寝台の様子を伺った。
 天魁星を背負った少年は、今は夢も見ない深い眠りに落ちているのだろう。呼吸は安らかで深く、その様にティルは口元に小さく笑みを刻む。
「……そうだね。今は眠るのがいい。深く眠って目覚めたら、明日からきっとまた頑張れるから……」
 小さく小さく呟いて。
 革手袋を外した右手で、そっと少年のやわらかな髪を撫で、そしてしばらくの間。
 ティルは静かにその場に佇んでいた。

...to be continued.

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