「こんな所に居たんだ」
 不意に降ってきた言葉に、背後を振り仰いで。
「……マクドールさん」
「探したよ。城内のどこにもいないから」
 ぽつんと名を呼ぶと、彼の人は優しい瞳で笑んで見せた。






 ミューズでの出来事から、四日が過ぎていた。
   軍師シュウの策により、ギリギリのところで窮地を脱して帰還したセイたちに対し、安堵まじりに、それみたことか、やはりハイランドなど信用するべきではない、という声や、あまりにも卑怯卑劣、今すぐハイランドを討つべし、といった声が幾つも、数え切れないほどに降ってきたが、それもそろそろ収まりつつある。
 そして今朝、初夏のさわやかな日差しに誘われるように、ふらふらと一人、広大な城の敷地をさまよっていたセイは、南側の角地のちょうど木々に遮られた向こう側、土手のようになった場所に辿り着き、何となく日当たりのいいそこに座り込んでしまった。
 土手の傾斜と、若葉を勢いよく広げた木々が目隠しになって、誰一人、軍主がそこに居ることには気付かず。
 いつの間にか、太陽は天頂を過ぎて。
「もうすぐお茶の時間なのにセイが居ない!ってナナミちゃんが大騒ぎしてたけど」
 とん、と軽い足取りで傾斜を下りてきた人を、どこかぼんやりと見上げて、セイは小さく首を横に振った。
「今日は、午後のティータイムはキャンセル?」
「……はい」
「そう」
 咎めるでも何でもなく、さらりとうなずいて、ティルはセイの隣りの地面を指差した。
「いいかな?」
「はい、もちろんです」
「ありがとう」
 流れるような身のこなしで腰を下ろした人を見つめ、セイは首をかしげる。
「マクドールさん、今日はどうしてお城に……?」
「うん。ちょっと気になったから」
「気に?」
「そう。色々とね」
 にこりと笑んで、ティルは答えて。
 セイは小首をかしげたまま、ひどく優しく見える漆黒の瞳を見つめた。
「……あ、そういえば僕も、マクドールさんに言わなきゃいけないことがあったんです」
「何?」
「五日前。ミューズで。マクドールさんがああ言う風にレオンさんに言ってくれなかったら、きっとビクトールさんも間に合わなかったから。本当は僕が時間を稼がなきゃいけなかったのに……。ごめんなさい。それから、ありがとうございました」
「御礼なんて言わなくていいよ。あの時、レオンを牽制するには僕が一番適任だったから、そうしただけなんだから。ましてや謝る必要なんてない」
「でも助けてもらったのは、本当ですから。ありがとうございます」
「いいってば」
 セイは本当に真面目だね、とやわらかく苦笑しながら、ティルは手を伸ばし、セイのやわらかな茶髪を撫でる。
 その優しい感覚に、ようやくセイの表情にわずかながらも光が戻って。
 さや…と葉ずれの音を立てて通り過ぎてゆく風に、二人の髪がかすかに揺れた。
「……セイ」
 三十を数えるほどの沈黙の後、短くティルが名を呼ぶ。
「はい、マクドールさん」
「聞きたいんだけど……君はどうして、今回の和平交渉が偽りだと気付いたんだい?」
「───…」
 実に何気なく、答えたくなければ流してしまってもいい、と言いたげに紡がれた問いかけに。
 セイは目をみひらいて。
 それから吹き抜ける風に渇きを覚えた花のように、小さくうつむいた。
「……自分でもどうしてそう思ったのか、本当のところはよく分からないんですけど」
 ぽつりと呟くように言ったセイに、ティルも少しだけ居住まいを正して。
 そうして長い長い話が始まった。






「昔、じいちゃんに言われたんです。人と人が争う時には、絶対に理由がある。だから、喧嘩をした時や喧嘩しそうになった時は、どうして自分が腹を立てたのか、よく考えなきゃいけないって。
 相手の言った事やした事が、どうして許せないと思ったのか。自分が正しいと思ってる事と違っていたのか、大切なものを否定されたのか、それとも本当は図星を差されたからなのか、相手が羨ましかったからなのか、自分が勝手に期待していた事と違う事を相手がしたからなのか……。
 そして、自分が間違っていると思ったら、どんなに気まずくても直ぐに謝りに行く、もし相手が間違っていると思ったら、相手が本当に大事な人間ならそれを伝えに行かなきゃいけない。それが自分と相手を大切にするという事だって……。
 それで、僕、ずっと考えてたんです。ここの軍主になって欲しいって言われた時から。戦争と喧嘩じゃ全然違うかもしれないけど、どうしてハイランドと都市同盟が仲良くできないのか……。どうしたら仲良くできるのか……」

「キャロの街の人たちは、いつも都市同盟なんかなくなればいいのに、って言ってました。そうしたら戦争が終わるから。平和になるのにって。
 でもね、マクドールさん。僕の知ってるハイランドの人たちは、都市同盟の領地が欲しいとか、都市同盟の持ってるモノを欲しいっていう人たちは居なかったんですよ。家族を戦争で亡くした人は、皆殺しにしてやりたいって言う人もいましたけど……。
 で、都市同盟に来たら、やっぱり皆、同じ事を言うんです。ハイランドは信じられない、あんな国はなくなればいい、って。ハイランドを征服して領地を都市同盟のものにしたいとか、ハイランドの特産品って僕はあまり知らないんですけど、とにかくそういうモノを都市同盟のものにしたいって言う人は居なくて」

「だから、原因はやっぱりよく分からないんですけど、とにかくハイランドは都市同盟を信用できなくて、都市同盟はハイランドを信用できない、それが戦争の理由なのかなって思ったんです。
 じゃあ、お互いを信じられるようにするにはどうしたらいいのかなって。……少なくとも、すぐには無理だって事は分かってました。詳しいことは知りませんけど、ルカ・ブライトは、うんと小さい頃に都市同盟の策略で、死ぬような目に遭ったことがあるんですよね? 気性の激しい皇子だということは皆が知ってることだし、それが原因だっていうのなら、ちょっとやそっとのことじゃ都市同盟を許さないだろうなって。都市同盟を皆殺しにしたいと思っていても、それはどうしようもないのかなって思ったんです。
 でも、ルカ・ブライトを僕たちが倒して、気がついたらジョウイが新しいハイランド皇王ってことになっていて……」

「どうしてジョウイがハイランド皇王になろうとしたのか。それは多分、僕とナナミ、それからピリカのためなんです。
 ジョウイと僕はハイランドに裏切られて、ピリカも目の前でお父さんとお母さんを殺されてしまって。それがジョウイはすごく辛かったんですよ。僕も辛かったけど、ジョウイはきっと僕以上にそう感じていて。だから力が欲しいって、この紋章を……。
 でも、足りなかったんです、きっと。真の紋章を手に入れても、ジョウイにとってはそれでも全然足りなくて……。
 多分、ジョウイも僕と同じ事を考えたんですよ。ルカ・ブライトが居る限り、ハイランドと都市同盟の戦いは続くって……。どちらかが滅びるまで、悲しいのは終わらないって……」

「だったら、今回の和平交渉の話も素直に信じればよかったのに、って思うでしょう? 僕はジョウイの気持ち、分かってたんですから。
 皆も言ってました。ルカに代わったハイランドの新しい皇王は若造だから、将軍たちはきっと不安になったんだろうって。それに新皇王は同盟軍軍主の幼馴染なんだから、もう戦いたくないと思ってるだろうって。
 僕も……僕だって、そう思いたかった。もしかしたら、そうなのかなって。僕とジョウイが握手をしたら、もしかしたらこの悲しいばっかりの戦争が終わるかなって。
 ……僕、テレーズさんにも聞いたんですよ。ミューズに行く前に、どんなのが『平和』だと思いますかって。そうしたらお互いに信じあって、交易したり人が自由に行き来したり、今すぐじゃなくてもいつかそうなったらいいってテレーズさんは答えてくれて……。そんな風になったらすごくいいなって、僕も思ったんです。今回の話し合いで、どんなにちっちゃくても可能性が生まれたらいいのになって。でも……」





「でも……! だったらどうして、ジョウイはまだ傍にレオン・シルバーバーグを置いてるのかって……!!」





悲鳴のような声と共に、セイの瞳から涙が零れ落ちて。

「僕は知ってるんです……。元は一つだった、この紋章が教えてくれたから。グリーンヒルを陥としたのも、ジル皇女との結婚式でアガレス王を毒で殺したのも、ルカ・ブライトを僕たちに倒させたのも。全部全部、ジョウイのしたことだって……! 
 それが、ハイランド皇王になるための行動だったのは分かってます。絶対に許されないことだけど、僕たちのために敢えてやったことだったって。でも、目指していた皇王になったのに、どうしてまだ、誰もが恐ろしい人だって言うレオン・シルバーバーグを傍に置いているのか。そう考えたら、僕は……!」

「──信じる、べきだったのかもしれない。それでもジョウイのために。僕たちのために、そこまでしたジョウイのことを思うのなら、信じて、うなずけば良かったのかもしれない。
 でも、あそこで僕がうなずいたら……! テレーズさんも、ビクトールさんも、皆……同盟軍の人たちは皆、僕とナナミ以外、ハイランド軍に殺されて誰も残らない……!!」

「ハイランドは、皇王のジョウイが言うから、僕とナナミだけは仕方なく助けようと思ってたんです。でも、僕たちを手に入れたら、あとはもう関係ない。ジョウイがたとえ、もうやめようって言っても、レオン・シルバーバーグはきっと止まらない。
 ルルノイエの玉座に座ったジョウイの隣りで、皆を裏切った僕は、戦争に負けて捕虜になった皆を……首だけになったビクトールさんやフリックさんやシュウさんを検分することになる。もしかしたら僕自身が、この手で皆の首を刎ねるのかもしれない。──そういうことなんです、あそこでジョウイが僕に言ったことは……!!」

「そんなこと、絶対にできない!! 人間として、絶対にしちゃいけないことなのに、どうしてジョウイ……!!」







 語り始める前の、少しぼんやりした様子が幻だったかのように慟哭するセイに、ティルはそっと手を差し伸べる。
 そして成長期にさしかかったばかりの細い肩を、自分の胸に抱き寄せた。
「……よく、耐えたね」
 静かに、静かに、ささやきかける。
「誰にも、何も言わずに……。本当に、よく耐えた。……大丈夫だよ、今は誰も居ないから」
 優しく包み込むように、温もりにすがりつくセイを抱きやり、ティルはただ慰めるためだけに少年の背を撫でる。
「……ナナミ、は」
 嗚咽しながら、それでもセイは全ての想いを吐き出すように言葉を紡いで。
「ナナミは、こんなこと、考えないんです。ジョウイも僕も、半年前と同じままだって。そう信じてて……ううん、信じたいのかな。だから、前みたいにって言い続けてて……。
 ──でも、それでいいと思うんですよ。ジョウイのためにも、僕のためにも。元通り仲良くしようって、誰かが言ってくれてないと、僕たちは、もう……!」
 ──呆れるほどに狭かった子供の世界は、いまや大きく大きく、果てが見えないほどに広がり、何も知らなかった頃にはもう戻れないのだと。
 楽しかっただけの日々には、もう帰れないのだと。
 固い殻を破り、鋭く尖ったその隙間から抜け出て翼を広げる痛みに、少年は魂を振り絞るように哭き続ける。
「セイ……」
 小さく名を呼んで。
 ティルは、今だけは細い身体を過ぎゆく風から庇うように、両腕で抱きしめる。
 その腕の中で、セイはひたすらに泣いて。……泣いて。
 ティルはその間中、何も言わず、背を撫でる手を止めることもしなかった。










「はい」
「……ありがとうございます……」
 手渡された、濡れたタオルを素直に目に押し当てる。
 泣きすぎた目は、きっと真っ赤に腫れ上がってしまっているだろう。鏡を見なくても分かるほどに、目の周りまでが熱を帯びていて、少しばかりの痛みも感じる。
 ひやりと冷たい濡れタオルの感触に、ほっと息をつくと、彼が再び、自分の隣りに腰を下ろす気配を感じた。
「……マクドールさん」
「うん?」
「ありがとうございました。それから、ごめんなさい。変な話を聞かせちゃって……」
 くぐもった鼻声を、少しだけ恥ずかしく思いながら、訥々と感謝と謝罪を告げる。
 と、隣りの気配が、ふっと苦笑いするように微笑んだ。
「聞かせて欲しいと言ったのは僕の方だよ。僕こそ謝らなきゃいけない。辛いことを訊いてごめんね、セイ」
「そんなこと……。マクドールさんは、『訊いてくれた』んでしょう? 僕の考えてることも、僕が軍主だから誰にも何も言えないでいることも、ちゃんと全部分かっていて、それで……」
「それは買いかぶりだよ、セイ。僕はそこまで洞察力のある人間じゃない」
 ただ、とよく透る声が続けた。
「あんなことがあった後だから。グレッグミンスターに戻ってからも君がどうしているのかは気になったし、もし今、僕にできることがあるのなら、力を貸してあげたいと思った。それだけだよ」
「……全然、それだけじゃない気がしますけど。でも僕を心配してくれて、今日もわざわざ来てくれたんですよね? だったらやっぱり御礼を言わないといけないです。それと、心配させてしまって、ごめんなさい」
「……いいって言ってるのに、まったく……」
 小さな苦笑と共に、ふわりと頭を撫でられる。
 そして。
「セイ」
「はい?」
 名前を呼ばれて、セイは目に濡れタオルを押し当てたまま、隣りにいる人を振り仰いだ。
「僕は、君に協力すると約束した。僕もリーダーだった時期があるから、少しだけ、君の気持ちも理解できるから。何か手伝えることがあるのならいいと思ってね。──だから、何も気にしなくていい。全部、僕が自分の意思で、好きでやってることなんだから」
「マクドールさん……」
「……そうだね、僕が君に何かを望むとしたら、一つだけ。君は君のままで居てくれたらいい。この先もきっと辛いことも悲しいことも沢山あるだろうけど、君の中にはゲンカク殿の教えて下さっただろう大切な事がいっぱいに詰まっているし、大勢の仲間もいる。ナナミちゃんもいる。
 そういうことを全部、最後の最後まで大事に忘れずにいてくれたらいい、と思うよ」
 僕が言っていることは、君にとってものすごく大変なことだろうけれど、と抑揚の少ない、けれどどこまでも耳に残る響きの声で告げて、ゆっくりと彼の手が離れてゆく。
 泣いていた間中ずっと感じていた温もりと優しい感触が遠ざかるのを、少しだけ……否、かなり寂しく思いながら、
「……はい、マクドールさん」
 セイはうなずいた。
「僕、頑張りますから。今日は泣いちゃいましたけど、でも絶対、頑張りますから。だから……見てて下さいね」
「うん。約束するよ」
 少し前に交わした約束を繰り返して。
 二人はしばらく、湖からそよいでくる風に身を任せる。
「……もう少ししたら日も傾いてくるから、そうしたら君の部屋に戻ろうか。今日はお昼も食べてないんだろう?」
「あ……、はい。何か、おなか空かなくって。マクドールさんに声掛けてもらうまで、午前中からずっと、ここでぼうっとしてました」
「やっぱり。じゃあ、部屋に戻る前にレストランに寄って、部屋でも食べられる料理を何か見繕ってもらうことにしようか。で、それを持って、部屋でゆっくりお茶を入れて一緒に食べよう」
 水分補給もしないとね、と言われて。
「そう、ですね。この目じゃちょっと、レストランで御飯、食べられないですよね……」
「皆が気にしてしまうからね。仕方がない」
 溜息混じりに笑う声に励まされるように、セイはゆっくりと目に当てていた濡れタオルを外す。
 そして、隣りを見上げた。
 いつの間にか低く傾いた日差しの中、凛と艶やかでありながら優しい漆黒の瞳は、思った通りに直ぐ傍にあって。
「もう、あんまり目は痛くないんですけど。まだ腫れてます?」
「うーん。まだ少し、かな。でもこれくらいなら、もう少し日が暮れてくれば、ごまかせると思うよ。幸い、今日は天気がいいから夕焼けも綺麗だろうし」
「良かった……」
 ほっと息をつくと、ティルは小さく笑って、今度はぽんぽんと軽く叩くようにセイの髪を撫でる。
「何にでも一生懸命なのは、君のいいところだけど、ほどほどにね。道程が遠い時に頑張りすぎると、途中で息切れをしてしまうから」
「……はい。……そういうとこ、昔っから僕、不器用なんですよね。で、いっつもナナミに道場の掃除当番や庭の草むしりを押し付けられたりとかしてて……」
「あー。何だか光景が目に浮かぶね」
「そうなんですよ。ナナミだって別に要領いいとは思わないんですけど、何でか勝てなくて……」
「彼女は『お姉ちゃん』だからね。『弟』は一生、頭が上がらないものだよ」
「………それって……。──いえ、いいです。考えると僕、落ち込むかも」
「あはは」
 ティルは朗らかな笑い声を立て、眉をしかめていたセイもつられて笑って。
 二人は明るいまなざしを交し合う。
「じゃ、そろそろ行こうか」
「はい。……あ、ナナミに見つからないようにしないと……」
「大丈夫。さっきタオルを取りに行った時に確かめたら、畑の方でユズや動物たちと遊んでたよ。あの調子なら多分、しばらく戻ってこないだろうから」
「そうですか。ありがとうございます」
「何でもないことだよ、これくらい」
 身軽に立ち上がり、服についた草の葉や砂を軽く払ってからティルは左手をセイに差し伸べた。
「行こう」
「……はい」
 誰かに手を引いて欲しい、引いてもらわないと歩けない年齢ではなかったけれど。
 今だけは、差し伸べられた手に甘えてセイは自分の右手を、彼の手に重ねる。
 そうして二人は、ゆっくりと城内に向かって、橙色を帯び始めた日差しの中を歩き始めた。
 

...to be continued.

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