Heven's Door  -01 pure heart-









 がたん、ごとんと車輪がレールの継ぎ目を乗り越える一定の音と揺れに身を任せながら、もう随分と長いこと、頬杖をついて窓の外を眺めていた。
 今朝、イーストシティ駅を出た時には、人々を圧倒するくすんだ色の町並みばかりが視界を遮っていたが、今はもう、のどか、とか鄙びた、とか形容の仕様がない田園風景が、なだらかな丘陵の端まで続いている。
 車窓から見える風景こそ悪くはないが、イーストシティからリゼンブールまでは、汽車で丸半日。少なくとも半年に一度は乗車する路線だから、もう慣れはしたが、それでも三等客車の堅い椅子に座りっぱなしなのは正直、辛い。
 もともと、本を読む時や調べ物をしている時以外、じっとしているのは苦手であるし、それに長時間身動きせずに居ると、次に動いた時に機械鎧との接合部分が痛む。生身の人間でも、ずっと椅子に座っていると、立ち上がる時に膝の靭帯などが痛むことがある、それと似たようなものだ。
 加えて、今日は弟のアルフォンスすら、同席していない。
 普段なら、一人の時は周囲の乗客と会話したりして──それを楽しみにしているからこそ三等客車を選ぶのだ──、それなりに面白く過ごすのだが、今日は同行者が同行者だけに、乗客は時折、微妙な視線を向けては来るものの、それ以上のリアクションを起こすものはいない。

(なんで、こんなことになるかなー)

 思わず溜息をつきたくなる気持ちを抑えて、ちらり、とエドワードは、向かい側の座席に腰を下ろしている同行者へと視線を向ける。
 彼が、その方が乗車賃が安いからとアルフォンスを貨物扱いし、貨車に放り込んでくれたおかげで、こうして暇を持て余しているのだ。
 別段、彼が悪人というわけではないし、嫌っているわけでもない。むしろ、少々暑苦しいものの、信頼に足る好人物だと評価している。
 けれど、それと現状とは別の話で、こんな空白時間をもたらしてくれたことを、今は少々怨みたい気分だった。

(今は何にも考えたくないのに、な)

 目を閉じると、この数日に遭遇した数々の場面が瞼の裏をよぎる。
 ならばと目を開けていても、思い浮かぶのは、やはり苦く重い事件の余韻ばかりだ。
 現実逃避をしたいわけではない。だが、一人でそのことばかりに思いを向けていると、底無しの奈落に墜ちてしまいそうな感覚を覚える。
 それは単なる気のせいではなく、本能的な危機回避の警告、あるいは予感だったから、己の内に眠る昏い感情に囚われることのないよう、思考を散らしていたかった。
 それなのに、現況ときたら。

(別に少佐が悪いわけじゃないけど。俺たちの護衛をするよう少佐に仕向けたのは、あいつなんだし。勝手に人の過去をぺらぺらしゃべりやがって……)

 脳裏に、一人の人物の姿が思い浮かぶ。
 途端、その相手のすかした、と形容したいほどに涼しくもふてぶてしい表情や、鋭い黒い瞳、艶のある黒い髪に、有事に身につけられる赤い錬成陣を描いた白手袋と、次から次に連鎖的に思い浮かんできて、エドワードは苦虫を噛み潰したような顔になった。

(あー、ムカつく)

 ロイ・マスタングという自分の監督官を思うたび、あるいは顔を合わせるたび、腹の底からむかむかと何かが込み上げてくるのは、それこそ初めて知り合った4年前からずっとのことだ。
 何が悪いというわけではない。
 彼が野心家なのも、認めたくはないが非常に有能な軍人であることも、技に長けた錬金術師であることも、キーワードとして並べる分には全く悪くない──むしろ、感心、あるいは共感できる部分も多いはずなのである。
 なのに、それらがロイ・マスタングという固有名詞の下に結集すると、どうしてこうもいけすかなくなるのか。出会った時以来の謎だった。

(……別に、嫌い、じゃないんだけどな)

 事あるごとに神経を逆撫でされるのは事実だが、しかし、だからといって、それは嫌悪に直結するものではない。
 こちらのことを出世の道具と言いながら、何かと便宜を図ってくれてはいるし、笑顔の裏で何を企んでいるのか知れたものではないが、向ける態度も好意的で、昨夜もかなり高そうなレストランで夕食を奢ってくれたのだ。
 それなのに、こんなにまでも神経を逆撫でされるような気がするのは。

(……大佐が、大人、だから、か……?)

 彼は決して、こちらを子ども扱いしたりはしない。三年前に国家錬金術師の資格を得た時は、まだ十二歳のほんの子供の年齢だったにもかかわらず、その時点で既に保護者面をしたりはしなかったし、一応上官としての言動をしはするものの、ほぼ対等に近い接し方を今までしてくれている。
 だが、そんな『大人』のやり方が、もしかしたら自分の中にある焦燥を煽るのかもしれない。
 ──もっと自分が大人だったら。
 ──もっと慎重に物事を考え、立ち回ることができていたら。
 そんな思いは、いつでも自分の中にあって、ともすれば焼け付くような灼熱となって己の心を苛む。
 だからこそ。
 涼しい顔で、野心に見合うだけの能力を持って、着々と進んでゆく『大人』の彼が妬ましいのかもしれない。
 彼のことを思い浮かべるたび、顔を突き合わせるたびに込み上げてくるむかむかが、もしそうなのだとしたら。

(うわー。俺って最低かも……)

 初めて思い当たった、というか、初めて深く考えた己の心理のありようにエドワードは内心、頭を抱える。
 そんな幼稚な反発心が自分の中にあったということが、ひどく恥ずかしい。
 けれど。

(あー。でも絶対、次に会ったら態度改めるとか無理そう)

 もう顔を見た瞬間、脊髄反射的にむかつくのだ。そこに理屈などありはしない。
 そして向こうもまた、いつもの涼しい顔でこちらの神経を逆撫でするようなことを言うのに決まっている。

(──そうだよ、何も俺だけのせいじゃねえだろ。子ども扱いはしなくたって……)

 何か言われたら反応せずにいられない自分を、彼は絶対に面白がっている。あれは確信犯だ。

(うおームカつく!)

 じたじたと暴れたくなったが、ここは汽車の中だ。かろうじて自制はしたものの、むかむかは収まらない。
 ああもう、とまだ遠いリゼンブールに着くまで不貞寝でもしようかと、姿勢を楽なものに改めなおそうとした時。向かい側に座り、目を閉じている巨漢が目に入った。
 イーストシティ駅を出る時には乗客が満員だったため、二人がけの座席に並ばざるを得ず、非常に狭苦しい思いをさせられたが、汽車が郊外に出て幾つかの駅に止まった後は座席にも余裕ができて、今はこうして向かい合わせになっている。正直なことを言うのなら、全然違う座席に位置取りたいのだが、しかし護衛という名目がある以上、彼の手の届く範囲にいなければならない。そういう意味では、精神的にはまだ少々窮屈なままだった。
 エドワードとしては、本当に護衛などいらない、鬱陶しい、と思っているのだが、何しろ右腕が壊れ、練成ができない現状では断りようがなかったのである。

(本当に妙な所でおせっかいなんだよな。おまけに、事後処理が面倒だから私の管轄内で死ぬことは許さん、なんて伝言までよこしやがって)

 ヒューズに託された伝言は間違いなく本音だろうが、おそらく、その裏には彼らしい気遣いが隠されているのだろう。そんな言い方をされたら、自分の性格上、絶体絶命のピンチに陥っても、死んでたまるか、と意地だけで踏ん張るに違いない。
 ただでさえムカつく相手に、こちらの性格を見越されているという現実に、更に神経を逆撫でされて、エドワードは八つ当たり気味に、向かい側のアームストロングを睨みつける。
 目を閉じてはいても、眠っていないことは分かっていた。護衛という役務を放り出すような人間では、彼は決してない。
「──なあ、少佐」
「うむ?」
 案の定、声をかけるとすぐに、彼は目を開けてこちらを見た。
 色素の薄い青い瞳は、一見、酷薄そうにも見えるが、実は全くそうではないことを知っている。そして、彼がまた、所属が違うはずの黒髪黒眼の大佐に対し、大いなる敬意を払っていることも。
「少佐って、大佐と付き合い長いのか? ヒューズ中佐は士官学校の同期だって聞いたけど……」
「──うむ」
 返事は、即答というには微妙な間が、ほんの僅かではあるが挟まった。
「我輩がマスタング大佐と面識を得てから、かれこれ六年ほどになる」
 六年、と口の中でエドワードは繰り返す。
 六年前といったら、自分は九歳。そしてその頃、この国は。
「……そっか」
 あえて触れないようにして、溜息をついた。
「結構長いんだな。それとも、俺がまだ十五年しか生きてないから、六年って聞くと長く感じるのかな」
「いやいや。大人でも六年は決して短くはない。振り返れば、もう六年も過ぎたのかとも思うし、まだ六年しか過ぎていないのかとも思う。それが十年でも二十年でも同じことだ」
「そういうもの?」
「うむ」
 そっか、ともう一度呟く。

 ──今から五年前に終結した、イシュヴァール内乱。
 アームストロングも彼も、国家錬金術師として参戦したのだと、つい先日、聞いた。
 エドワードにとっても、かの内乱は全くの他人事ではない。幼馴染のウィンリィの両親は、軍医として従軍し、共に帰らぬ人となった。他にも、リゼンブールは小さな町であるが故に片手で数えられるほどの人数ではあるが、兵士として出征し、帰ってこなかった男たちがいる。
 だが、それらは他人事とまではいかなくとも、子供だった自分には少々遠い世界の話だった。
 国家錬金術師となった今でさえ、イシュヴァール内乱は爪痕を至る所に残してはいるものの過去の話となりつつあり、エドワードが戦場を身近に感じる機会は、運良くというべきか、これまで一度もない。
 だが先日、決して多くを語りはしなかったが、ロイ・マスタングの口から告げられた戦場の話は、ひどく生々しかった。
 エドワードは、本物の戦場を知らない。人を殺す感触も知らない。
 何も知らないからこそ想像するしかできず、それゆえに、ただ恐ろしい、と思った。
 戦場も、そこに立つことも。
 ひとたび戦争が始まれば、自分もそこに行かねばならないのだという現実に、心の底でおびえた。
 そして、かつて彼がそこに立っていたという事実も。
 改めて目の前に突きつけられたような気がした。
 彼は、いつも口では独善的で酷薄そうなことばかりを言うが、中身は決してそうではない。そんな彼が身を護る術を持たぬ女子供や老人に至るまで、すべて殺しつくす作戦に苦悩し、傷つかなかったはずはない。
 けれど、戦場において軍令に逆らうことは死を意味しており、そしてまた、彼の中にある何らかの『理由』のために、彼は戦場に立ち続け、おそらくは多くの命をその手にかけたのだろう。現在異例の出世を遂げていることから考えても、その戦場でも、彼はずば抜けて有能だったのに違いない。
 そのことをエドワード自身は、責めようとも嫌悪しようとも思わない。戦争とは、軍人とはそういうものなのだろうということくらい、この国に生まれて育てば理解できる。
 ただ、自分なら耐えられなかっただろう凄惨な戦いを、彼が戦い抜いたことは、とてつもないことだ、と感じた。
 そして、もう一つ。

「……大佐って、良く分かんねーとこあるよな。冷めてるようで熱かったり、冷たいようで妙におせっかいだったり」
 ぽつりと呟く。
 それは本当に独り言に近く、聞き逃してくれても良かったのだが、あいにく目の前の人物は律儀を絵に描いたような好漢だった。
「マスタング大佐は、己にも他人にも厳しい方ではあるが、そこには厚い情がある。だからこそ、ホークアイ中尉やハボック少尉といった有能な部下が、大佐の下には集まるのだ。我輩とて大佐に助力を求められるのであれば、それがどんな困難を伴おうとも、一肌でも二肌でも脱いで見せようぞ!」
「いや、だからそこで脱がなくてもいいから!」
 今や恒例となっている、むきむきを披露すべくポーズを取りそうになったアームストロングを慌ててエドワードは制する。
 これさえなければ完全無欠の好人物なのだが、と思いつつ、この筋肉少佐に、ここまでの敬愛を受けている彼のことを思う。
 アームストロングの言う通り、彼の傍には人材が集まっている。そして、主だった五人の直属部下も、親友だというヒューズ中佐も、単に有能というばかりではなく、それぞれに一癖も二癖もありながら、親しみやすく温かな情のある大人たちだ。
 そんな人々に取り巻かれるような彼が。

 ──イシュヴァールのような戦場に立っていたなんて。

(……可哀想、なんて思うのは筋違いだし、失礼だよな。でも……)
 ひどく哀しいことだ、と思う。
 彼が今も尚、非情の軍人として在るからこそ、余計に彼の中にある痛みを量りたくなってしまう。
 けれど。
(何を見て、何を聞いたか、なんて絶対に俺には言わないんだろうな)
 それは決して意地悪でも何でもなく。
 ……多分。
 多分、ではあるが、護られているのだろう、と思う。
 もしかしたら、五人の直属部下に対するのと同等くらいの気遣いは、おそらく自分にも向けられていることは、少し前から気付いている。
 必要以上の事を口にしないのも、おそらくはその一環であり、また、たとえばエドワードが軍規に触れるようなことをしようとしたら、彼は他の誰でもないエドワード自身のために、他者に知られる前に身を張ってでも止めようとするだろうし、上層部から切り捨てるよう命令されても、反射的にそうしなくてもすむような抜け道を探そうと頭脳を振り絞るだろう。
 普段、反発してばかりの自分なのに何故、と聞いても仕方がない。おそらくは、それが彼の性分なのだ。あるいは、彼もまた『誰も失くさない』と、いつかどこかで心に決めたのかもしれない。
 ──そんな彼に。
 本当は、感謝していないわけではないのだ。
 優しい言葉は決して向けない代わりに、容赦なく厳しい言葉で道がまだ続いていることを、自分がまだ途上にいることを教えてくれる。
 それが自分にとって、どれほどの意味を持っているのか。本当は、一番初めに会ったあの日から、ずっと分かっている。
 だからといって、顔を合わせればやはりムカつくし、相手の神経を逆撫でする言動に怒り狂わされて、悪口雑言を口にせずにはいられないのだけれど。

(……あんたって馬鹿だよな。俺も馬鹿だけど)

 これだけは何と引き換えにしても、と心に定めた唯一を持っている者は、得てして心の輪郭とでもいうべきものが似るのだろうか。
 きっと今頃は、傷の男の探索に部下たちも総動員しつつ、彼自身も不眠不休に近い状態で陣頭指揮を取っているのだろう。そして、それは勿論、出世のため野望のためというのが第一意義なのに決まっている。
 でも、きっと。
 ──これ以上、誰も殺させない。これ以上、市民に不安を与えない。
 そんな思いが、おそらくは一番根底で彼を突き動かしている。
 買い被りかもしれない。けれど、きっと間違ってはいない、とエドワードは目を閉じる。

(……不器用大佐)

 窓の外の景色は、いつまで経っても田園風景のままで目新しいものは何もない。
 リゼンブールまでは、あと二時間ほど。一眠りするには、ちょうどいいくらいの距離だ。気候も程よく温かく、窓から入ってくる風も心地よい。
 がたん、ごとんと規則正しく揺れる車輪と、風に乗って時折聞こえてくる機関車が蒸気を吹き上げる音に身を任せて、一人の男の姿を脳裏に思い浮かべながら、エドワードは束の間の眠りに落ちていった。






episode01 as end.




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