Heven's Door  -prologue-










 今日もイーストシティの空は、薄く曇っていた。
 気候ばかりでなく、街並みに林立する煙突からの煤煙も影響しているのだろう。セントラルに比べれば余程マシではあるものの、この地方都市の上空がが美しく晴れ渡ることは、決して多いとはいえない。
 そんな到底心安らぐとはいえない窓の外の風景になど目をやることもせず、有能な副官の手によって芸術的なまでに積み上げられた書類の山を、さすがにどうにかせねばならないか、と諦めの溜息をついたのは今朝。
 以来、今日はひたすらに書面に目を通し、署名をするという非常に地味な仕事に従事していた。
 そうして、空を薄く覆った雲の向こうで、ゆっくりと太陽が天頂を通り過ぎてゆき、そろそろランプに火を入れなければならない時刻になった頃。
 コンコン、と執務室のドアが鳴った。






「開いているぞ」
 今日一日で山積になっていた書類の大半は片付いていた。残りは数十枚というところだが、とっとと決裁してしまおうと決めたからには、今日中にできる限り処理してしまいたい。
 そんな思いで、書類に目を落としたまま、ノック音に答える。
 と、すぐにドアは軋み音もなく開いて。
「一人きりの時に相手も確認せずドアを開けさせるなんて、無用心じゃないのか?」
 室内に響いた少年の声に、ロイは顔を上げた。
「鋼の」

 思いがけないの来訪者に、少しばかり驚く。
 彼がまだ、この街に居ることは知っていた。だが、こんな風に、こんな時刻に彼が心の底では嫌っている軍部に顔を出すとは、さすがに予想外だったのだ。
 この数日の間に起きた事件の処理は、少なくとも第一段階は終了しつつあり、被害者の一人である彼が調書に応じたり、報告書を提出したりする必要も、もうない。
 それであるのに何故、と思ったが、しかし、こちらからの問いは控える。
 説明する必要があると思うのであれば、彼の方から口にするだろう。説明しようという気がないのであれば、わざわざ問う必要も無い。ただ、何か思うところがあって来た、その事実さえ上官の自分が把握していれば、軍部にとっては彼の心の中にある理由など、追求するだけの意味はなかった。

「誰が来ようと対処できると思ってるのかもしれねーけど、自信家も程々にしておかないと、後で泣く羽目になるぜ」
「私を泣かせられる輩が居るのなら、是非ともお目にかかってみたいものだな」
 ふん、とロイは手にしていた万年筆を書類の脇に置く。
 そして、両手の指を組んで、目の前の鋼の二つ名を背負う少年を見やった。
「それで? わざわざ司令部まで出向いて来て、何の用件だ?」
「別に。用があって来たわけじゃねーけどな」
「けど?」
 その問いかけに、エドワードは即答しなかった。
 つかつかと歩み寄ってきてロイの前まで来ると、くるりと背を向け、とすんと執務卓に寄りかかる。
 そのまだ成長途上の背にまとった赤いコートの片側、右腕の部分が不自然に落ち込んでいるのを、ロイは見るともなしに見つめた。
「──礼を、言っておくかと思ってさ」
「礼?」
 何のことかと思った。
 階級こそ大佐であるロイの方が上だが、エドワードとは同じ国家錬金術師同士であり、互いに極力貸し借りは作らないようにこれまで関係を維持している。
 万が一、相手の手を借りるような事態が生じれば、即刻、貸しを請求し、請求された方も早急に借りを返す。この三年間、そうして付き合ってきたのだから、今更礼を言われるようなことなどあるはずもない。
 むしろ、この相手に礼を言われるなど気色悪いと表現する方が正しく、ロイは実際にそう口にしようとしたが、それよりも一瞬、少年の声の方が早く響いた。
「あんたの言うことは、いつも嫌になるくらい図星で、だから、すっげえムカつくけど」
 ロイに背を向け、廊下側の壁を見つめたまま、エドワードは続ける。
「でも、いつも俺に何をするべきなのか、思い出させてくれる。三年前も、五日前も」
「────」
「ものすごく、ムカつくし癪に障るけど。一応、礼を言っとく」
「……とてもではないが、礼を言う態度じゃないと思うんだがね」
 ぶっきらぼうな少年の言葉に、ロイはうっすらと口元に笑みをにじませ、一つ息をついた。

 ──五日前、この街で一人の国家錬金術師が死んだ。正確には、殺された。
 その日、目の前の子供は、巡り合わせ悪く遭遇してしまった事象に、酷く傷ついていた。
 遭遇してしまったことにではなく、遭遇したにもかかわらず、自分が何一つ救いの手段を持たないことに、傷ついて、降りしきる雨の中、弟と二人、目に見えぬ何かに全身全霊で抗議するかのようにうずくまっていた。

 階段の上段から見たその背中は、ひどく小さく自分の目に映った。けれど、愚かだとも弱いとも思わなかった。
 ただ、その小さな背中に、ああ、この子供もやはり同じ道を辿るのだと、少しだけ憐れみを覚えながら、それでも、足掻き続けろ、と声をかけた。
 一度諦めてしまったら、もうどこにも戻れなくなる。傷ついて足を止めたところで、楽になれるわけではない。
 その当たり前に過ぎる真実を、目の前の子供は正しく、深く知っているはずだったから。
 頑是無い子供に向けるような優しく甘い言葉を与える必要など、露ほどにも感じなかった。

「昨日のことも以前のことも、私は私の思うところ、そして君の上官として言うべきことを言っただけだ。君が礼を言う筋合いも、感謝する筋相もない」
「……珍しく、人が感謝してやってんだから、素直に受け取れよな」
 まだ幅の狭い肩越しに、金に近い琥珀色の大きな目が不機嫌そうにロイを睨む。
 が、すぐにまた、エドワードは顔をそむけた。
「明日の朝、一番の汽車でアームストロング少佐と、ここを発つ」
「聞いている」
「俺は本当に護衛なんざなくてもいいんだけど、アルのこともあるし、暑苦しいのもとりあえずは我慢するからよ。あんたもほどほどにしとけよ。ホークアイ中尉も傍に居ない時に、無用心にドアを開けさせたりしてんじゃねえ」
「……君の口からそんな言葉を聞くとは、槍でも降ってきそうだな」
「──喧嘩売ってんのか?」
「いや。せっかくの御忠告だ。考えておこう」
「……そうしとけ」
 そして、沈黙が落ちる。
 用件が終われば、すぐに立ち去る、エドワードはそういう、一言で言えばせっかちな性格の持ち主だ。
 だから、それを知っているロイもまた、黙って少年の次の言葉を待った。
「──あんたはムカつく奴だけど」
 やがてぽつり、と少年の声が響く。
「でも、あんたにもきっと、『理由』があるんだろうな」
「理由?」
「そう。あんたが軍の狗になって、大総統を目指す『理由』。あるいは『原因』」
 エドワードは振り向かなかった。
 三つ編みにした金の髪を向けたまま、静かに言葉を続ける。
 その背中を、ロイは真っ直ぐに見つめた。
 見えずとも、少年が今どんな瞳をしているのか、見えるような気がして。
 そんな会話ではないと分かっていても、口元に小さく笑みが浮かんだ。
「私は、私の実力に見合った地位を目指しているだけだが?」
「かもしれないけど、それだけじゃないだろ」
「何故、そう言い切れる?」
 ロイは、薄く口元に笑みを浮かべたまま、問いかける。
 それに対するエドワードの答えは、よどみがなかった。
「俺はあんたの半分くらいしか人生をやってないけど、それでも色々な人間をこれまでに見てきた。欲の深い奴も、権力に狂った奴も、嫌になるくらいに。──でも、あんたの目は、そういう奴らとは全然違う」
「────」
「確かにこの国でのし上がるには、軍に入るのが一番手っ取り早い。でも、あんたが求めているのは多分、大総統なんていうチンケな地位じゃない。大総統はゴールじゃなく只のスタート地点で、本当に欲しいのはその先にある……大総統になることでしか得られない何か、じゃないのか?」
「その発言は、不敬罪で軍法会議ものだぞ、鋼の」
「不敬罪の権化みたいな、あんたには言われたくないね」
 エドワードは肩をすくめる。
 そして、続けた。
「とにかくだ。四年前に俺は地獄を見たけど、きっと、あんたも違う種類の地獄を知ってるんだろう。もしかしたら、俺が全然知らない、これからも知ることがないような種類の奴を、さ」
「……二十九年という人生は、長いとはいえないが短くもない。それだけの話だ」
「だろうな」
 ふっと年齢に似合わない溜息をついて、エドワードは執務卓に寄りかかっていた背をしゃんと伸ばす。
 そして、肩越しにロイを振り返った。
「じゃあな、俺は帰るよ。明日は朝早いし。珍しく真面目に仕事してるあんたの邪魔をして悪かった」
「待て、鋼の」
 さっさと出て行きかけた少年を、咄嗟にロイは呼び止める。
「何だよ」
 振り返った琥珀色の瞳に対し、出てきた言葉は、なりゆき任せのような陳腐な台詞だった。
「せっかくだ。これから食事に付き合わないか」
「……あんたが女以外の相手を誘うなんて、大砲の弾でも降ってくるんじゃねーのか」
「傷の男のおかげで、今は女性をデートに誘うのもままならんのだ。いいから黙って付き合いたまえ」
「……どう聞いても誘い文句には聞こえないんだけど」
 わびしいのは分かったけど、俺を誘ってどうするよ、と言いつつも、成長期の食欲には勝てないのか、エドワードはあっさりと頷いた。
「いいぜ。但し、早めに切り上げてくれよな。アルが心配するからさ」
「大丈夫だ。酒がなければ食事など、あっという間に済む」
「……ってオイ、まさか士官食堂とか言わねーだろうな」
「そんな場所に、たとえ君が相手でも誘うわけがなかろう。ちゃんとした店だ。行くぞ」
「へいへい」
 立ち上がり、執務卓を回り込んでドアに向かうと、すぐにエドワードも横に並んで歩き出す。

 一歩足を踏み出すごとに三つ編みが小さく跳ねる金色の頭は、自分の肩までもない。その頭をふと見やって、こうして自分たちが並んで歩くのは、もしかしたら初めてはないのかと気付いた。
 エルリック兄弟との付き合いは、彼が国家錬金術師の資格を得てから数えても三年に及ぶが、その割には共に行動したことは少ないし、一対一で食事をしたこともない。
 自分は東方司令部勤務として常にイーストシティにあり、彼は元の肉体に戻るための手がかりを求めて大陸中をうろついているから、すれ違いは当たり前のことだ。
 が、食事すら共にする機会がなかったという現実が今、ひどく奇妙であるような……不自然であるような錯覚に囚われる。
 無論、上官と部下、後見人と非後見人、それ以上の繋がりのない自分たちが、必要以上のコミュニケーションを取る必要はなく、茶すらまともに向き合って飲んだことが無いのは当然と言えば当然のことだ。
 だが、同じ軍部に属する者として、国家錬金術師として。あるいは、何かを心に定めて走り続けている者同士として。口に出さなくても伝わることは、おそらくはそれぞれが漠然と認識している以上のものがあるはずであり、そして、それ、の存在は多分、どちらもが感じている。
 たとえば、時折かすめるようにかち合う視線に。
 あるいは言葉の端々に。
 何かの弾みに、ぱちりと小さな火花が飛ぶのを、おそらく自分も彼も知っている。
 そして、それは嫌悪の対象となるようなものではないが、仄かに心をざわつかせるだけの威力があることも。多分、気付いている。
 なんとも微妙な、自然とも不自然ともつかない距離が、隣りを歩く彼と自分の間には横たわっている。そう感じた途端、微苦笑が薄く口元に滲んだ。

「──何だよ?」
「いや?」
 何かを感じたのか、エドワードが胡乱げな視線をロイに向けた。
 その琥珀色の瞳に、ロイは常と変わらない、人を食ったような笑みを返す。
 途端、エドワードの表情が更に不信の色を増した。
「また何か、良からぬことを考えてんじゃねーだろうな」
「まさか。君は私を誤解しているよ」
「理解の間違いだろ」
 ふん、とエドワードは再び前方へと視線を向ける。
 迫る夕闇の中でぼんやりと輝き始めた常夜灯の光に、深みを増した金色の髪を見やり、
「こっちだ、鋼の」
 ロイは慣れた街路の角を曲がった。











「あんた、いつもあんな豪勢な飯を食ってんのか?」
「そんなわけがなかろう。あの店を使うのは是非とも落としたい女性とのデートの時くらいだ。普段は司令部の士官食堂で済ませているよ」
「ふぅん。じゃあ、今日は相当な大出血サービスってことか」
「その通り。ひれ伏して感謝したまえ」
「するわきゃねーだろ」
 とっぷりと暮れた街を、戯言を口にしながら歩く。
 見慣れた街も今は青い夜に包まれ、ひっそりと静まり返った中に常夜灯の灯りだけが青白く浮かび上がっており、その様子は、ともすれば見知らぬ異国のようにも思えた。
「しっかし、本当に煮え詰まってるっつーか、うんざりしてんだな、傷の男のこと。なにせ俺相手にサービスしちまうくらいだし」
「それは否定しないが、あれくらい、すぐに捕らえて軍刑務所に放り込んでやるさ。歯向かってくる敵に、容赦などする気はないからな。ましてや、あれは悠長に手加減できるような相手でもない」
「おまけに、絶好の出世のチャンスだしな?」
 にっとからかうような笑みをエドワードはロイに向けた。
「良かったな、東方司令部には無能が多くてさ」
「それは違うな。他の面々が無能なわけではない。私が有能なだけだ」
 きっぱりと言い切ったロイに、エドワードは声を上げて笑う。
「…っとに、あんたも、至る所に敵作って歩いてるような性格してるよなー」
「君に言われたくないぞ、鋼の」
「あんたよりマシだって」
 軽口を叩きながら、そぞろ歩きのように運河に沿って進んでいた二人は、一つの橋のたもとで立ち止まった。
 東方軍の官舎は、このまま運河沿いに真っ直ぐ、エルリック兄弟の滞在しているホテルは、この橋を渡った向こうにある。
「じゃな、ご馳走さん。冗談は置いといて、マジで美味かったぜ。あれならまた誘ってくれてもいいや」
「それは良かった」
 とん、と軽やかに一歩踏み出して、エドワードは運河に架かる橋の上へと移動する。
 そのまま、互いにひとまずの別れの挨拶を口にしようとして。
 まなざしがかち合ったその時、
「────」
 ふと、それまで浮かんでいた笑みが、互いの表情からかき消えた。
 何がというわけでもない。
 ただ、鋭い漆黒の瞳と、強く煌めく琥珀の瞳と。
 一時の別れの挨拶を告げるだけのはずだったのに、互いに言葉を探すような、相手が何かを言うのを待つような、まるで敵の出方を待っている時にも似た、張り詰めた沈黙が二人の間に落ちて。
 ロイとエドワードは、互いを見つめたまま、その場に立ち尽くす。
 ──ほんの三歩か四歩。
 それだけの距離を踏み出せば……、あるいは双方が踏み出せば半分の距離で、この間隔は埋まる。
 けれど。
「───…」
 どちらも動きはしなかった。
 ただ、ロイは両手を士官用コートのポケットに入れたまま、エドもまた、身体半分をロイに向けたまま、相手の瞳を見つめる。
 一秒、二秒と流れゆく時間の歩みが、ふと今この瞬間に止まりかけているような錯覚にさえ襲われて。
 そして。
「……大」
「エドワード」
 沈黙を振り切るように、エドワードが口を開きかけた時。
 ロイが少年の名を呼んだ。
「──何だよ?」
 この青年将校には滅多に呼ばれることのない……『鋼』の銘を受けてからは初めて彼の声で聞いた己の名に、エドワードは僅かに瞳を動かし、だが、常と同じように応じる。
「……リゼンブールまで、気をつけて行きたまえ。君たちが出立することは極秘扱いになっているし、少佐も居るから、まず滅多なことはないだろうがな」
「……ああ。俺たちのことは大丈夫だから、気にすんな。あんたはあんたの仕事をすればいい」
「無論、そのつもりだ」
 ありきたりの……当たり前に過ぎる言葉を交わして、二人はどちらともなく肩の辺りにわだかまっていた緊張を解く。
「じゃあな、大佐」
「ああ。おやすみ」
「あんたも」
 ロイの漆黒の瞳を見つめたまま、エドワードは常にはないゆっくりとした身のこなしで、身体の向きを変えた。
 だが、最後まで残った琥珀色のまなざしも、ガス灯に照らされた路の向こうへと向けられ、小柄な後ろ姿が青い闇の中へと歩き去ってゆく。
 その背中が角を曲がって見えなくなるまで身じろぎ一つせずに見送ったロイは、一人きり路上に取り残されて、初めて小さく息をついた。

 まなざしがかち合った、あの瞬間。
 彼は、自分の中に何を見出したのか。
 自分は、彼の中に何を見出したのか。
 そして、自分が名を呼ばなければ。
 彼は自分の名を呼び、何と続けるつもりだったのか。

 もう一度、少年の消えた方向へと、静かなまなざしを向ける。
 だが、そこには動くものは野良犬の影さえなく。
 ロイは、ふいと目線を正面へと向けて、運河沿いの路を歩き出す。
 乾いた革靴が細かな砂利を踏む音が、小さく夜の街に響き、やがて、すべては闇の中へと吸い込まれ、消えていった。






prologue as end.




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