I am.

9.


 その日の空は、恐ろしいほどに青く澄んでいた。
 晴れ渡った美しい空の下、何かを確認するかのように綱吉は、ちらりと執務室内に視線を走らせてから、ゆっくりとした足取りでドアを出る。
 隼人もまた、無言のままでその後に続いた。
 綱吉は、あまりエレベーターを使わない。特に、今日のように何かが待ち受けている日には、その足で階段を一段ずつ踏みしめて下りる。
 そして地階(1階)まで辿り着くと、威風堂々たる装飾の凝らされた玄関ホールを真っ直ぐに抜け、外に出た。
 屋外に出た途端、深い庇(ひさし)の下であっても強い日差しが視界に満ちる。
 眩しさに目を細めながら、隼人は前を行く綱吉の背中を見つめた。

 今日の綱吉は、普段良く身につけるピンストライプの洒落たスーツ姿ではなかった。
 胸元や袖口から覗くシャツの白が怖いほどに映える、純黒のクラシカルなスーツ。その強烈な色の対比は、黄金色の何かを感じさせる彼の存在に、言い様のない昏い華を添えた。
 威圧感と呼び変えても間違いではないそれは、普段は物柔らかな彼の表情を、ひどく冷たく見せる。なのに、それでいて彼にはやはり、黄金色の光に属する華があって、それは思わず目を吸い寄せられる磁力を持っていた。
 既に車寄せに待機していた車に綱吉が乗り込み、隼人も隣りに落ち着くと、車は滑るように走り出す。
 目的地は本土の南部、海に迫る山地にある小さな町だった。
 今日の午後には到着し、現地にいる先発隊と合流する。そして、作戦開始から撤収までは三時間。
 綿密に立てられた作戦計画に無駄はなく、それ以上の時間は必要ないはずだった。

 先日のドン・ボンゴレ襲撃直後、カーシェというファミリー名を聞いた時、隼人の脳裏に浮かんだのは、何故、という疑問符だった。
 カーシェは歴史こそボンゴレと同程度に古いが、決して大きなファミリーではない。本土の南部、それも更に僻地といっていい幹線道路からは離れた地域にある、いわば田舎の弱小ファミリーだ。
 隼人も名前だけは知っているものの、過去に関わりを持ったことはない。だから、綱吉が何故、敵をカーシェと断じたのか分からなかった。
 その理由が語られたのは、翌日のこと。
 二人しかいない執務室で、綱吉はひどく淡々と言葉を紡いだ。

「カーシェは、うちと同じくらい古い。けれど、うちと違って、カーシェは勢力地域内に産業らしい産業を持たない。なのに、どうして百五十年もの年月を生き延びてきたのか。──君なら分かるだろ?」
 問われて考える。
 豊富な資源も資金もなくとも、街中でなくともできる商売。それは。
「情報、ですか」
「そう」
 綱吉は少しばかり物憂げな表情を変えないまま、うなずいた。
「古いということは、それだけ独自のネットワークを持っているということだから。ましてやカーシェは、戦前から情報による戦いに特化してきた。情報を右から左に流し、あるいは流れを調節することで、自分たちは傷付かずに利益だけ吸い上げる。
 もし暇があったら、これまでに全国で起きたあらゆる抗争の裏側を洗い出してみるといいよ。少なくとも一割以上、かなり確率でカーシェの影があるから。もっとも俺は、自分で情報を洗い出したんじゃなくて、リボーンに教えられたんだけど」
「……それで、今回もカーシェだと?」
「そう。昔からカーシェはボンゴレにはなびかない。表面上は争わないけれど、常にボンゴレの敵対ファミリーを観察していて、騒動の火種が見つかったら、さりげなくせっせと風を送り込んで火を煽る。
 一方、ボンゴレは図体が大きいし、自分からは抗争を仕掛けない主義だ。おかげで、常に後手に回ってしまうんだよ。事前に怪しいと思っても、カーシェのやり方はいつも卒がなくて、尻尾が掴めない」
「では、今回も証拠はないのではありませんか」
「確実なものはね。ただ半年前くらい、ボンゴレがあの工場の買収計画を進めているときに、今回襲撃してきたスガルツァ・ファミリーの本拠地がある町で、カーシェの構成員を見かけた。
 スガルツァは以前から、あの港を押さえたがっていたけれど、ボスの跡目争いとか内部抗争で落ち着かないせいで、なかなか具体的な手を打てなかったんだ。だから、スガルツァがボンゴレを恨む理由はある。そして、カーシェがスガルツァに情報を流してドン・ボンゴレ襲撃をそそのかすには、それで十分だ」
 綱吉の言葉は、十分に納得できるものだった。ただし、一般的なマフィアのボスの言葉であれば、という限定がつく。
 隼人が知る限り、綱吉はボスとして打つべき手はきちんと打つが、無闇にファミリー間の抗争を起こすことは嫌う。
 なのに、今回、確たる証拠もないのに眼前のスガルツァでなく、黒幕のカーシェを討とうとしているのが隼人には不可解だった。
「十代目、一つお伺いしてもよろしいですか」
「何?」
「何故、今回はカーシェを討とうと決意されたんです? 確かに一歩間違えれば、お命がない状況でしたから、報復という意味では正しいと俺も思いますが……」
 そう問うと、綱吉は隼人にまっすぐに視線を返した。
 瑪瑙の底に黄金の光が沈んでいる。窓を背にした綱吉は、隼人から見れば逆行の中にいるのに、何故かその金の光はくっきりと見えた。


「スガルツァが俺一人を狙ってこなかったからだよ」


「は……?」
 思わず隼人は、間抜けな疑問詞を口に上らせる。
 だが、意味が分からなかった。少なくとも、一言聞いただけでは。
 しかし、綱吉は先程から変わらない、沈んだ硬質な表情のまま言葉を続けた。
「昨日の襲撃は、車があれだけ頑丈に造ってなかったら、俺だけでなく君やジョルジオも巻き添えになっていた。そして、現に後続車の三人が死んでる。──もう限界だよ。俺が十代目の地位についてから、カーシェが黒幕の抗争が三回、死んだファミリーは八人だ。多過ぎる」
 最後の一言は、吐き捨てるような強い語調を伴っていた。
 おそらくはカーシェに対する憤りだけではないだろう。決断が遅すぎた、そう悔いる綱吉の内心の声が聞こえてくるような気が隼人にはした。
「……三回の抗争に、八人の犠牲ですか。確かに多過ぎますね」
「ああ」
 隼人の感想に短く同意して、綱吉は押し黙る。
 やや前方に向けられたまなざしは、何かを見ているようで、何も見ていないようで。
 その変わらぬ硬質な表情を見つめているうちに、ふと隼人の脳裏を何かがかすめた。
 ──対ボンゴレの火種を見逃さないカーシェ。
 ──火種を見つけたら、さりげなくせっせと風を送り続ける。

 ──燃え上がった、城。

 濃い灰色の煙の中を、悪竜の舌のような赤い炎がちらちらと揺らめいていた。
 全てが灰燼に帰して、何一つ残らなかった。そう、父親の遺骨のひとかけらさえも。
(まさか。)
 まさか、と隼人は疑念を払おうとする。
 だが、一度芽生えたものは容易には消えない。
(ああ、そうだ。カーシェは漁夫の利を吸い上げる。ボンゴレとジェンツィアーナが争って、カーシェに何の得があった? 何も……。)
 ない、と言いかけて立ち止まる。
 本当になかったと言い切れるか。
 ボンゴレはジェンツィアーナの城を落とすまで前準備を含めて、およそ二ヶ月の間、その件にかかりきりだった。無論、表向きの商売等、同時進行していた事業は幾らでもある。
 だが、作戦の実行部隊に限っていえば、兎を狩るにも全力を尽くす獅子の如く、ボンゴレは完全にジェンツィアーナに集中していた。
 その隙に手薄になった地域は、複数挙げられる。当然ながら実行部隊が配されていた地域は、紛争の火種が埋(うず)もれている所ばかりだ。代わりの統治者は送り込まれていたが、必ずしも万全ではなかった。
 そうして緩んだ監視の目を盗んで、敵対勢力が何かをしなかった、という保障はない。その敵対勢力の名が、カーシェでないという保障も。
「──十代目」
 そこまで考え付いたところで、隼人は真っ直ぐに綱吉を見つめた。
 綱吉もまた、真っ直ぐに隼人の目を見つめ返す。

「ジェンツィアーナを……俺の父親を唆したのは、カーシェですか」

「証拠はないよ」
 綱吉は否定はしなかった。
「事実は分からない。かなり調べたけれど、尻尾は掴めなかった。ただ、ものすごくカーシェ好みのシチュエーションだったとは思う」
「……つくづく、俺の父親は馬鹿ですね。そんな口先だけの連中に踊らされるなんて」
 呆れと怒りと蔑み。
 そんな慣れ親しんだ感情のうちに、もう一つ、ほのかに揺らめく感情が混じる。
 初めて感じるそれは、憐憫、に良く似ている気がした。
「馬鹿過ぎて、もう何も言う気になれません」
 そんな風に告げながら、隼人はもう一つ気付く。
 綱吉が今回、堪忍袋の緒を切ったのは、カーシェのせいで新たな犠牲者が出たというのは、確かに真実の理由だろう。
 だが、おそらく理由はまだ他にもある。
(十代目は、まだ俺に負い目を感じている。)
 一つ、父親はボンゴレを敵視するカーシェの唆しをきっかけとして、ボンゴレにより死に至らしめられた。
 二つ、そうして荒廃したカテーナの町をボンゴレ支配下の町として建て直すために、隼人は召喚された。
 三つ、更に今回、カーシェの新たな企みによって、隼人自身が綱吉の巻き添えで殺されかかった。
 そんな風に考えるのは、自惚れが過ぎるかもしれない。
 だが、綱吉が負い目を感じてでも隼人を傍に置こうとしている意図が、昨日、山本に聞いた通りの理由であるのなら、この自惚れた仮説も成り立つはずだった。

(十代目がカーシェの殲滅を決断した理由の何分の一かは、俺のためだ。)

 まなざしを上げると、綱吉は相変わらず静かに沈んだ表情で隼人を見つめていた。
 隼人の内面をその勘の良さで読んでいるのか、それとも読む気すらないのか、それさえも分からない。
 だが、そんな綱吉を隼人は何にも代えがたく感じた。
 唯一無二の、ドン・ボンゴレ十世。
 父親も過去も、何も関係ない。
 彼だけが居ればいいと、その瞬間、心の底から思った。
「事情は了解しました、十代目。そろそろ敵の本拠地の詳細な見取り図も出来上がっている頃ですから、もう一度作戦を山本と詰めてきます。馬鹿な父親の敵討ちなんざしてやる気は毛頭ありませんが、カーシェの山城を瓦礫の山にするくらい、俺には簡単なことですから」
「──その辺りは君たちに任せるよ。俺は計画を立てるのは得意じゃない」
「はい」
 うなずき、隼人は深く一礼して執務室を後にした。

*            *

 十日前の言葉の通り、カーシェの山城は今、至る所から黒煙と白煙が噴き上がる瓦礫の山と化していた。
 その中を、隼人は周囲を警戒しつつ、ゆっくりと進む。
 既に作戦は、掃討戦へと移っていた。まだ時折銃声が聞こえてくるが、散発的なものだ。視界に動くものは殆どない。
 無線で聞く限りは、現時点ではボンゴレには怪我人以上の犠牲者は出ていなかった。作戦は完璧に成功したと言っていいだろう。
 隼人自身の役割は、爆薬による建物の破壊であったため、作戦の初期に役割は殆ど終わっている。だから、後方に撤収してもいいのだが、まだ戦場に留まっているのは、綱吉がまだここに居るからだった。
 綱吉は作戦が始まると同時に、部下の一人も連れず、単身で敵の本拠地に飛び込んでいった。
 隼人は無謀だと止めかけたのだが、山本に制止されたのだ。「大丈夫だぜ、ツナは鬼みたいに強いからよ」という台詞と苦笑と共に。
 確かに一度手合わせして、綱吉の強さの一端は隼人も知っている。それこそプロの傭兵が複数でかかっても、綱吉は勝つだろう。それほどの技量だった。
 だが、大量に爆薬も使用する戦場に、軽装で飛び込んでゆくというのは、常識外れに過ぎる。しかし、その懸念さえも、山本はツナの敏捷さと勘のよさがあれば、まず怪我などしないと請け負った。
 そう言われてしまえば、綱吉の強さの底を知らない隼人は、それ以上の反論はできない。
 ゆえに、その後は黙って役割をこなしたのだが、程なく問題に気付いた。
 ──無線に応答がない。
 他の面々とは、多少ノイズ交じりであっても、ほぼクリアに通信が可能なのに、綱吉だけは応答しないのだ。山本に尋ねてみれば、山本からの呼びかけにも応答しないという。
 しかし、彼がその身に埋め込んでいる極小サイズのチップからの生体反応は消えていない。
 つまり、綱吉は彼の意思で、無線に応答しないということになる。
 となれば、隼人は探しに行かなければならなかった。
 いつもいつも彼を探しに行くように、この戦場から彼を見つけなければならない。
 だから隼人は、山本に自分が十代目を探すと告げ、瓦礫の中を一つ一つ確かめながら、城の残骸の奥へと進んでいた。
 ここはボンゴレの本拠地ではないから、勝手は分からない。そして、綱吉自身もどこに行けば自分好みの場所があるかなど分かるはずもないだろうから、居るとすれば、城の奥の方。それも中央付近ではなく、少し外れの方ではないか、と隼人は見当付けた。
 城の東翼には小さな塔と、その周囲には庭園があった。そこではないか、という気がしたのだ。
 根拠は何もない。
 ただ半年以上の間、毎日彼を探し、見つけ出していた。その積み重ねた事実が、直感の源だった。
 埃っぽく、きな臭い空気の中を、用心深く一歩ずつ進んでゆく。
 と、埃っぽさが急速に薄れてきて、薄くなった煙の向こうに外壁が崩れ落ちているのが見えた。ここまでの順路を考えると、ここが東翼の端だろう。
 いつ崩れてもおかしくない周囲の壁や天井に用心しつつ、崩れたところから外に出る。そして煙交じりとはいえ、屋内よりは随分とマシな空気に深呼吸してから、周囲を見渡した。

 居た。

 やはり、ここだった。
 少し先、崩れた塔の傍らに綱吉は立っていた。
 一見、かすり傷さえもなく、日が傾いて翳ってきた空を見上げている。その横顔は、ピエタ像のマリアのように静謐だった。
 そして、綱吉はゆっくりと隼人を振り返り、かすかに微笑む。
「やっぱり君は俺を見つけるんだね」
「偶然です」
「それでも。すごいよ、こんな所まで」
 手の届く距離まで近付いて見れば、綱吉はインカムをきちんと装着していた。見た目に傷はないから故障でもないだろう。ただ綱吉が応答しなかった、それだけだ。
 だが、その理由を問おうとは隼人は思わなかった。
「作戦はそろそろ終わります。戻りましょう」
「……隼人、怪我したの?」
「かすり傷ですよ」
 破れかぶれで襲い掛かってきた手負いの敵のナイフが、肩口をかすめた。服は裂かれたが、身体は皮膚一枚が切れただけだ。筋肉までは届いていないから、縫合も必要ない浅手だった。
「本当だ、大したことなさそうだね」
 更に半歩、距離を詰めて傷口を覗き込んだ綱吉は、良かったと呟く。
 そう呟きながら。


 綱吉は隼人の銃を持つ手を──拳銃ごと掴んで、銃口を己のこめかみに押し当てた。


 声も出なかった。
 目の前で何が起きているのか理解できない。
 白く焼き付いた思考に、静かな綱吉の声だけが響いた。

「今ここで俺を殺しても、誰も君を疑わないよ。目撃者は居ない」

 静か過ぎる声と、真っ直ぐに自分を見据える黄金色の瞳に、ざわり、と背筋が震える。
 彼は何を言っているのか。
 彼は何をしているのか。
 理解できない。
 理解、したく、ない。
「止……めて…下さい……」
 声が震え、全身が瞬く間に冷たい汗に濡れそぼる。
「弾室に……弾が入ってるんです……!!」
「そうだろうね。安全装置が下りてるから」
 あくまでも冷静に綱吉は言う。
 戦場に立っている人間が、いつでも銃を撃てる状態にしておくのは当然だとばかりに。
「お願いです、止めて下さい、十代目……!」
 引金に指をかけた状態の手を掴まれていては、力任せに振り払うこともできない。何の弾みに引金を引いてしまわないとも限らない。
 恐ろしかった。
 心臓までも凍るような、悪魔に魂を鷲掴みされたような恐怖が背筋を這い上がってくる。
「嫌、です。俺は、あなたを殺したくない」
 やっとの思いで恐怖に凍りつきそうな声帯を動かし、正真正銘、掛け値なしの本音を搾り出す。
「本当に、殺したくないんです。俺はあなたを恨んだことなんか、これまで一度もない」
 これまでに何度も何度も、繰り返した。
 その度ごとに綱吉は、不可解さをほのかに浮かべながら、そう、とうなずいた。
 けれど、それだけだ。
 何も伝わっていない。何一つ、彼は理解していない。
 この半年間、傍に居たのに。
 永遠の忠誠を誓い、毎日毎日、彼を探しては見つけ出していたのに。
「止めて下さい、十代目」
 恐怖と悔しさと。
 込み上げる感情に耐え切れず、
「俺はあなたを殺したいんじゃない、生きていて欲しいんだ!」
 隼人は吠えるように叫んだ。

「一番最初にあなたが言ったんでしょう、俺の誠意が欲しいと!? だったら、その俺にあなたを裏切らせないで下さい……!!」

 そう叫び、何分何秒が過ぎたのか。
 ゆるり、と綱吉の手が隼人の手から離れた。
 黄金色の瞳は相変わらず、至近距離から隼人を見つめている。だが、そこに浮かぶ表情は驚愕しているようでもあり、虚脱しているようでもあり、どこか捉え所がなかった。
 そんな綱吉を横目で見ながら、隼人は自由になった手で銃を空に向けて素早く一発、空打ちし、弾室を空にする。そして、震える手で安全装置をかけ、ホルダーに納めた。
 それから、小さく震え続ける体を持て余しつつ、綱吉に向き直る。
 生まれてからこの方、ずっと裏世界で生きては来たが、これほどの恐怖を味わったことはなかった。その恐怖を味合わせてくれた相手を、じっと見つめる。
 だが、口から出てきたのは短い一言だった。
「帰りましょう、十代目」
 そう告げた隼人を、綱吉はどこかぼんやりと見上げ、ふと思い出したように呟く。
「君の怪我の手当て、しないといけないね」
「かすり傷ですから大丈夫です」
「でも、」
「今ここで応急手当をしなきゃならないほどの怪我じゃありません。──撤収しましょう、十代目。もう戦闘は終わりました」
「──分かった」
 ややあってから、綱吉は静かにうなずく。
 そして、未だきな臭さに満ちた戦場を見渡し、ゆっくりと歩き出した。

*            *

 山本に一足先に綱吉と共に撤収すると伝え、隼人は待たせてあった車に乗り込んで一時間余り離れた町にあるホテルまで移動した。
 時刻的には総本部まで帰れなかったわけではないが、尋常でない恐怖を味わった隼人は精神的にひどく消耗していたし、また、虚脱したような沈んだ表情で口を開こうとしない綱吉のことも気がかりだったため、念のために取ってあった部屋に宿泊することにしたのだ。
 それが正解だったのか、不正解だったのか。
 小さいが格式高く、由緒あるホテルの最上階のスイートに足を踏み入れた綱吉は、室内をぐるりと見渡した後、獄寺を振り返り、
「傷を手当しないと」
 と思い出したように言った。
「別に大丈夫ですよ。出血も大したことありませんし」
 血はすぐに止まっており、今では周囲の衣服が少しばかり赤黒く乾いた血に汚れているだけだ。
 だが、綱吉は譲らなかった。
 携帯電話でホテルに待機している部下を呼び出して、救急箱を持ってこさせる。そして、隼人に上着を脱いでソファーに座るように告げた。
「シャツも脱いで」
「これくらい、自分で手当てできますよ」
「消毒くらいならね。でも、これ以上傷口が広がらないように、周囲をテーピングしておいた方がいい。それは片手じゃ無理だろ」
「そこまでしなくても……」
「しておかないと完治が遅くなるよ。傷跡も残りやすくなるし」
 至極真面目な顔で言って、座って、と再度命令する。
 綱吉に命令の意図はないかもしれなかったが、隼人にとっては、やはり抗いがたい『命令』だった。
 溜息を押し殺しながらシャツのボタンを手早く外し、左腕を袖から抜く。その動きに、忘れていた痛みが傷口を中心にぴりりと広がった。
「着替えは持ってきてるよね?」
「ええ。搬入担当の奴に渡しはしました。忘れられていなければ、届いているはずです」
「そう」
 うなずきながら綱吉は救急箱の蓋を開け、消毒薬やガーゼを手際よく取り出す。そして精製水で濡らしたガーゼで傷口を拭い、綺麗な傷でよかった、と呟いた。
 そこからは特に何かを言うこともなく、手際よく綱吉は傷の処置を済ませ、それから、バンデージテープで、周囲の筋肉が動かないよう固め始める。
 その一連の動きはいかにも慣れていて、彼が長年、こういった暴力の中に身を置いていることが隼人にもよく伝わってきた。
 きっと彼は、もう何年も……経歴を聞く限りは十年も、こうして誰かの手当てをしたり、自分の手当てをしたりされたりして過ごしてきたのだろう。
 本当は、暴力も血もまったく似合わないにもかかわらず。
 けれど、その中で彼は生きてきた。生き抜いてきたのだ。
 ギリギリのところで、身も心も戦いながら。
「はい、おしまい」
 淡々と告げて、綱吉は残ったテープやガーゼ類を元通りに救急箱にしまう。そして、蓋を閉め、ふっと宙に浮いた手を隼人は掴んだ。

「もう二度と、あんな真似はしないで下さい。寿命が二十年縮みました」
「──二十年も?」
「はい」

 小さな驚きも顕わに問い返してきた綱吉に、隼人は真面目に答える。
 ごく近い距離で、瑪瑙色に透ける瞳を真っ直ぐに捉えると、綱吉は静かに目をまばたかせ、それからまなざしを伏せた。

「……ごめん」

 子供のように拙い、言葉足らずの謝罪だった。
 だが、隼人にはそれで十分だった。
 分かってもらえればいいんです。しかし、そう告げるはずの言葉は声にならず、ふと心の奥から湧き上がってきたものに突き動かされるままに、掴んでいた細い手をもう少し自分の方に引き寄せる。
 なに、と見上げる綱吉の目を見ながら、顔を傾けて、そっとその唇をついばんだ。
 触れるだけで離れると、隼人の目を綱吉のまなざしが追ってくる。

「──どうして?」

 突然のキスに、綱吉はかすかに驚いているようではあっても、その表情は殆ど変わらず、静かなままだった。
 そのせいだろう、隼人もひどく正直に、答える言葉を紡いだ。

「分かりません」

 不誠実極まりない答えだった。否、答えにすらなっていない。
 だが、それが真実だった。
 何故、この人にキスをした?
 それが分かっていたら、先に言葉にしている。
 言葉にならなかったから、体の方が先に動いたのだ。
 ただキスをしたかった。
 確かなものは、それだけだ。それ以外は何も分からない。
 胸の中に、これまで他の誰にも感じたことのない感情が湧き上がり、渦を巻いている。
 綱吉を見るたびに湧き上がってきていたそれは、時には怒りややるせなさにも似ていたが、全くそれとは似ても似つかない感情が根底にはいつも流れていて、隼人を突き動かし、あるいは身動きを取れなくするのだ。
 こんな想いを言葉にする術を、隼人は知らなかった。

「……そっか」

 じっと隼人を見つめていた綱吉は、不誠実な隼人の返答に怒りもせずに小さく呟き。
 先ほど隼人がしたのと同じように、そっと顔を寄せ、隼人の唇をついばむ。
 隼人がしたのよりも一秒ほど長く留まった唇は、触れた時と同じようにそっと離れていった。

「俺も、分かんないや」

 至近距離で隼人の瞳を見つめ、困ったように、途方に暮れたように微笑んで呟く。
 その表情がひどく悲しげにも切なげにも見えて、隼人はもう一度、綱吉を引き寄せた。
 今度はゆっくりと唇を重ね、温もりとやわらかさを感じ合い、分かち合うキスを繰り返す。
 いつしか互いの背に回した手は、知らず互いの体を引き寄せていて。
 そこから先はもう、言葉は必要なかった。

*            *

「──いつも、こんな風に抱くの?」
 互いの体から発する熱にめまいを覚えるような中で、不意にひっそりと綱吉が問いかけてきた。
 まなざしを上げれば、熱に潤みを帯びた瞳が、切ないような泣きたいような色で隼人を見つめる。
 その瞳を見つめながら、「いいえ」と隼人は答えた。
 これまで女を抱いたことは何度もあるが、恋人を持ったことはない。金で性を買う行為は、合意の上であってもどこか後ろめたさが抜けず、相手が慣れていることを頼りに、手荒にではないにせよ自分本位に事を済ませ、立ち去るのが常だった。
 だから、こんな風に相手の顔をきちんと見つめながら、反応を確かめつつ、行為を進めるのは初めての経験だった。
 相手の肌の感触を、鼓動を、温もりを手のひらに感じながら、ただ慈しむ。
 愛撫が愛情を持って他人に触れることを意味するのであれば、これが初めて施す愛撫だった。
「──そう」
 隼人の短い返答から何を感じ取ったのか、綱吉は切なげに目をまばたかせ、伸ばした腕で獄寺の首筋を引き寄せてキスを求める。
 その唇はひどく甘く、それでいて、どうにもならない飢(かつ)えのようなものを隼人の内に呼び覚まして。
 人と人との触れ合いの中で、隼人は初めて泣きたいと思った。

*            *

 夜の静寂(しじま)の中に二人でいる、というのは、ひどく不思議な感覚だった。
 考えてみれば、物心付いた時から誰かと夜を共に過ごしたことがない。生まれ育った城にいた頃も一人部屋を与えられていたし、出奔してからは、それこそずっと一人きりだった。
 そんな風に思いながら、隣りを伺う。
 スイートルームの寝台は無意味なほどに広く、二人で横たわっていても、まだ余りある。
 まだ仄かに残る熱の余韻を感じながら、情を交わした相手と二人でいるというのは、初めての経験であるだけにどうすれば良いのか分からなかった。
 綱吉がまだ眠っていないことは伝わってくる。
 先程からずっと考え事をしているようで、それを妨げたくはなかった。だが、このまま自分が先に眠ってしまうのも気が引ける。そもそも、ここに居ていいのかどうかも分からない。本来、隼人に用意された部屋は、ここの階下の部屋だ。
 しかし、このまま去ってしまうのも、してはいけないことのような気がしていた。
 ──十代目。
 成りゆきで始まったような行為だったのに、ひどく切なく、それでいて優しい触れ合いだったような気がする。
 綱吉は何一つ拒まず、むしろ、すがるように最初から最後まで隼人を求め続けた。
 そこにどんな意味があるのか、隼人には分からない。
 だが、そんな綱吉に全身全霊で応えた、そんな思いは余韻として心と体のあちこちにまだ残っていた。
「……なんだか、」
 不意に小さく綱吉が呟く。
 寝台の天蓋を見上げたまま、隼人の方は見ないで、ぽつりと。
「初めてSEXしたような気がする。一応、女の人相手には経験あるんだけど」
 その言葉に、隼人は目をまばたかせた。
 何の飾りもない言葉が、すとんと心の中に落ちてくる。
 その通りだと思った。
 自分も性の経験はあっても、本当のSEXは知らなかった。
 こんな風に全てをさらけ出したことも、さらけ出された相手の心と体を受け取ったこともなかった。
 このSEXにどんな意味があったのか、自分の中ではまだ整理がつかない。
 けれど、綱吉の言葉のおかげで一つだけ、確かになったことがあった。
「俺もです、十代目」
「──君も?」
「はい」
 驚いた綱吉の目が隼人を捉える。
 そのまなざしを隼人は真っ直ぐに見つめ返した。
 夜の薄明かりの中で互いの目を見つめ合い、やがて、綱吉がかすかに微笑未満の表情を口元に刻む。
「……そっか」
 そんな風に、また小さく呟いて、まなざしを伏せた綱吉が、もそりとシーツの海の中を擦り寄ってくる。
 肩口にやわらかな髪が触れ、投げ出していた右手に綱吉の左手が絡んだ。
 指の一本一本を絡め取られて、ぎゅっと握り締められる。
 そこにどんな意味が込められているのかは、今はまだ分からなかった。
 だが、分からなくても心のままに綱吉を優しく抱き締めて目を閉じる。
 それは決して間違いだとは思わなかった。

to be continued...

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