Five-seveN

5.

「……完了!」
 綱吉の声と同時に、ストップウオッチがピッと小さな音を立てる。
 続いて、リボーンの平静な声が聞こえた。
「7分46秒。遅い。あと一分半は短縮できるはずだぞ」
「──そうばっさり言うなって……」
 あっさりと駄目出しされて、綱吉は大きく息をつきながら自分の部屋の天井を見上げる。
 テーブルの上の手元にあるのは──秋以来の愛銃となったFive-seveN。黒いカーボネイト樹脂製の銃身は、光沢はなくひたすらに黒い。
 たった今、綱吉はこれを分解し、再組立し終えたところだった。
 分解と言っても完全なオーバーホールではなく、日常の手入れのための分解である。これがいかに手早く、確実にやり遂げられるかがガンマンとしての技量の一つの目安となる。
 実際、一番初めの頃には三十分近くもかかっていた綱吉であるが、今は三分の一以下に所要時間を短縮することができていた。
「プロの軍人や欧米の警官なら、腕のいい奴は六分以内で処理を終わらせるぞ」
「はいはい、何度も聞きましたって」
 ぞんざいに受け流しながら、綱吉は改めてFive-seveNを見つめる。
 これを初めて手にしてから、既に二ヶ月以上が過ぎようとしているが、銃というものについては未だに現実味が薄かった。
 今ではこれの構造や機能も理解しているし、射撃の技量自体も上がってきていることは自分でも感じている。だが、あくまでも『訓練』であるせいか、ナイフ共々、自分がこれらの武器を手にして敵と戦う場面をイメージすることが、どうにも難しい。
 武器を使いこなすのとは全く別のレベルで、自分の撃った銃弾が生身の人間に当たること、あるいは、自分の手にしたナイフが生身の人間を傷付けることを考えるのは、綱吉の心の一部が完全に拒否しているかのようで、それらのいずれについても想像がつかなかった。
(……それはそれで、矛盾してる気もするんだけどな……)
 綱吉の経歴から見れば、既に一般人とはかけ離れている。
 幾度もの壮絶な戦闘を戦い抜いてきたし、幾人もの敵を倒してきた。そういう意味では、綱吉の拳はとうの昔に他人の血に濡れている。
 なのに、拳銃とナイフに対して嫌悪感に似た違和感を感じるのは、確かに矛盾としか呼びようがなかった。
(こういう風に感じるのは、俺だけかな……)
 守護者の面々を見渡しても、大半は最初から武器を使って戦うタイプだった。そうでないのは、綱吉以外には了平くらいのものである。
 だが、リボーンは了平には向いていないとの理由で、拳銃とナイフ相手に戦う技術は教えても、それらの武器を使って戦う技術は教えていない。
 だから、本当の意味でこの違和感を抱えているのは、おそらく綱吉一人だと考えて間違いなかった。
「──リボーン」
「何だ?」
「お前はさ、どう考えてる? お前自身が銃を武器にして戦っていることについて」
「────」
 リボーンは即答はしなかった。
 口元に興味深げな笑みをかすかに滲ませて、黒い丸い瞳で綱吉を見やる。
「どうも何もねぇぞ、別に」
「どうして?」
 どうでもいいことを聞くと言いたげなリボーンの返答に、しかし、綱吉は引き下がらなかった。
 重ねて問いかけると、リボーンは半分興じているような半分つまらなさげな曖昧さで、肩をすくめる。
「俺にとっては一番身近にあって、一番使いやすい道具だった。理由何ざ、そんなもんだ。山本や獄寺だってそうだろ。手にするきっかけがあって、たまたまそれが性に合った。そうしたら、あとは単なる道具だ。敵を排除して、自分の身を守るためのな。
 ツナ、お前だってそーだろ。一番最初にレオンが生み出したのが銃だったら、俺はそれをお前に渡したぞ。それがお前に一番合う道具だってことなんだからな」
 言われて、綱吉はそういえば、と思い出した。
「イクスグローブはレオンが創ってくれたんだっけ……」
「そうだぞ。忘れてたのか?」
「あ、いや、そういうわけじゃないけど……」
 慌てて綱吉が首を横に振ると、リボーンの帽子の上で緑色のカメレオンが、きょろりと丸い目を動かす。物言わぬ愛嬌たっぷりの不思議な生き物は、今日もただじっと師弟の会話を聞いているようだった。
「……これも道具だって割り切れたら、いいんだけどな」
 目の前のFive-seveNは、やはりイクスグローブとはイメージが重ならない。
 あちらは綱吉が死ぬ気化しない限りは、ただのミトン手袋である。比べて、こちらは明らかに『武器』の形状をしている。視覚的にも同列に扱えという方が無理だった。
「いずれ慣れるぞ、そんなもの」
 だが、こともなげにリボーンはそう告げる。
「持ち慣れない上に、この国じゃそれは法律違反の代物だ。最初のうちは違和感があって当然だぞ。けど、毎日持ち歩いてりゃ、そのうち体の一部になって、無い方が違和感を感じるようになる。人間の感覚なんて、そんなもんだ」
「……そうかな」
「ああ」
「……うん」
 そんな風に感覚が麻痺してゆくことが、良いことなのかどうかは分からなかった。
 ただ、そうなることが求められている──そうなるべき道を、自分で選んだのだということは綱吉にも分かっていた。
「ま、これについては、そう急がなくてもいいぞ。そのうち嫌でも分かるようになる。今、重要なのは、お前が自分で自分を守れるだけの技量を身に着けることだ」
「うん、それは分かってる」
 うなずきながら、ふと綱吉は思いつく。
 ボンゴレ十代目を襲名すれば、おそらくこれまで以上に生命の危機は増える。今の拳銃やナイフを使った訓練も、それを想定してのものだ。
 勿論、どんな敵が来ようとそうそう簡単にやられるつもりはないし、一騎当千の頼もしい守護者たちもいる。
 ───だが、もし万が一のことが起きたら。
(俺の次……ボンゴレ十一代目は、どうなるんだろう?)
 そうでなくとも、もし綱吉が断固として十代目襲名を拒んでいたら、血縁の他の誰かに白羽の矢が立てられたはずだ。
 その人物は、どんな風に選ばれるのだろう。どんな候補者が立つのだろう。
 今現在の綱吉自身には、直接関係のないことといえば関係のないことである。少なくともそれについて口出ししたり決断したりする権限は、まだ与えられていない。だが、思いついてしまった以上、何となく気になった。
「リボーン、どうでもいいことかもしれないけどさ」
「ん?」
「ボンゴレに俺以外にボスになれそうな人……というか、ボスの候補者になる可能性のある人って、今どれくらい居るのか、お前は知ってる?」
 綱吉が問いかけると、リボーンは黒く丸い目で、ちらりと綱吉を見やった。
「血縁だけで言うんなら、全部数えたら、十三人ってとこだな。初代から数えてお前と同じ代の奴が六人、家光と同じ代の奴が七人だ」
「そんなに?」
「初代から数えて、お前で五代目だ。二回の世界大戦を挟んでる分、途中で頭数が多少減ってはいるが、ボンゴレの歴代ボスだけでも九人いるんだ。子孫にそれくらいの人数が居ても、そう不思議じゃねーだろ」
 予想外に多い人数に思わず目を丸くした綱吉だが、しかし、言われてみればその通りだった。それぞれの代で子供が二人ずつ生まれたと単純計算しても、五代を重ねれば、綱吉と同世代の血縁は十六人になる。しかも、ドン・ボンゴレの座は初代直系のみが受け継いでいるわけではない。
 むしろ、二世代合計の候補者が十三人というのは、まだ控えめな方かもしれなかった。
「そういや、ボンゴレの家系図については、まだツナに教えてなかったな」
「うん。聞いてない」
 秋口からこの方、リボーンの講義は『ボンゴレが今何をしているか』という部分に重きが置かれている……というよりは、むしろ、それだけでも十分すぎるほどに手一杯で、家系図のような雄大な過去を振り返っている余裕は全く無かった。
 ゆえに、綱吉が血縁という意味でのボンゴレについて知っていることは、殆ど無いに等しい。何しろ、九代目と自分がどういう血の繋がりであるのかすら分からないのである。
「これについては、家光から話した方がいいと思ってたんだがな。まあ、あいつも中々に忙しいし、仕方がねーな」
 リボーンは珍しくも溜息をついて、改めて綱吉を見上げた。
「さっき俺が言った十三人ってのは、あくまでも血縁ってだけの間柄だ。大ボンゴレのボスになれるだけの素質という意味だと、お前が候補に選ばれる前にXANXASに殺された九代目の甥っ子三人と、お前が抜きん出ていた。
 九代目の甥っ子たちと同年代の家光も、お前が生まれる前後に一度は候補に名前が挙がったが、あいつ自身が、ある程度の自由を確保した上でボンゴレと九代目を守るために門外顧問という役職に執着したから、そっちの話は流れたんだ」
 つまり、と綱吉は思う。
「父さんがボスになってれば、俺は十代目にならなくても済んだってこと?」
「そういうことだが、その場合、十代目にならない代わりに十一代目になるだけだぞ。お前はボンゴレのサラブレッドなんだからな」
 その言い方が、綱吉の脳裏に引っかかった。
 サラブレッド、という比喩は通常、純血種というような意味で使われるのではないだろうか。スポーツ界のサラブレッド、政界のサラブレッドというように。
 何となく嫌な感じがして、綱吉はリボーンを見つめる。リボーンは感情の浮かばない黒い瞳を逸らさないまま、小さく肩をすくめて見せた。
「こっから先は、本当は家光から聞いた方がいい話だ。つーより、あいつがとっくに話してなきゃならなかったんだが……。ツナ、お前は自分の顔を鏡で見たことがあるか?」
「はあ?」
 突然何を、と綱吉は眉をひそめる。
「見たことがないわけないだろ。洗面所に鏡があるし、毎日顔洗ってるし……」
「じゃあ、聞くがな。お前は自分で、父親と母親のどっちに似てると思うんだ?」
「それは……母さんだろ」
 改めて訊くまでもない、と綱吉は口を尖らせた。
 若々しく可愛らしい顔立ちの母親のことは、幼い頃から子供心にも綺麗だと思っていたが、それが自分の顔によく似ているとなると、心情は途端に複雑になる。
 父親はあれだけ男臭く、図体もでかいのに、髪や目の色以外に似ているところは殆どないのだ。
 子供の頃からしょっちゅう女の子に間違われ、成長して性別だけは間違われなくなった今でも男臭いとは言いにくい容姿は、綱吉にしてみれば時折思い出してしまうささやかなコンプレックスの一つだった。
「じゃあ、もう一つ。夏にシチリアの総本部で、初代の肖像画を見ただろう。どう思った」
「どうって……。まあ、俺と似てるかなとは思ったけど……」
 自分よりはるかに純度の高い金の髪と瞳。色味は違っていたし、雰囲気も自分にはあんな荘厳さはない。
 けれど、単純に顔の造作だけを取っていうのなら、自分と初代はかなり似ていた。
 ───そこまで考えて、綱吉は冷や水を浴びせかけられたような気分になる。
「……どういう、ことだよ……?」
 母親似の自分。そして、明らかに先祖返りだとも思える自分。
 総毛立つような感覚と共にリボーンを見れば、彼の目は真っ直ぐに綱吉を見つめていた。
「先に言っとくが、誰かが仕組んだとか、ボンゴレの策略だとかじゃねーぞ。家光が間抜けだっただけだからな」
 固唾を呑む綱吉にそう前置きして、リボーンはそれ以上の間を置くこともなく、淡々と語り始めた。
「今からちょうど二十年前だ。家光は門外顧問機関の幹部として、一つの任務を負って日本に戻っていた。任務の内容は、初代こと日本に帰化した沢田家康の直系以外の子孫を密かに護衛することだった」
「直系、以外」
「ああ。お前が知っている通り、ボンゴレは血縁しか跡を継げない。だから一人でも多く身内を確保しておく必要があるが、ボンゴレは初代の二人の子供のうち、下の娘の一家を戦中戦後の混乱の中で一旦、所在を見失ったんだ。
 その娘夫婦には女の子供がいたが、戦争で両親を失ったその娘は、自分が異国の血を引いていることを隠して成長し、嫁いで子供を生んで、まだ若いうちに亡くなった。ボンゴレがもう一度、彼女の所在を探し当てた時には、彼女は既に亡くなった後で、当然、その子供たちは自分の素性を知らなかった。
 その時のボンゴレ八代目は、遠い親戚が知らずに平和に暮らしているのなら、それもいいと思ったらしい。本人たちには敢えて何も知らせないままで、門外顧問機関に一族の陰ながらのガードを委託したんだ。
 だから家光も、その任務を受けて故国に戻ったんだが……お前も知ってる通り、あいつは頭が切れる一方でムチャクチャ馬鹿なところがあってな。ガードの対象の娘に一目惚れしちまいやがった」
「それが……母さんだったの……?」
 ここまで話が進めば、推測できる結論は一つしかない。恐る恐る口にした綱吉の答えに、リボーンはうなずいた。
「そうだ。写真を見た時から『すげー可愛い子だぞ』と妙に浮かれていたんだが、日本に行って実物見た瞬間、理性が飛んだらしい。即交際を申し込んで、一年後に結婚しちまったんだ。俺もあいつとは長い付き合いだが、あれほど馬鹿だと思ったことはねーぞ。まあ、奈々は女性としては最高クラスだから、あいつの女を見る目は確かといえば確かだけどな」
「───何というか……」
 いかにもあの父親らしい、と渋々ながらも綱吉は納得する。
 しかし、母親も血縁の一人だったというのは少なからぬ衝撃だった。無論、母親は何も知らないはずだし、父親もおそらくは生涯、彼女には本当のことは何も告げないだろう。ボンゴレの血を引く意味も、また二人に血の繋がりがあることも。
 そして本人が知らない以上、またボンゴレ側に知らせる意思もない以上、母親は市井の一女性でしかない。あくまでも表向き、組織とは無関係の存在だ。
 だから、綱吉が真実を知ったところで何も変わらない。これまで通りに母親には何も知らせず、父親と共に秘密を隠し続けてゆくだけである。
 ともあれ、それの良し悪しを横に置いても、衝撃は衝撃であり、事実を受け止めるには少しばかりの時間が必要そうだった。
「でも、父さんと母さんがボンゴレの血を引いてるってことは……」
「初代から数えると家光と奈々が八分の一、お前は八分の二、つまりは四分の一で、遺伝子で言うんなら家光よりもボンゴレの血が濃いことになる。だから、お前が初代に似ているのも、俺のスパルタ教育のおかげでそこそこ芽が出たのも、偶然でも何でもねーんだぞ」
「……そういう、ことかぁ」
 何となく綱吉は溜息をつく。
 衝撃は去らないもののリボーンの言葉には妙な説得力があり、心理的にはともかくも、事実関係についてだけは強制的に納得させられた感じだった。
 別に、それが不快というわけではない。ただ、何だかなぁという気分だけは否めなくて、じっとりとリボーンを見つめると、ふんと鼻を鳴らされた。
「何だ? 言いたいことがあるんなら口に出して言え」
「別に……。ただ、お前は全部知ってたんだなと思ってさ」
 そう文句をつけると、リボーンは馬鹿馬鹿しいとばかりに肩をすくめる。
「知ってたけどな、だからといって俺は、それでお前を教育すんのに加減したりはしてねーぞ。お前の教育を九代目に依頼されて、それを受けた。受けたからには、全力を尽くしてお前を十代目に育て上げる。血筋も何も関係ねえ。素質があるんなら、それを徹底的に叩いて伸ばす。俺がやったのはそれだけだ」
「…………」
 確かにそんなものかもしれない、と綱吉は思う。
 リボーンは彼の言う通り、相手の素質は最大限に重視しても、肩書きや血縁関係といったものは全く無視するタイプだ。綱吉の教育に際しては、初代の戦闘スタイルを意識して取り入れた部分もあるが、それもあくまでも、綱吉の資質の方向性を見極めた上でのことだった。
 そして、九代目もおそらくは、身内に対する情愛は深くとも、それと自分の後継者を選ぶこととを混同するような昏迷な老人ではない。
 ボンゴレの血を引いていることは最低条件とはしても、十代目候補として綱吉に求められたのは、何があろうと大切なものを守るために戦い抜き、生死の境目で生き延びる肉体的精神的な強さ、それだけであるに違いなかった。
「リボーンは……俺が十代目に就任したら、お役御免?」
「ああ、そうなるな」
「……そっか」
 何の感慨もなさげに言うリボーンに、綱吉は微苦笑未満の表情を口元に滲ませる。
 この家庭教師はいつもそうだ。喜怒哀楽をまず表に表さない。だが、冷たいのとは根本から違う。
 少なくとも、この五年間に自分に向けられた父親のような情愛を、綱吉は心の深い部分で感じ取り、受け止めていた。
「早かったな、五年間」
「そうだな。色々あったが、過ぎちまえば一瞬だ。何だってな」
「うん」
「だが、俺がいなくなるからって安心するんじゃねえぞ、ツナ。俺の一番のお得意様はボンゴレだし、俺はボンゴレ総本部にも出入り自由だからな。いつでも抜き打ちでチェックに行ってやるからな」
 その時に腑抜けたことをしていたら容赦しねぇぞ、といつもの調子で言うリボーンに、今度こそ綱吉は笑う。
「ははっ、肝に銘じとくよ」
「その言葉、忘れんじゃねーぞ」
「忘れないよ」
 何一つ、と綱吉は心の中で呟く。
 この五年間のうちに起きたことは全て、苦い思いも辛い思いも含めて、自分にとっての宝石だった。
 時にはまばゆく、時には昏く輝いて、これからの自分を支え続けるだろう。
 その中心にあるのは、守護者をはじめとする仲間たちであり、黒衣の家庭教師だ。それはこの先何十年過ぎようと、未来永劫、変わらない。
 まだ十八になったばかりの自分に決して変わらないものを得させてくれた全ての存在に、心から感謝したいと思った。 

*           *

 廃ビルを模したセットの中央で、柱の陰から物音も殆ど立てずに襲い掛かるファビオのナイフを、綱吉は無駄のない動きで交わし、身を沈めてファビオの脚を払う。だが、ファビオも素早く飛びのき、綱吉の死角になる崩れた壁の向こうに身を翻す。
 先程から延々と続いている攻防を、獄寺は他の面々と共にセットの入り口から見つめていた。
 この五年間、最強のヒットマン・リボーンのスパルタ教育と、数多の敵との過酷な死闘の中で磨き抜かれた綱吉の闘い方は、万事において無駄がない。
 これほど強く、美しい闘い方をする人間を獄寺は他に知らなかった。
「……あんたのボスは恐ろしい人だな」
 少し離れた位置で、獄寺と同じく二人の攻防を見守っていたルカが、すっと獄寺の真横まで寄ってきて、そう呟く。
 ルカは冷めた雰囲気を持つ青年で、線の細い印象の南スラブ系の顔立ちには愛想も無く、言葉数も少ない。今もセット内を見つめたまま、淡々と言葉を紡ぐ感じだった。
「ファビオがまるで子供扱いだ。ヴァリアーに入った一番最初にベル隊長とやり合った時も、こんなとんでもない奴がいるのかと思ったが、あんたのボスとやり合うのは恐怖の種類が違う。こちらの攻撃が全て読まれてる感じだ。予測してなきゃ絶対に避けられない上に、予測もできないはずの必殺の攻撃が簡単に避けられて、後ろを取られる。ぞっとする。やり合った後は、しばらく冷や汗が止まらない」
「……それが十代目だ」
「らしいな。あんたのボスは眠れる獅子だ。ファビオが言っていた。九代目は、あの人の人間性を見てXANXAS様ではなくあの人を選んだんだと。それは正しいんだろう。だが、俺はそれだけとは思えない。俺が見る限り、XANXAS様の牙より、あんたのボスが隠している牙の方が遥かに鋭く、大きい。九代目もそれを御存知だったんじゃないのか」
「───…」
 ルカの声は答えを求めている風ではなかったから、獄寺は返答を避けた。
 九代目が、本当のところは何を思って綱吉を後継者に選んだのかは、獄寺が知るべきことではない。必要なのは、自分が十代目の側近として選ばれたことであり、その役目に自分が相応しくあることだけだった。だから、九代目に対しても十代目に対しても、獄寺は論評する言葉は持たない。
 そのまま無言で見守っている間にも、敢えてファビオの攻撃を受けて立っているようだった綱吉が、頃合と見たのか、ふっと動く。
 次の瞬間、ファビオの右腕は斜め後ろにひねり上げられ、軋むように震えたその手から戦闘ナイフが落ちた。
 綱吉は素早く床に落ちたナイフの柄を左足で踏み押さえ、そのまま静止する。
 関節を決められたファビオは身動きならず、綱吉もまた動かず、息の詰まるような十秒間が過ぎて、やっと綱吉は凍りついた空気が解けるかのようにファビオの体を離した。
「──お見事です」
「うん、ありがとう」
 賞賛ばかりではない低い声で告げたファビオの声は、呼吸が明らかに乱れている。対して、綱吉の方は息を切らせてもいない。
 深く息をついてからナイフを拾い上げ、背筋を伸ばしたファビオは、一連の攻防で乱れた戦闘服の襟元を両手で正したが、その顔も汗にまみれていた。
 特殊部隊上がりの猛者すら他愛なく圧倒する。綱吉のその脅威の戦闘力、その畏怖さえ感じさせる美しさは、眠れる獅子などではない、と獄寺は思う。
 もっと違う何か、唯一絶対の生き物だ。
 春に咲く花のように優しく、夏の日差しのようにまばゆく、秋の空のように深く豊かで、冬の陽だまりのように温かい。
 それでいて、花が散るように刹那に閃き、かすめ飛ぶ鳥のように鋭く、吹き抜ける風のように自在にしなやかで、夜空に輝く月のように冴え渡る。
 そんな比類なきやわらかさと鋭さを合わせ持つ絶対の存在にたとえるべきものを、獄寺は知らなかった。
「ま、これだけできれば上出来だな。ファビオとルカも、よくやってくれた。礼を言うぞ」
「いえ、我らの任務です」
 リボーンの率直な言葉に、ファビオは丁重に返し、ルカもまた無言でうなずく。
 そんな二人に綱吉も声をかけた。
「ファビオもルカも、またイタリアで会うこともあるだろうし、XANXASを通じて任務を頼むこともあるかと思う。その時は、またよろしく頼みます」
「はい」
「その時には、微力を尽くすことをお約束致します」
「ありがとう。この一月間は俺にとって貴重な時間でした。感謝しています」
「いえ、私こそお会いできて光栄でした、十代目」
「俺もです。お会いできて良かった。俺の方こそ貴重な経験をさせていただきました」
 二人が口々に告げる真情のこもった言葉に、綱吉は目をまばたかせ、それからやわらかく微笑んだ。
「ありがとう、ファビオ、ルカ」

*           *

 獄寺が、俺のマンションに寄っていきませんかと綱吉に声をかけたのは、シチリアへ戻ってゆくファビオとルカを見送った横顔に何かが見えたような気がしたからだった。
 それは単なる光線の加減だったかもしれないし、師走が近づいて急に冷たくなった風のせいだったかもしれない。
 だが、綱吉は獄寺の提案に一つまばたきしてから、微笑んでうなずいた。


「すみません、エアコン切ってあって……すぐに温かくなりますから」
「いいよ、大丈夫」
 夕暮れ時の室内は、風がないだけで気温は室外と大差ない。不手際を詫びた獄寺に綱吉は笑って首を横に振り、慣れた様子でリビングのソファーに腰を下ろした。
「何か温かいものを用意しますね」
「うん。……コーヒー飲みたいかな。久しぶりに、君の入れてくれたやつ」
「はい、すぐに」
 リクエストを受けて、直ぐに獄寺はキッチンにあるエスプレッソマシーンのスイッチを入れる。
 家庭用マシーンのチェルデは、バールにある業務用マシーンに比べると明らかに圧力不足だが、それでも工夫をすればまずまずの味が出る。手早く、だが丁寧に獄寺はエスプレッソを抽出し、温めた牛乳を加えてカフェ・ラッテにした。
 ラッテにしろというリクエストは聞いていないが、何となく今日はエスプレッソをそのまま出す気にはなれなかったのだ。
 綱吉用に置いてあるシンプルでやわらかなフォルムのマグカップと、自分のマグカップを持ってリビングに戻ると、綱吉は何をするでもなく、先程ソファーに腰を下ろしたときの姿勢のままで、ぼんやりと物思いにふけっているようだった。
「お待たせしました」
「ありがと。……カフェ・ラッテにしてくれたんだ」
「はい、何となく気分で。エスプレッソかマッキアートの方が良かったですか?」
「ううん。これがいいよ」
「……ありがとうございます」
 これでいい、とは言わずに、これがいいと言ってくれる。
 そんな何気ない言葉の選び方が、いつも獄寺の心を温めてくれる。対して、自分の存在は綱吉に何を与えられているのだろうかと思わずにはいられない。
 だが、今は言うべき言葉も見つからず、ただ黙って、一人分の間隔を空けてソファーに腰を下ろし、相手の体温を聞くようにマグカップを静かに傾けた。
 思えば、こんな風に二人きりになるのも久しぶりだった。
 秋前までは毎週土曜日はイタリア語の勉強を兼ねて、ほぼ完全に二人で時間を過ごしていたが、十月下旬からはそこに山本も加わり、中学生時代から変わらぬ顔ぶれの三人で過ごすか、あるいは沢田家や地下訓練場でリボーンや他の面々を加えて過ごす時間が殆どだった。
 もちろん綱吉と学校まで同じなのは獄寺だけであり、登下校中や教室ではいつも二人一緒だが、そういういわば公の場で行動を共にするのと、こうして他に誰もいないプライベートな空間で二人で居るのとでは、まったく気分も意味合いも違う。
 二人きりになったところで、ボスと右腕という関係が崩れるわけではなく、本当に一番言いたいことを口にできるわけでもない。
 それでも、獄寺は二人きりになれる時間をかけがえのないものとして大切に思っていたし、それは綱吉も同じだろうと思われた。
「……もうすぐ今年も終わりだね」
「そうですね」
 明後日はもうクリスマスだった。
 ファビオとルカとの訓練が今日までだったのも、クリスマスには家に帰してやろうという気遣いが、九代目からかリボーンからか、当初から織り込まれていたのに違いない。マフィアだろうが何だろうが、カソリックが大半を占めるイタリア人にとってクリスマスは最重要な祝祭日の一つなのである。
 彼らにクリスマスを共に過ごす家族があるのかどうかを聞く機会はなかったが、たとえ家族がいなくてもファミリーがいる。
 ヴァリアーがクリスマスをまともに祝うかどうかは疑問ではあるものの、それでも生死の境目を共に生きる同胞たちと過ごす聖誕祭は、とりわけても格別なものだろうと思われた。
「今年も色々あったね」
「はい。……来年もきっと、色々あります」
「うん」
 綱吉は、両手で包み込むようにマグカップを持ったまま、獄寺の方を見ずに話をしていた。
 その静かな横顔は、やはり照明の加減なのか、どこか血の気が薄く見える。
 だが、先程までの訓練場での動きを見ている限り、体調が悪いとは思えなかったから、何かしらの心労が彼の内に溜まっているのだろうと獄寺は見当をつけた。
 これまでも、いっそ全てを諦めて命を手放してしまった方が楽だと思えるようなプレッシャーを幾度も乗り越えてきた綱吉ではあるが、春を目前にして今現在、感じている重圧はそれらの比ではないだろう。
 加えて、秋口からの拳銃とナイフに関する教練に関するストレスも、武器どころか戦闘そのものを好んでいない彼が感じていないはずがない。
 今日、ナイフ戦闘の最後の仕上げとして、ヴァリアーの手錬れであるファビオとルカを完璧に圧倒したことでさえ、彼の気性からすれば、多少の安堵はあったとしても喜べるようなことではないに違いなかった。
 それでも、彼はやり遂げなければならないのだ。拳銃の扱いをマスターすることも、凶器を手にした敵を確実に捌くことも。
 そして、暗黒世界に冠たるボンゴレの次期当主として最強であることを求められていることを彼自身も知っているからこそ、愚痴らしい愚痴は殆ど零さず、リボーンの課す数多くの教練を一つ一つこなし続けている。
 そんな綱吉が戦う姿も、全てを守ろうとする横顔も、獄寺からしてみれば、比べるものもないほどに美しかった。
 けれど。
「──十代目」
「何?」
「大丈夫ですか?」
 気遣うような響きは、敢えて込めなかった。
 おろおろと意味無く心配するばかりだったのは、ボンゴレ十代目の信頼を預かる以前の自分の役どころであり、今の自分の役目ではない。
 確認の下に叱咤と、必要ならば俺が支えますという明確な意思をひそめた獄寺の言葉を聞き分けたのだろう。
 獄寺の横顔を見つめた綱吉は、静かに微笑んで視線をマグカップに戻す。
「大丈夫だよ」
 そして、一口カフェ・ラッテを飲んで、獄寺を見ないまま言った。
「君が居てくれて……良かった」
「──はい」
「ずっと感謝してる。それは、本当だから」
「はい。……俺もです、十代目」
「うん」
 綱吉もうなずき。
 そのまま二人は、それぞれのマグカップが空になるまで、もう何も言わなかった。

End.





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