誰が為に陽は昇る

31.

 九代目のプライベートルームを出た獄寺は、自分が今閉めたばかりのドアを一度振り返ってから、ゆっくりと歩き出す。
 廊下で待つとは言ったが、ドアのすぐ外で待つような無作法な真似をする気はなかった。
 自分は綱吉の護衛をも兼ねているつもりだが、この館内で不必要に警戒を張り巡らすのは無意味かつ無礼なことであるし、また、いくらドアが分厚く、内側の声が漏れ聞こえる可能性がないとはいえ、親しく語り合うだろう主君たちの会話に関心を持っているかのように見える素振りはしたくない。
 そんな思いで、獄寺は廊下を歩いて角の向こうのギャラリーへと戻った。
 ここならば程よく離れているし、かといってドアが開けば、すぐに聞きつけて戻れる距離である。
 そしてまた、歴代のボスの肖像画が並べられているのも、待ち時間を過ごすのにはちょうど良かった。
「───…」
 ゆっくりと獄寺は、初代の肖像画の前に立つ。
 先程は正面から眺める暇がなかったが、改めて見ると、本当に肖像画の中の人物は綱吉と瓜二つだった。
 背格好も殆ど変わらない。違うのは、髪と瞳の色、それくらいだ。
 ──歴代最強を謳われる初代。
 そして、その初代とそっくりな容姿を持ち、同じようにグローブを武器として、今や雲雀恭弥すら凌ぐほどの比類なき戦闘力を有する綱吉。
 その獄寺の世界でただ一人の主と同じ、全てを包み込むような大空を思わせる瞳で、肖像画の中の人は、目の前に立つ獄寺を見つめている。
 その美しいまなざしの前で、獄寺は自分の無力さを痛感せずにはいられなかった。
(十代目は、『十代目』でしかない。誰が何と言おうと)
 容姿や炎の種類だけの問題ではない。
 綱吉には、初代と……そして九代目と同じ資質が備わっている。
 全てを包み込み、慈しむ大空の心。
 彼こそが、このボンゴレを継ぐべき者だった。
 そして、それこそは獄寺自身が一番最初に感じ、信じていたことであって。
(俺は……馬鹿だ)
 彼は誰よりも優しいから。
 平和な国で生まれ育ったから。
 いつの頃からか、そんな理由で綱吉はボンゴレのボスには相応しくないという錯覚に陥っていた。
 だが、真実は逆なのだ。
 そういう彼だからこそ、ボンゴレは次代のボスとして彼を求めている。
 彼の優しさ、全てを守ろうとする強さこそが、ボンゴレの血の証。
 そんな単純な真実に、獄寺はこれまで気付かなかった。
 そして、気付かないまま彼を盲目的に慕い、愛して、その結果、彼の中にある本当の強さを見誤った。
(俺が何を思うと、何と言おうと、あの人はボスになる。──必ず)
 優しいからこそ、平穏な日常を望むからこそ、綱吉は現実から目をそらさない。
 戦いにおびえ、体をすくませていた十三歳の頃の彼では、もうないのだ。
 そして、その優しさゆえに、綱吉は大切に思うもの──大切な人々と、その人々が大切に思うもの──全てを守るために、ボンゴレボスの座を望む。
 それは、最初から獄寺が手出しをできるような話ではなかった。
 ボスにならないで欲しいと願うことも、その手を汚さないで欲しいと望むことも、全て余計な世話、無意味なことでしかなかったのだ。
(俺にできることは、最初から一つだけだった)
 綱吉の役に立つこと。
 孤高の座に立ち、過酷な道を行く彼を少しでも手助けすること。
 彼を決して裏切らないこと。
 ──そう。
 獄寺にできるのは、ボンゴレ十代目の『右腕』になること、それだけだった。
(九代目もリボーンさんも、最初から分かっていらっしゃったんだな。分かっていて、俺を日本に行かせたんだ)
 見るものが見れば綱吉の資質は一目瞭然であり、そして六年前、次代のボスを定めた九代目が次に考えたのは、誰を『十代目』の補佐役にするかだったのだろう。
 その白羽の矢が立てられたのが自分だったのは、身に余る光栄だったというしかない。
 九代目と知り合った時の自分は、どうにもならない荒み切った悪童だったのだ。そんな自分に、九代目が一体何を見出してくれたのか想像もつかない。
 けれど、そこにどんな思惑があったのだろうと、自分は日本へ行き、綱吉と出会った。
 それは人生の最上の宝だった。
 綱吉と出会ったことで自分の人生は変わり、命の意味も変わった。
 彼と出会う以前の生など、無に等しい。あんなものは生きていたとは到底言えない。
「十代目……」
 綱吉こそが自分の全てだった。
 彼のためなら喜んで全てを捧げられる。惜しむものがあるとしたらただ一つ、この命だけだ。
 死んでしまったら、それ以上綱吉の役には立てない。それ以上、彼を守り助けることもできない。
 そんなことは御免だったから、何があってももう、自分からこの命を捨てるような真似はしない。どんな無様であっても、必ず生き延びてみせる。
 そう何度も心に誓ったことを新たに噛み締めて、獄寺はもう一度、初代の肖像画を見上げる。
 こちらを見つめる黄金の美しい瞳は、冷たい金属の色ではなく、黄昏時に広がる空の色だった。
 途方もなく広く、温かく、そしてどこか心寂しい気がするのに、明日への希望を掻き立てる。
 最愛の人の瞳と、同じ色。
 そう思い、その美しさに見入った時、ドアを開閉する音が小さく耳に届いた。
 振り返り、そちらへと足を踏み出すと、すぐに絨毯を踏むほのかな気配がして綱吉が現れる。
「やっぱりここにいた。九代目が呼んでるよ、獄寺君」
「十代目は、お話はもういいんですか?」
「うん」
 うなずく綱吉の表情は、晴れやかだった。
 昨夜からずっと顔に差していた緊張の影は綺麗に消え失せ、穏やかに凪いで満ち足りている。
 ああ、良い話ができたのだ、と獄寺は思った。
 ここへお連れして良かった、と安堵にも似た喜びが胸の内に広がり、自然、表情もやわらかな笑みへと変わる。
「分かりました。じゃあ、ちょっと行ってきます」
「うん。ゆっくり話してきていいよ。俺も、ここの絵をじっくり見たいし」
「はい」
 うなずいて、獄寺は歩き出す。
 角を曲がり、廊下をまっすぐに進んで、プライベートルームのドアをノックした。

32.

「九代目、獄寺です」
「お入り」
「はい、失礼します」
 ドアを開け、中に入って閉めてから、丁寧に一礼する。
 先程と同じく、明るく美しい部屋の中、九代目は穏やかにくつろいだ風で獄寺を向かえた。
「ああ、そうかしこまらなくても良いよ。こちらにおいで」
「はい」
 獄寺は招かれるままに美しい布張りの長椅子へと歩み寄り、腰を下ろす。
「俺にお話とは……?」
「いやいや、難しいことではないよ。ただ、君が元気でいるかどうか、確かめたかっただけだ。君を日本へ行かせたのは私だからね。君の日本での幸せに対する責任が、私にはある」
 しかめつらしさのない、むしろ、茶目っ気を感じさせる九代目の口調に、獄寺は思わず笑顔になる。
「そんなことはご心配いただかなくても大丈夫ですよ。俺は毎日、十代目の傍にいられて幸せですし、楽しいです」
「そうかね。それならいいが……」
「本当です。十代目と引き合わせて下さった九代目にも、心の底から感謝しています」
 本心から言って、獄寺は深く頭を下げた。
「俺はまだ、一度もこの事について御礼を申し上げてませんでした。俺を見出して下さったこと、十代目のお傍につけて下さった御恩は、一生忘れません」
「顔を上げてくれないかね、隼人。私はただ、君のような優しくて真っ直ぐな子なら、綱吉君のいい友達になってくれるだろうと思ったから、六年前、君に日本に行ってもらった。だから、それで君が幸せなら、私は十分なのだよ」
「もったいないお言葉です」
「だが、君が日本で楽しく過ごしているのなら良かった。あと、今日、綱吉君をここに連れてきてくれたことについて、私からも御礼を言わないといけないね。本当にありがとう」
「そんな、俺は……」
「感謝の言葉は素直に受け取っておきなさい。年寄りの言うことは聞くものだよ」
「……はい」
 やわらかく諭されてしまっては、言い返す言葉も出ない。神妙に獄寺はうなずき、それから九代目の目を見つめた。
 九代目の瞳は薄茶色で、初代や綱吉のような琥珀色の輝きはない。だが、全てを包み込むような深さは、彼らに勝るとも劣らなかった。
 真っ直ぐに顔を上げ、
「九代目、俺は絶対に十代目を裏切りません。必ず、あの人の役に立つ右腕になって見せます。俺を選んで下さった九代目の御心に背くことは決してしません」
 言葉を選びながら、はっきりとそう告げる。
 そんな獄寺を、九代目は穏やかな瞳でじっと見つめた。
「──隼人。君は、綱吉君が『十代目』になると信じているのかね?」
「はい」
 確信をもってうなずく。が、何故かとは、獄寺は言わなかった。そんなことは言うまでもないように思えたのだ。
 自分が先程肖像の間で感じたことなど、九代目はとうの昔に察しているはずである。そんなことをぐだぐだと並べても、意味はなかった。
「そうかね」
 獄寺の短い返答と沈黙から、その真意を察したのだろう、九代目は静かにうなずく。
「私が君たちに強制できることは何もない。君たちの人生は君たちのものだ。隼人、君も君の思うように生きなさい。自分は幸せだと思える人生をね」
「──はい」
 強くうなずいた獄寺に、九代目は微笑む。
「本当にいい若者になった。隼人、私は君を誇りに思うよ」
「え……?」
 ──誇りに思う。
 それは、これまで誰も言ってくれたことのない言葉だった。
 なんと途方もない、そして尊い響きの言葉だろう。それが自分に……それも、敬愛するボンゴレ九代目から与えられたということに、獄寺は魂が震えるような感動を覚える。
 けれど。
 自分がどんな人間かということくらい、分かっている。
 九代目と綱吉に出会えたことで、幾分はマシになれたかもしれない。人を信じることも、自分の中にある負の感情を抑えることも多少は覚えた。
 だが、本質は変わらない。
 綱吉に何かがあれば、自分の中にある箍(たが)は簡単に外れるだろう。
 世界を憎み、全ての命を呪っていたかつて頃の自分。『悪童』はまだ、自分の内に眠っている。それはわずかな刺激を与えれば目覚め、世界を滅茶苦茶に破壊することすら望むに違いない。
 ただ、綱吉がいるから──綱吉の存在そのものが自分の良心となって、彼の望まないことはするまいと自制する力になっている。それだけのことなのだ。
「俺……俺は、そんな人間じゃありません。九代目に誇りに思っていただけるような……」
 恐れ多さに否定しかけた獄寺の言葉を、九代目の声がやんわりとさえぎった。
「何を言うのかね。前にも言っただろう? 私と出会った頃の君は、人が傷つくことを悲しむことができる優しい少年だった。そして、そのまま大きくなった。そんな君を誇りと思わずして、何を誇りに思えばいいのだね?」
「───…」
「君と出会えたことに、私は本当に世界に感謝しているのだよ。そして君が、私や家光にとって何より大切な宝である綱吉君に真心を捧げてくれていることについては、どれほど君に感謝しても足りない。本当にありがとう」
 しみじみと告げる真情のこもった言葉に、獄寺は返す言葉が出なかった。
 こんな時に、何を言えばいいというのか。
 ただ胸の奥から込み上げてくる熱い何かに屈しないよう、膝の上に置いた手をぐっと握り締める。
「……俺は……沢田さんの、傍にいたいだけなんです」
 喉の奥から絞り出すように告げる声は、ともすればかすれてしまいそうだった。
「あの人の傍は、あたたかい。まるで真冬の陽だまりみたいに……。そこに居られるのなら、俺は何だってできます。あの人の傍にいることを許してもらえるのなら、何だって」
 でも、それだけではない、と獄寺は続けた。
「あの人の傍にいると、優しくて強い、大きな人間になりたいと思えるんです。沢田さんは、世界をとても優しい目で見ている。あの人の目に見える世界は、きっととても綺麗で優しくて、少し悲しくて……。俺も、それを見てみたいんです。あの人が見ているものと同じものを。そしてあの人が大切に思うものを、同じように大切に思いたい。沢田さんが大切に思っているからという理由じゃなく、俺自身の感情で、そう思いたいんです」
 生まれも育ちも異なる自分が、真実、綱吉のようになれるとは思わない。
 けれど、少しでも近づきたかった。
 綱吉が大切に思うものの尊さを理解できるように、そして、綱吉がそれらを大切に思う気持ちが理解できるようになりたかった。
 綱吉への恋心とはまた別の部分で、その思いがここまでの自分を支えてきたのだ。
 だから今、九代目に誇りに思うと言ってもらえる部分が自分の中にあるとしたら、それも皆全て、綱吉から与えられたものだった。
 綱吉と引き合わせてくれた、九代目が与えてくれたものだった。
「だから、感謝するのも御礼を申し上げるのも、俺の方です。九代目と沢田さんがいらっしゃらなかったら、今の俺はありません」
「そうではないよ、隼人」
 深く頭を下げた獄寺に、穏やかな九代目の声が降り注ぐ。
「全ては君の中に最初からあったものだよ。私や綱吉君は、単なるきっかけでしかない。その小さな芽をここまで育ててきたのは、君の力だ。そして、その芽を大きく育てた君の強さと優しさを、私は何よりも尊く思っているのだよ」
「九代目……」
「考えても見てごらん。美しい心の持ち主と出会っても、何とも感じない人間は世の中にごまんといる。それを踏みにじる人間すら少なくない。だが、君は綱吉君にあたたかいものや美しいものを感じて、それを尊いと思った。そして守りたいと願い、理解したいと願い……。それは人として素晴らしいことではないかね?」
「───…」
「君は素晴らしい人間だよ。そして、まだまだ可能性を秘めている。これからも、真っ直ぐに顔を上げて生きて行きなさい、隼人。君が正しければ、おのずと道は開く。人生とはそういうものだよ」
「……はい」
 それは、どこか不思議な言葉だった。予言のようでもあり、神託のようでもあり。
 カテドラルの鐘の音のように、獄寺の内に響いて。
「ありがとうございます、九代目」
 もはやそれしか、口にできる言葉はなかった。
 実母以外の家族にすら丸ごと受け入れてはもらえなかった自分を、初めて肯定してくれた人。
 世界でただ一人の存在に、引き合わせてくれた人。
 神など信じない。けれど、この人に恥じるようなことは決してすまいと、固く心に誓う。
「うむ。……それでは綱吉君を呼んできてくれるかね。そして、三人でお茶にしよう」
「はい、分かりました」
 うなずき、一礼して獄寺は立ち上がる。
 そして大切な人を迎えに行くために、その光に満ちた美しい部屋をあとにした。

33.

 帰る前にそこに寄ってゆくといい、と言ったのは九代目だった。
 美しい花模様の描かれた磁器のティーカップを傾けながら、穏やかな口調で。
「隼人、君は知っているだろうが、とても美しい場所だから。綱吉君も、そこを見てから日本に帰りなさい。そして、奈々さんによろしく伝えておくれ」
 奈々、と言われた瞬間に、綱吉は日本のことを思い出した。
 日本には大切な人が沢山いる。母は勿論、山本も京子もハルも了平も。
 帰ったならば、まず奈々にこの国で見た色々なことを話して、山本の甲子園の録画DVDを見て、京子やハルに土産を届けて、そして甲子園まで行かなければならない。
 そして、それらがすんだら、今度は休み明けの実力テストに向けての勉強が待っている。
 そんな現実のあれやこれやが怒濤のように思い浮かび、だが、そのあまりの現実感のなさに、綱吉はひどく戸惑った。
 何もかも馴染み深いことなのに──十八年近い日々を、並盛で過ごしてきたのに。
 この国で過ごした経った、たった二十日間の日々の方が、遥かにリアリティを持って迫ってくる。
 何故なのか分からなかった。
 この国こそが、自分の国だと感じたわけではない。むしろ、異邦人であることを強く意識させられることばかりだった。
 なのに──どうして、こうも日本での日々が遠いのか。
(何が……、俺が、変わったのか……?)
 何が変わってしまったのだろう。
 大切なものを思う気持ちも、ボスになろうと決めた覚悟も、獄寺を愛しいと思う恋心すら、日本を旅立つ前と変わりないというのに。
 それとも、それらの全てが変わってしまったというのだろうか。
 表層にあるものはそのままでも、その根底にあるものが。
 あるいは、魂とでも呼ばれるべきものの在り方が。
 そう思い至り、思わず綱吉は小さく震える。
 この国に来たいと望んだのは自分だった。なのに、そんな風に自分が根っこから変わってしまうとは予想もしていなかった。
 そして、変わってしまったと思うのに、何が変わったのか自分では分からない。
 そのことが一番恐ろしかった。
 と、その時。
 獄寺がハンドルから右手を離して、エアコンのつまみを調整する。設定温度を少し上げたのが、綱吉の目に入った。
「獄寺君……」
「あ、すみません。少しエアコンがきついかと思って……」
 笑ってそんな風に言い訳し、再び前方へとまなざしを据える。
 その横顔を見つめているうちに、綱吉は笑いがこみ上げてくるのを感じた。
 おそらく獄寺は、綱吉が先程小さく身震いしたのを目に留めて、冷房が効きすぎているのだと思ったのだろう。
 まったく彼らしい気遣いであり、勘違いだった。
「うん。ありがと」
「いえ、俺も気付かなくってすみません」
「ううん」
 笑って、綱吉は助手席のシートに体重を預け直す。
 何がというわけでもないのに、つい先程まで心を覆っていた不安や恐れが霧を払うように薄れて、気分がふっと軽くなった。
 そして、変わるのは仕方がないのだ、という気になる。
 今までだって、随分と綱吉は変わってきた。リボーンが沢田家にやってきて以来、変わらなかったことはないと言った方が正しいくらいに、日常生活も、ものの考え方も変わった。
 そしておそらくは、それがこれからも続くというだけの話なのだ。
 高校を卒業して、それから多分、イタリアへと生活の拠点を移して。
 これまで見たことも聞いたこともなかった様々の事象や人間と遭遇する。
 それで変わらない方がおかしかった。
 そして、綱吉は、それでも変わらないものもある、と思いながら獄寺の横顔をそっと眺める。
 傾いた午後の日差しを避けるために、獄寺はやや濃い目のサングラスをかけており、その影を受けて灰緑色の瞳も、今は暗く翳って見える。だが、その影が、彼の顔貌の端整さを際立たせていて、その横顔に綱吉は密かに見惚れた。
「十代目、着きましたよ」
 言いながら、舗装されていない荒れた道の終着地で、獄寺は静かにブレーキを踏んで車を止める。
 そこは岬の先端だった。
 もともとシチリアの海岸線は断崖ばかりで、砂浜は殆どないのだが、そこもまた、大地は遥かな下方にある海へと向かって真っ直ぐに切り立っている。
 車を降りると、途端に強い海風が髪をなぶった。
「う、わぁ……」
 何があると言うわけではない。あるのは、海と空と断崖、それだけだった。
 だが、それだけの世界が言葉にならないほどに美しい。
 明るく透明度の高いサファイア色の海が濃く薄く揺らぎながらどこまでも広がり、沖合いの空と溶け合うあたりは深い紺碧へと沈んでいる。
 そして水平線あたりに白い雲が浮かんでいるばかりの、真っ青に晴れ渡った空。
 白っぽい岩ばかりが目立つ断崖。
 その風景を見つめているうちに、何かが綱吉の心の奥底からこみ上げてくる。
 ───この場所だった。
 自分が来たかった場所。
 日本にいた頃から、恋焦がれていた場所。
 映画でヨーロッパの風景を見た時にも、写真でイタリアの海を見た時にも感じた何か、そしてそれらよりも遥かに強い、昨日シチリアの島影を見た時に感じた何かよりも、遥かに大きなものが押し寄せてくる。
 悲しいのではない。辛いわけではない。
 ただ、途方もなく愛おしく、切ない。
 イタリアを……イタリアの海を見たくて、この旅に出ようと思った。
 だが、それは違っていたのだと今なら分かる。
 真実見たかったのは、この海、この風景だった。
 ───帰りたかった。
 ここに帰ってきたかった。
 この風景を、もう一度見たかった。
 身体の一番奥から込み上げてくるそれは、魂の呼び声か、血の記憶か。
 分からないままに込み上げる感情が、涙となって零れ落ちてゆくのを感じる。
 だが、頬を伝い落ちる雫をぬぐいもせずに、綱吉は海と空を見つめ続けた。
 魂に焼き付けておきたかった。
 次にここに来るまで決して忘れないように、この遥かな青さを、この世界の果てまで続くような広さを。
 自分と同じ血を持つ人々が、心の底から、魂の底から愛していたこの風景を。
 ───この海が、俺の還る場所。
 日本を、並盛を愛している。かけがえのない場所だと思うし、本当の意味で郷愁を感じるのは、あの街だけだ。
 けれど、あそこは生まれた場所ではあっても、自分が眠るべき場所ではない。今初めて、綱吉は強くそう感じる。
 この場所でなければならなかった。
 この先、自分が生きてゆくのは、この空と海の間にある乾いた大地でしかありえない。
 そうして尚もしばらくの間、海を見つめてから、綱吉はゆっくりと頬を濡らす涙をぬぐった。
 それから、後ろを振り返る。
 斜め後ろ、少し離れた位置に獄寺は立っていた。
 サングラスを外し、少しばかり気遣わしげな顔でこちらを見つめていて、けれど、何も言わない。
 ああ、と綱吉は思う。
 自分が泣いている時でも笑っている時でも、嘆き悲しんでいる時でも歓喜にうち震えている時でも、きっと獄寺はこうして傍にいてくれるのだろう。
 地の果てでも、地獄の底にまででも、共に行ってくれる人。
 世界でただ一人、この世の終わりまで自分の味方であってくれる人。
 世界が、自分がどれほど変わっても、彼はきっと変わらない。ならば、決して失くすまい、と思う。
 物理的な意味ばかりでなく、彼の心を決して裏切らない。自ら、彼を失うような真似は決してしない。
 そう願うのは自分ばかりではなく、彼もまた、きっと同じように思っていてくれるはずだった。
「獄寺君」
「はい」
 名を呼ぶと、即座に返事が返ってくる。
 そんな彼に、綱吉は笑いかけた。
 花が咲くように、雲間から日差しが差し込むように。
「帰ろう、日本に」
「──はい」
「母さんも山本も、きっと皆が待ってる」 
「はい」
 うなずく獄寺に、ゆっくりと歩み寄る。
「俺、この国に来て本当に良かった。本当だよ」
「……はい。俺も来て良かったです」
「うん。でも、帰らなきゃね」
「はい」
 獄寺もうなずいて、二人は車へと戻り、乗り込む。
 そして、もう一度岬の先に広がる海を見つめてから、古い小さなフィアットは静かに動き始め、白く乾いた砂埃を立てながらその地を離れた。

End.

参考文献(順不同、イタリアに特に関連あるもののみに限定、★は特に参考としたもの)

−文庫−
★『イタリア遺聞』 塩野七生 新潮文庫
★『イタリアからの手紙』 塩野七生 新潮文庫
『人びとのかたち』 塩野七生 新潮文庫
『ローマ人の物語』 塩野七生 新潮文庫
『ルネッサンスとは何だったのか』 塩野七生 新潮文庫
『男たちへ』 塩野七生 文春文庫

−新書−
『イタリア・マフィア』 シルヴィオ・ペルサンティ ちくま新書647
★『イタリア縦断、鉄道の旅』 池田匡克 角川ONEテーマ21
★『バール、コーヒー、イタリア』 島村菜津 光文社新書
『中世シチリア王国』 高山博 講談社現代新書1470
『南イタリアへ!』 陣内秀信 講談社現代新書1446
『はじめてのイタリア語』 郡史郎 講談社現代新書1396
★『イタリア・都市の歩き方』 田中千世子 講談社現代新書1347
『シチリアの春』 竹山博英 朝日選書501

−単行本−
★『南イタリア・プーリアへの旅』 木下やよい 小学館ショトルシリーズ
★『西洋建築の歴史』 佐藤達生 川出書房新社ふくろうの本
『ヨーロッパの祭り』 谷口幸男 遠藤紀勝 河出書房新社ふくろうの本
『イタリア 庭園の旅』 巌谷國士 平凡社コロナ・ブックス
★『シチリアへ行きたい』 小森谷慶子 小森谷賢二 新潮社とんぼの本
『イタリアの市場を食べ歩く』 池田匡克 池田愛美 東京書籍
★『イタリア 魅惑のビーチ』 机直人 東京書籍
★『南イタリア・シチリア紀行』 佐々木清 東京書籍
『シチリア歴史紀行』 小森谷慶子 白水社
『なぜイタリア人は幸せ』 山下史路 毎日新聞社
『体当たり〜なイタリア極楽生活のすすめ』 浅岡なおめ 実業之日本社
『イタリア 男の流儀』 ダヴィデ・セシア ファブリツィオ・ラベッツァリ 阪急コミュニケーションズ

−DVD−
★『山猫 完全復刻版』 ルキーノ・ヴィスコンティ監督
『イル・ポスティーノ』 マイケル・ラドフォード監督
『世界の車窓から6 イタリア』 朝日新聞社
 
−その他−
★『はじめてのイタリア語』 山内路江 クラウディア・オリヴィエーリ ナツメ社
★『伊日辞書』 小学館
★『日伊辞書』 イタリア書房
★『地球の歩き方 イタリア'07〜'08』 ダイヤモンド社
★『ウェブでイタリア語』 http://www.italiago.net/
★『世界大百科事典 第二版』 平凡社

その他、斜め読みした単行本・ウェブサイト多数




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