誰が為に陽は昇る

26.

 獄寺の車の運転は、普段の彼からは想像もできないほどに丁寧で確実だった。
 おそらく助手席に綱吉がいるからだろうが、急発進も急ブレーキもなく、約束通りにスピードを出しすぎるような真似も、赤信号無視もせず、古いフィアットは快調に海岸線に沿った道路を走り続けた。
 田舎であるせいか対向車も少なく、荒れたアスファルト舗装の道は空いていて、車窓の向こうには、ただひたすら青い空と海が広がっている。
 時々、どんな田舎の村にでもある雑貨屋を兼ねたバールの前に車を停め、短い休憩を取る以外、道程は単調で特に何か変わったものが見えるわけではない。
 そして目に映る風景は、空と海を除いてはひたすらに乾いており、埃っぽかった。だが、その分、夕焼けは鮮やかで、イオニア海を鮮やかな朱金に染めながら落ちていった太陽の色は、一生忘れられそうになかった。
(イタリアに来てから、もう二週間か。早いなあ)
 ミラノのマルペンサ空港に降り立ったのが、もう随分と前のことのように思える。
 経済と産業の中心地である賑やかで洗練された北部の都市を巡り、壮大な歴史と宗教的な神秘に彩られた中部の都市、そして果てなく続く緑の丘を経て、南部までやってきた。
 その間に数え切れないほど多くのものを見、聞いて、口には出さないが、今もそれらについて考えている。
 そして、それは共にここまで旅をしてきた獄寺も同じなのだろう、と綱吉は思っていた。
 今の獄寺は、自分の意見を綱吉に押し付けることを極端に恐れているようで、主観を交えない説明をする以外には、何を見て、何を聞こうとも、彼自身の意見は殆ど口にしない。
 だが、もうずっと彼の傍にいる綱吉には、獄寺が目の前にあるものを気に入っているのかそうでないのかは、何となく感じ取ることができた。
(もともと獄寺君は、綺麗なものやカッコいいものが好きだし。妙に生真面目で潔癖だし。そういうところは分かりやすいんだよね。分かりやすいんだけど……)
 けれど、それだけではなかった、と綱吉は心の中で呟く。
 彼のことは随分と知っていたつもりだったのに、もう一つの名前はもちろん、車の運転が上手いこともイタリアに来て初めて知ったことだし、どこの土地や街でも臆すことなく、まるで地元の人間であるかのように堂々とふるまい、バールの店員とさりげない冗談を交えたやり取りをするのも、日本ではついぞ見たことのなかった姿だった。
 獄寺は、この国よりも日本の方が天国に近い、などと言ったが、やはり彼自身はこの国の人間なのだと改めて思う。
 イタリア人と日本人とのクォーター、それも婚外子として辛酸をなめてきた彼ではあるが、ルーツというものは、たやすく薄れたり消えたりするものではないのだ。
(俺が日本育ちの、日本人であるのと同じで)
 もしかしたら、と綱吉は自分と同じ血を持つ存在──父親のことを考える。
 今でこそボンゴレの中で絶対的な立場を有している父だが、ファミリーに入ったばかりの若い頃には、それなりの苦労があったのではないだろうか。いくら初代の血を引き、九代目の信頼が厚くとも、日本育ちの日本人であることには変わりない。
 あの父ならば、おそらく周囲の人間の態度がどうであろうと自分の流儀を貫き、やがては周囲の人々をもそれに巻き込んでしまったのだろうが、だからといって、この国ならではの様々な問題や人間関係に一度も悩まなかったといったら、きっとそれは嘘だろう。
(一度、父さんともちゃんと話さないとな……)
 そう思いながら、綱吉は目の前に広がる海を眺める。
 イタリア半島の土踏まずから爪先にかかる線の中程、イオニア海に面したこの海岸は、上手い具合に太陽を背にして海を眺めることができるため、真昼のこの時間帯でも、陽光が水面に乱反射することがなく、鮮やかに水の色が目に飛び込んでくる。
 ここよりも北の方で見た海も美しかったが、更に明るく、透明度の高い輝くようなこの海の青を表現する言葉を、綱吉は持たなかった。
 陽射し避けの薄い長袖のパーカーを羽織り、波打ち際で、翠緑を帯びた淡青から沖合いの群青色まで変化しながら広がる海に、ただ目を奪われている。
 馬鹿のようだと思ったが、どうしてもその美しさから目が離せなかった。
「十代目」
 さくさくと砂を踏む音がして、近づいてきた獄寺がミネラルウォーターのペットボトルを差し出す。
「水分取らないと熱中症になっちまいますよ」
「うん、ありがと」
 礼を言って、ペットボトルを受け取る。
 キャップを外して一口飲むと、ヨーロッパ産硬水独特の固い喉越しを残して冷たい水がのどを滑り落ちてゆく。
 波の音と風の音。そして海鳥の鳴く声。
 聞こえるのはそればかりで、辺りには他に人影すらない。
 この海岸を見つけたのは、もちろん獄寺だった。
 今日、八月十五日はカトリックでも最も重要な祝祭日の一つ、聖母昇天祭であるため、教会以外の店は殆ど休業になる。だから、無理に動いても徒労に終わるだけだと、旅行の計画を立てた時から、この日は海岸でゆっくり過ごすことに決めてあった。
 そして、今日は予定通りにホテルで遅めの朝食を摂った後、外見はオンボロ、中身は最新パーツで改造しまくりの黄色いフィアットに軽食と水を詰めたクーラーボックスを積み込んで、半日を過ごすための海岸を探しに出かけたのである。
 もともと無理のない日程を心がけてあった旅行だが、それでもここまでは常に何かを観光して回っており、こんな風に本当に何もせずに時間を過ごすのは、イタリアに来て以来初めてだった。
 何もない、ただこれほど眩しい青が世界に存在するとは信じられないくらいに美しい海と空、そして、そこに二人きりの自分たち。
 ここが世界の果てだったらいいのに、と思いながら綱吉は獄寺を見上げる。
 並んで海を見ていた獄寺は、すぐに綱吉の視線に気付いて、こちらを振り返った。
「何ですか?」
「……御礼を言いたいなと思って」
「御礼?」
「そう」
 うなずいて、色素の薄い瞳には海岸の陽射しがきついのだろう、細められた獄寺の瞳を見つめる。
「ナポリ辺りからかな。全部、見せてくれているだろ。この国の綺麗な所も、そうじゃない所も」
 あのナポリのバールでの一件から、獄寺の態度は明らかに変わった。
 それまでは、どちらかというとその街の歴史や観光名所についての説明が多かったのに、あの後からは、その街やイタリアという国が持っている影の部分にまで言及してくれるようになったのだ。
 それは、南部イタリアという旅している土地柄も影響しているかもしれない。
 綱吉の目から見ても、北部に比べて明らかに南部は町並みが古く、時には薄汚れており、人々の服装や持ち物、店頭に並ぶ商品も北部とは質量が異なっている。そして、獄寺が言った通りに、国道に沿って走る列車は、これが公共の乗り物かと呆れるほどに無秩序な落書きで埋め尽くされ、線路脇には不法投棄と思われるゴミが山を成していた。
 だが、獄寺はそれらの全てについて、言い訳をしようとしなかったのだ。
 何故こうなのか、その理由についてだけ淡々と分かりやすい言葉で説明するだけで、祖国の影の部分に対する憤りも軽蔑も見せなかった。
 おそらく獄寺は、綱吉にはまっさらの状態で、この国を判断して欲しいと思っているのだろう。だから、本来は直情型の彼が、自分の主観を交えずに事実だけを並べ、何も付け加えない。その気配りが、綱吉は嬉しかった。
 自分で判断しようと務めても、獄寺を大切に想っている以上、彼の嫌っているものには好意を抱きにくいし、彼が好きなものを嫌うことも難しい。
 だが、そんな感情に引きずられて判断してはいけないことも沢山あるのだ。
 そうと分かっていてくれる獄寺の誠実さが──彼がこちらの想いを知らないからこそ尚更に、綱吉にとっては何よりも尊いものに思えた。
「ありがとう、獄寺君。この国に連れてきてくれて。沢山のものを見せて、教えてくれて」
 心の底から告げれば、獄寺の淡く煙った灰緑色の瞳が驚きに見開かれる。
 これだけのことをしていてくれながら、礼を言われるとは全く思っていなかったらしい。彼のそんな反応が、更にいとおしくてたまらなくなる。
 ──今ここで、好きだと言って、抱きしめて、キスをできたら。
 そう思わずにはいられなかった。
 けれど、内心の衝動に負けないうちに、綱吉は視線をそらして海へとまなざしを戻す。
「あと五日間だけど、この旅が全部終わるまでもう少しの間、よろしく頼むね」
 ほがらかに言うと、やっと我に返ったらしい獄寺が、少しかすれた声で答えた。
「よろしくも何も……俺は当然のことをしてるだけですよ」
「そうかもしれないけど」
 その『当然のこと』が俺にとっては特別なんだよ、と綱吉は心の中で言い返す。
(ああ、そうだね)
 特別な心遣いを、当然のこととしてしまうくらいに君は俺のことが大事で。
 そんな君の当然を、特別としか感じられないくらいに俺は君のことが大事で。
(こんなことは、これからもずっと続くんだね)
 互いに心の底の想いは伏せたまま、差し出された『特別』を受け止め、投げ返す。
 それは幸せなことなのか、それともそうではないのか。
 とても今の段階では判断などできない。
 分かっているのは、それが純粋な幸福ではなくとも、どれほどの苦しさをもたらすことになったとしても、決して手放せないということだけだった。
「──この旅が終わっても……」
「え?」
「ううん。何でもないよ」
 呟きかけた一言を、綱吉は笑顔で打ち消す。
 これまだ、口にすべき言葉ではない。まだ早すぎる。
「今のは保留。日本に帰ったら、また言うよ」
「……はあ」
 よく分からない、という表情を露骨に浮かべながらも、獄寺は綱吉の言葉に素直にうなずく。
 そして、それきり交わされる言葉はなく、二人はただ肩を並べて、透明に輝く海の青さに見入った。

 ───この旅が終わっても、俺と君は多分、ずっと一緒にいるんだろうね。そしてまたいつか、この海を一緒に見るんだ……。

27.

 旧型のフィアットは海岸沿いの道を走り続けていた。
 半島の土踏まずを過ぎ、つま先に近づいても相変わらずすれ違う車は殆どなく、真夏の乾き切ったイタリアの風景と、強い陽光にきらめき続ける海がどこまでも続いている。
 ここまで列車を自動車に切り替えてからの移動はスムーズだった。
 そもそもが法律違反であるため、手放しに良かったというわけにはいかないが、一昔前ならいざ知らず、最近のイタリア車はなかなか壊れにくくなっているようで、メカニズム的なトラブルも全くなく、また時刻表と実際の到着時間との誤差を考える必要もなくなったことで、気分的にもずいぶんと楽になったのは確かだった。
 また、綱吉の予想以上に獄寺は安全運転をしてくれたため、用意した偽造の運転免許証も使う機会がないまま、最終目的地である半島のつま先、レッジョ・ディ・カラブリアは目の前に迫りつつある。
 そして、よほど二人の悪運が強いのか、それとも幸運の女神が気まぐれに微笑んでくれたのか、古くて小さなフィアットは海岸沿いの道を何者にも遮られることなく西に向かって走り続け、そしてその日の午後遅く、獄寺はメッシーナ海峡を望む海際の路肩に車を停めた。
 日没が過ぎたばかりの時間帯の潮風は強さを増し、車を降りた途端に二人の髪をなぶる。
 その中で、獄寺は海峡の向こうを指差した。
「あれがシチリアです。対岸に見えるのはタオルミーナの街の灯りです」
 目をこらすまでもなく、一見島とは思えないほど大きく長い影が、紺碧の海の向こうに広がっている。
 その雄大な影に、綱吉は胸の一番奥底を掴まれ、握り締められるような感覚を覚えて、思わずみぞおちの辺りに手を当てた。
「ボンゴレの総本部はあのずっと向こうにあります。州都のパレルモから車で一時間ちょっと、タオルミーナからだと車で五時間以上かかります」
「……そこに九代目もいるの?」
「はい。十代目のお父様……門外顧問も、総本部からそう遠くない小さな街にいらっしゃるはずです」
「────」
 綱吉は食い入るように、黄昏時の残照と夕闇が入り混じる世界に蒼く浮かび上がる島影を見つめる。
 ───あれが、シチリア。
 すべてが、始まった場所。
 今も尚、自分に続くすべてがある場所。
 旅はもうここで終わりだというのに……明日にはローマに向かって発ち、日本への帰途につくというのに、たった今まで体内深くで眠っていた何かが目覚め、腹の底から這い上がってくるようだった。
 初めて見る島影、強い潮の香りと、岸壁に砕ける波の音、ねぐらに帰る海鳥の声。
 これまでの旅行の過程でも似たようなものを何度も目の当たりにしたはずなのに、そんなものの全てが胸に迫って、今にも叫びだしてしまいそうになる。
 言葉にならない声で、獣の雄叫びのように。
 故里の森を恋うる狼の遠吠えのように、声の限りに。
「ご…くでら、くん」
 その代わりに綱吉は、かすれた声で傍らの右腕の名を呼んだ。


「あそこに……行きたい」


 ───あの島に、行きたい。
 琥珀色の瞳に残照を映しこんだかのような朱金の輝きを宿らせ、狂熱に浮かされた人間のようにシチリアの島影を見つめたまま。
 綱吉はかすれた声で続けた。
「九代目に、会って……話をしたい」
「十代目」
 驚いたように獄寺が綱吉を見る。
 その驚愕のまなざしに感応するように、綱吉はシャツのみぞおちの辺りを強く右手で握り締めたまま、のろのろと獄寺の顔を振り仰いだ。
「シチリアには……行けない。分かってるよ。危険なんだよね? うかつに今の俺が行っていい場所じゃない。分かってる。でも……」
 綱吉の声とまなざしが震えた。
「俺は行かなきゃいけないんだよ。あそこに行かなきゃ、この国に来た意味がない。ここまで来た意味がなくなる。あそこに、あるんだ。全部。何もかも、あの島から始まってるんだ……!」
「十代目」
「分かってるよ! 俺は無茶言ってる! 君を困らせてる! でも、それでも……シチリアに行きたい! 九代目と会いたいんだ……!!」
 叫びながら、綱吉自身、何故突然にこんな衝動に襲われたのか分からなかった。
 ただ、自分の中の何かが叫んでいるのだ。
 この身体に流れる血か、それとも、ボンゴレ十世となる覚悟を定めた魂か。
 その何かが、行けと命じている。
 すべてはあの島に在るのだと。あの島から、全ては始まったのだと。
 行って、会えと叫ぶ。
 九代目に。自分のルーツに。
「寄り道してる暇なんかないことも分かってる。明日、ローマに戻って一泊して、明後日の飛行機に乗らなかったら、山本との約束だって守れなくなる。母さんだって、予定が変われば心配する。君にも九代目にも迷惑かける。分かってるんだ、我儘だって。でも……!」
「十代目!」
 突如強い声で銘を呼ばれ、両肩を掴まれる。
 痛みを感じる寸前の強い力に、獄寺が自分に触れているのだと気付くのが綱吉は少しばかり遅れた。
 あ、と思った時には、もう獄寺の両手は離れてしまう。
「大丈夫です、十代目」
「……獄寺君……」
「俺に任せて下さい。十代目が望まれることなら、何だって叶えて差し上げますから」
 強く、自信に満ちた顔で獄寺は言い切った。
 これまで何度も見てきた表情だった。圧倒的な敵を前にして、それでも彼自身の不安や苦しみを押し殺して、綱吉を力づけようとする彼の表情。
「総本部にはすぐに連絡を取ります。九代目のスケジュールは俺にも分かりませんが、もしアルプスあたりに避暑にお出かけになっていたとしても、俺が必ず、そこまでお連れします。野球馬鹿の甲子園の決勝までは、まだ五日もありますし、お母様にも俺から予定が変わったことを説明します。だから、大丈夫です」
「───…」
 何が大丈夫なの、と綱吉は思う。
 自分が口にしたのは、ただの我儘だ。どんなに切実な思いから生まれたものであっても、獄寺が自分に危険が及ばないよう細心の注意を払って立てた計画を台無しにするものでしかない。
 それなのに、彼は。
「俺はちょっと電話をかけさせてもらいますから、十代目は車の中に戻っていて下さい。ここは海風が強すぎますから」
「……獄寺君」
「何ですか?」
「どうして、叶えようとするの。俺の我儘なのに。君にとっていいことなんて、一つもないのに……!」
 どうして、と問う間にも、綱吉の目頭が熱くなる。
 尋ねるまでもなく、答えは分かっていた。
 自分が望んだからだ。
 どんなに酷い内容の我儘であろうと叶えようとしてくれるほど、獄寺が自分を大切に想っていてくれるからだ。
「俺がそうしたいからですよ。俺は、あなたのために何か出来ることが嬉しいんです」
「そんな……こと……」
 大切に想われるのは嬉しい。
 けれど、苦しかった。
「俺は……君に、何も返せない。何も、できない。君は俺の我儘を叶えてくれる。でも、俺は君に、何をしてあげたらいいの……?」
 獄寺は、綱吉に対しては我儘を言わない。昔はそうでもなかったが、いつの頃からか、彼自身の望みを口にしなくなった。
 だから、綱吉は、そんな彼に何かを返すために言葉を使うようになった。「ありがとう」とか「嬉しい」とか「すごいね」とか。
 そんなつまらない、ありふれた言葉であっても、獄寺はひどく嬉しそうにしてくれたから。
 そして、それ以外のものを綱吉に求めようとはしなかったから。
 けれど、それだけでは全然足りない。
 どれほど心を込めたところで、薄っぺらい言葉だけでは、彼の誠意に見合わない。
 彼が望むものがあれば、何であれ差し出して叶えたい。
 その想いだけで綱吉は、獄寺を見つめる。
 だが。
「俺は十代目が、ありがとうっておっしゃって、笑って下されば十分です」
 綱吉のまなざしの先で、獄寺は中学生の頃と変わらない、少しだけ照れを含んだ笑顔でそう言って笑った。
 その笑みと言葉に、今度こそ綱吉の胸が強く震える。が、それを懸命に押し殺しながら、綱吉は呼吸を整え、かろうじて笑みを浮かべた。
「……ありがとう、獄寺君」
「はい」
 震える声で告げれば、心底嬉しそうに獄寺はうなずいて、携帯電話を取り出した。
「じゃあ、俺、電話しますから。ちょっと待ってて下さいね」
 そして綱吉に背を向けると同時に笑みを消した獄寺の後姿を見つめて、綱吉は自分の口を手のひらで強く押さえた。
 ───君が好きだ。
 押さえていなければ、心の中を荒れ狂う感情のままに叫んでしまいそうだった。
 今ほど獄寺のことを強く好きだと感じたことはなかった。
 好きで好きで気が狂いそうだとすら思う。
 けれど、叫べない。まなざしで訴えかけることすらできない。
(こんなことが一生続くのか……!?)
 一番傍にいるのに、一番好きなのに、獄寺も自分を愛してくれているのに、言葉にも態度にすら出せない。
 ───神様。
 その救いのない現実に、初めて綱吉は絶望を覚える。
 けれど、どうしようもなかった。
 ───神様、お願いです。
 ボンゴレ十世として生きてゆくことを決めた以上、狂気のようなこの想いを抱えたまま、この先も共に生きてゆくしかない。
 自分も、獄寺も。
 ───他に何も望みません。他に何も要りませんから、今度生まれ変わったら、その時こそ、獄寺君を俺に下さい。どうか、君が好きだと、俺に言わせて下さい。
 絶望の中で、生まれて初めて綱吉は神に祈る。
 神に祈るしかない心を知る。
(泣いたら駄目だ……!)
 涙が頬を伝ってしまえば、獄寺は目ざとくその痕跡に気付くだろう。
 零れ落ちそうになる涙を強くまばたきすることで散らし、夏の星が輝き始めた空を見上げる。
 気を紛らわせるように星の数を数えていると、電話を終えた獄寺がこちらを振り返った。
「十代目、ラッキーですよ。九代目は総本部にいらっしゃいました。明日の午後、是非お会いしたいとのことです」
 まるで彼自身の願望が叶ったかのように、明るい表情で言う。
 否、綱吉の願望をかなえることこそが、今の彼の望みだったのだろう。そして、それが叶ったから、綱吉が喜んでくれるのではないかと考えて、嬉しい気分になっている。
(本当に馬鹿だよ。君も、俺も)
 心の底からそう思いながら、綱吉は笑顔を浮かべる。
「すごいね、獄寺君。本当に俺の我儘を叶えてくれた」
「これくらい、大したことじゃないですよ」
 言いながらも誇らしげな表情を隠せない。そんな獄寺が、死にたいくらいに愛おしかった。
「ううん、すごいよ。本当にありがとう」
「十代目に喜んでいただけたんなら、俺も嬉しいです」
「うん。すごく嬉しい」
 望まれるままに言葉を返しながら、綱吉は夕闇に暗く沈み始めた海峡の向こうの島影を見つめる。
 すると、獄寺も綱吉の視線の先を追った。
「明日の朝一番のフェリーで、タオルミーナに渡りましょう。そこから車で、明日の昼過ぎにはパレルモに着けますよ」
「……うん」
「それじゃ、ホテルに向かいましょうか」
「うん」
 促されて歩き出す。
 そうして車に向かいながら、綱吉はもう一度、獄寺の名を呼んだ。
「獄寺君。本当にありがとう」
「──はい」
 限りない想いを込めての言葉に、真情の響きを感じ取ったのだろう。獄寺も、満ち足りた嬉しげな笑みを浮かべる。
 その笑顔を、この先永遠に忘れない、と綱吉は思った───。

28.

 初めて見たシチリアの風景は、これまでに目にしたイタリアのどの風景とも違っていた。
 太陽は眩しすぎるほどに強く照り輝き、その陽射しの下で大地は乾き切ってしまっている。こんなところで人が生活してゆけるのかと思わず心配してしまうほど、道の両側にはどこまでも夏枯れた丘陵が広がっていた。
「十代目、お疲れにならないですか?」
「ううん、平気。それより獄寺君は休憩しなくても大丈夫?」
「全然、大丈夫ですよ」
 朝一番のフェリーで車ごとメッシーナ海峡を渡り、かれこれ三時間近く獄寺は車のハンドルを握り続けている。
 相変わらずその運転は丁寧であり、また車もサスペンションを上等の物に交換改造してあるおかげで、アスファルトが荒れているにもかかわらず、綱吉は肉体的な疲れは殆ど感じていなかった。
「でも、そうですね、九代目とのお約束の時間まで大分余裕がありますし、次の街辺りで、ちょっと寄り道しましょうか。美味いジェラートの店があるんですよ」
「うん、いいかも」
 正直なことを言えば、何であれ食べ物を口にしたい気分ではなかった。いつになく緊張してしまっていて、胃の辺りが締め付けられるような感じがずっと続いている。
 だが、獄寺が口数が少なくなってしまっている自分を気遣ってくれているのは分かったし、もしかしたら冷たくて甘いジェラートが、ささやかにでも気分転換になるのではという気がして綱吉はうなずいた。
 そして、そこから三十分ほど更に車を走らせて、獄寺は地図で道を確かめることもせずに幹線道路から外れ、街中へと向かって進み、程なく車を止めた。
「ここから先は道がちょっと狭いんで、歩きます。すぐそこですから、五分くらいで着きますよ」
「うん」
 うなずいて、車の外に出る。
 途端、むせかえるほどに甘い甘い香りのする熱い風に頬をなぶられて、綱吉は思わず目をまばたかせた。
「獄寺君、この匂いって何?」
「ああ、これはジェルソミーノ……ジャスミンの花の香りですよ」
「ジャスミン?」
「ええ。──ああ、あそこにもありますね。あの白っぽい花、見えますか?」
 周囲を見渡した獄寺が、道沿いの家の軒先にある鉢植えを指差す。確かに彼の言うとおり、つる性の植物に白い花がいっぱいに咲いているのが見えた。そればかりではない。よく見てみれば、あちらこちらの家の垣根や植込みに、同じ白い小さな花が夜空に輝く星のように咲き誇っている。
「シチリアの匂いは、基本的に花の匂いなんです。初夏はレモン、夏はジャスミン、秋はオレンジで……。それぞれの季節には、こんな風にむせ返るくらいに島中、花の香りでいっぱいになるんですよ」
「へえ……」
 今朝この島に降り立って以来、ひたすら乾いた風景ばかりが続いていたから、てっきり風も乾いた土の匂いがするのだろうと思い込んでいた綱吉は、その濃厚な甘い匂いに新鮮な驚きを覚える。
 これがシチリアの空気なのかと思いながらも、陽射し避けの白いパーカーを羽織り、そして、獄寺について石畳の道を歩き出した。
 道の向こうに見えていたジェラート屋までは本当に数分の距離で、店頭には既に幾人かの地元民らしい先客たちが、テントの日陰でそれぞれに美味しそうにジェラートをほおばっている。
「この店は、この辺りじゃ一番美味いジェラートを出すんで有名なんです。イタリア一の店は、この島の東部のアーチレアーレにあるんですけど」
 また今度、機会があったら行きましょう、と言いながら、獄寺は綱吉に食べたいものを聞き、店主にそれを告げて、二皿のジェラートを受け取った。
「ありがと」
「いいえ」
 差し出された一皿を礼を言って受け取ると、頼んだのはリモーネ(レモン)のはずなのに、大きな塊から切り取られたような断面は、綺麗な色の層になっている。
 ジェラートを見つめる綱吉の不思議そうな顔に気付いた獄寺が、説明した。
「真ん中の白いのがレモンで、その外側の薄緑がピスタチオ、一番外側のピンクが赤ワインで色をつけたレモンの蜂蜜のジェラートです。それぞれも美味いですけど、全部一緒に食っても美味いですよ」
「うん。普通に白っぽいのを想像してたから、何だかびっくりした。すごく綺麗だね」
「でしょう? あ、レモンの中に散らばってるのは、ドライフルーツのシロップ漬けですから」
「この赤いやつとかオレンジのやつ?」
 言われるままに、宝石のような色鮮やかな粒をスプーンですくって口に入れると、甘さは案外に控えめで爽やかなレモンの香りが一杯に広がり、続いてドライフルーツを噛んだ途端に、また別の鮮烈な甘みと果物の香りが広がる。
「すっごく美味しい……!」
「はい。絶対に気に入られると思ったんですよ」
 嬉しげに獄寺は言って、自分もジェラートを食べ始める。
 その横顔を綱吉は、そっと眺めた。
 ──いつものことではあるが、この旅行の間も、獄寺はひたすらに優しかった。
 綱吉がほんのわずかでも嫌な気分を味合わずともすむように心を砕き、けれど、それだけではなく、旅の途中からは『綱吉が本当に見たいもの』を見せてくれた。
 十三の年から五年もの間、惜しみなく注がれ続けてきた単に優しいだけではない、深い気遣いと誠実。
 そしてそれは今、シチリア行きという形でまた一つ、大きな結実を見せている。
 ──昨日の夕方、綱吉はシチリアに行きたいと獄寺に訴えたものの、いざ、その我儘が叶えられると決まった時、言葉にできない緊張を覚えずにはいられなかった。
 これまで話にしか聞いたことのないボンゴレの、そしてすべてのマフィアの故郷。
 どうしても行かなければならないと意気込んだものの、本当にそこに足を踏み入れるとなると、怖気づかずにはいられなかったのだ。
 無論、綱吉はそんな内心を隠してレッジョ・ディ・カラブリアのホテルでも普通にふるまっていたつもりだったが、獄寺には分かっていたらしい。
 今朝、ホテルを出る時に「九代目は迎えを出して下さるとおっしゃいましたが、お断りしました」と綱吉に告げ、「俺が、あなたをお連れします」と静かな決意を感じさせる笑顔で言ったのである。
 その瞬間に綱吉がどれほどの安堵を覚えたか、他の人間には想像もつかないだろう。
 ──何があっても、獄寺君は傍にいてくれる。
 ──どんな状況でも、自分を大切に想っていてくれる。
 今更のことかもしれなかったが、そのことを改めて確認した綱吉は、緊張こそは解けなかったものの、シチリアという島に対する恐れは、その瞬間に忘れることができた。
 シチリアは獄寺の生まれ故郷であり、自分の父や血の繋がった人々が居る場所でもある。そう考えれば、たとえボンゴレの──マフィアの本拠地ではあっても、怖い場所ではなくなったのだ。
 だが、それでも、この島に足を踏み入れたことは、自分のこれからの運命を本当に決定付けた──そんな予感がどうしても消えず、それにこれから向き合わなければならないという緊張を、どうしてもやわらげることができない。
 今この瞬間も、ジェラートは舌がとろけそうなほどに甘くて冷たくて美味しいのに、スプーンを持つ右手は、ともすれば震えてしまいそうだった。
「獄寺君」
「はい?」
 やっぱり駄目だ、と綱吉は自力でどうにかすることを諦め、傍らの少年の名を呼ぶ。
 情けない話だが、こんな状況でわずかでも勇気を出すには、彼の優しさが数滴、どうしても必要だった。
「ごめん。せっかくここまで連れてきてくれたのに……俺、やっぱり緊張しちゃって。それで、迷惑ついでで悪いんだけど、少しでいいから、これから行く総本部のこと、教えてくれないかな? 見た感じとか、中の様子とか」
 自分一人の考えで想像していると、どんどん怖くなってしまうから、と正直に告げると、獄寺は温かな日差しが差し込むような、優しい笑顔を見せた。
「十代目が緊張されるのは当然ですよ。この国自体、初めてなのに、更に初めての場所に踏み込もうっていうんですから。俺だって昔、初めて総本部に呼び出された時は、正直、回れ右して逃げ出したいくらいにビビってました」
「──そうなんだ?」
「はい。でも、そこを踏みこたえて九代目の御前に行ったら、日本に行けって言われたんですよ。日本に行って、十代目のあなたに会えって」
 それは初めて綱吉が聞く話だった。
 五年前に獄寺が日本にやってきたのは、九代目の意向だったことは知っているが、獄寺の口からそれをきちんと聞いたことは一度もないのである。
 だから、綱吉は自分自身の緊張も忘れて、獄寺の話に聞き入った。
「だから俺は、あの時しっぽを巻いて逃げ出さなかった俺自身を、今でも褒めてやりたいです。逃げなかったお陰で、あなたに会えた。俺の人生で最高の出来事です。あの日がなかったら、今の俺もなかったんですから」
 そう言い、獄寺は綱吉をまっすぐに見つめる。
「大丈夫です、十代目。あなたと九代目は血が繋がっていらっしゃるんですから、あなたが親戚のおじい様に会いに行くのに、何の問題も起きようはずがありません。『十代目』としてではなく、沢田綱吉さんとして九代目にお会いになればいいんです。もちろん、俺もお傍を離れません」
「獄寺君……」
「俺を信じて下さい、十代目。総本部は、とても大きくて綺麗な館です。大勢の人間が居ますが、九代目のプライベート区には一握りの側近しか入れませんから、あなたが目にするファミリーは数えるほどしか居ないはずです。そして、あなたは十代目候補として尊重される立場の方です。あなたには誰も危害を加えることなんかできませんし、俺がそんなことはさせません。──何があっても」
 静かだが強い声で言い切り、獄寺はもう一度、繰り返した。
「何があっても、俺はあなたの傍にいます。いつでも、どんな場所でも」
「いつでも、どんな場所でも……?」
「はい。必ずです」
 上辺(うわべ)だけでは決してありえないその言葉は、綱吉の心に深く深く染み透る。
 今この時ばかりでなく、獄寺はきっと、綱吉が修羅の道を選べば同じ血塗られた道を、綱吉が地獄に落ちれば同じ地の底へと、喜んで従ってくれるのだろう。
 たとえ全世界を敵に回したとしても、獄寺だけは絶対に自分の味方であってくれる。
 何の疑いもなく、綱吉はそう信じることができて。
「ありがとう、獄寺君」
 そっと微笑んで獄寺を見上げる。
「俺、君に『大丈夫』って言って欲しかったんだ。これまで君が、いつも言ってくれたみたいに。でも君は今、それだけじゃなくて、もっとすごい言葉をくれた。……ありがとう、本当に」
 その綱吉の言葉に、今度は獄寺が目をみはる番だった。
「十代目……」
「もう大丈夫。まだ緊張はしてるけど、君の言葉のお陰で、逃げたい気はなくなったから。九代目とも、ちゃんと話ができると思う」
「十代目」
「俺には君がいる。……そう思って、いいんだよね?」
「はい、勿論です!」
 感激なのか、あるいは、そればかりではないのか、頬に淡く血の気を昇らせて獄寺は力強くうなずく。
 そんな獄寺に、綱吉も小さく笑みを返した。
 ──それは口にしても良いのかどうか、ぎりぎりの言葉だった。
 必要以上に互いの距離の近さをあらわす言葉は、二人の感情を危険な水域にまで追いやりかねない。
 けれど、そうと分かっていても、綱吉は言葉にしたかった。それしか、獄寺の真摯さと誠実さに返せるものを、今の綱吉は持たない。
 だから、敢えて危険な水際まで踏み込んで、『右腕』としての獄寺が求める、そして『十代目』としての自分が与えられる最上の言葉を口にした。
(残酷……だね。俺も、君も)
 心にもないことを口にしているわけではないが、本当に言いたいこと、聞きたいことは、こんな言葉ではない。
 なのに、それを望み求めることは、決して許されない。
 自分が真実求める甘露を、相手が隠し持っていることを知っているのに、かろうじて渇きを潤すだけの泥水を与え合うことしかできないのだ。
 そんな道を自分は望み、選んでしまった。
 これが残酷でないとしたら、何を残酷と呼べばいいだろう。
(けれど、それでも俺は、君だけが大事だとは言えない。……それだけは、どうしても言いたくないんだよ)
 獄寺が一番大事で、一番傍にいて欲しい人間ではあっても、ほかにも大切に思う仲間は大勢いる。それを否定するような言葉だけは、絶対に口にできない。
 その思いこそが綱吉の胸の内にある、ともすれば揺れて溢れ出しそうな感情を押しとどめる最後の防波堤だった。
「それじゃ、行こうか。獄寺君」
「はい」
 ジェラートを綺麗に平らげ、ガラス皿をカウンターに返してから、綱吉は獄寺を振り返る。
「ここから総本部までは二時間くらいです。九代目がきっと、首を長くしてお待ちですよ」
「うん、そうだね」
 記憶にある限り、九代目は祖父のように温かく、優しい存在だった。
 自分の血に繋がる人。自分を見出し、選んでくれた人。
 会いたい、と昨夜の焼け付くような感情ではなく、素直に思う。
 そして綱吉は、ジャスミンの甘い香りが漂う石畳の道を獄寺と共に、車に向かって歩き出した。

29.

 ボンゴレ総本部は、獄寺が言った通り、壮大な屋敷だった。
 車に乗ったまま立派な正門を通り過ぎてからも、なおも十分近い距離を走り続け、当主の居館前の車止めで降りてからもまた、邸内をそれなりの距離を歩かなければ、九代目が待っているというプライベートルームまでは辿り着けない。
 だが、その広大な屋敷に、今は九代目一人しか住んでいないという情報は、綱吉を少しばかり驚かせた。
 九代目の夫人は早くに亡くなり、実子もなく、養子のXANXASも今はパレルモ市内にあるヴァリアーの詰め所で起居しており、九代目に近い血縁は嫁いだ妹がいるだけで、その妹が産んだ子供たち──三人の甥もXANXASの手によって何年も前に粛清されている。
 ゆえに、今の九代目には家族らしい家族は、もう一人も無いのだ、と獄寺は少し寂しげな表情で綱吉に語った。
 初代から数えられるボンゴレの血族は無論、代を重ねるに連れて分岐し、今でもイタリアを中心として各地に散らばっている。しかし、現代に至っても宗家と親しい関係を保っている分家は少なく、日本の沢田家は代々ファミリーに深く関わってきた珍しい部類の家柄であり、初代の直系でもあることから実質、第二の宗家とみなされているのだとも。
 それを聞いて初めて、綱吉は父・家光が門外顧問の座にいる理由、そして、自分が十代目候補に選ばれた理由を理解できた。
 おそらく、家族に恵まれなかった九代目にとって家光は甥のような存在であり、また家光もあの性格であるから、その九代目の情愛と信頼に真情をもって応えたのに違いない。
 そして、九代目が幼い綱吉を跡目に選んだのも、元々は家光の人格と能力、そして家光の留守中、細腕で綱吉を育て上げた奈々に対する信頼から生まれた選択肢だったのだろう。
 七光りとは言わないが、家光と奈々の存在があったからこそ、今の自分の存在があるということを綱吉は、ここに来て改めて感じざるを得なかった。
「本当にすごいお屋敷だね」
 どんな思いで九代目は長年、この館で一人きり暮らしてきたのだろうと思いながら、等間隔にある窓から差し込むまばゆい午後の日差しが絨毯の上に美しい光の模様を描くのを踏みつつ、綱吉は小さな声で呟く。
 綱吉には本来、古今東西を問わず建築に関する知識はかけらもなかったが、この二十日間というものイタリア縦断の旅をしてきたおかげで、どの時代の建物なのかということくらいは何となく分かるようになっており、この屋敷が古い城館を近代風に改築したものであることも朧気に把握できた。
 外見は相当に古いが、内装はおそらくネオ・ルネッサンスと呼ばれる様式だろう。ごてごてした装飾のない均整の取れた造詣の柱や天井が目を惹く、美しい造りだった。
「ええ。俺も総本部には出入りしてますが、こちらに足を踏み入れるのは初めてです。表の総本部の建物も相当なものですが、こちらはもっとすごいですね」
 獄寺も感心したように言い、この内装は十九世紀初頭の有名な建築家の手によるものだ、と綱吉に説明した。
 裕福な家の生まれである分、獄寺は音楽のみならず工芸方面にも案外に造詣が深くて、窓枠や照明、階段の手摺りの造形にすら、いちいち反応して目をみはる。
 綱吉自身、建物の風格には圧倒されていたが、そんな獄寺が何となく微笑ましくもおかしくて、高まっていた緊張が少しばかりほぐれるのを感じないではいられなかった。
 また、九代目が気を遣ってくれたのだろう。綱吉と獄寺を玄関広間で出迎えた執事らしき人物も、九代目のプライベートルームまでの道筋を二人に伝えただけで、案内係は用意されなかったため、二人は自分たちのペースで邸内の様子を存分に眺めながら歩くことができ、そのことも、綱吉の緊張をわずかながらも和らげることに一役買っていた。
 そうして教えられた通りに階段を二階へと上がり、角を曲がって。
「う、わ……!」
 目の前に広がった光景に、思わず綱吉と獄寺は声を上げた。
 絨毯の敷き詰められた幅の広い廊下そのものがギャラリーとされているのか、左右の壁にかけられた幾枚もの絵、絵、絵。
 それらは全て、肖像画だった。
「これ……全部、ボンゴレのボスだ……」
 半ば呆然と、等身大の肖像画を見上げながら綱吉は呟く。
 今よりも幾分若い頃の九代目。花の刺青の美しい八代目。カイゼル髭が目に付く七代目。片眼鏡が印象的な六代目。知的な細面の五代目。いかめしい威厳に溢れた四代目。髪型が独創的な三代目。どこかZANZASを思わせる二代目。……そして。
「Giotto VONGOLA I ……初代」
 二十代半ば頃の肖像だろうか。その人は、静かなまなざしで目の前に立つ相手を見つめている。
 その前に、綱吉は立った。
「初代、ですか。この方が……」
 驚愕に満ちた声を聞くまでもなく、獄寺が目を丸くして自分と肖像画を見比べていることが、綱吉には分かった。
 ゆっくりと彼の方を振り返る。
「──そんなに、似てる?」
 自分が今、どんな表情をしているのか綱吉は分からなかった。微笑んでいるのか、血の因果の重みにひしいでいるのか。
 そして、獄寺はやはり正直だった。
「……はい。髪と瞳の色は違っていらっしゃいますが……」
 綱吉の心を思いやったのか、少しばかり厳しい顔をしながらも、彼が見た通りのことを伝えてくる。
 その答えに、綱吉は小さく笑んだ。
「そっか。君から見ても、やっぱり似てるのか。……五代も前の御先祖なのにね」
「……十代目。あなたは御存知だったんですか? 初代のお顔を……」
「うん」
 どこで、とか、いつ、とかは言わずに綱吉はうなずく。
「俺とは全然雰囲気が違うし、ずっと落ち着いて大人びていて……。でも、似てる、とは思ったかな」
 どこかで見たような、目鼻立ち。髪の癖。炎の色。
 そして、それ以上に心の──魂の一番深い部分で感じた、遥かな絆の存在。
 お前を待っていた、という言葉を、何の疑いもなく飲み込んでしまった程に。
「でも、良かった。ここに、この絵があって」
 綱吉は、まっすぐに肖像画を見上げた。
「……獄寺君。俺ね、九代目にも会いたいけれど、この人にも会いたかったんだ。九代目や父さんや、俺にまで繋がっているこの人に」
 だからこそ、この島に来たいと思ったのだ。
 九代目とは電話ででも話をすることができる。だが、この人と会うためには、この人の生まれ故郷に行き、その空と大地と風を感じるしかないと思ったから。
──黄金色と呼びたいほどに明るい琥珀色の瞳。
 やわらかく跳ねた癖のある金の髪。
 しんと静かで物憂げにさえ見える、けれど、強靭な意志を感じさせる表情。
 この人が全てを造ったのだ。
 栄えようと滅びようと、正しかろうと正しくなかろうと構わない。ただ、大切なものを守れるのならば、それでいい、と。
「この絵を見られただけでも、この島に来た価値があったよ。ここに来て、良かった」
「十代目……」
 綱吉の声や表情から何かを読み取ってしまったのか、獄寺が思わしげな声で銘を呼ぶ。
 だが、綱吉は笑んだだけだった。
「行こうか、獄寺君。九代目が待ってくれてる」
「──はい」
 そして再び廊下を歩き出しながら、綱吉は心の中でそっと呟く。
(獄寺君、俺は別に、初代に似てるからボスになろうと思ったわけじゃないんだよ)
(あの人が俺を認めてくれたからでもない。ただ皆を……君を含めて、みんなを守りたいと思ったからなんだ。多分、継承の試練であの人に会わなくても、きっとこの道を選んでた)
(本当に、それだけなんだよ……)
 今は口に出せない、心の中にある真実を獄寺に告げる日が来るのだろうか、と思いながらも肖像の間を抜けて、もう一度角を曲がる。
 その突き当たりの部屋が、九代目のプライベートルームだった。
 ドアの前で立ち止まり、綱吉に代わってノックしようとした獄寺を、片手を伸ばして制する。
 獄寺の行動を咎める気があったわけではない。この旅行の間中、鍵を開け、ドアを開くのはすべて獄寺に任せていたのだから、彼の行動は当然のことだった。
 だが、今度ばかりは彼に任せるわけにはいかなかった。
 ここに来たいと言ったのは……九代目に会いたいと言ったのは、綱吉自身なのだから。
 十代目、と声には出さずに唇の動きだけで呼んだ獄寺に、綱吉も声に出しては何も言わずに微笑む。
 そして、ゆっくりと二度、美しい装飾彫りの施された扉をノックした。
「綱吉です。九代目、あなたに会いに来ました」
「お入り」
 すぐさま、穏やかな声で応(いら)えがあって。
 綱吉は、重みのある扉をゆっくりと押し開く。
「よく来たね、綱吉君。会えて、とても嬉しいよ」
 夏の日差しが程よく差し込む明るく美しい部屋で、九代目は本当に嬉しげに微笑んでいた。
 自然、綱吉の表情も花が咲くようにほころぶ。
「はい。俺も嬉しいです。九代目」
「隼人、君も元気そうだ」
「ご無沙汰しております、九代目」
 綱吉から一歩下がった位置で、獄寺も深々と頭を下げて。
 それから、獄寺は綱吉が思いもかけなかったことを言った。
「俺は、これで失礼します。廊下に居ますから、何かあったらお呼び下さい」
「獄寺君」
 驚いて名を呼んだ綱吉に、しかし、獄寺はいつになく大人びた静かな微笑を向けた。
「九代目とゆっくりお話をなさるべきです、沢田さん。九代目も、きっとそれを望んでおられるでしょう。違いますか、九代目」
「いや、違わないよ」
 獄寺の問いかけに、九代目も穏やかに答える。
「君の気遣いに心から感謝するよ、隼人。だが、私は君とも話したいんだ。綱吉君との話が終わったら、君もこの年寄りの茶飲み話に付き合ってくれるかね?」
「喜んで、九代目」
 そう答える時ばかりは本当に嬉しさをのぞかせて、獄寺は、それでは、と綱吉にもう一度笑顔を向けてから、丁寧に一礼して部屋を出て行った。
 静かに閉ざされるドアを見つめていた綱吉に、九代目が声をかける。
「彼は本当にいい子だろう。そう思わないかね」
「──はい」
 振り返り、穏やかに微笑む九代目の目を見つめて、綱吉はうなずく。
「獄寺君は、俺の我儘を全部聞いてくれて、ここまで俺を連れてきてくれました。……この旅行の計画を立てる時には、シチリアは今の俺にとっては安全な場所じゃないからと、目的地から外すことを俺に頭を下げて謝ったのに」
「そうだったのかい。あの子らしいね」
「はい、本当に……」
 うなずく綱吉に、九代目は優しい目を向けた。
「こちらにお座り、綱吉君。そして、君がこの国で何を見て、何を思ったのか、私に教えてくれると嬉しい」
「はい、九代目」
 勧められるままに、美しい花模様の織り出された布地を張った長椅子に腰を下ろし、綱吉は九代目と向かい合う。
「どこから話したらいいでしょうか? 一番最初の、この旅行をしようと思ったところから?」
「そうだね、それがいい」
「はい。それじゃあ……」
 そして、静かに話し始めた。

30.

 綱吉が語るイタリアの各地の印象を、九代目は真摯に聞いてくれた。
 栄光の輝きを残す壮麗な建築物、緑豊かな丘陵地、どこまでも透明に輝く宝石のような海。
 街角やバールで出会った親切な人々、スリの少年、日本人観光客に冷たい目を向けた青年たち。
「……獄寺君は、全部見せてくれました。この国の良い所も、そうでない所も」
「彼は真っ直ぐで正直な子だから、ずるく立ち回るようなことはできないのだね。本当なら綱吉君には、この国の綺麗で良い所ばかりを見せたかっただろうに……。私だってそう思うよ。せっかく来てくれたのだから、この島の美しい所だけ見て帰って欲しい。だが、それはフェアではない……」
「はい。俺が見たかったのは、この国の全てです。本当のこの国を見て、感じたかった」
「そうだね。……良い旅ができたようで、良かった」
「はい」
 それは真実だったから、綱吉も深くうなずく。
 そして、
「九代目、お聞きしてもいいですか」
「勿論だよ。私は何も隠しはしない。答えられることは全部答えよう」
 綱吉は、ずっと聞きたかったことを口にした。
「獄寺君のことです。何故、五年前に獄寺君を日本に来させたんですか? あの頃の俺は、十代目候補の扱いをされるのも嫌がっていたのに……」
「ああ、それは隼人が、君のいい友達になれそうだと思ったからだよ」
 綱吉の問いかけに、九代目はさぞ当たり前のことのように答え、続けた。
「隼人は人の気持ちの分かる優しい子だから、同じように人の気持ちに敏感な君とは仲良くなれるだろうと思った。それに、あの子は一旦、懐に入れたものに対しては守ろうという気持ちが強く働く性格をしているから、私や家光や奈々さんにとってとても大切な君を、裏切って傷つけるようなこともしないだろうと思ったのだよ。私は間違っていたかね?」
 私は間違っていなかっただろう、というような口ぶりで言う九代目に、綱吉もつい口元をほころばせる。
「いいえ、間違ってなんかいません。もっとも、俺が人の気持ちに敏感かどうかという点については、微妙ですけど」
「そんなことはないよ。君はとても繊細で感じやすい心を持っている。私が言うのだから、間違いない」
 九代目の口調は穏やかで、だからこそ自信満々に言い切るよりも遥かに説得力に満ちていた。
「君は、他人の優しさにも悪意にも敏感に反応する。そして、悪意を強く感じ取るからこそ、優しくされたら優しさを返さなければならないと感じ、優しくしてくれた人たちを守りたいと思う。それは人として、とても尊い感情だよ」
「───…」
「だから、私は君が次のボスになってくれたらいいと思った。あくまでも私の勝手な希望だが、君なら私が大切に思うものを、同じように大切にしてくれるのではないかと思ってね。……その点、XANXASは私の跡継ぎには不向きだった」
 思慮深い響きの声からは内面の苦渋はうかがえず、九代目の表情も曇る気配は無い。が、聞いている綱吉の方は、あまり平静ではいられなかった。
 今、九代目は綱吉が一番聞きたかったことの核心を語っている。
 ゆえに、全身を耳のようにして綱吉は九代目の言葉に聞き入った。
「私は、あの子を愛している。だが、たとえ実の息子であったとしても、やはり私はあの子ではなく君を選んだだろう。あの子もボスになれば、ファミリーを外部から守ろうと務めるだろうが、その理由は『自分の持ち物に手出しをされることが我慢ならない』からであって、その根底にファミリーへの愛着があることを、あの子は決して認めようとはしない。それでは外敵からはファミリーを守れても、結果として不幸になる。あの子も、ファミリーも」
 そう言い、九代目は少しばかり自嘲気味に微笑んだ。
「綱吉君。私のような立場にあるものが何を言うと笑うかもしれないが、私は幸せでありたいし、ファミリーの皆も幸せであって欲しいのだよ。そうあることが自分の勤めだと思って、何十年もボスをやってきた。勿論全てが上手くいったわけではない。上手くいったのは、ほんの一握りのことだけだ。だが、それでも精一杯にやってきたのだよ」
 幸せでありたい。
 その言葉は、何故か綱吉の胸に深く響いた。
 幸せでありたい。幸せになりたい。
 ──幸せになりたくない人間など、きっとどこにもいない。
 けれど、どうすれば幸せになれるのか。何をもって幸せと言うのか。
 それが分からないから、皆、悩み苦しむ。
(俺は?)
(どうやったら、幸せになれるんだろう? 何が幸せなんだろう?)
(皆は? 何が幸せなんだろう? どうしたら幸せだと感じてもらえるんだろう?)
(──俺は、どうしたらいいんだろう?)
 だが、心に浮上したその疑問を深く考える前に、九代目が続けた言葉に思考はさえぎられる。
「だから、綱吉君。私は君にも十代目になることを強要する気はない。君が一番幸せになれる道を選んでくれれば、それが何であれ、心から応援したいと思っているよ」
「九代目……」
 それは優しい言葉だった。
 上辺だけではない愛情という名の温もりに満ちた言葉は、先程の言葉とは別に、また温かく綱吉の胸を満たす。
 けれど、と綱吉は思った。
「九代目は……今、お幸せなんですか?」
 訊いてはならないことだったかもしれない。少なくとも、綱吉にはそんなことをたずねるほどの資格はない。
 だが、どうしても気になったのだ。
 穏やかで愛情深い瞳をしたこの老人が、彼の望んだ幸せの中にいるのかどうか。
「幸せだと思っているよ」
 対する九代目の声は、何の欺瞞もなく本心から生まれ出たもののように揺らぎがなかった。
「無論、完璧には程遠いかもしれないがね。妻が生きていてくれたらと思うこともあるし、XANXASに対しても、私はあまり良い父親にはなれなかった。それでも私にはファミリーがあるし、家光や君もいる。愛しているものが沢山あるから、その愛がある限り、私は決して不幸にはならないのだよ」
 そして、九代目は優しい目で綱吉を見つめる。
「君も沢山のものを愛しなさい、綱吉君。自分以外のものを愛せば、人は孤独ではなくなる。そして、孤独ではないことを幸せというのだよ。愛し愛されることほど尊いことは、この世に存在しない」
「───…」
「きっと君には、今でも大切なものが沢山あることだろう。それを大切にしなさい。難しく考える必要はないのだよ。その大切な人たちが笑顔を見せてくれて、君も笑顔でいられたら、それで幸せには十分に足りる」
 大切な人、と言われて綱吉の脳裏にはいくつもの面影が浮かんだ。
 獄寺は勿論のこと、山本やリボーン、京子、ハル、ランボ、イーピン、了平、雲雀と骸は微妙だが、クローム、ディーノ、父と母、九代目……。
 単純に考えるだけでも十人を超える人々が思い浮かび、そこから更に派生する人々を加えたら、合計で何十人にのぼることか。
 いつの間に、と綱吉は今更ながらに驚く。
 ずっと……リボーンが沢田家に来るまでの十二年余り、両親以外には親しいと呼べるような相手は一人もいなかったのに。
 なのに今は、ダメツナのはずの自分が、こんなにも沢山の人々に囲まれている。そして、大切に思い、思われている。
 ああ、と思った。
 九代目の言う通りだった。愛し愛されることほど、尊いことはこの世にない。
 大切な彼らに幸せであって欲しいと思うし、彼らの幸せを守るためなら何でもできる。
 自分も、九代目と同じだった。
 あるいは、初代と。
 代々、ボンゴレのボスはその思いを継いできたのだ。
 過酷な世界にあって尚、大切な人々が幸せであれと、ただそればかりを願って。
「ありがとうございます、九代目」
 素直にその言葉が綱吉の唇からこぼれた。
 晴れやかでもあり、どこか大人びた、人生の悲しみにも似たものがほのかに混じった微笑が、自然に口元に浮かぶ。
「俺、やっぱりここに来て良かったと思います。あなたと話せて良かった」
「そうかね。そう言ってもらえると、私も嬉しいよ」
 穏やかに九代目は笑み、そして、立ち上がった。
 ゆったりとした足取りで端整な造形の書き物机に歩み寄り、ペンを取って何かを書き付けてから、小さなカードを手に戻ってくる。
「これをあげよう。あの電話の番号だよ。直通回線だから、私と話をしたくなった時には、気にせずにいつでもかけておいで」
 差し出されたカードを受け取ると、クリーム色のマーブル紙に、美しい筆跡で九桁の数字が書かれていて。
「──ありがとうございます。大切にします」
「うむ。それでは、そろそろ隼人を呼んできてくれるかね。君ともっと話したい気持ちは山々だが、あの子をあまり一人にしても可哀想だ」
「はい。ありがとうございました、九代目」
「私の方こそありがとう、綱吉君。君と話せて本当に嬉しかったよ」
「はい、俺もです」
 それじゃあ、と笑顔で綱吉は立ち上がり、そして、獄寺を呼ぶべく九代目のプライベートルームを出る。
 彼は廊下にいる、と言ったが、ドアを開けてすぐ見える位置には姿はなかった。
 だが、何かあれば呼んで欲しいと言った彼が、遠くに行くわけはない。彼がどこにいるのか綱吉にはすぐに見当がついて、そちらに向かって歩き出した。

to be continued...





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