誰が為に陽は昇る

16.

 ミラノのマルペンサ空港に降り立った瞬間、綱吉が感じたのは空気に入り混じる淡く甘い香りだった。
 花の香りのようでもあり、果実の香りのようでもあり、ほのかにスパイシーでもある。
 周囲を行き交う様々な人種的特長を備えた人々や、耳慣れない言語でのアナウンス、イタリア語の案内表示などを跳び越えて、その香りこそが綱吉に異国にいるという事を実感させた。
「……なんか意外」
「え? 何がです?」
 ターンテーブルで荷物が出てくるのを待ちながら綱吉が呟くと、耳ざとく獄寺は聞きつけて問い返してきた。
 が、普段なら体ごと綱吉を振り返るのに、一瞬視線を向けただけで、再び鋭いまなざしをターンテーブル上を滑ってくるトランクの数々へと戻してしまう。わずかな異変でも見逃すまいとするその隙のない仕草に、なるほど、これが日本以外の国を旅するということか、と思いながら、綱吉は答えた。
「ほら、よく国によって空気の匂いが違うって言うだろ。日本だと味噌と醤油の匂いとか」
「ああ、しますね、確かに。成田に下りてあの匂いを感じると、日本に戻ってきたんだなーって実感するんですよ」
「そうなんだ?」
「はい。やっと戻ってこれて、十代目にお会いできるって嬉しくなります」
「……あ、そう」
 ほがらかに言われても、コメントに困る。
 心のままに頬を赤らめてニコニコできればいいが、そういうわけにもゆかない。しかし、口で素っ気無く応じはしても、人間の体というものは素直であって、綱吉は自然に頬が熱を帯びるのを感じる。
 獄寺が荷物に集中していて、こちらを振り返る様子がないのを幸いだと思いながら、何でもない調子で続けた。
「とにかくさ、俺なりにイタリアはどんな匂いなのかなーって考えてたわけだよ。日本が味噌醤油で、韓国がキムチなら、イタリアはトマトやニンニクかなって」
「なるほど」
 獄寺はこちらを振り返らない。が、笑ったのが声の調子で分かった。
 からかったり冷やかしたりするのではない、彼が自分だけに向ける楽しそうで幸せそうな笑み。
 それがきっと今、彼の顔には浮かんでいるのだろう。
「でも全然違ったから、意外。俺が想像力貧困だっただけなんだろうけど……、何なのかな、この匂いの素って」
「そうっスねえ……あ、荷物出てきましたよ」
 答えかけたものの途中で言葉を切って、獄寺は二つの大きなトランクを軽々と掴んで床の上に下ろす。
「……よし、鍵も壊されてねーな」
 そして、目視で異常がないことをざっと確かめてから、ようやく綱吉の顔をまともに見た。
「とりあえず移動しましょうか。プルマン(バス)乗り場はあっちです」
「うん」
 綱吉も素直に同意して、自分のトランクを受け取る。
 質問の途中ではあったが、綱吉の問いかけをなおざりにする獄寺ではない。それが分かっているから、敢えて答えをせかさずにトランクのキャスターを転がしながら歩き出す。
 すると案の定、すぐに獄寺は話し始めた。
「イタリアの匂いを十代目はどう感じました?」
「んー。一言で言うと、甘い、かな。花の匂いみたいな感じ」
「それは多分、profumoですよ」
 プロフューモ、とイタリア語で言われて、綱吉は一瞬考え込む。
「profumo……、香水?」
「Si」
 いつもと同じように綱吉の速度に合わせて歩きながら、獄寺は笑顔でうなずいた。
「この国では男も女も、子供の頃から何かしら香りを身につけてますから。街中の人の多い建物の中は、どうしてもこういう匂いになるんですよ。屋外に出れば、また違います。農地だと土や植物の香りがしますし、海辺だと潮の香りが強いですし。日本だってそうですよ」
 生活感に満ちた匂いが感じられるのは、大勢の人がいる空間だけの話であって、自然が多い土地では当然、人間の匂いは感じられなくなる。
「フランスも空港や駅は、似たような香りがしますよ。多分、世界で一番香水が好きな国は、フランスとイタリアのどっちかじゃないですかね」
「……そういう獄寺君も、昔からコロンはつけてたよね」
 普段から結構な量の火薬を持ち歩いている獄寺ではあるが、しかし、ダイナマイトを使った直後でもない限り、彼が火薬の臭いを漂わせていることは滅多にない。
 近付いても感じるのは、煙草とコロンの入り混じった、少しくすんでいるのに清々しさが胸に残る彼独特の香りだけだ。
 それを綱吉が指摘すると、獄寺は苦笑するように笑った。
「まぁ、俺もこの国で生まれて育ってるんで……。シャワー浴びた後に何かしらつけないと落ち着かないっつーか、それが当たり前になっちまってるんですよ。もちろん、日本とイタリアじゃ湿度から匂いに対する感覚まで全然違ってますから、量とか付け方には一応、気をつけてますけど」
「へえ」
 言われてみれば確かに、獄寺の身につけている香りを心地好く感じたことはあっても、きついと感じたことは一度もない。
 むしろ、クラスメイトの女子がつけているコロンの香りの方がよほど強烈だろう。特に夏場の体育の授業後などは、教室中に蔓延する甘ったるい香りに、綱吉や獄寺を含めた男子生徒が眉をしかめていることも度々あるくらいなのだ。
 比べると、獄寺の身につけている香りは、質も彼女たちのものよりもずっと上質で、さりげなく彼という人間を印象付けながら、心地好さだけを残してゆく上級のアイテムだった。
(──あれ?)
 そこまで考えた時、綱吉はあることに気付いて、隣りを歩く獄寺を見上げる。
「ねえ獄寺君。今はこの距離でも、君の香りを感じないんだけど。これって君がさっき言ってた気候の違いのせい?」
 肩を並べて歩いていれば、いつもなら必ず感じる香りを感じない。
 それを指摘すると、獄寺は小さく笑んだ。
「そうです。乾燥してたり気温が低かったりすると、嗅覚は鈍くなるんですよ。まぁ、飛行機に乗ってる間は付け直さなかったですから、香り自体が消えちまってるっていうのもあると思いますけど」
「そうなんだ」
 納得しながらも、何となく綱吉は物足りないものを感じる。
 だが、小さく口元を曲げた綱吉に気付かなかったらしい獄寺は、そのままの調子で続けた。
「だから、十代目の期待をぶち壊すようで言いにくいんですが、実のところ、ヨーロッパの空港は国によって匂いが違うってことはないんですよ。というより、印象に残るほどの匂いは感じないって言う方が正しいです」
「え、そうなの?」
「はい。俺も西ヨーロッパの幾つかの国は実際に行ったことがあるから知ってますけど、印象に残るほどの匂いを感じるのは、やっぱりアジアですね。あと行ったことはないですけど、中南米やアフリカも、何かしらの匂いはすると思いますよ」
「……そーなんだ」
 今度こそ本当にがっくり来て、綱吉は小さく溜息をつく。
「俺、結構楽しみにしてたんだけどなー」
「すみません、ご期待に添えなくて」
 殊勝らしく謝罪しながらも、獄寺も笑いを隠しきれていない。
 綱吉の無知を笑うような彼ではないから、どうせ微笑ましいとかそんなことを思っているのだろうが、今一つ気恥ずかしく、面白くないことには変わりない。
 だから、報復とまではゆかないものの、少々の鬱憤晴らしを込めて、綱吉は宣言した。
「じゃあ獄寺君、ホテルにチェックインしたら、コロン付け直してね。いつもの香りがないと、君と一緒にいる気がしないから。そのせいで、俺がはぐれたりしたら困るだろ」
「え、あ、はい」
「でもって、それから街へ出て、山本へのお土産を考えるのを手伝って」
「はい。……って、初日から野球バカへの土産ですか!?」
「そんなの初日も最終日もないでしょ。ミラノだって明日までしかいないんだし、いいものを見つけたら、買っておかないと」
「それはそうかもしれませんけど……」
 なにも初日からでなくとも、と思っているのが丸分かりの渋い顔で、獄寺は口の中でぶつぶつ言っている。
 そんな中学生時代の面影をそのまま残した獄寺が、微笑ましくもおかしくて、綱吉は小さく笑った。

17.

 獄寺が手配したミラノ市内のホテルは、中央駅から少し歩いた所にある、こじんまりとした二つ星ホテルだった。
 何でも二週間後には、経営者家族がホテルを夏季休業にしてバカンスに出てしまうとかで、オフシーズンゆえに料金は安く、フロント係の女性は既にバカンス中のような全開笑顔で迎えてくれて、それだけで綱吉は何だか楽しい気分になった。
「いい感じのとこだね」
「ええ。家族経営の小さいホテルですけど、結構人気あるとこなんですよ」
 綱吉が褒め言葉を口にしたのが嬉しいのだろう。少しだけ誇らしげに微笑みながら、獄寺はフロントで渡された鍵を使って、部屋のドアを開ける。
「うわぁ、綺麗だね」
 そして室内に一歩踏み込んだ途端、綱吉は感嘆の声を上げた。
 別段、贅沢な調度品があるわけではない。
 ただ、小さな中庭に面した大きな窓からはまばゆい陽光が差し込み、色鮮やかな美しい図柄のシーツでメイキングされたベッドや、腰板までがヒヤシンス色で上方がアイボリーの壁紙を輝かせている。
 そして、窓際のサイドテーブル上のガラスの花瓶には黄色と白の夏の花が生けられ、「ようこそ」と笑顔でさざめいていた。
「一泊でチェックアウトなのが勿体ないくらいだなあ」
「うーん。十代目が御希望なら、フロントに延泊できるかどうか聞きますけど?」
「あ、いいよいいよ。ちょっと言ってみただけ。まぁ、一週間くらいここに泊まって、ゆっくりこの街をみてみたい気はするけど」
 空港から中央駅までのバスの窓から見ただけでも、ミラノという街には綱吉を魅了する何かがあふれるほどにあった。それは素直に認める。
 だが、他にもまだまだ見たい所は山のようにあるのだ。
 とにかく、今回は駆け足でイタリア全土の名所名跡だけを見よう、という旅行なのだから、一つの街で何日も、という贅沢は次以降に回すべき話であり、そのことは綱吉も十分に承知している。
 だから、予定通りでいい、と獄寺を制して、壁際のスペースにトランクを置き、改めて綺麗に整えられた室内を見回した。
「十代目、とりあえずシャワー使って下さい。さっぱりしてから、今日と明日の行動を決めましょう」
「うん。ありがと」
 なにしろ極東から南欧までは遠い。一日で移動できる距離であるとはいえ、日本を発ってから、既に十五時間近くが過ぎている。
 おまけに、空港バスは冷房が故障していたのか、外気温は三十五度を超えているのに窓を全開にして一時間走り続けたから、このホテルにたどり着くまでの間で、既に二人とも汗だくだった。
 もっとも湿度が低いせいだろう、汗をかいても日本の夏には付きものの肌のべたつきはなかったし、汗臭さもさほど感じなかったが、だからといって、現状が快適というわけではない。
 ゆえに獄寺の気遣いに素直に感謝して、綱吉は取り急ぎ着替えだけをトランクから出し、バスルームへと向かった。
 バスルームは少々狭かったが清潔で、シャワーも水勢が弱かったもののちゃんと湯も使え、さっぱりした所で綱吉はバスルームを出る。
 と、獄寺はソファーにくつろいで、手荷物で持ち込んだモバイルパソコンを立ち上げ、何やらやっていた。
「お先でしたー。獄寺君もシャワー使って。ちゃんとお湯も出たよ」
「そりゃラッキーですね。幸先がいいですよ」
「あはは。やっぱりラッキーなんだね」
「はい。この国はそーいう国です」
 諦めと呆れが半々に混じった小さな笑みを浮かべて獄寺は答えると、ソファーに近付いた綱吉にモバイルパソコンの画面を向けて見せた。
「今、天気予報見てたんスけど、とりあえず今週は晴れ続きみたいですよ。まぁ、夏のイタリアなんて雨が降る方が珍しいんですが」
「うん。でも、ちょっとくらいは曇ってもいいかもね。思ってた以上に日差しが強烈だもん。そりゃ晴れてた方が、何を見るにしても綺麗に見えるに決まってるけどさ」
「そうですね。とにかく日射病と熱中症には要注意ですよ。昼間はできる限り屋内で過ごして、水分をこまめに摂らないと、マジでぶっ倒れますから」
「うん。ホント、日本の夏とは違うね」
「はい」
 湿度の高低で、これほどまでも変わるものかと感心するくらいに、体感温度も体のバテ方も違う。地中海気候のからからに乾いた夏は、日本の蒸し暑い夏とはまったく別種のきつさだ。
 それは、このホテルへたどり着くまでの一時間余りで実感していたから、綱吉は素直にうなずいた。
「とにかくさ、獄寺君もシャワー浴びてきなよ。君も疲れてるだろ」
「疲れてはないですよ。飛行機ん中でもずっと寝てましたし」
 言いながらも獄寺は、短くなった煙草の火を消して立ち上がる。
「じゃあ、ちょっと失礼します。ネット、繋いでありますから、好きに見てて下さい」
「うん。ありがと」
 うなずいて、綱吉はソファーに腰を下ろし、小さな液晶画面に目線を落とす。
 そして、獄寺がバスルームに姿を消した所で、パソコンから目を逸らし、うーんと小さく唸りながらソファーの背に寄りかかった。
 そのまま顔だけを横に向けて、居心地の良い室内に二つ並んだシングルベッドを見やる。
「二人っきりで二十日間かぁ。分かってたことだけど、実際にこうやって一緒にいるとなると、結構ヘヴィかも……」
 このホテルもだが、今回の旅行で手配したホテルの部屋はほとんどがツインルームである。
 その方が料金が安いこと、そして万が一の事があった時のことを考えれば、それは当然の選択だったのだが、果たして心理的には正しかったのかどうか。今更ながらに、綱吉は考え込む。
「でも、だからって何か起きるような気はしないしなー…」
 水面下では両想いの健全な青少年が、24時間×21日も二人きりで何もないというのもどうかという感じだが、禁断の実をうかつにもいで口にするには、獄寺も綱吉もこれまでに修羅場をくぐり過ぎていた。
 出会ったばかりの頃ならいざ知らず、今の綱吉は、自分と獄寺の関係はボンゴレ・ファミリーあってのものだということを理解している。
 獄寺が真実、一人の人間として自分のことを想っていてくれることは分かっているが、それでも綱吉がドン・ボンゴレ十世となることを拒絶したとき、マフィアとして生まれ育った獄寺は一般人の綱吉を追うすべを持たないことも、また分かっているのだ。
 そして、綱吉にとってのファミリーは、獄寺とはまた別の意味でかけがえのないものだった。
 いわば今の綱吉は、右手に獄寺、左手にボンゴレを掴んでいるようなものであって、どちらか一つを捨てることは、それぞれ半身を捨てることに等しい。
 それは獄寺の方もおそらく同じであって、究極の選択を迫られれば彼はファミリーを捨てて綱吉を選ぶだろうが、しかし綱吉としては、獄寺に彼がやっと見つけた仲間を捨てるような真似は決してさせたくはなかった。
 ──結局の所、ファミリーという絶対的な存在の前では、獄寺と綱吉の個人的な想いは存在する余地などない、というのが現実なのだ。
 雨続きの天の川を挟んで向かい合う織姫と彦星のように、あるいはロミオとジュリエットのように、ただ切なく想いをひた隠しにして、相手をそっと見つめることしかできない。
 お互いにそれを十分過ぎるほど分かっているから、獄寺は微塵もそんな感情を表には出さず、綱吉も何も気付かず知らないふりをする。
 どうしようもなく滑稽で、哀れで、愚かしい。
 けれど、どれほど辛くとも、綱吉はこの恋を捨てたくなかった。
 否、捨てられないという方が正しい。初めて本当に好きになった相手を、叶わない恋だからといって、そうそう簡単に忘れられるはずもないのである。
「おまけに、俺はずるいし……」
 少なくとも、自分は獄寺の想いに気付き、獄寺の方はこちらの想いに気づいていないという一点で、アンフェアだといえるだろう。
 しかも、何も気付かないふりをしながら、綱吉は言葉で彼をがんじがらめにして、その誠実さや優しさに溺れている。
 何もかもずるい。
 ずるいけれど。
「お待たせしました、十代目」
 濡れて鈍い銀色に光る髪をタオルでぬぐいながら、獄寺がバスルームから戻ってきて。
 その髪と瞳の色合いに胸をかきむしられるような切なさを覚えながら、綱吉は何でもないように微笑む。
「ねえ獄寺君、髪を乾かしたら、街に出て何か食べない? 俺、少しおなかが空いたよ」
「そうっスね。スカラ広場のすぐ近くにお奨めのピッツェリーアがありますけど、どうですか? 地下鉄乗って、下りてからまたちょっとだけ歩きますけど」
「うん、獄寺君のお奨めなら行ってみたい」
 どれほどずるくとも、滑稽であろうとも。
 泣きたいほどに彼が好きだ、と思う。
 そしてそれは、獄寺の方もおそらく同じだろう。
 そんな想いを水面下に隠したまま、おそらくは最初で最後の二人きりの旅行──最後の『友達ごっこ』は、今、始まりを告げたばかりだった。

18.

 イタリアに来て綱吉が驚いたことの一つは、獄寺のこの国に関する知識の豊富さだった。
 どこの街に足を踏み入れても、その街の歴史や史跡、風景についてなめらかに説明してくれるし、また食事の美味い店や、雰囲気のいいバール(カフェ)も良く知っている。
 もちろん綱吉たちが訪れているのは、ガイドブックにも詳しく情報が載っている観光地ばかりではあるが、綱吉が獄寺の立場だったら、並盛町内ならまだしも、日本の有名観光地をくまなく説明することなど到底できない。
 それゆえに、あまりの博学ぶりに半分感心、半分驚きながら綱吉がその理由を尋ねると、獄寺は少しばかり困ったような顔で笑いながら、それでも答えてくれた。
 つまりは、どの街も一度は来たことがあるのだと。
 幼くして家を出た後、生活基盤そのものは実家のあるシチリア島に置いていたが、小銭が溜まると、それを資金にしてイタリア各地を回ったのだと。
「なんでだったんでしょーね。時々、無性にどこかに行きたくなったんですよ。ここじゃないどこかに、って……。それで電車に乗ったり、ヒッチハイクしたりしながら、あちこち行ったんスけど、なかなか気に入る街は見つからない。ここだと思っても、一月もするとやっぱり違うっていう気がしてくる。そのうち金も尽きてきて、何となくシチリアに戻る……それの繰り返しだったんです」
 十三歳になる寸前にボンゴレ九世に出会うまで、そんな暮らしを続けていたのだと獄寺は言った。
「このヴェネツィアも、結構早い頃に来ました。北の方の雰囲気は基本的に好きじゃないんですけど、この街だけは何か嫌いになれなくて、年に一度くらいは来てます。今でも」
「今でもって……イタリアに戻った時に?」
「はい。ここに寄ってカフェ・フロリアンでエスプレッソ飲んでるせいで、日本に帰るのが一日遅れるんスけどね。つい何となく」
 悪戯がばれた少年のように、少しだけ決まり悪げに獄寺は綱吉に笑いかける。
「でも本当に、あちこち行きました。そのついでにイタリア国内だけじゃなくて、線路続きでフランスやスイスやドイツにも。特に西の方はフランスを突き抜けて、イギリスやベルギー、スペイン、ポルトガルまで行っちまいましたし……。ガキが一人でパスポートと財布だけ握り締めてですよ。あの頃の俺は、一体何を考えてたんでしょうね」
「……どこかに行きたかったんじゃない?」
 遠い目をした獄寺の横顔を見ながら、ひっそりと綱吉は言った。
「さっき、獄寺君も言ったじゃないか。どこかに行きたかったって。俺、少しだけその気持ち、分かる気がするよ」
「十代目……」
「だって俺も、どこかに行きたいと思ってたから。俺を知ってる人のいない所、ダメツナな俺の全部を認めて、君は何もしなくてもいいんだよって許してくれる場所。そうでなかったら、煙みたいに消えてなくなっちゃいたいって、リボーンに出会うまでは、ずっとそう思ってた」
 あの頃、父も母もそんな自分をちゃんと受け入れてくれていることには気付かないまま、子供特有の身勝手さで、そんなことをいつも思っていた。
 綱吉は、目の前に広がる運河を見つめながら、これまで明かしたことのない思いをそっと言葉に変える。
 アドリア海の真珠とたたえられるこの街を満たす運河は、真夏の夕暮れ時の日差しを受けて黄金色にきらきらと輝いていて。
「君も、そうだったんじゃないの……?」
 運河にかかる橋の欄干に寄りかかりながら、静かに問いかけると、獄寺が驚いたようにまばたきをするのが見えた。
 それから、カモメの鳴き声に耳を済ませるほどの時間を沈黙して、獄寺はふっと表情を崩して。
「やっぱり十代目はすごいっスね」
「え? なんで?」
「だって、俺の話を聞いて、昔の俺の気持ちを言葉にして下さったじゃないですか。俺自身でさえ、よく解ってなかったことなのに」
 微笑んだ獄寺は、再び運河へとまなざしを戻した。
 風に揺れる銀灰色の髪が、傾いた日差しを受けて運河と同じ色に輝いている。
「十代目の言う通りです。俺はどこかに行きたかった。俺を認めて、受け入れてくれる場所。でもどれだけ彷徨っても見つからなかったのも当然っスよね。そんな場所は、この大陸にはなかったんですから」
「──今は、見つかった?」
 これは訊いてはいけない質問──自分たちの間に無数に転がっているパンドラの箱を揺さぶる問いかけだろうか、と綱吉は一瞬迷ったが、それよりも早く口が言葉を紡いでいた。
 そして、獄寺の答えは微塵の迷いもなく。
「はい。ちゃんと見つけました」
 夕暮れの光の中で、獄寺は微笑む。
 誇らしげに、そして、嬉しげに。
「十代目はどうですか? まだ、どこかに行きたいですか……?」
 そして、夕暮れ時の中で金色がかって見える灰緑色の瞳が優しい、けれどよくよく見れば、もっと深い切なさのひそんだ瞳で問いかける。
 その瞳を真っ直ぐに見返して。
「リボーンに出会うまで、って言っただろ。ちゃんと自分の居場所は見つけたよ。……でも、まだ探してる、かな。これから行きたい場所は……」
「十代目……」
「大丈夫だよ、獄寺君」
 心配しないで、と綱吉は笑いかけた。
「俺はちゃんと、答えを見つけるから」
「──はい」
 きっぱりとした綱吉の言葉に、獄寺はうなずく。
「十代目なら大丈夫です。あなたなら必ず、本当に正しいものを見つけられると俺は信じてます」
「だといいけど」
「絶対です。十代目は、大事な時には絶対に間違えたりしません。それは俺が一番良く知ってます」
「そんな買いかぶったものじゃないと思うけどね。でも、ありがとう、獄寺君」
 ──ほんの自分の一言で獄寺の表情は翳り、気遣わしげなものに変わる。そのことを分かっていても嘘を付き続け、それに彼を付き合わせるずるい自分が、少しだけ胸に痛い、と綱吉は感じる。
 本当は、行く先などもう決めているのに、今はまだそう言えない。
 何故なら、この国には、それを決めるために来たはずだったから。
 それが、夏前に獄寺が許容してくれた、自分の嘘。
 けれど、まだ「決めた」とは言ってしまいたくなかった。言ってしまったら最後、この『お友達ごっこ』は続けられなくなってしまう。
 自分たちの行く先に何が待っているのか分かりすぎるほどに分かっていたから、綱吉はこの旅行が終わるまで──夏が終わるまでは、獄寺と友人のような主従のような、今だけ許された曖昧な関係のままでいたいと思う自分を止められなかった。
 そして、抱いている気持ちが同じものであるなら、きっと獄寺も同じ思いでいるに違いない、と思う。
 綱吉がわずかな執行猶予を求めたように、嘘を許容し続ける彼もまた、綱吉が真実、『十代目』になるという重さを受け止めるための執行猶予を望んでいるはずだった。
 それとも、獄寺はただその優しさから自分の嘘に付き合っていてくれるだけであって、この現状は所詮、自分の我儘の結果でしかないのだろうか。
 ふとそんな風に考え、綱吉は運河を見つめたまま、わずかに目を細める。
「日が傾いた分、ちょっと過ごしやすくなってきましたね。海風も涼しくなってきたし……そろそろサン・マルコ広場に行って、お茶しましょうか。腹が減ってるんでしたら、夕飯にしてもいいですけど。もう七時近いですし」
「ううん、食事は後でいいよ。ちょっと一休みして、それから御飯にしよう」
「はい。ただ、カフェはこれからの時間帯かなり混みますから、座れないようなら諦めて、どこかで飯にしてもいいですか?」
「うん。その辺は臨機応変にね」
 強い日差しと石畳の照り返しを避けて、昼間のうちはあちらこちらの教会や美術館の建物内で過ごした二人は、まだこの街の心臓部であるサン・マルコ広場には、足を踏み入れていなかった。
 歩き出しながら、綱吉は獄寺を見上げる。
「俺、どっちかっていうとコーヒーよりジェラートの方がいいな。カフェ・フロリアンってジェラートも美味しいんでしょ?」
「ええ、お奨めっスよ。この時期だとリモーネ(レモン)やアランチャ(オレンジ)とか、ウヴァ(葡萄)とかのフルーツ系が、さっぱりしてて食いやすいです。どれにしたって、かなり甘いんですけどね」
「うーん。その三段重ねはキツイかな?」
「そうですねぇ……夕飯を軽めにすれば大丈夫だと思いますが、結構ボリュームありますよ」
「じゃあ、リモーネとウヴァのダブルで我慢するよ」
「はい。分かりました」
 楽しげに獄寺はうなずく。
 目指す広場と、この国で最も長い歴史を誇るカフェは、もうすぐそこだった。

19.

 二人がたたずんでいた大運河からサン・マルコ広場までは、三百メートル程度の距離だろうか。話しながら歩いているうちに、建物で長方形に区切られた大広場が見えてくる。
 バカンスシーズンだけあって観光客があふれんばかりだったが、最初からカフェ・フロリアンの店内席に座れることを期待していなかった二人は、広場のオープン席にさっさと空席を見つけ出して腰を下ろした。
 そして、注文をすませてジェラートとカフェ・シェケラートを待つ間、広場を行き交う大勢の人々へとまなざしを向ける。
 観光客ばかりだと感じるのは、解放的な服装でカメラを手にしていたり、土産物の紙袋を大量に持った人がやたらと目に付くからだ。対して地元の人々は観光客相手の商売人以外、本能の命じるままにバカンスに赴いているのだろう。それらしい感じの人は、ざっと見た限りでは見当たらない。
 この雑多な人混みの中で、自分たちはどう見えるのだろう、と綱吉はふと考えた。
 イタリアは歴史的に混血が激しいため、ありとあらゆる髪と肌の色をした人々がいる。だが、それでも東洋と西欧の血が混じった綱吉と獄寺の容姿は、純粋な東洋人に比べれば幾分、この国の風景にすんなりと馴染むが、かといって、風景に溶け込むというほどでもない。
 やはり観光客か、あるいは留学生か。
 カメラや土産物の袋を持っていないとはいえ、少なくとも地元の人間とは見られないに違いなかった。
 そんな風に意識を飛ばしていたのがまずかったのだろう。
「Testa di cazzo!!」
 不意に獄寺が鋭い声を上げる。
 その尋常でない響きに、何?と思った時には、素早く動いた獄寺が、いつの間にか綱吉の背後に近付いていた十歳前後とおぼしき少年の腕を掴んでいた。
「Che cazzo vuoi!!」
 きつく腕を捻り上げながら獄寺が怒鳴ると、少年はもがき、何かを叫ぶ。どちらの台詞も常用の慣用句ではないらしく綱吉には意味が聞き取れなかったが、状況は理解できて。
「Smetti per favore! (止めて、お願い!)」
 反射的にイタリア語で言いながら少年の腕を捻り上げている獄寺の腕に、綱吉は手を触れた。
「獄寺君、大丈夫だから。この子はまだ俺のバッグには触ってない。触る前に君は気付いただろ? だからもういいよ、離してあげて」
 今度は日本語で言うと、獄寺は鋭く光る銀灰色のまなざしを綱吉に向ける。
 その翠緑が失せた冷たい色合いは敵を前にした時の彼の瞳の色だったが、綱吉は小さく首を横に振った。
「もういいから。お願いだよ、獄寺君」
「……分かりました。Va cagare! Fanculo!!」
 どん、と乱暴に突き放されて、少年はよろける。が、倒れることなく、Pezzo di Merda! と綱吉には意味を把握しきれない捨て台詞を残して、人混みの中に駆け去った。
 その後姿が消えるのを見届けて、綱吉は大きく安堵の息をつく。
 そして、憤りの色を残したまま元の席に戻った獄寺を見やった。
「ありがとう、獄寺君。気付いてくれて」
「──いえ」
 むっつりと眉間にしわを刻んでいるのは、スリを近付かせてしまった自分の不手際を苦々しく思っているからだろう。こういう時、綱吉の方にあからさまな非があったとしても、獄寺がそれを責めることは決してない。
「ごめんね、俺が不注意だった。つい、ぼーっとしてて」
「いえ、十代目は何も悪くありません。俺の不注意です」
「そんなことないよ。日本と同じような感覚で気を抜いてた俺が悪い。だから、気にしないで」
「無理です」
 何を言っても即座に否定して自分の責任にしてしまう獄寺に、ああまた始まった、と綱吉は心の中で小さく苦笑する。
 こうなると獄寺はしつこいのだ。昔のように派手に落ち込んだり土下座をしたりとかいうことはなくなったが、その分、延々と自分の不手際を責め続ける。ちょっとやそっと綱吉が慰めただけでは、どうにもならない。
 どうしようか、としばらく考えて、綱吉は一つだけ、彼の気をそらすいいネタを思いついた。
「ねえ、獄寺君。さっき君が言った幾つかのイタリア語なんだけど」
 そう切り出した途端、
「……え」
 獄寺の眉間のシワが消え、代わりに、ぎくりと表情そのものがこわばる。
 その様子を内心、面白いなーと見つめながら、綱吉は何にも気付かぬ顔で続けた。
「俺、よく聞き取れなくって。えーと確か……」
「駄目です!!」
 綱吉が記憶の断片を再現するよりも早く、青ざめた獄寺が叫ぶ。
「絶対、駄目です! そんな言葉を十代目が覚えられたら、俺がリボーンさんと九代目に殺されます!! 十代目のお母様にも顔向けができません!!」
「──ってことは、かなりすごい言い回しだったんだね」
「………はい」
 綱吉がにっこりと笑って言うと、獄寺はがっくりと沈み込んだ。
 そのうなだれた銀灰色の頭をなでてやりたい衝動を覚えながら、綱吉は小さく笑う。
「いいんだよ。パロラッチャ(イタリア語のスラング)が、普段の会話レベルでも滅茶苦茶きっついってことは知ってるから。タチの悪い相手には、それくらい言わないと効果がないんだよね、きっと」
「………はい」
「大丈夫。別に俺は覚える気ないし、獄寺君がそういう言葉を使っても嫌ったり、軽蔑したりってことはないから。ただ、俺の前では、あんまり下品すぎる言い回しはやめてね。連発されると、覚える気がなくても覚えちゃうからさ」
「──十代目、本当に聞き取れなかったんスか……?」
「単語の一つ一つはともかく、パロラッチャとしての意味は分からなかったよ。ニュアンスは通じたけど」
「……すみません」
「いいよ」
 獄寺の頭を撫でる代わりに、綱吉はテーブルの上の獄寺の腕を、ぽんぽんと軽く叩いた。
「俺がスリ天国の広場でぼーっとしてたのと、おあいこ。これからはお互い、気をつけようね」
「俺と十代目とじゃ、あいこになんかなりませんよ!」
「あいこでいいんだよ。俺は君と口論するためにイタリアまで来たわけじゃないんだから。この国を君と一緒に見て、この国のことを知るために来たんだ。だから、この話は、どっちもここまで。ね?」
 もう一度優しく繰り返すと、渋々ながらも獄寺はうなずく。
「分かりました。十代目がそうおっしゃるなら」
「うん、ありがとう」
 そう言った所に、ちょうど注文の品が運ばれてきた。
 注文から飲み物が出てくるまで、普通のバール(立ち飲みカフェ)と違って随分と時間がかかるのは、この店の常なのか、それとも観光シーズンで混み合っているせいなのか。
 分からないながらも、綱吉は目の前に置かれたレモンと葡萄の二段重ねジェラートに相好を崩す。
 そして獄寺も、エスプレッソと氷とシロップを合わせ、ふんわりとした泡状にシェイクしたカフェ・シェケラートのグラスを引き寄せて、一口味わってから満足そうに口元をほころばせた。
「うん、美味しい。獄寺君の言った通り、甘いんだけど、甘酸っぱくてさっぱりしてる」
「そりゃ良かったです」
「うん」
 うなずきながらも、綱吉はさくさくとジェラートを崩してゆく。
 そして、そんな綱吉を、冷たいグラス片手にわずかに目を細めて獄寺は見つめ、やがて世界一美しい広場は静かに暮れていった。

20.

 フィレンツェのホテルは、ドゥオーモの大クーポラが見える居心地のいい部屋だった。
 部屋の明かりを消しても、美しい色柄のカーテンを透かして街の灯りが淡く届く。その中で、静かに獄寺はカーテンの隙間から、ホテル前の路上や向かい側の建築物といったものに注意深いまなざしを向け、ひとまず異常はなさそうだと感じると、その場に立ったまま、携帯電話を操作して短いメールを日本宛に送った。
『ホテル・エルディーラ503号室。カヴール通りに面した東角から3つ目の部屋。現在異常なし』
 そして、ちらりと室内へ視線を走らせる。
 奥のベッドで、綱吉は静かに眠っていた。
 細い見かけに反して、リボーンに鍛え上げられた持久力を持つ綱吉は、連日、この暑い中を歩き回っても大して疲れた様子を見せず、食欲も旺盛で、よく動いてよく食べてよく眠る、という良い子の見本のような日々を送っている。
 もともと綱吉は、枕が替わると眠れないというようなひ弱さの持ち主ではない。ましてや今回は、ただの観光旅行であるから、綱吉はどこのホテルでも素早くくつろぎ、こうして日付が変わる前にはあっさりと眠ってしまう。
 そういう綱吉の順応性の高さが、獄寺としてはありがたかった。
 早い時間帯に熟睡してくれれば、その分、夜のうちに必要な手配ができるし、こうしたメールを送るにしても、眠りを妨げることを心配しなくてもすむ。
 ──移動するたびに現在地を知らせるメールは、日本にいるリボーンに向けて送られているものだった。
 イタリア国内にいながら、シチリアのボンゴレ総本部に連絡しないのは、ボンゴレ十世『候補』の綱吉は、まだリボーンの後見下にあるからである。
 綱吉が次期ドン・ボンゴレであることは既に周知されているが、それでも、初代の直系であり、門外顧問として実力を発揮している沢田家光の実子とはいえ、日本生まれ・日本育ちの少年をボスの座に据えてよいのか、といった声も、いまだ組織内部にないわけではない。
 それゆえに、少しでもイタリア国内における危険を排除するために、獄寺はイタリア行きが認められた時点で、リボーンにこうして逐一、報告を送ることを自分から申し出ていた。
 無論、綱吉にはそのことを知らせていない。が、おそらく、それを知っても綱吉は自分を咎めはしないだろう、と獄寺は思う。
 ボンゴレ・ファミリーに取って、どんな犠牲を払ってでも守り通されなければならない存在──それが、沢田綱吉なのであり、彼自身もそれはもう承知している。
 だが、この旅行は綱吉にとって、最後の自由……あるいは我儘とでもいうべき意味合いを持っていることを十分過ぎるほどに分かっていたから、獄寺は、この旅行にわずかでもボンゴレの影を感じさせたくなかった。
 この旅行の間は──この夏が終わるまでは、『ボンゴレ十世』ではなく、『沢田綱吉』であって欲しい。
 それは獄寺自身の願いでもあり、そのためにも、この秘密は守り通されるべきものだった。
「───…」
 小さく溜息をついて、獄寺は携帯電話をしまい、それから煙草とライターを取り出す。
 そして空調の風向きを確認してから、煙草を口にくわえ、火をつけた。薄闇の中で数秒間、橙色の炎が灯り、ほどなく、ぽうっと赤い小さな光が燃え上がる。
 この国では煙草がやたらと高価なのと、教会や美術館はほとんどが禁煙であるため、日本にいる時よりも煙草の消費量自体は減っている。が、禁煙には至らず、何やかやで二日に一箱は消費していた。
 ゆっくりと立ち上る煙を目で追い、そっとそのまなざしを、綱吉へと向ける。
 窓際にいる獄寺と、入り口側のベッドで眠っている綱吉との間には、ベッド一台分以上の距離が開いていたが、この旅行が始まって以来、獄寺は、綱吉が眠った後はその距離を決して詰めようとはしなかった。
 距離を詰めてしまえば、もっと近付きたくなる。
 すぐ傍まで近づいてしまったら、今度は触れたくなる。
 そうと分かっていて、そんな危うい橋を渡れるわけがない。
 綱吉が起きている間ならば、普通の顔をしていられる。二人きりでいること、互いの間の距離がゼロに近くなることは、これまでの年月で決して珍しいことではなかった。だから、自分の心を切り離すことには慣れているし、耐えて諦めることにも慣れている。
 だが、綱吉が眠ってしまうと、話は全く別だった。
 沢田家の綱吉の部屋のカーペット上や、小さなシングルベッド上でのことなら、日常の風景であるから、ああ勉強に飽きて眠ってしまったのかと、ほろ苦いような甘くてとろけそうな、切なくも幸せな気分で寝顔を見ていられる。起こさないようにそっと物音を殺して、自分のマンションに帰ることもできる。
 けれど、見慣れない美しい壁紙やヨーロピアンサイズのベッドと、その中で眠る綱吉の姿は、ここが日常の場ではないことを否応にも獄寺に自覚させる。
 そしてその自覚は連鎖的に、獄寺自身が恐れを感じずにはいられない衝動を呼び覚ましかねなかった。
 ───このまま、ずっと二人きりでいられたら。
 ───このまま、どこかへ二人で行ってしまえれば。
 ───この人に触れて、この人の瞳に自分だけを映すことができたなら。
 そんなことを考えそうになる自分が怖かったから、獄寺は極力、そういった物思いから距離を置くようにしていた。
 自分が考えるべきなのは、この旅行をいかにトラブルなく終えるかということ。
 いかに十代目に楽しんでもらえるかということ。
 ……そして、帰国後──この夏が終わった後のこと。
 それ以外のことを考えている余地などないのだと、毎日毎晩、繰り返し自分に言い聞かせて。
 だから、そういう意味でもリボーンへの逐次報告という、これ以上ないほどに現実を思い知らせてくれる任務はありがたかった。
(──この旅行が終わったら)
 自分と綱吉の今の関係は、終わりを告げる。
 自分は主従を主張し、綱吉はそれを受け入れつつも友達だと思いたがっているような曖昧な関係。
 それらは全て消えて、今度こそ真実、ボンゴレ十世とその右腕へと立場が変わる。
 自分たちの何が変わるというわけではなくとも、取り巻くもの、課せられるものはがらりと質量を変えて重くなり、そしておそらくそれらは、自分たちの命が絶えるまで消え失せることはないのだろう。
(全部、俺が望んでいたことだ。全部……)
 けれど、今になってそれがひどく苦しい。
 誰よりも綺麗で優しくて、自分に生きることの意味を、命の尊さを教えてくれた彼が、犯罪組織のボスになるなんて。
 そんな皮肉があってたまるものかと思ってしまう。
 彼以外のボスなど要らないのに、彼にだけはボスになって欲しくない。
 何故なら、自分は。
(あなたを……愛してる)
 『十代目』ではなく、『沢田綱吉』という一人の人間が、何よりも大切だから。
 世界でただ一人、命を懸けて愛する人だから、彼がこの先、『十代目』として苦しむだろうことが辛い。
 世界で一番、幸せになって欲しい人なのに。
 それでも。
 それがどんな道であっても、彼が選ぶ道であるのなら。
(俺はこの命が尽きるまで、あなたに従います)
 どれほど苦しくとも、辛くとも。
 決して、それを口にも態度にも出したりなどしない。
 少しでも自分が負の感情を表に出せば、誰よりも優しい彼は、それを感じ取って更に苦しむだろうから。
 何も言わず、態度にも出さず、傍に在り続けよう。
 自分が必要とされる限り。
(十代目……沢田、綱吉さん)
 短くなった煙草を灰皿にもみ消し、もう一度綱吉を見つめてから、獄寺は小さく溜息をついて、自分のベッドへと上がった。
 少しでも睡眠不足になれば、勘のいい綱吉はすぐに気付いてしまう。だから、眠らないわけにはいかない。
 高い天井を見上げ、そして目を閉じる。
 それから眠りにおちるまでの短い時間、許されないと分かっていても、この甘くほろ苦い二人だけの時間が、永遠に続けばいいと祈らずにはいられなかった。

to be continued...

※文中で獄寺が口にした台詞は、イタリア国内でも放送禁止用語とされている超弩級のスラングなので、文中での日本語訳は割愛させていただきました。各センテンスについて辞書を引いても、スラングとしての意味は殆ど出ていません。単語自体、載っていないものもあります。
意味合いとしては、「この野郎!」「何してやがる!」「失せろ、クソ野郎」、少年の捨て台詞は「クソッたれ」の最も下品な表現、という感じです。が、日本語訳に比べるとかなり単語の選び方がえぐく、品性を疑われる言い回しばかりなので、絶対に応用しないで下さいm(_ _)m




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