誰が為に陽は昇る

11.

 夏休みに入るまでの一月ほどは、多忙に過ぎた。
 期末試験もあったし、旅行のためのパスポート取得など幾つかの手続きを済ませる必要もあったから、平日も休日も、何かしらのスケジュールが入らないわけにはいかなかったのである。
 もっとも綱吉にとっては初めての海外旅行であるため、準備のほとんどは獄寺任せ、指示されたことだけをこなすだけだったが、それでも何となく気分的に落ち着かない日々が続き、終業式に通知表を受け取る頃には、少々ぐったりとなっていた。
「十代目、そろそろ帰りますか?」
 講堂を兼ねた体育館で校長の眠くなるような訓辞を聞き、教室に戻って通知表と夏休みの注意事項が書かれた数枚のプリントを受け取れば、一学期最後の学校生活はあっさりと終わる。
 夏休みの予定や、今日これから遊びに行く約束などを口々に交わしながら、クラスメートたちも三々五々と教室を出てゆく中、まだ席についたままだった綱吉の傍に獄寺が歩み寄ってきて、問いかけた。
 無論、行動のすばやい彼は、とうに荷物はまとめて薄い学生鞄の中に片付けてしまっている。
 対して、綱吉の方はまだ机の上に配布されたプリントが広げられたままだった。
「そうだね。通知表も何とかリボーンに怒られずにすみそうだし」
 肩をすくめるように小さく笑いながら、綱吉はゆっくりと手を伸ばして、プリント類を重ね、角を揃えて鞄の中にしまう。
 期末試験の勉強と平行して旅行の準備をしていたのに、綱吉が何とか成績を落とさずにすんだのは、ひとえにリボーンの脅しのおかげだった。
 曰く、全教科で平均点をクリアしなければ、夏休み中猛特訓を課すぞ──試験前にそんなことを言われてしまえば、必死になってテスト範囲の教科書を頭に詰め込むしかない。
 獄寺にも各教科のヤマを張ってもらったり、問題集の判らないところを教えてもらったり、とにかく全面的に協力してもらって、どうにか課題はクリアできたのだが、結果が出るまでの間は本当に気が気ではなかった。
 だが、ともかくも全て終わり、通知表も良いとは言い切れないものの、特に悪くもない数値で、ようやく一安心といったところである。
 そのせいか、通知表の中身を確認した所で妙に気が抜けて、獄寺に声をかけられるまで綱吉はぼんやりと窓際の席から外を見ていたのだった。
「──じゃ、帰ろうか」
 夏休みの課題は、事前に各教科ごとにそれぞれの授業中に渡されているため、持って帰るものは今日の配布物以外、何もない。
 身軽に立ち上がって、綱吉は獄寺を見上げた。
「はい」
 目を合わせると、淡く煙ったような緑の瞳がやわらかく笑む。
 その綺麗な色に内心で見惚れながら、そういえば、ここ最近、彼は幾人かの男子生徒や女子生徒から夏休みの予定を尋ねられていたな、と綱吉は思い出す。
 もちろん獄寺は全ての誘いに断りを入れていたが、その理由は、イタリアの実家に戻るから日本にいない、という当たり障りのないものだった。
 同様に綱吉の方も、父方の親戚の所に行くから、と答えて全ての誘いを断ったのだから、その辺りは共犯者といってもいいかもしれない。
 綱吉としては別に後ろめたい所があるわけでなし、正直に二人で旅行に行くと言っても良かったのだが、何しろ高校生といえば十代半ば過ぎの良くも悪くも下世話な好奇心に満ちたお年頃である。
 普段から<いつでも一緒にいる二人組>と見られている自分たちが、夏休みまで二人きり、しかも海外旅行となれば、下世話な冗談のネタにされかねないと思ったため、綱吉は適当に不在の理由をでっち上げたのだ。
 獄寺の方の真意は聞いていないので知らないが、彼もまた自分たちの行動を明らかにすることについて何らかの危惧を持ち、同じように不在理由をでっち上げたのだろうと思っている。
 こんな風に自分たちが行動を隠蔽することはいつものことで、もっと不穏な理由から周囲に真実をはぐらかしてきたことは、これまでに数え切れない。
 おかげで綱吉も今はすっかりそれに慣れて、今回の旅行についても、取り立てて獄寺と申し合わせをすることもせずに、極自然に何割かは真実である夏休みの予定を口にしていた。
 そのことを──年月と共に色々な事が変わってしまったことを少しだけ悲しいと思う自分も、まだ綱吉の心の片隅には眠っている。が、小さな呟きが聞こえるたびに、仕方がないんだよ、と綱吉はその声に言い聞かせる。
 嘘をつきたくてつく人間など、世界にそう多くはない。
 ただ、相手と自分を不幸にしたくないから、自分の良心に目隠しして嘘をつくだけなのだ。
 でもやっぱり少しだけ悲しいね、と呟きながら、綱吉は獄寺に小さな笑みを返して、まなざしを教室の出入り口へと向ける。
 そして歩き出そうとした時、廊下で小柄な人影が動いた。

12.

 開け放たれたままの教室のドアの向こうから女生徒二人の姿が現れたとき、綱吉は半歩前にいた獄寺がわずかに身構えるのを感じた。
 教室内には、もう自分たち以外誰も居ない。
 廊下にはまだ生徒たちの声が遠く行き交っているが、自分たちを狙って襲撃しようというのなら、今は絶好の機会だろう。
 だが、獄寺君、と綱吉は小さく呼んで、その行動を制する。
 現れた女生徒二人には、見覚えがあった。片方は一年生の時に同じクラスだったし、もう一人も隣りのクラスの女子で、生物の合同授業の時に見かける顔だ。
 そして、二人は明らかに緊張し、わずかに紅潮した面持ちでこちらを見ており、殺気などとは無縁であることが一目で分かる。
 これは、と思うと同時に、
「あ、あの……!」
 隣りのクラスのセミロングの髪を明るい茶に染めた少女が、顔を真っ赤にしながら上ずった声で呼びかける。
「獄寺君に、話があるんだけど……」
 ああやっぱり、と予想が当たったことに内心、溜息をつきながらも、綱吉は表情には出さずに、こちらを振り返った獄寺にいつもと同じ笑みを向けた。
「いいよ。行ってあげなよ」
「──はい。すぐ戻りますから」
「急がなくていいからね」
 あくまでも平静な綱吉に対し、獄寺はその瞳にほのかに苦々しいものをたたえていたが、それ以上は何も言わずに、茶髪の女生徒と廊下へ出て行く。
 もう一人のショートカットの女生徒は、彼女の付き添いということだったのだろう。わずかに友人の後姿を見送った後、少しばかり所在なさげに出入り口の柱に背を寄りかからせた。
 こういう時に友人に付き添いを頼む、という心理は男である綱吉には全く分からない。
 だが、女の子というものは、男なら絶対に連れ立ってゆかないような場所にも必ず一緒にゆくものだということは、京子やハルを見ていて知っていたから、この状況にもさほど戸惑わなかった。
 どうやらお互いに相棒が戻ってくるのを一緒に待つしかないらしい、と妙な微苦笑を覚えつつ、綱吉は手にしていた学生鞄を手近な机の上に置く。
 と、かつてのクラスメイトだったショートカットの女生徒が口を開いた。
「ねえ、沢田君と獄寺君って、どういう関係?」
「どうって、友達だけど?」
「友達に見えないから、聞いてるんだけど……」
 それはもっともな言い分だった。同級生の傍に四六時中張り付き、しかも敬語で接する獄寺の態度が普通の高校生の友情に見えるのであれば、そいつは間違いなく病院で視力検査を受けたほうがいいだろう。
 しかし正直に答えるわけにはいかないし、答えたところで、自分たちがマフィアの関係者だという事実は、はっきりいって全く真実味がない。
 さて、どうごまかしたものか、と綱吉は思考を巡らせる。
 これまでの経験からいうと、百パーセントの嘘を信じてもらうのは難しく、半分ほど真実が入り混じった嘘なら案外、人はすんなりと信じたりするものだ。
 だから、綱吉はためらいなく後者を選んだ。
「……あんまり人に言わないで欲しいんだけど。獄寺君が子供の頃、家族と上手くいっていなかった時に、俺の家で獄寺君の世話をしてあげたことがあってね。獄寺君は、ああ見えてもすごく律儀でマジメな所があるから。今でも俺や俺の家族に対して、めちゃくちゃ気を使ってくれてるんだよ」
「──そうなの?」
「うん。だけど、俺が話したっていうのは内緒ね。俺、獄寺君に嫌な思い、させたくないから。他の人にも言わないで」
「……うん」
 それきり黙った女生徒に、うまく信じてもらえたかな、と思いながら綱吉は、獄寺ともう一人の女生徒のことを考える。
 ──中学時代に比べると人当たりの棘が幾分少なくなったものの、高校に入っても、獄寺はその鋭い容貌と着崩した制服や幾つものアクセサリーのために、どちらかといえば周囲に敬遠される生徒だった。
 だが、対照的に人当たりのやわらかい綱吉が常に傍にいるせいか、徐々にクラスメートたちも獄寺の存在に慣れ、三年生ともなった今は、休み中の予定を打診される程度には親しみを持たれるようになっている。
 しかし、獄寺の方はといえば、相変わらず自分から他人に声をかけることはしなかった。
 朝夕の挨拶の呼びかけには無愛想ながらも応じるし、話しかけられれば短い受け答えもするが、それ以上のことはなく、冷たくならないギリギリの線で他人と接している。
 その姿には、かつてのような人間不信、人間嫌いの気配はないものの、打ち解けるほどには他人に気を許せずにいる獄寺の心の影が、綱吉には感じ取ることができた。
 だが、生まれた時からマフィアの世界で生きてきた獄寺にとっては、本当にそれがギリギリのラインなのだ。それが分かっているから、綱吉は獄寺の態度について、あれこれ口にしたことはない。
 見知ったクラスメートであっても、ここが平穏な国の平穏な学校だと分かっていても、決してすべてを信用することはできない。──それはもう、綱吉が当たり前に嘘を口にするようになったことと同様、どうしようもないことなのだ。
 だから、無理に一般人のように振舞う必要はない。彼は彼らしくあれば、それでいい。綱吉はボスとして、その全てを受け止めるだけだ。
 けれど、と思う。
 あの女生徒は、そんなことは知らない。
 彼女だけでなく、この学校の誰も、本当の獄寺を知らない。
 知らないのに獄寺のことを好きになってしまった少女が、少しだけ可哀想だと思った。
 彼女が普通の日本の少女である以上、獄寺は決して彼女を近づけない。興味がないからでもあるし、いわれのない危険に巻き込まないためにも、決して彼女に情をかけない。
 本当の彼は、他人を傷つける事に後ろめたさを感じる優しい人間なのに、ファミリーと相手のために残酷なくらいに冷たく好意を拒絶する。
 そのことを少しだけ悲しい、と綱吉は思った。
「──ねえ」
 ともすれば沈み込みそうだった思考を、少女の細い声が断ち切る。
「何?」
「あの二人、うまくいくと思う?」
「……どうかな」
「獄寺君は、付き合ってる子とかはいないんだよね?」
「それはいないけど……」
 俺には分からない、と結末を知っていても、綱吉は答える。他に答えようがなかった。
 けれど、とりとめのないような女生徒の声は、もう一つ、綱吉にボールを投げてくる。
「……じゃあ、沢田君は」
「え」
「沢田君は、好きな人とかいないの?」
 これには少しだけ驚いて、綱吉は女生徒を見る。
 彼女は相変わらず出入り口の柱に背を寄りかからせていて、そしてうつむいた表情は見えない。けれど、ショートカットの髪の間から見える耳が、赤い。
 俺もかよ、と内心で突っ込みながら、綱吉は何にも気付かないふりで雑談のように続けた。
「好きな人は、いるよ。すごく綺麗で、優しくて、何にでも一生懸命な人」
「……誰?」
「それは内緒。本人に言う前に、誰かに言うことじゃないだろ」
「……そうだけど」
 ごめんね、と心の中で呟いて、綱吉は空気が固形化したような、気まずい沈黙をやり過ごす。
 と、程なく一人分の足音が教室に近付いてきて、女生徒がぱっと廊下に出て行き、その相手と二言三言交わしてから、走り去ってゆく。
 入れ替わりに教室に入ってきた獄寺に、綱吉はいたわるような、同類相憐れむような曖昧な笑みを向けた。
「帰ろっか」
「──はい。お待たせしてすみません」
「謝られるほど待ってないよ」
 何事も無かったかのように、連れ立って教室を出る。
 綱吉も獄寺も、互いに何も言わず、何も聞きもしなかった。黙って廊下を歩いて、正面玄関へと向かう。
 そして、靴を履き替えて玄関を出た瞬間に目を射た夏の陽射しに、綱吉は瞳を細めた。
 ───きっとあの二人の女生徒は、これから肩を寄せ合って泣くのだろう。
 実らなかった恋を泣いて、嘆いて、そしていつかは、きっとまた新しい恋をする。
 自分たちではない、他の誰かに。
「あとちょっとでお昼だよね。ついでだから、駅前で何か食べてから帰ろうよ」
「そうっスね」
 梅雨明け宣言が出たばかりの夏空は、晴れてはいても多過ぎる水蒸気に淡く煙っている。
 その空を見るともなしに見上げ、彼女たちが次にする恋は幸せな恋だといい、と欺瞞だと思いながらも綱吉は心に呟いた。

13.

 獄寺が沢田家で夕食まで馳走になって帰ってきたのは、夜の九時を少し回った頃だった。
 こんな時間になったのには別に深い理由があるわけではなく、早速ながら夏休みの課題を綱吉と共に片付けていたからである。
 本来、獄寺も綱吉も進学希望を出していないのだから、課題も休み明けの実力テストも関係ないはずなのだが、そんな言い逃れをリボーンが許すわけもない。
 ましてや夏休みの半分を海外旅行に費やそうというのだから、残り半分は勉学に励まなければ、どんな制裁が待っているか知れたものではなかった。
 ただ幸か不幸か、高校の夏休みの課題には小学生のような絵日記や自由研究、図画工作といったものはなく、ひたすらに問題集ばかりだから、とにかく問題を解いてしまえば、すべては片付く。
 だから、獄寺と綱吉は、旅行前の十日間を問題集を解く期間、旅行後の十日間を休み明けの実力テストに備える期間として設定し、課題を配布されたその日から早速、その攻略に取り掛かっていた。
 夏休みの課題は、英語の問題集が2冊、数学の問題集が1冊で、獄寺にとっては三日もあれば終わる量だったが、綱吉にとってはそうではない。
 しかし、半月前まで期末テストに向けて猛勉強していた余韻が残っているらしく、今日までのところの進捗具合はスムーズだった。
 冷房が効いてくるまでの短い間に、室内の籠もった蒸し暑い空気にうんざりしながら、獄寺は開襟シャツの前ボタンをはずす。
 何故、日本の学校には制服などというものががあるのか、つくづく謎だった。
 こんな風に夏は蒸し暑く、冬は寒い国なのだから、その日の天気に合わせて各自が自由に服装を調節できるようにするのが合理的なはずなのに、見栄え重視なのか固定観念なのか、校則で定められるままにかれこれ六年近く、堅苦しい制服を着る羽目になっている。
 毎朝、何を着るか考える手間が省けるのは楽といえば楽だったが、押し付けられたものを身につけるのは獄寺の性分ではなかったし、何より標準制服では隠しポケットがせいぜい一つしかなく、武器の隠し場所にも困る。
 そのために結局、見た目は制服と同じデザインの上下をイタリアのサルトー(仕立て屋)に特別オーダーし、更に自分の美意識と反骨精神、なによりも武器の隠蔽のために着崩すという二重の手間をかける必要が生じており、獄寺にとって制服とは、とことん厄介なものでしかなかった。
 けれど、その厄介な制服との付き合いも、あと半年で終わる。そう思うと妙な感慨も湧いてこないではない、気もする。
「……結局、六年も学校に通っちまったんだな」
 獄寺が日本の並盛中学に編入したのは、中学一年生の初夏だったから、正確にはこの夏で丸五年の計算になる。
 だが、改めて考えると、随分と長い年月だった。
 その間、学校で何を学んだかというと、何一つ学んではいないのだが、それでも人間関係だけは微妙に変わったように思う。
 少なくともイタリアにいた頃には、同年代の少年少女に気楽に声をかけられるということはまず有り得なかったし、誰かから特別な好意を寄せられたこともなかった。
 昔なら、差し伸べられた手を跳ね除けることに何のためらいも罪悪感もなかったのに、今は、獄寺の本当の姿を知らないからこその好意だと分かっていても、向けられた感情を拒絶することは、獄寺の心に小さな後味の悪さを残してゆく。
 ──好きな人に好きだと告げることが、どんなに勇気の要ることか。
 ──好きな人に拒絶されるのが、どんなに辛いか。
 そんな彼女たちの気持ちが容易に理解できるからこそ、冷たく接することが彼女たちのためだと頭では分かっているのに、罪悪感めいた感情を振り払いきれない。
「俺もまだまだ甘いな……」
 溜息をつきながらも獄寺は、女生徒を階段の踊り場に残して教室に戻った時、自分に向けられた綱吉の表情を思い返す。
 それはいつもの、獄寺が少女たちの好意を拒絶して戻ってきた時の表情とは、微妙に違っていた。
 それで気付いたのだ。自分が傍を離れていた間に、彼もまた、同じ状況に遭っていたことを。
 そして彼も自分と同じように、好意をすげなく拒絶したのだと。
 いつの頃からかというと定かではないが、高校に入った頃からは明確に、綱吉は同年代の少女たちの関心の対象となっており、その数は月日を追うごとに増えていっている。
 告白劇など日常茶飯事、というと言い過ぎだが、それでも月に一度くらいはあるのではないだろうか。バレンタインデーやクリスマスといったイベント時には、それこそ数え切れないくらいの女生徒が近寄ってくる。
 だが、綱吉は一度も彼女たちの好意に応えたことはなかった。
 どんな断り方をしているのかは分からないが、一度振られた少女が再度、寄ってくることはない以上、相当にきっぱりと拒絶しているのだろう。
 その結果として、綱吉はリボーンが恋愛を禁じているわけでもないのに、彼女を作ったことは一度もなかったし、誰かに恋をしているような素振りを見せたこともなかった。
 綱吉が誰を好きか、ということについては獄寺は考えたことがない。というよりも、考えないようにしていた。
 考えても仕方のないことだからだ。
 中学生の頃、綱吉が笹川京子に淡い憧れを抱いていたことは知っているし、ハルが綱吉の素性を知った上で好意を示し、綱吉が友人レベルではあってもその好意を受け入れていることも知っている。
 けれど、それらは全て自分には関係のないことだ、と切り捨てるようにしていた。
 考え始めてしまえば、泥沼にはまる。
 他の誰も選ばないで下さいと、信頼以上のものを俺に下さいと叫びたくなるのは目に見えていたから、獄寺は敢えて、綱吉のそういった面からは目をそらし続けていた。
 だが、それでも心は正直なもので、今日のように綱吉が寄せられた好意を拒絶するたび、安堵する自分がいるのも確かな事実で、そのことが少しばかり苦しかった。
「───…」
 溜息を一つついて、獄寺は取り出した煙草に火をつける。
 手に届かない人を好きになったのだと気付いてから、かれこれ三年近くになる。
 だが、想いが報われないままであっても、獄寺は、今の自分の立ち居地に満足していた。
 出会った頃とは違う確かな信頼を、今の綱吉は自分に寄せてくれている。必要とあれば、いつでも彼の傍にいて、彼を守ることができる。
 まだ名実共にボンゴレの十代目と、その補佐役となったわけではないが、夢見ていたことはほぼ叶えられたといっていい。
 けれど、それでもまだどうしようもない欲が、獄寺の裡にはくすぶっているのだ。
 どんな氷水をかけられても消せない炎が、獄寺を誰よりも強くもすれば、誰よりも弱くもする。
(あなたが……好きです)
 たとえ聞く者がいなくとも、口に出して言うことすらできない。
 一度口に出してしまえば、想いは無限に膨れ上がる。分かっているから、心の中で呟くだけだ。
 目を閉じて、獄寺は昼間、涙目で廊下を駆けていった短い髪の女生徒を思い返す。
 たとえ実らない恋であったとしても、好きな人に好きだと言えた少女が、少しだけ羨ましい、と思った。

14.

「もしもし山本? 今いい?」
『おう。でも、お前ら明日出発だろ? いーのか?』
「大丈夫。用意はもう済んでるから」
 床の上にじかに腰を下ろし、ベッドに背を預ける姿勢で綱吉は明るく返す。
 この携帯電話も、海外で使えるように先日、契約を追加したばかりだった。
 二年前に携帯電話を買った時にはそんなことを想定して機種を選んだわけではなく、単に見た目で選んだのだが、今回改めて機能を調べたら国際通話も可能だということが判明し、海外用をレンタルする手間が一つ省けたのである。
 人間、何がどう便利に転ぶか分からないものだなぁと綱吉は感心したのだが、旅行の準備全体からすれば、それは本当に些細な出来事に過ぎず、とかく今日までの準備期間は大変だった。
 もっとも綱吉は自分の荷物やパスポートの準備をしていただけであって、それ以外の飛行機やホテルの手配はすべて獄寺任せにしたため、偉そうに言えることは何一つない。
「でもさ、やっぱり海外旅行の準備は大変だよ。勝手が全然分かんないし。山本は昔、ディーノさんに連れて行ってもらった時、どうしたの?」
『どうもこうも、前の日にいきなり獄寺が電話してきて、自分は行けないからてめーが行け、って言われたからなぁ。準備もへったくれもなかったぜ。トランクに着替え詰めてっただけ』
「……山本らしーけど、そんなんでよく行ったねえ」
『んー。まぁタダで観光旅行って話だったし、そのくせ獄寺の口ぶりが、どうしても行かなきゃいけないよーな感じだったし。パスポートは、そのちょっと前に商店街の組合が海外視察とかいうのをやって、俺もついてったから持ってたし。親父も、行ってこいの一言だったし』
 のんきそうに言う山本の声に、綱吉は小さく苦笑する。
「なんか羨ましいよ、山本のそういうとこ」
『そうか?』
「うん。俺なんて、あれもこれもって心配になっちゃって、荷物が増える一方だったもん。最後の荷物チェックで獄寺君が要らないって言ったものは、一応置いてゆくことにしたけど、それでもなんか不安でさ」
『ははっ、ツナらしーな。そういうの』
「笑い事じゃないよー」
 それでも笑いながら、綱吉は部屋のドア近くに置いた旅行鞄を見やる。
 大き目のキャスター付きトランクと、帆布製のショルダーバッグ。二十日間も異国を旅するのに、本当にこれで大丈夫なのかと思ってしまうほど、コンパクトな荷物だ。
 だが、これで獄寺が大丈夫だと言ったのだから、多分、間違いないのだろう。
『でも、イタリアはいいところだったぜ。メシ美味かったし、すっげーものが色々見られたし。日本とは全然違ってて、すげー面白かったよ』
「うん。俺もすごく楽しみにしてるんだ。ガイドブック見てるだけでも、すごそうなのがいっぱいあって、行き先を選ぶのがホント、大変だったよ」
『だろーなー。俺が覚えてんのは、あれだな。フィレンツェだっけ? あの街の滅茶苦茶でっかい教会』
「花の聖母教会のことかな。うん、俺たちも行く予定だよ」
『あ、それそれ。イタリア語でなんか長い名前だったから、覚えきれなくてさ。あとローマの闘技場とか、ヴェネツィアの教会もでっかかったなぁ。あ、ディーノさんちの屋敷もすごかったぜ。まるでお城みたいでさ』
「覚えてるのは、でっかいものだけなの?」
 それも山本らしい、と思いながらも綱吉は笑って聞き返す。
 と、電話の向こうで山本も笑った。
『そういうわけじゃねーんだけど、でっかいもんの方がどうしても印象に残るだろ? 思い出しやすいっつーかさ。もちろん、小さくても綺麗なもんも沢山あったんだぜ。でも、そーいうものはツナが自分で見つけりゃいいと思うし』
 いいとこだった、と山本の声が告げる。
 ただ想い出を懐かしむには、どこか深みのある声で。
『建物だけじゃなくて、他にもいっぱい見たよ。どこまでも続くブドウ畑とか、信じられねーくらい青い海とか。俺ももう一度、行きてーなー』
「山本」
『楽しんでこいよ、ツナ。あの国には本当に色んなものがある。全部、お前の目で見て、そんで俺にも土産話、たくさん聞かせてくれな』
「……うん、もちろんだよ。目いっぱい楽しんでくるつもり」
『ああ。じゃーな、あんまり寝るの遅くなると、朝起きるの辛いだろ? またイタリアからメールでもくれよ』
「うん。山本もメール、してよ。時差とか気にしなくていーから」
『ああ。じゃあ、おやすみ、ツナ』
「おやすみ。甲子園、頑張ってね」
『おう。絶対に勝つぜ』
「うん、じゃあね、また」
 電話を切って、それから綱吉は手の中の小さな機械をじっと見つめた。
 何が、というのは上手く言えなかった。だが、イタリアについて語る山本の声は、何かいつもと違っていたような気がしてならない。
 ただ親友に出発の挨拶をしたかっただけなのに、何かそれだけではすまなかったような感覚がひしひしと押し寄せてくる。
 何年か前、突然のイタリア観光から帰ってきた時の山本は、あんな風にあの国のことを語りはしなかった。その時の記憶はもう朧気だが、もしいつもと違った様子で話をしたのなら、間違いなくそう気付いたと思う。
 けれど、今の山本はそうではなかった。
 あれから四年の月日が過ぎて、その間にはあまりにも沢山のことがありすぎた。それが、山本の中にあったイタリアという国の印象を変えてしまったのかもしれない。
 そう考えると、つじつまが合うような気がしてくる。
 山本は先程、もう一度行きてーな、と言った。
 だが、綱吉の耳には、もう一度行かなきゃな、と聞こえたのだ。
「山本……」
 手の中の携帯電話を見つめたまま、綱吉は呟く。
 親友でありながら、自分の雨の守護者でもある少年に対して。
「君は何をしたいの……? 俺は君に何をするべきなの……?」
 分からない、と答えの出ない問いを呟いた時、不意に手の中の機械が着メロを奏で始めた。
 そのメロディーで特定の相手からの着信だと気付いて、綱吉はサブ画面に浮かぶ名前を確認する。
 そして、すぐに着信ボタンを押した。

15.

「獄寺君?」
『はい、獄寺です。まだ起きていらっしゃいましたか』
「うん。ついさっきまで山本と電話してた」
『……そうですか』
 途端、喜色に満ちていた声が低く不機嫌になるのがおかしい。綱吉は小さく笑いながら続ける。
「どうしたの? 何か忘れてたこととかあった?」
『いえ、そうじゃないんスけど、なんつーか、少しお声が聞きたくなって……』
 わたわたと言い訳する獄寺は、少しだけ中学時代の彼を思い出させた。
 彼のほうも何かあったのだろうか。それとも、本当に声が聞きたくなっただけだろうか。
 どちらでもいい、と綱吉は思う。
『すみません、俺、』
「なんで謝るの? 俺、嫌だって言って無いじゃん。どっちかっていうと嬉しいよ。山本との電話短くて、何か話し足りない気分してたから」
『そう、ですか?』
「うん」
 嘘、と心の中で呟く。
 理由なんかどうでもいいのだ。こうして声を聞いて、話をできるだけで。
 どんな気分でいる時であろうと、好きな人から電話がかかってきて嬉しくない人間がいるわけがない。
 それも、ほんの数時間前までこの部屋で顔を合わせていたのに、それでも足りないとばかりに電話してきてくれたのだから。
「ねえ、獄寺君」
『はい?』
「明日から三週間、君に迷惑かけっぱなしになると思うけど、よろしくね。知らない国で君に見捨てられたら、俺、本当にどうしていいか分からなくなっちゃうと思うから」
『そんな! 俺が十代目を見捨てるなんて、絶対に有り得ませんよ!!』
「うん。分かってるけど。でも、迷惑かけるのは決まってるから、先に謝っておいた方がいいかなーと思ってさ」
『十代目のなさることで迷惑なことなんて、一つもありません!!』
「んー。そうでもないと思うけどな」
 迷惑でないと思うのは、獄寺の思考と感性がゆがんでいるからだ。
 綱吉が今、こうして反応の見え透いた言葉で彼を絡め取っていること自体、公平な目で見たら卑怯でずるい話に十分該当する。
 なのに、それを獄寺が厭わしく感じないのは、綱吉がこんな風に電話をかけてくる獄寺を厭わしく感じないのと同じ理由があるからに他ならない。
 それなのにどうして自分たちは両想いではないのだろうと、綱吉は目の前の現実にほろ苦い可笑しさを感じないではいられなかった。
『本当に大丈夫ですから! 俺は絶対にお傍を離れませんし、危ない目にも怖い目にも遭わせたりしませんから……!』
「うん。ありがとう。獄寺君なら本当にそうしてくれるんだって、俺、分かってるから」
 だから、そう力説しなくてもいいんだよ、と綱吉はやわらかな声で諭す。
 それは単なるリップサービスではなく、本心からの言葉だった。
 口先だけではなく、獄寺は本当に全ての危険なもの、不快なものから綱吉をかばおうとするだろう。それは五年前から幾度も繰り返された事実の積み重ねであり、今更疑う余地など微塵もない。
 ただ、綱吉をかばおうとする時、多くの場合において獄寺は自分の身体を盾にする。それが綱吉は怖かった。
 ただの怪我ならばいい。良くはないが、いつかは治る。
 だが、それが取り返しの付かない事態に繋がったら?
 腕を、脚を、目を、あるいは、それ以上のものを失ったら?
 考えるだけで、震えが止まらなくなる。間一髪の場面を、これまでに何度も見ているからこそ、尚更に想像は起こりうる現実として、綱吉を恐怖に陥れる。
 けれど、それでも綱吉は、獄寺に自分を守ることをやめてくれとは言えなかった。
 次期ドン・ボンゴレの守護者でもあり、また一個人としても綱吉をとても大切に想っていてくれる獄寺に、守るのをやめろというのは彼という人間の存在意義の全否定に他ならない。
 だから、やめて欲しいと言わない代わりに、綱吉は別の言葉を使う。
 彼が傷付かないように。
 目の前からいなくなってしまわないように、精一杯の祈りを込めて。
「でもね、獄寺君。俺は君にも嫌な思いや、痛い思いをして欲しくないよ。君が俺に傷付いて欲しくないと思ってるのと同じくらい、俺も君に傷付いて欲しくないんだ。君が俺のことを守ろうと思ってくれるのは嬉しい。でも、そのことだけは覚えといてくれる?」
『──十代目…』
「何?」
 銘を呼んだ獄寺の声は、深く、低く響いて。
 その響きの中にあるものを逃すまいと、綱吉はスピーカーに耳を押し当てて目を閉じる。
『いえ……、十代目がそうおっしゃるのなら。俺はあなただけでなくて、俺自身も守ります。あなたが嫌な思いをしなくてもすむように』
「うん……ありがとう」
 本当は、君が大事だから、と言ってしまいたかった。
 好きだから、傷付いてほしくないのだと。
 そう言えたら、どんなに良かっただろう。
 けれど、口にしたら全てを壊してしまう。全てを守りたいと思った気持ちが、嘘になってしまう。
 だから、綱吉は何でもない調子で続けた。
「君の方は何か言いたい事ある? 旅行に行く前に」
『言いたい事、ですか? 十代目に?』
「うん、そう。あったら言って?」
 催促するように問いかけると、電話の向こうで獄寺はうーんと唸る。
『いえ、さっきので十分な気がします。どうしても付け加えるなら、あと一つだけですね』
「何?」
『楽しい旅行にしましょう、十代目』
 その言葉に、自然に口元に笑みが浮かぶのを綱吉は感じた。
「うん、もちろんだよ」
 おそらく自分たちが感じているものは、同じなのだろう。
 これが、自分たちにとっては最後の夏なのだ。
 二人きりで過ごす、最初で最後の時間。
 だから、精一杯に楽しみたい。叶うことなら、一つの影もなく。
 ……けれど。
「それじゃあ、また明日ね。電話、ありがとう」
『いいえ、俺の方こそ遅くにすみませんでした。今夜はゆっくり休んで下さい、十代目』
「うん、獄寺君も。おやすみ」
『はい。おやすみなさい』
 ゆっくりと携帯電話を耳から話して、通話を切る。
 そして、綱吉はゆっくりと部屋の入り口へとまなざしを向けた。
「リボーン」
 電話の途中で、黒衣の家庭教師が音も立てず部屋に戻ってきたことは気づいていた。
 そして黙って、自分たちの会話を聞いていたことも。
「俺は……間違ったことをしてる?」
 黒曜石のように光る丸い瞳を真っ直ぐに見つめて、問いかける。
「獄寺君に対して、ずるいことをしてるのは分かってる。でも、これは間違ったこと? それともギリギリ許されること?」
 誠実で一途な彼を、本心からとはいえ言葉で縛り、操るのは。
 そして、予想通りの言葉を返してくれることを、嬉しいと思うのは。
 だが、
「──それくらい自分で判断しろ、馬鹿ツナ」
 溜息をつくように言い捨てて、リボーンはすたすたと部屋の奥へと歩み寄り、ハンモックの上へとぽんと飛び乗る。
 そのまま横になってしまう家庭教師を見て、綱吉は溜息をつき、自分も寝ようと携帯電話をショルダーバッグのポケットに押し込んだ。そして、部屋の照明を消し、ベッドへともぐりこむ。
 だが、すぐには目を閉じずに天井を見つめたまま、綱吉は隣りのハンモックへと語りかけた。
「リボーン。俺と獄寺君がしてるのは、多分、綱渡りみたいなものなんだろうね。いつ落ちるか分からない……」
 細い細い一本のロープ。その下にあるのは、暗黒の奈落だ。
 だが、そう分かっていても、ロープを渡ろうとする足を止められない。
「でも、失敗する気はないから。──俺にとって、獄寺君は特別なんだよ。他の守護者との誰とも違う」
 恋愛とはまた別の次元で、綱吉のために全てを投げ出してしまえる獄寺は、六人いる守護者の中でただ一人、綱吉が何のためらいもなく共に修羅の道を歩むことを選べる存在だった。
 彼の忠誠と献身は自分のものであり、自分の信頼は彼のものだと言い切れる。
 それに対し、他の五人は違うのだ。それぞれの生活があり、彼らは綱吉を心の中心に据えたりはしない。
 だから、綱吉も迷わずにはいられない。
 彼らに何ができるのか。あるいは何一つ、するべきではないのか。
 けれど、獄寺にはそんな迷いは必要ない。
 彼に関してだけは、自分ができることも、すべきことも分かっているから。
「だから、絶対に失敗はしない。絶対に……」
 失うような真似はしない。
 だから、と綱吉は声には出さず、祈るように思う。
「──失くしたくないもんがあるんなら、勝手に頑張るんだな。俺の知ったことじゃねえ」
「……うん」
 薄闇の中に響いた、幼い声に不釣合いな冷たく硬質な口調にうなずきを返して、綱吉は目を閉じる。

 ───だから、リボーン。
 お願いだから、俺たちを引き離さないで。
 失くさないためなら、どんなことでもするから。
 だから。
 心の一番大切な場所で彼を想うことを、どうか許して。

to be continued...






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