刺さったままの刺の数。





夢見る頃を過ぎても   −第二章−

3.花闇







「───っ」
 背筋を撫で下ろした指先の感覚に、思わず全身が跳ねる。だが、華奢な躰を横抱きに支えている腕は逃げることを許してくれない。
 むしろ、反応を面白がるかのように、細い腰の窪みをゆっくりと手指が這い回る。
「やぁ…っ……」
 震えてかすれた細い悲鳴を上げても、動きは止まらない。
 ただでさえ過敏になりすぎて、たとえ触れられていなくても震えが止まらないような肌を執拗に撫でられ、全身が総毛立つような感覚を太公望は必死にこらえる。
 それが快感だとは認識できないほど、指の優しい動きが引き出す感覚は強烈だった。
「……っ…あ……よう…ぜん……っ」
 せわしない呼吸と共に零れるあえぎをどうにか抑えながら、意地の悪い指の持ち主の名を何とか唇に乗せる。
「…も…う……止め………あっ…!」
 だが、制止を訴える端から、背筋から細腰にかけてを弄んでいた指がするりと大腿まで滑って、太公望はかすれた泣き声をあげる。
 脇腹や、やわらかな双丘、ほっそりとした脚までをごく軽く触れてくる指先に這い回られて、耐え切れずに太公望は感覚から逃れようと慄える躰でもがいた。
 でも、それが許されたのは、ほんのわずかな間だけで。
「────っっ!!」
 すでに堅くなっていた胸の尖りを軽く噛まれて、思わず全身がこわばる。
 そのまま薄紅に染まった小さな尖りに舌先と歯で刺激を与え続けられ、堅く閉じた目尻からにじんでいた涙が零れ落ちた。
 咄嗟に相手の衣服を掴んだ手が震えて、力が入らない。
 腰周辺に与えられる全身が総毛立つような感覚と、胸元に与えられる、躰の裡に鋭く甘やかな切なさをもたらす感覚に鼓動が激しくなる一方で、ひどく息苦しい。
 この甘い拷問からもう逃れたくて仕方がないのに、手も足も萎えたように震えるばかりで、言うことを聞いてくれなかった。
 それどころか、神経系がどこか狂ってしまったかのように、与えられる感覚のすべてに反応している。
 胸元を舌先で弄ばれて、泣きたくなるような甘い疼きが体内を駆け巡っていく。歯でやわらかく擦られ、甘噛みされると更に鋭い感覚が突き抜ける。
「ゃ…っ、…あ……っん…」
 背筋や腰をさまよう指のせいで、肌は大気に触れているだけでも反応してしまうほど過敏になっていて。
 意地悪で執拗な愛撫に、どこまでも熱と疼きが上昇してゆく。
 本当に気がおかしくなりそうだった。
「……よ…ぅ…ぜ……っ…」
 満足に息も継げなくなりながら、懸命にその名前を呼ぶ。
 と、
「……辛いですか?」
 耳元で低い声が、ささやいた。
 けれど、自分がこういう目に遭わせながら何を言っている、とか、そんなことを訪ねるくらいなら手を止めろ、とか、そんな口答えはもう、とてもではないがする余裕も気力もなくて、必死に涙に霞んだ目を開き、かすかにうなずいてみせる。
 でも。
「もう少しだけ、我慢して下さい」
 にじんだ視界の中で、楊ゼンは微笑みもせず、ただ熱を帯びた瞳で見つめたまま、そう告げた。
 そして、太公望が停止寸前の思考で、その言葉の意味を捉えるよりも早く、大腿の内側に触れていた指が、肌を滑って最奥まで届く。
「───!!」
 びくりと大きく背筋をのけぞらせ、ゆっくりと双丘の狭間を行き来する指の感覚に、太公望は唇を噛んできつく目を閉じた。
 つい今さっきまでの、産毛を撫でてゆく感覚とは全然違う。
 しとどに濡れた指の感触。
「やぁ……っ…」
 反応を思い知らせるようなぬめった指の動きに、躰が呼び覚まされてゆく。
 煽られ、高められ続けていた熱と疼きが、明確な形を持った解放を求めて走り出す。
 何かを期待する躰と、そんな自分の躰に怯え、戸惑う心がぎりぎりの限界に達した時。
「───あっ!」
 周辺をさまよっていた指先が内部に滑り込んだ。
「──っ…ん……」
 焦れきっていた入り口は、何の抵抗もなく楊ゼンの指を受け入れる。
 浅く指先を出し入れされる感覚に、躰の奥が反応するのを感じて、太公望は耐え切れないような気分になった。
 愛されることに慣れた自分の躰がひどく浅ましく思えて、いたたまれなさに顔を背けて唇をかむ。
 けれど、血がにじむ一歩手前まできつく噛み締めていた唇に、温かい感触が触れて。
 潤んだ瞳を開けると、見下ろす楊ゼンのまなざしとぶつかった。
 瞳の甘く優しい色合いにぼんやりと見惚れているうちに、触れていた楊ゼンの指が、そっと噛み締めていた唇を解かせる。
「恥じる必要も我慢する必要もありませんよ。僕があなたを愛するのを感じるままに、愛し返してくれたらいいんです」
 甘やかな低い声でささやかれたその言葉を、ぼんやりと聞いていた太公望は、やや間をおいて意味を理解し、赤くなった。
「───たわけ…」
 乱れたままの呼吸とかすれかけた声で、どうにかそれだけを言い返し、潤んで涙の溜まった瞳で睨みつけると、楊ゼンは小さく笑った。
「愛してますよ」
 そう言って、顔を寄せ唇を重ねてくる。
 挿し入れられたままだった指が再び動き出す感覚と口接けの甘さに、太公望の思考はたやすくかすめ取られた。
 何度も繰り返される深い口接けに意識を奪われているうちに、内部の指が増やされる。
 焦らされ、十分に濡れたそこに痛みは感じなかったが、押し広げられる感覚にびくりと震えが走った。だが、楊ゼンは逃れることを許さず、より深く舌を絡ませてくる。
 濃厚な口接けに比べて、指の動きは緩慢だった。
 慎重すぎるほどの動きで、より深い快楽を引きずり出そうと、ゆっくり内壁を刺激する。
「……っ…んっ…」
 その巧妙な手管になすがままに煽られて、口接けから解放された太公望は切なげに眉を寄せ、乱れた呼吸を詰まらせた。
「……楊…ぜ…っ……」
 内部を探る指は、鈍い動きで決定的な刺激を与えてくれない。
 その上。
 事が始まってからもう随分時間が経つのに、楊ゼンはまだ殆ど中心には触れていなかった。
 羽で撫でるような優しい指の動きで全身をくまなく触れ、感覚を煽り立てるだけ煽り立てておきながら、そのくせ核心の部分は避けて、決して解放には導いてくれないのだ。
「…っ……もぅ…っ」
 高められすぎた躰が泣き出したくなるほど切なくて、もう、これ以上は耐え切れなかった。
 過敏になりすぎた全身が慄えて、まともに声も出せない。
 限界を訴える瞳から、涙が零れ落ちてゆく。
「呂望……」
 その涙を、そっと楊ゼンが唇でぬぐってくれた。
 それと同時に、ゆっくりと内部から指が引き出されて、背筋に震えが走る。
 そんな太公望に軽く口接けて、楊ゼンは膝の上に横抱きにしていた華奢な躰の向きを変える。
「もう少し脚を広げて……僕が支えてますから……」
 とろけきった肉体と思考では、言われるままに従うしかなくて。
「───っ…あ、ぁ……んっ」
 寝台の上に座した楊ゼンに背後から支えられながら、躰の奥深くまでゆっくり押し開かれてゆく感覚に、太公望はきつく瞳を閉じる。
 限界まで追い詰められた躰は一つになる痛みをさほど感じなかったが、それでも焦らすばかりだった指とは比べ物にならない熱さと大きさに、張り詰めた全身がひどく慄えて、楊ゼンが支えてくれていなければ崩れてしまいそうだった。
「───大丈夫ですか……?」
 ようやくすべてを受け入れて、慄えながら小さく息をついた太公望の髪を、そっと楊ゼンがいとおしむように撫でる。
 抱きしめられた背中に感じる楊ゼンの鼓動もいつもより速く、呼吸もわずかに乱れている事に気付いて、太公望はかすかにうなずきながら目を閉じた。
 だが、うなじをさまよう楊ゼンの唇の感触と共に、一時忘れていた何かが躰の奥で蠢き出す。
 既に限界を迎えていた躰だから、熱も疼きも、わずかに遠ざかることはあっても消え去りはしない。それどころか、躰を押し開かれている圧迫感がそのまま甘い疼きへとすりかわり、乱れた浅い呼吸さえもが微妙な刺激となって、焦れきった躰を苦しめる。
 そして、その変化に楊ゼンが気付かないはずもなかった。
 ごく軽かった唇の感触が熱っぽくなり、手指が華奢な躰の線をたどり始める。
「……ぁ…んっ」
 唇がうなじから肩、肩甲骨の辺り一面に熱を刻み、右手は上腕や胸元、左手は腰骨から細い脚にかけてをさまよう。
 それだけなら先ほどまでと殆ど同じだが、今、躰の奥深くには楊ゼンの熱が穿たれていて、その感覚が引きずり出される切なさを何倍も鋭いものに変えてしまう。
「───やぁっ!」
 胸の小さな尖りを硬い指先でいじられて、太公望は甘く引きつった悲鳴を上げた。
 その瞬間、楊ゼンが小さく息を詰めたことにも気付かないまま、内側からあぶられるような熱に耐えかねて躰をよじる。
「い…やっ……ぁ…」
 焦れて、もっと強い刺激を求めている躰を、これ以上押さえ込んで入られない。
 切なくて苦しくて、どうにかなってしまいそうだった。
 そんな太公望に楊ゼンは薄く微笑して、華奢な躰を抱え直す。
「────っっ!!」
 ゆるく突き上げられて、太公望は声にならない悲鳴を上げる。
 焦らされ続けていた分、感覚は鮮やかなまでに深く鋭くて、溶け合っている部分からとろけてしまいそうな甘さが全身に広がってゆく。
 楊ゼンの動きはゆるやかだったが、それでも過敏になりすぎた躰には甘すぎる責め苦だった。
 何もかも、ほんのわずかな刺激までが快楽に繋がり、全身を焼き尽くしてゆく熱に狂いそうになる。
「……ひぁっ、……あぁ…んっ…」
 求めていた以上の感覚を注ぎ込まれて、感じているのが快楽なのか苦痛なのか、判らない。
 声を上げて泣き出してしまいたいほどの切なさが、涸れることのない泉のように躰の一番深いところから湧き上がって躰中を満たし、溢れ出してゆく。
 いつもより深く躰を貫かれ、突き上げられる快感に、手も足も指先まで甘く痺れて、指一本、自分の意思では動かせなかった。
「──っ、やだぁ…っ……そ…こっ…」
 躰の奥のある一点を刺激されて、どうにもならない切なさが全身を駆け抜ける。
 かすれた悲鳴を上げて身をよじるけれど、許されるはずもなくて。
 それどころか繰り返し、その箇所を熱いものに擦り上げられ、息も止まるような快楽に太公望は翻弄された。
「…っ……ぁあ…っん…」
 深く刻み込まれる律動に合わせて、知らず躰が揺れる。
 きつく閉じた目から透き通った涙が零れ落ち、すすり泣きと化した嬌声も、もう抑え切れない。
「楊…ぜ…んっ……よ…うぜん…っ」
 うわずった泣き声が、青年の名を繰り返し呼ぶ。
「呂望……」
 けれど、楊ゼンはそれだけでは終わらせなかった。
 左手で胸元をいじりながら、右手をこれまで決して触れなかった太公望の中心に伸ばす。
「────…っ!!」
 幼い官能の徴に指を絡められ、思いがけない刺激に太公望は涙に濡れた目を大きく見開いた。が、その瞳には何も映ってはいなくて。
 過敏な三ヶ所を同時に愛撫され、追い詰められた躰はたやすく許容量の限界を通り越してしまい、呼吸もならないほど深い快楽に、太公望はもう嬌声を上げることもできなくなる。
 そして、そのまま官能の炎に焼き尽くされて。
 声を上げることもできずに昇りつめ、崩れ落ちるように力を失った躰は背後の楊ゼンに抱きとめられた。
 激しい絶頂の余韻を伝えるように、その熱を帯びた躰はひどくおののいていて、乱れた浅い呼吸にはすすり泣くような声が混じり、すべやかな頬を涙が零れ落ちてゆく。
 そんな太公望をきつく抱きしめ、楊ゼンは宥めるように汗に濡れた髪を撫でる。
 その優しい感触に、太公望は程無くぼんやりと目を開いた。
「……楊…ゼン」
 名を呼んだ声はかすれて、ほとんど音声をなしていない。
 それに気付いて、楊ゼンは寝台脇の小卓に手を伸ばし、水差しから白磁の茶碗に水を注いだ。
 そして、己の口に水を含み、太公望の顎をそっと持ち上げて唇を重ねる。太公望は目を閉じて、口移しで与えられる水を受け止めた。
「──もっと飲みますか?」
 ささやかれた声に、薄く目を開けてうなずく。
 乱れきった呼吸と上げ続けた嬌声のせいで、長距離を走った後のようにからからになった喉を冷たい水が滑り落ちていくのは、まさに甘露だった。
 いまだ熱の引かない身体にも、水の冷たさが心地いい。
 再び与えられる水を飲み下し、もっとねだるように舌を伸ばす。すると、すぐさま楊ゼンの舌に甘く絡め取られた。
 互いの口腔も水に冷やされ、保の冷たい感触が心地好かったのに、あっという間に熱は戻ってきてしまう。でも、その熱がひどく甘くて、肩越しに口接けをかわす無理な体勢のことも忘れ、今度はその甘さに夢中になる。
 深く絡み合う口接けに煽られるように、躰もまた、解放され失われたはずの熱を思い出し始めた。
「───っ…」
 ふいに胸元を刺激されて、太公望は背筋を震わせる。
 けれど、口接けも意地の悪い指先の動きも止まらない。
 呼び覚まされる切なさに身をよじろうとしても、まだ躰を繋いだままでは、それさえも叶わなかった。
 注がれる感覚に躰が震えだすのを隠し切れなくなった頃、ようやく口接けから解放されたが、酸素を求めて喘ぐまもなく、やわらかな耳朶を軽く噛まれて息が詰まる。
 左右の胸の尖りをいじる指を何とか制止しようと上げた手も震えて、楊ゼンの腕に爪を立てるのが精一杯だった。
 躰の奥にまだくすぶっていた燠火(おきび)を煽られて、再び熱が天井知らずに上昇してゆく。
「……ん…っ」
 最初の解放から間のない躰は、ひどく過敏で反応も早かった。抑え切れない甘い声が、乱れた呼吸に混じり始める。
 体勢が不安定で、すがるものがないのがひどく辛くて涙がにじむ。
「───ぁ…!!」
 肌の上を伝い降りた指に、既に反応しかけていた中心を触れられて、太公望はひどく慄えた。
 あまりにも直接的な刺激が、いまだ躰の奥まで穿たれている熱とあいまって、どうしようもない疼きを引きずり出してゆく。
「やぁ…っ……」
 弱いところを知り尽くした指に翻弄されて、自分の声がすすり泣くように甘やかに細くなっていることも、太公望はもう自覚できなかった。
「…っ…やだ……も…っ…」
 容赦なく熱を煽られて、躰の奥の切ない疼きをこらえきれなくなり、きつく唇を噛み締めると。
 ふと楊ゼンが、意地の悪い動きをしていた手を引いた。
「……っ…?」
「前に手をついて……」
 涙でにじんだ瞳をぼんやり開き、楊ゼンを見上げようとした太公望の耳元で甘く響く声がささやきかける。
 霞みがかった思考でも彼が何を求めているのかは朧気に理解できて、太公望は乱れきった呼吸のまま、震える両手を寝台についた。
 が、腰を高く持ち上げられて、力の入らない腕で上半身を支えるのはひどく辛くて肘がくずおれそうになる。
 けれど。
「───愛してます」
 耳元でささやかれた声と言葉の甘さが、その辛さを忘れさせる。
 躰とは別に、胸の奥に広がる切なさにきつく目を閉じた時。
 ゆっくりと楊ゼンが動き始めた。
「──っ、──あぁ…っ!」
 体勢が変わったために、与えられる刺激は先程とは比べ物にならない。
 その上、既に一度熱を解放している分、感じ取る快感もより大きくて、またたく間に華奢な全身が慄え出す。
「や…っ……やだ…ぁ……んっ…」
 ほとんど泣き声と化した細い悲鳴が、快楽におののく唇から絶え間なく零れる。
 敷布を握り締めていた両手ががくがくと震え、こらえきれずに肘が崩れ落ちた。
 熱い楔が深く浅く、緩急をつけて躰の奥深くを繰り返し抉る感覚に、思考が白く灼け付き、眩暈さえ感じる。
 躰中のそこかしこから溶けて行ってしまうような心地がして、その辛いほどの切なさに、太公望は敷布を引き裂きそうなほど強く爪を立てた。
「…ぁ…やっ…、もぅっ…やめ…てぇっ……」
 敷布に額を擦り付けるようにして、すすり泣きながらうわずった細い嬌声を上げる太公望の背筋を、更に楊ゼンは指で愛撫する。
「───ぁ…っ!」
 痛いほど過敏になっている肌を嬲られる感覚に、きつく閉じた太公望の目尻から涙が零れ落ちては敷布に吸い込まれてゆく。
 膝を立てている脚がひどく震えて、楊ゼンに腰を支えられていなければ崩れ落ちてしまいそうだった。
「……っ…よ……ぜん…っ…」
 触れ合っている部分から生み出される熱が甘すぎて、躰中が灼けるように熱い。
 気が狂ってしまう、と太公望は白く混濁した意識の奥底で感じる。
 これ以上絶えられないと思うのに、更に高みへと煽り立てられ、追い詰められて、辛すぎる甘さに泣き叫ぶしかない。
「ひぁっ……や…ぁんっ…っ…」
 どこまで昇れば果てがあるのか分からなくて、いっそのこと一思いに殺して欲しいとさえ、麻痺した思考で思う。
 だが、引きずり出される恐ろしいほど甘い感覚に際限は無く。
「──ぁ…、やぁ…───っっ!!」
 限界だと思った躰の奥に、更に大きな熱が込み上げてきて太公望は悲鳴を上げる。
 そのままどこまでも昇りつめてゆく感覚に耐え切れず、神経が灼き切れるような錯覚にすべての意識をさらわれて。
「───っ……あ…ぁ……」
 そして、白い花が落ちるように寝台に崩れ落ちた太公望の震える唇から、かすれた嗚咽のような細い声が零れる。
 苦悶するように眉をしかめ、切なげに閉じた目から零れる澄んだ涙が止まらない。
 ───だが、まだ終わってはいなかった。
 ややあって、太公望の瞳がぼんやり焦点を取り戻すと、楊ゼンはゆっくりと内部からいまだ熱を解放していない自身を引き抜く。
「───っ…」
 その感覚に太公望は息を詰める。が、背筋を走る怖気にも似た感覚が治まる前に、楊ゼンの腕によってそっと躰を仰向けに返された。
 何かと涙で潤んだ瞳を開けた太公望は、乱れきった衣服を脱ぎ捨て、再び自分の上に覆い被さってきた楊ゼンを認めて、思わずぞくりと躰を震わせる。
「やだ…っ!」
 力の萎え切った細い足を押し開かれて、太公望はかすれた悲鳴を上げた。
 もう今夜は限界だった。
 常軌を逸して感覚を高められ、立て続けに昇りつめさせられた体は慄えが止まらないほど過敏になっている。これ以上の刺激を受けたら、本当に気が狂ってしまいそうだった。
「楊ゼン、お願いだから……!!」
 だが、いつもならこんな無理は決して強いない楊ゼンが、今夜は何故か太公望の必死の哀願に耳を貸そうともしない。
 弱々しい抗いなどものともせず、そのまま強引にやわらかな内部に押し入ってきた猛々しい熱に、太公望はきつく目を閉じる。
「や…だ……もう…っ…」
 更に奥深くまで進もうとする圧迫感に全身がひどく震えて、すがるよすがを求めた細い手も、敷布を掴むことさえできない。
 抗うこともできないまま、再び最奥まで熱を穿たれ、けれど、呼吸さえままならない苦しさとは裏腹に、過敏になりすぎた体は早くも新たな疼きを感じ始めていて。
 涙が止まることを忘れたように、後から後から零れ落ちる。
「呂望……」
 それでも、名前を呼ばれて、太公望は懸命に濡れた瞳を開く。
「…楊…ゼン……」
 すすり泣くような吐息交じりの声はひどく震えていて、それ以上の言葉を紡げない。
 そんな太公望を見つめ、楊ゼンはそっと唇で頬を伝う涙をぬぐった。
「すみません……もう少しだけ……」
 そう言う楊ゼンの表情も、何かの感情をこらえているかのようで、ひどく切なげにも苦しげにも見えた。
 その表情を見上げて、太公望は泣き濡れた瞳を揺らし、そして重ねられた唇の感触に目を閉じる。
 忍び入ってきた舌は、言葉にできない想いを伝えようとするかのように激しく太公望を翻弄した。
 何度も口接けを繰り返し、ようやく唇が離れて息苦しさに喘ぐまもなく深く突き上げられて、太公望はかすれた悲鳴を上げる。
「───っ、やぁ…っ…」
 たちまちのうちに限界に近い高みまで追い上げられて、気が狂いそうな切なさに泣くしかない。
 これまでで一番深い快楽に、思考も自制も粉々に砕かれて、もう何も残っていない躰の奥に、耐えがたいほどの楊ゼンの熱だけが刻み込まれてゆく。
 際限なく注がれ、引きずり出される感覚が強烈過ぎて、意識を手放すことさえできなかった。
「──っ…ぁ……も…うっ……駄目…ッ…」
 息も止まるような快楽に、自分が何を口走っているのかも分からないまま、太公望はすすり泣き混じりの嬌声を上げ続ける。
 いつまでも続く、絶頂感のようなぎりぎりの切なさがあまりにも辛くて。
 すがるものを求めて伸ばした指先に触れた楊ゼンの背中に、きつく爪を立てる。
「も…ぉ……いやぁ…っ…!」
 襲い来る甘さに眩暈を感じながら、それでも必死に涙で霞む瞳を開いて、自分を抱いている青年を見上げ、
「よぅ…ぜん…っ……お…願い……っ」
 死んでしまう、と全身を白く灼き尽くすような感覚に泣きながら、甘やかな拷問からの解放を哀願する。
 心臓は限界の速さで波打ち、快楽の深さに呼吸もままならない。
 繋がっている部分から溶け崩れていってしまわないのが不思議なほど、躰も心も、何もかもがもう限界だった。
「許…して…っ……もぅ……っ」
 甘すぎる感覚の苦しさから逃れようと、力なく首を振りながらそう訴えたのを最後に、あとは細くすすり泣く声ばかりで意味のある音節にはならない。
「──呂望…っ」
 常になく呼吸を乱した声で名前を呼ばれても、もう耳には届かない。
「───っ…あ……、ひぁ…っ…ぁん……っ」
 とめどなく注がれる許容量を超えた快楽を抗うすべもなく受け入れ、正気を手放して甘やかに泣きながら、太公望は上ずってかすれた嬌声を途切れ途切れに紡ぎ出す。
 そのまま、どこまでも果てのない高みへと引きずり上げられ。
 やがて。
 躰の最奥に灼熱のほとばしりを注ぎ込まれて。
 張り詰めた糸が切れるように、太公望の意識は真白な奈落の底へ落ちていった。








「───ぁ…」
 かすれた声を漏らしながら、呂望はぼんやりと目を開いた。
「呂望?」
 けれど、名前を呼んでも涙に濡れたままの瞳は、すぐには焦点を結ばない。汗に濡れて額に張り付いたままの髪をそっとかき上げてやると、ようやくこちらを見つめて、二、三度まばたきする。
「……よう…ぜん……?」
 名を呼ぶ声は可愛そうなほどかすれて、頼りなかった。
 もう幾分時間が過ぎたというのに、まだ余韻が消え去らないのか、華奢な躰は乱れがちな浅い呼吸に合わせて小さくおののいている。
 そんな呂望を見つめ、余計な刺激を与えないように気をつけながら、涙の残る頬を手のひらで包むように触れる。
「すみません……。随分と無理をさせてしまって……」
 低く謝罪すると、呂望はわずかに瞳を揺らした。が、見上げてくる切なげなまなざしは、決して非難するものではなくて。
 そのことにむしろ痛みを覚えながら、楊ゼンは静かに続けた。
「眠って下さい。もう何もしませんから……」
 しんと響く声に、ほんのかすかにうなずいて呂望は目を閉じる。
 だが、楊ゼンが触れていた頬からそっと手を引こうとした途端、再び瞼が開いた。
 はっとするほど深い色の瞳が、傍らに座している楊ゼンを見上げ、細い手がわずかに上がって、頬に触れている楊ゼンの手を捕える。
「呂望……」
 掴むというより添えるといった方がいいほど、細い手の力は弱々しくて、楊ゼンは、一瞬、言葉を見失う。
 もう声を出すのも辛いのか、呂望は何も言わなかった。けれど、離れないで欲しいという想いは、痛いほどに伝わってきて。
 声を出すことも身動きすることもできなくなるほど責め苛んだのに、それでも尚、自分の存在を求めようとする──そんな呂望の仕草に、込み上げた痛いほどの切なさを、楊ゼンは深く息をすることでどうにかやり過ごす。
 そして、そっと小さな手を外させ、互いの指を絡めるように手のひらを合わせて握りしめた。
「──大丈夫。僕はどこにも行きませんから……」
 だが、そうささやきかけても。
 まだ呂望は目を閉じようとはしなかった。
 何も言わないまま、ただ不安げな瞳で見つめてくる。
 その瞳が何を思っているのか、楊ゼンには読めなかった。けれど、何とかその不安を和らげてやりたくて、少し考えてから、
「ちょっとすみません」
 繋いだ手を一旦解き、華奢な躰をやわらかな毛布ごと抱き上げて、壁に背を預けた自分の胸に寄りかからせる。
「朝までこうしていて上げますから、眠って下さい」
 そして優しくささやきかけると、目をみはって楊ゼンを見上げた呂望は二、三度深い色の瞳をまばたかせた。
 相変わらず声は出なかったが、大きな瞳から不安そうな色は薄れてゆき、代わりに、かすかな切なさが浮かび上がって揺れる。
 そして、呂望は無言のまま、ゆっくりと楊ゼンの胸に頭を預けて目を閉じた。
 温もりを求めるようにすり寄ってくる呂望が切なくて、やわらかな髪を梳いているうちに、やがて浅かった呼吸が深く静かな寝息へと変わる。
 抱きしめたその重みがひどく胸に痛くて、楊ゼンは唇を噛んだ。

 ───これほど無理をさせる必要などなかった。

 もう止めてくれと何度も哀願した細い泣き声が、まだ耳に生々しく残っている。
 抱きながらも、限界を超えた呂望の辛さは伝わってきていた。けれど、それでも手加減してやれなかった。
 ……不安、だったのだ。
 どれほど呂望が自分を求め、そして自分の求めに応えてくれても。
 甘くすすり泣く声が呼ぶ『楊ゼン』は、一体、誰なのか。
 細い腕がすがっている相手は、本当に今の自分なのか。
 抱いているうちに分からなくなったのだ。
 腕の中で乱れ泣く呂望が、本当は誰に抱かれているのか分からなくて。
 彼が求めているのが自分だという証しが欲しくて、焼け付くような飢えを抑え切れないままに華奢な躰を責め苛み、涙を求めた。
 悦楽に泣き狂わせ、自分という存在を彼の中に深く刻み込んでやりたかった。
 人の躰は苦痛は忘れても、一度知った快楽は決して忘れないから。
 呂望が、自分を求め続けてくれるように。

 ───自分という存在を、忘れないように。

 軋むような胸の痛みを噛み締め、楊ゼンは腕の中で眠る人を見つめる。
「僕は、あなたの何なのですか……?」
 呂望が自分を愛してくれていることは感じる。
 ずっと昔から想っていてくれたのだろうと、そう信じられる呂望の切ないまなざし。
 そこにだけは、嘘偽りの陰はない。
 太乙真人の言葉を信じるのならば、かつて自分たちは本当に惹かれあっていたのだという。
 それこそ、種族の差も越えて。
 けれど、二人の関係にブランクがあったことは肌で感じるし、呂望は過去の関係については口を閉ざしたままだ。
 ───何が、あった?
 想い合っていたはずの二人が離れなければならなかった理由。
 あんな瞳で自分を見つめる呂望が──これほどまでに自分を求めてくる呂望が、自ら離れていかなければならなかった理由が、失われた過去に秘められている。
 呂望が決して語ろうとはしないそれが、ひどく気になってならないのだ。
 ───今の自分と過去の自分。
 呂望が過去に関することを話さないということは、つまり同一人物であっても、記憶がないという一点で、今の『楊ゼン』と過去の『楊ゼン』には決定的に違っている何かがあるのだろう。
 そして、その『何か』はおそらく、今の『楊ゼン』は二人が離れた理由を──過去を知らない、ということだ。
 だからこそ。
 別離の理由を忘れてしまった──つまり、二人の間にあった何かが一時的に消滅してしまったからこそ、一度は離れたはずの『楊ゼン』を呂望は受け入れたのだとしたら。
 ───記憶が戻ったらどうなるのだろう。
 今の『楊ゼン』と過去の『楊ゼン』が重なったら。
 呂望は。
 自分は。
 どうするのだろう。
 果たして、今のまま傍にいられるのか。
 再び、離れることを選ぶのではないのか。
 それを思うと、足元が崩れていくような感覚に襲われるのだ。
 己らが住んでいるのは、実は波にさらわれ、崩れゆく砂の城であるような、そんな心許なさが胸の奥に巣食い、闇を広げつつある。
 一体、閉ざされた過去に何があるのか。
 自分は何を忘れてしまったのか。
 考えれば考えるほど、不安や焦燥ばかりが募ってゆく。
 ───だから、今日の昼間、太乙真人に問い掛けたのだ。

 彼は、僕が記憶を取り戻すことを望んでいると思いますか、と……。








「そうだね──…」
 梢に揺れる花海堂の薄紅を見つめて、太乙真人は言った。
「そんなことを訊くってことは……あの子が記憶の回復を望んでいないと君は感じるのかい?」
「よく……分からないんです」
 楊ゼンは正直に答える。今は真実をごまかすことに何の意味もなかった。
「彼は記憶が戻っても戻らなくてもいいと言いながら、決して自分から何も過去に関わることを話そうとはしません。だから、もしかしたら本当は、過去を思い出して欲しくないのかもしれないと……。
 ──けれど、時々……今の僕ではない僕を探すような目を、彼はするんです」
「──そう…」
 どこか遠いまなざしで太乙真人はうなずき、
「あの子は難しい子だからね……」
 そのまましばらく淡い色の空を見つめた。
 やわらかな風が、音もなく二人の間を通り抜けてゆく。
「───でもね、いずれ君の記憶は戻るんだよ」
 だが、ほどなくゆっくりと視線を下ろし、楊ゼンを振り返ってそう告げた、太乙真人の口調はひどく冷めていた。
 まるで、宇宙の心理を口にするように淡々と。
 どれほど天動説を望んだところで、地球は所詮、太陽の周囲をめぐり続けるさだめから逃れられないのだとでも言うように。
「いくら嫌だと言ったところでね。そのことは、あの子も最初から承知してる。──それとも君は、記憶が戻らないよう自分に暗示でもかけるかい?」
 その声は静かだったが、奥の方にはかすかにやるせなさが響いていて。
 そのわずかな響きに、呂望の味方だと自称してはばからない彼もまた、内心複雑な思いを抱いていることに楊ゼンは気付く。
 思えば、当たり前のことかもしれない。
 呂望は悲しみも辛さもすべて心の奥に押し込んで、自分は平気だと嘘ばかりつく。
 そんな彼を長年、間近に見続けていれば、幾許かのやりきれなさを味わって当然だった。
 だが、そんな楊ゼンの思いに気づいているのかいないのか、
「あの子は全部、承知してる。──だから、いいんだよ」
 太乙真人は淡い雲を見つめて、静かに繰り返す。
 そして、何がいいのか、と楊ゼンが問い返すよりも早く、こちらを振り返った。
 その研究者然とした怜悧な表情が、不意に冷淡にさえ見えて。
「それよりも、君は自分のことを考えた方がいいだろうね」
「──どういう意味です?」
 警戒心を誘われた楊ゼンは低く問い返す。
 けれど、太乙真人の表情は変わらなかった。
「この間、言いそびれたことなんだけどね。君の記憶はいずれ戻る。それは断言するよ。でも、記憶を取り戻す際に問題が起こりうる可能性は有るんだ」
 淡々と語る太乙真人の漆黒の瞳は、綺麗に感情を消していて内心を窺わせない。
「記憶喪失、つまり逆行性健忘というのは確かに珍しいけれど、結構、症例はある。ほんの数日間の出来事を忘れる軽症のものから、言語や箸持ち方までを忘れてしまう重症のもの、特定の人物や事柄に関する記憶だけを忘れてしまう心因性のものまでね。
 原因もパターンも様々だし、また軽症だからといって治るとも限らない。ケースバイケースで、治療法などないに等しい。けれどね、記憶の戻り方だけは、二通りに分類できるんだ。
 一つは、記憶を失っていた間の記憶(メモリ)も保持したまま過去を思い出すパターン。この場合、患者の記憶に空白(ブランク)はなくなる。
 もう一つは、失っていた記憶を取り戻す代わりに、別の──たとえば記憶を失っていた間の記憶を失うパターン。この場合は新たに記憶層に空白が生じるわけだから、これで治ったとは言えない。記憶は不完全なままだ」
 ここまで聞けば、彼が何を言いたいのかは理解できた。
「君は今現在の記憶を保ったまま、過去を取り戻せるかい?」
 どこか挑発するような口調で、太乙真人は言った。
「──それは僕が自分で選べることではないでしょう」
「そうだけどね。事によっては、君はこの記憶を失っている間に見た、あの子の真実を忘れてしまう可能性もあるんだよ」
 ───真実。
 その言葉に楊ゼンは何か引っかかるものを感じた。が、意味を深く考える前に、太乙真人の言葉が邪魔をする。
「君がどちらのパターンで記憶を取り戻すか、確率は五分五分。どうなるだろうね?」
「──忘れませんよ」
 低くきっぱりと楊ゼンは言った。
「どうやって? 何の保障もないのに」
「あなたは、僕の過去の記憶は忘れたままでいられるほど軽いものではないとおっしゃった。だから、必ず記憶は戻ると。
 ならば、今の記憶も決して忘れはしません。何が起ころうと、完全に忘れ去れるような記憶じゃない」
 感情の見えない漆黒の瞳を正面から見返して、楊ゼンは告げる。
 その強いまなざしを静かに受け止めていた太乙真人は、やがてすいと視線を逸らし、
「──そう」
 淡い色の空に揺れる薄紅の花にまなざしを向けて、小さな溜息をもらした。
「君がそう言うのなら……私が口出ししなきゃならないことは、もう一つもないよ」
「太乙真人さま?」
 意図がつかめず、訝しげに名を呼んだ楊ゼンの声にも気付かぬかのように、太乙真人はそよ風に揺れる花を目で追いながら、言葉を続ける。
 楊ゼンに、というよりも、むしろ自分自身に言い聞かせるように。
「記憶があろうとなかろうと、君は君なんだ。逸だって彼に対しては真剣だったし、諦めもしなかった。だからこそ、あの子も……」
 遠いまなざしで呟くように言い。
 太乙真人はゆっくりと楊ゼンを振り返った。
 漆黒の瞳が、まっすぐに楊ゼンを見つめる。
「───呂望を頼むよ、楊ゼン。あの子には結局、君しかいないんだ」
 そう言った瞳を。
 知っている、と楊ゼンは思った。
 作為も何もなく、一心に誰かを思う瞳。
 その感情に名前はない。
 既に友情でも愛情でもなく、それらを越えた真摯な祈り。
 この瞳を知っている。
 けれど、いつどこで見たのか思い出せない。
 ただ、胸が灼けつくような何かが押し寄せてくる。
「───…」
 太乙真人に何かを問いかけたいと思った。
 けれど、言葉は何も出てこず、彼もまた、それ以上何も言わず。
 結局、そのまま会話は終わった。







 改めて腕の中を見つめれば、呂望は静かに眠り続けている。その温もりが胸に痛い。
「あなたは……何を望んでいるんですか?」
 太乙真人はおそらく、呂望の一番の理解者だ。だから、何気ない彼の言葉は、実は一つ一つが大きな意味を持っているのだろう。
 そして、彼が自分にある種の期待を抱いていることも感じる。
 けれどもう、素直にそれを受け止められないのだ。
 呂望を想う気持ちは真実だが、それだけではどうにもならないものが自分たちの間にはある。
 気付かなければ良かったのかもしれない。
 おそらく、呂望も気付かれたくはなかっただろう。
 だが、純粋に心まで重ねて抱き合えば、じかに肌から互いの感情が伝わってしまう。
 愛しさも切なさも、哀しさも。
 何一つ、隠せはしない。
 そして。
 抱きしめた腕に感じる呂望の心は。

 ───いつでも激しく慟哭していた。

 声も涙も押し殺したまま、呂望はまるで小さな子供のように泣き続けている。
 何がそんなに悲しいのか、どれほど強く抱きしめてやっても、泣きじゃくる心は止まらなくて。
 ひどく辛くなる。
 時には、今夜のように自分を抑え切れなくなるほどに。
「僕が……います。今の僕では、あなたを助けてあげることはできないんですか……? それとも……駄目なのは、僕が『楊ゼン』だから……?」
 問いかける声は、ひどく苦かった。
 ───想い合っていながら、理由あって離れたという自分たち。
 ならば、もしかしたら呂望は『楊ゼン』を想い、求めていても、本当はもう『楊ゼン』に抱きしめられたくなどなかったのではないだろうか。
 そう考えれば、この二十年間、自分は毎年ここを訪れていたらしいのに、二人の関係に空白があることにも辻褄が合う。
「あなたは……忘れたかったんですか?」
 心なしか、どこか哀しげな寝顔で眠る呂望に、ひそやかに問いかける声が、低く響く。
「でも……僕は好きなんです。何もかも忘れてしまったから、あなたがどうして、そんなに傷付いているのか分からない。──でも、それでも僕は、あなたを……」
 記憶のない自分には、『今』しかない。
 自分という存在を形作るものがほとんどなく、何もかもがあやふやで、時には、本当に自分が存在しているのかどうかさえ、分からなくなる時もある。
 けれど。
 確かなものが何もない自分の中で。
 たった一つの真実。
「……愛してるんです」
 慟哭する呂望の心の前では、そんな言葉など何の免罪符にもならない。
 けれど、他に言葉がない。
「呂望……」
 そして、楊ゼンが静かに眠る彼を見つめた、その時。
 呂望の閉ざされた目から一筋、涙がゆっくりと伝い落ちる。
「─────」
 深い眠りに落ちている呂望に、楊ゼンの声が聞こえたはずがない。
 だが、その涙はまるで───。
「……呂望…」
 楊ゼンは眉をひそめて呂望の寝がおを見つめ、そして、そっと指を伸ばして涙をぬぐった。
 涙のかすかな温もりは、指先でまたたく間に冷えて冷たくなる。
 その手を握りしめて、楊ゼンは目を閉じた。


 ほのかに星明かりの照らす薄闇の中。
 静かに眠る呂望の優しい温もりを感じながら、胸の痛みを噛み締めて夜明けを待つしかなかった。









....To be continued









というわけで、久しぶりの夢見る頃をです。
本当はもう数日早くupする予定だったのですが、あえなく風邪で断念。お待たせしてすみませんでした。m(_ _)m

しかし、昔の作品というのは文章が古くて、つくづく嫌になりますね。調子がいい時ならまだしも、スランプ時の文章というのは、どうやって手直しすればいいのかも分からない・・・(ーー;)
結局、あまりにもひどくて目に付いたところ以外、ほとんどそのまま写してしまいました(-_-)

で、ようやくまともな濡れ場が出てきましたが、本当はこれ、ポ●ノにするつもりで考えた話だったんですよ。当時、既作品を読んだ友人に「物足りない」と言われて、「じゃあ、ヤバいの考えるよ」と。
しかし、蓋を開けてみれば、一体どこがポ●ノなんだ!?という、ただのハーレクインロマンスに化していたという・・・。
そういうなんとも情けない謂れを持つ作品ですが、まだまだ続きますので気長に見てやって下さると嬉しいです。m(_ _)m


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