刺さったままの刺の数。





夢見る頃を過ぎても   −第二章−

2.泡雲







 よく晴れた春の昼下がり。
「あなたにお聞きしたいことがあるのですが」
 唐突に切り出した楊ゼンに対し。
「別に構わないけど……。あの子には今日行くとは言ったけど、時間までは約束してないし」
 五日ぶりに訪れた客人は、きょとんとした表情で応じた。
 本来、彼に応対するべき呂望は、少し前にいつものようにふらりと散策に出て行ったばかりで、その場には居なかった。
 快諾を受けて、楊ゼンは生真面目な表情をわずかに和らげる。
 記憶を失った今、楊ゼンには現状を理解し、考えるための情報が極端に乏しい。呂望が何も話そうとしない以上、事情を全て理解しているらしい、この青年の姿をした仙人が唯一の情報源なのである。
 もちろん、彼は全面的に呂望の味方を称しているから、肝心かなめの情報は得られないに決まっている。
 しかし、ほんのわずかな情報でも欲しいと焦れていた楊ゼンにとっては、彼の訪れは天佑のようにも思えた。
「ありがとうございます、太乙真人さま」
 礼を言うと、客人は要らないというように軽く右手を振った。
「いいよ。そんな顔して私に質問ってことは、つまり、あの子には聞けないことなんだろう?」
「───はい」
 正直にうなずくと、太乙真人は軽く溜息をつく。
 そして、少し困ったような表情を浮かべ、
「分かってると思うけど……。あの子の秘密主義は、理由あってのことだから許してやっておくれよ。私が来ると分かってて散歩に出たのも、多分、君にこういう機会をあげるために、わざとしてることなんだろうから……」
 こんなまどろっこしいことをするくらいなら、素直に話せばいいのにね、と呆れた口調で言いながらも、太乙真人は、むしろ弟弟子を憐れむような色を瞳にわずかにのぞかせた。
「あの子もきっと、君に悪いと思っているんだよ」
「ええ……」
 それは楊ゼンにも分かっていた。
 呂望は相変わらず何も語ろうとはしないくせに、時折、楊ゼンの機嫌を気遣うような表情を見せる。
 何も言わないのは、怒らせたいからではないのだと詫びるように。
「怒っているわけじゃありません。ただ、あの人が何も教えてくれないことが……」
「辛い?」
 端的に問われて、楊ゼンは太乙真人の顔を見返す。
 だが、彼はからかいの色など微塵もない、静かな表情を浮かべていて。
「……何も思い出せない自分が悔しくなります」
 何も分からないから、呂望の愁いを垣間見ても何も言ってやれない。
 辛いかと訊かれれば、そうだと答えるしかなかった。
「そう……」
 そんな楊ゼンの思いを読み取ったのか、太乙真人は一つ息をついて、淡い色をした春の空を仰ぐ。
 だが、それもほんのわずかな間だけで、
「それで……、何を聞きたいんだい?」
 再び楊ゼンを見たまなざしは静かだった。
 その瞳を、楊ゼンはまっすぐに見返す。

「───かつて、妖怪仙人と人間出身の仙道の間で起きた争いのことを」

 そう言った途端。
 太乙真人は軽く目を見開いた。
 そして、しばらく楊ゼンを見つめた後。
「そのことか……」
 溜息をつくように呟き、楊ゼンの傍らの花蘇芳の樹へと視線をさまよわせた。
 紫みを帯びた華やかな紅の小さな花が枝にびっしりと咲いていて、狭い庵の庭の眺めに艶やかさを添えている。
 しばらくそれを見つめてから、太乙真人は視線を楊ゼンに戻した。
「──相変わらず勘がいいんだね、君は」
「……何故です?」
「だって、あの子がそれについて口をするはずがないからさ。ちょっとした言動の端から、君は気付いたんじゃないの?」
「──その通りですが……」
 うなずいた楊ゼンに、太乙真人は軽く眉を寄せて考え込むような様子を見せる。
 そんな彼を見ながら、楊ゼンは、改めて彼の呂望に対する理解の深さについて考えた。
 太乙真人は彼について、過去の事情はもとより、気性や考え方など、何から何まで殆どのことを把握しているように見える。
 それに引き換え、かつての自分は、一体どれほど彼のことを理解していたのだろう。
 惹かれ合っていたことが事実ならば、おそらく太乙よりは呂望に近い位置にいたのだろうが、果たして真実、彼のことを理解していたのだろうか。
 愛していると言いながら、実は何も見えておらず、それゆえに傍を離れることになったのではないのか。
 太乙真人の言によれば、そもそも初対面の頃から自分は彼に惹かれていたというが、それをきちんと自覚していたのだろうか。
 妖怪仙人にとって人間出身の仙道は本来、憎むべき相手である。
 呂望に惹かれている自分を認められず、苛立ちを紛らわせるために関係を強要していたということはないのか。
 人間を天敵と感じるのは、妖怪の遺伝子に組み込まれた種の記憶。
 ましてや、彼を片手で簡単にひねり殺せる力を持つ自分ならば、尚更、脆弱な人間に惹かれることに屈辱を感じてもおかしくない。
 とすれば、どんな残虐な行為でもありえないことではないから、過去の自分に対する疑問が後を絶たないのだ。

 ───もっとも、呂望にはそんなことをうかがわせる様子は微塵もなかった。

 華奢な身体を抱きしめれば、そっと寄り添い、抱きしめ返してくれる。
 深い色の瞳は相変わらず底が見えないが、しかし自分に対する憎しみも恨みも怯えも、ほんのかすかにさえよぎったことはない。
 どこか哀しさが消えることがないものの、いつでもまっすぐに見つめてくる切なげな甘い色の瞳は、確かに自分を想っていてくれるのだと信じられる。
 ───けれど、何も言わないから。
 かつての自分たちの関係も何もかも、呂望は決して口にしようとはしない。
 そのことが、自分をひどく心もとない気分にさせる。
 過去、自分を愛していてくれた彼を、滅茶苦茶に傷つけたことがあるのではないかと。
 そんな不安がどうしても消えない。
「────」
 だが、そんな楊ゼンの屈託をよそに、何事かを考えていた太乙真人が、大きく肩を落とすように溜息をついた。
「ごめん、楊ゼン。他のことならともかく、そのことだけは私の口から教えてあげるわけにはいかない」
 そう言って、本当に申し訳なさそうに太乙真人は楊ゼンを見る。
「確かに結局、それが全部に繋がるんだ。でも、私から話すことはできないよ。それは、君が自力で思い出さなければ何の意味もないことだから」
 きっぱりとした口調で、太乙真人は言い切った。
 だが、腹は立たなかった。そう言われるだろうということは、最初から予想がついていた。
「そうですか。──では、別の聞き方をします。その時に僕が彼と知り合ったというのは本当ですか?」
 そう尋ねると、太乙真人はきょとんとしたが、すぐに過去を思い返すまなざしになった。
 そして、うなずき、
「──ああ、そうだね。あれがなかったら、君たちが知り合う機会はしばらくなかっただろうね。そうしたら、君が彼の真価に気付くことも、その結果、惹かれることもなかったかもしれないな」
 首をかしげながら、彼は答える。
 その、真価に気付く、という言葉に楊ゼンは耳を留めた。
「そういう言い方をされるということは……あなたから見て、僕は彼のことを理解しているように見えましたか?」
「うん。君はあの子のことを良く分かっていたよ。まぁ、だからこそ大事にしすぎて、感情が先走ってしまうこともあったようだけど」
 あっさりと太乙真人は肯定する。
 が、楊ゼンは、それで安堵するような気にはなれなかった。
 呂望との関係が深くなって以来、不安も焦燥もつのる一方で、胸の奥底にわだかまっている過去の自分への疑いは、容易なことでは氷解する気配がない。
「けれど、僕は妖怪で、彼は人間出身の仙道です。争いがあったというのなら尚更、僕たちは敵対関係にあったのではないのですか? そもそも高位の仙人であるあなたが何故、それほどまで僕のことをご存知なんです?」
 矢継ぎ早に問いかけると、太乙真人は今度はやや渋い表情になった。
 先程以上に眉を寄せ、低く唸る。
「──その辺は、色々と事情があるんだよ。確かに君は大物の妖怪仙人だけど、色々あって、結果的に私たちと親しい存在だったんだ。だから、君と私たちが実際に敵対したことはないんだよ。……それで、とりあえずは納得してくれないかな?
 私たちは、君が人ではないということには全然こだわってないし、そのことは本当に現状に何の関係もないんだ」
「つまり、種族が違うことも超越して、僕たちが惹かれあっていたと?」
「そうだよ。少なくとも、あの子は最初から微塵も気にしてなかったし、あの子がそんな風だから、君もすぐに気にする様子を見せなくなった。──先日言っただろう? あの子がこんな山奥に隠遁したのは、あの子自身の理由だって」
「───…」
 難しい表情を解かない楊ゼンに、太乙真人は溜息をついた。
「……理由があったんだよ。君と離れてまで一人にならなければならない理由がね。君のせいじゃない。あの子自身の問題なんだ」
 その言葉には、深い諦めのようなものがにじんでいて。
 やるせない憐れみのような響きに、楊ゼンも小さく溜息をつく。
 太乙真人がこんな声を聞かせる以上、その答えで自分を納得させるしかない。
「では、最後にもう一つだけ……」
「───何?」
 どうせ軽い問いかけではないのだろうと、覚悟した風情で促す太乙真人に、楊ゼンはまっすぐにまなざしを向ける。

「彼は……呂望は、僕が記憶を取り戻すことを望んでいると思いますか?」

 静かな問いかけに。
 太乙真人はまばたきし、桜に似た花を枝に無数に咲かせ始めている花海棠の幹に軽く背中を預けて、両腕を組んだまま、ゆっくりと視線を逸らして空を見やった。
 やわらかな色合いの春の空には、溶け消えてしまいそうな淡い雲が浮かんでいる。
 その霞がかった青い青空と、桃花よりも澄んだ可憐な薄紅の花海棠の取り合わせは、ひどく甘やかで美しい春の色彩だった。
「そうだね──…」
 呂望が好むその色を見つめて。
 太乙真人は静かに口を開いた。





        *        *





 背後からよく知った気配が近付いてきたのに気付いても、太公望は驚かなかった。
 彼が今日来るということは分かっていたし、少し前に遥かな上空から降ってきた甲高い機械音も、渓流の水音にまぎれることなく耳に聞こえていた。
 だから。
「まったく……客が来ると分かっているのに散歩に出かけるなんて、ちょっと不人情すぎやしないかい?」
 そんな呆れた声がかけられても、振り向く気にもならなかった。
 だが、相手もこちらの無愛想を気にしないらしく、そのまま近づいてきて、すぐ隣りに腰を下ろす。
 春の陽射しをふんだんに浴びた花崗岩の巨石の表面は、心地好く暖かい。腰を落ち着けて話をする場所としては最適だった。
「もうすっかり桃は散っちゃったね」
 話し掛けられて、太公望は目の前の風景を見つめたまま答える。
「……先日、ちょっと天気が荒れたのだ。それで今年の桃は終わってしまったよ」
「そう。でも若葉が綺麗だしね。新緑と青空が映って、水もますます深い青碧に澄んでていいよ」
 明るい、のほほんとした声で太乙真人は言った。
 そして、笑みを浮かべたまま、 「こういう風景を毎日見てるくせに、どうして君のひねくれた性格は直らないんだろうね?」
 太公望にちらりと視線を向ける。
 そのまなざしを受けて、太公望は面白くもなさそうな顔で、ふいと顔を背けた。
 が、ふいに太乙真人が伸ばした片手で、黒髪をくしゃりとかき上げるように撫でると。
「──!?」
 普段、スキンシップなどほとんどしない相手の突然の接触に、太公望は驚いた顔で振り返った。
 だが、何かを言う前に、
「ひどい顔してるよ、太公望」
 太乙真人が微笑する。
「───…」
 青年の優しい声に。
 穏やかな瞳を太公望は声もなく見返した。
「後悔してるのかい?」
 静かに問われて。
 太公望はわずかに視線を揺らした。
 が、まなざしを伏せ、何も言わないまま小さく頭を動かして、載せられたままだった青年の手を外す。
 彼の言葉は問いかけというよりも、事実の確認だったから。
 答える言葉は見つけられなかった。
「───…」
 そんな太公望に、太乙真人は穏やかな溜息をついて、まなざしを風景の方に向ける。
「……楊ゼンがね、結構あれこれ考え込んでるみたいだよ。君が何も教えてあげないから、かわいそうに」
 きらきらと陽光を反射しながら流れてゆく水を眺めながら、太乙真人は言葉を続けた。
「君の過去に何があったのか、どうして傍を離れることになったのかが気になって仕方ないらしいね。彼は頭も勘もいいから、口先だけでは絶対にごまかされない。
 ──ねぇ、太公望。今が夢だというのなら、どうしてもっと幸せな夢にしないんだい? 今のままじゃ半端すぎて、君も彼も辛いだけだろう?」
「────」
「いずれは終わる夢だから、束の間の幻と分かっている幸せにひたるのが怖い? それとも、楊ゼンに対する罪悪感を一時も忘れられないのかい?」
 穏やかな口調で問いかける太乙真人の声に、太公望は、やはり答えるべき言葉を見つけられない。
 うつむいて唇を噛みしめるしかないほど、兄弟子の言葉は正鵠を射ていて。
 耳を塞いでさえぎることさえできなかった。
「太公望、君はこれを完全犯罪にするつもりなんだろう? そのために私を巻き込んだんだから。最後は全て無かったことにしてしまうのなら、もっと好き勝手をしてもいいと思うよ」
 太乙真人の声は、あくまでも静かだった。
「だって、これを最後に、君は本当に楊ゼンを失ってしまうんだから」
 その言葉に、太公望の肩がほんの少しだけ反応する。
 それを見て、太乙真人は小さく溜息をつき、
「……まぁ、君がそうやって割り切れる性質(たち)なら、最初から私がこんなことを言う必要もないんだけどね」
 そして、渓流の上を横切っていく四十雀(しじゅうから)の尾羽の長い可愛らしい姿を目で追いながら、
「本当に不器用だね、君も」
 呟くように言った。
「──そうそう器用に生きられるものなどおらぬよ。おぬしだとて、到底自分を器用だとは言えまい」
 その言葉に、太公望も静かに返す。
 低い、自嘲するような声で。
「まぁね」
 だが、太乙真人は笑ってうなずいた。
「私が本当に起用なら、こんな面倒くさいことに関わってないよ。今日だって、さっさと渡すものを渡して帰っているさ」
 屈託なく、半端な自嘲など超越してしまった穏やかさで言葉を紡ぐ。
「でも、たまにね、こういうボランティアもしたくなるんだよ。悟りきった器用な生き方ばかりでは、私の人生はちょっと長過ぎて飽きてしまう。──もっとも、君みたいに割り切らずに生きていくにも、私の人生は長過ぎるけどね」

 仙道の命は、原則的に無限。
 ピリオドのない時間を生き続けるには、何らかの執着が不可欠である一方、それ以外のことに関しては、ある程度、割り切っていかなければならない。
 俗に、執着があるものは仙道にはなれないという。
 ───だが、事実は逆だった。
 どんな精神力の持ち主でも、何千年もの間、心の傷を癒すことなく剥き出しのままで抱え続けてはいられない。
 一生、痛みを抱え続けるような深い執着は、どんなに長くとも百年しか生きられない人間だからこそ保ち得るのだ。
 人間であれば、死ぬことで苦痛から逃れられる。
 けれど、不老不死の仙道は、どこかで割り切って忘れない限り、苦痛もまた永遠に消え去らない。
 永遠の命とは、そういうことなのだ。
 だから、何十年、何百年と歳月を重ねていくうち、自然に仙道は必要以上の執着を持たなくなってゆく。
 それに長い時間を生きるにつれて、世の中や人の心のからくりなど大抵のことが見えてくるから、否応なしに悟りの心境に入ってしまい、ある程度のことは受け止め、受け流すことが当たり前になる。
 そうして仙道は物事に対する種々のこだわりを失っていき、結果的に超然とした存在へ変わっていってしまう。
 にもかかわらず、遥かな時間を超えているはずの太公望が過去にこだわり、囚われ続けているのは、彼が『太公望』としては百年程度しか生きていないからである。
 始祖としての感覚や記憶を持ってはいても、それ以上に現在の生の影響を強く受けているため、いまだ、心が人間の領域にとどまってしまっているのだ。

「でも君は、この先千年生きても、上手に感情を割り切れるようにはなれそうにないね」
 からかうでもなくそう言い、何とも言いがたい微妙な笑顔で、太乙真人は太公望を見つめる。
 だが、太公望は沈んだ表情で視線を逸らした。
「……割り切るつもりでおるよ。いつだって、割り切る努力はしていた」
 岩と岩の間をぬって、春の陽射しを受け、薄碧色の水晶のように輝きながら流れてゆく清流を見つめ、呟くように言葉を紡ぐ。
「ただ……割り切ったつもりでいたのに未練が残っていたから、断ち切りたいのだ」
 その言葉に、太乙真人は小さく眉を動かした
「無理して断ち切らなくてもいいと私は思うけど……」
「いいのだ」
 だが、太公望は譲らない。
「……そのために私を巻き込んだわけだしね。いいよ、もう」
 諦めたように言いながら、太乙真人は懐から小さな薬包を取り出した。
「はい、頼まれてたやつ」
 我、太公望が受け取ろうと出した手のひらに載せる寸前で、ぴたりと手を止める。
「太乙?」
「これを渡す前に、最後に一つだけ」
 顔を上げた太公望に、太乙真人は珍しく微笑のかけらもない真剣なまなざしを向けた。
 彼は普段の穏やかな表情を消すと、理知的で研究者然とした端整な顔立ちのせいで、ひどく冷淡にさえ見える。
 滅多に見ることのない彼の素の表情に、軽く目をみはった太公望にゆっくりと太乙真人は言葉を紡いだ。
「これは君が注文した通りの代物だよ。彼用に処方した強力なものだから、効き目は絶対だ。それは私のプライドにかけて保障する」
「……それで?」
「これを使えば、君は完全に夢を夢で終わらせることができる。君が望む通りにね。──でも、君が望むなら、夢を現実にすることも可能なんだよ」
「何……?」
 太乙真人の言葉に、太公望は彼の漆黒の瞳を見つめ返す。
「やっぱり気付いてなかったんだね、太公望」
 だが、その瞳は冷淡なほどに感情を隠し、揺るぎもしない。
「君が注文した薬の効用をよく考えてごらん。現状をすべて夢にすることも、本物の現実にしてしまうことも、どちらもたやすいだろう? 君は夢で終わらせることしか考えていなかったようだから、気付かなかったのも当然だけれど」
「────」
「今の君にとって、これは願いが叶う魔法の薬だ。まだ時間はあるよ。自分がどうしたいのか、もう一度考えて見るといい」
 そう言って、太乙真人は太公望の細い手を取り、その手のひらに薬包を置いた。
「……馬鹿なことを……」
 手の上の小さな白い包を半ば呆然と見つめながら、太公望は呟く。
「馬鹿でも愚かでもないよ」
 だが、太乙真人はやんわりと制した。
「この間も言ったけれど、誰も君を責めはしない。欲しいものを欲しいと言うことは罪じゃないよ。少なくとも君に限ってはね」
 その漆黒の瞳は、再び穏やかな色に戻っていたが、薬包を見つめたままの太公望の目には映らない。
 そんな太公望を見つめて、太乙真人は立ち上がる。
「薬は一回分、チャンスは一度きり。どうしようと君次第だ。君が望むようにすればいい。──じゃあ、私は帰るから、また何かあったら呼ぶんだよ」
 衣服についたほこりを軽く払いながらそう言うと、太乙真人はゆったりした速度で歩み去った。
 遠ざかっていく足音を背中で聞きながら、太公望は手の中の小さな白い薬包を見つめ続ける。
 五角形に綺麗に折りたたまれた薬包紙の中には、小さな三粒の丸薬がくるまれているのが見て取れた。一粒にまとめていないのは、おそらく即効性を図ったからだろう。
「魔法の薬だと……?」
 呟いた声は、かすれていた。
 目を閉じて、眉を寄せ。
「馬鹿な…──」
 太公望はゆるくかぶりを振る。
 足音はもう、背後のどこにも聞こえなかった。








「呂望!」
 夕暮れ、ようやく帰ってきた小さな姿をみとめて、楊ゼンは足早に歩み寄った。
「楊ゼン」
 呂望は足を止め、目の前に立った青年を静かな笑みで見上げる。
 その大きな瞳に安堵するような淡い光が浮かんだから、楊ゼンも優しく微笑みかけた。
「なかなか戻ってこないから、迎えに行こうかと思っていたんですよ」
「そうか。心配させたのう」
 少しすまなさそうに言って、呂望は微笑した。が、その笑みにかすかな翳りを見つけて、ふと楊ゼンは表情を止める。
 確かに、顔は微笑んでいる。大きな瞳も、小さな口元も、優しい穏やかな笑みを刻んでいる。
 けれど、身にまとう気配がひどく沈んでいた。
 寂しげなのはいつものことだが、今は常になくうちしおれているようで、さすがに見て見ぬふりをする気にはなれず、
「──何かあったんですか?」
 そっと右手を上げ、やわらかな頬を包み込むように触れながら、問いかける。
 ───途端。
 呂望の表情から微笑が消えた。
 まなざしを逸らしはしなかったが、見開いた瞳が一瞬、ひどく揺れる。
 その反応は、楊ゼンをひどく気遣わしい気分にさせた。
「太乙真人さまが、何か……?」
 自分があれこれ尋ねたことが、何らかの形で彼を傷つけることになったのかと楊ゼンは不安を覚えたのだが、呂望は言葉を探すように何度かまばたきしてから、まなざしを伏せて。
「──あやつはいつも、耳に痛いことばかり言うのだ……」
 小さな声で言いながら、頬に触れている楊ゼンの手に、そっと自分の手を添えた。
 温もりと感触をもっと感じようとするようなその仕草に、楊ゼンは右手はそのままに、空いている左手で呂望のやわらかな髪を撫でる。
 そして華奢な身体を胸に引き寄せると、呂望は抗わずに素直に身を預けてきた。
「呂望……」
 太乙真人さまは本気であなたのことを考えていてくれるのだ、と言いかけてやめる。
 そんなことは、呂望も百も承知していることだろう。
 相手の真心が分かっているからこそ、より辛いということはいくらでもある。ましてや、心にこだわりを抱えているらしい今の呂望には、尚更、太乙真人の言葉がきついに違いない。
 だから楊ゼンは、そのまま抱きしめる腕の力を少しだけ強くする。
「──すべて忘れてしまったから、今の僕はあなたを慰める言葉を知らない。あなたがどうして欲しいのかも分からない。
 ただ、あなたを抱きしめることしかできませんが、こうしていることが少しでもあなたの慰めになりますか……?」
 そう尋ねると。
 腕の中で呂望は、何か感情を抑えようとするかのように深く呼吸し、そして、そっと頭を楊ゼンの胸に寄せてきた。
「充分だよ……」
 その言葉と共に、細い腕が背を抱き返してくれる。
 胸に感じる小さな温もりが愛しいよりも切なくて、心が痛い。

 何故、何もかも抱きしめてやれないのか。
 何故、何もかも抱きしめさせてくれないのか。

 決して口には出せぬ問いに。
 楊ゼンは呂望を抱きしめたまま、やるせなく目を閉じる。
 深まる一方の疑問も、呂望の裡に巣食う哀しさも。
 何一つ言葉にすることなく、まるごとこの腕に抱きしめてやる以外、他にどうするすべもなかった。





        *        *





 何故だろう。
 今すぐ息の根が止まればいいと思うほど、心が痛いのに。
 どうしてこれほど、楊ゼンの腕の中が心地好いと感じるのだろう。
 彼の声も。
 彼の温もりも。
 彼の匂いも。
 その腕の力強さまで。
 彼が自分を想っていてくれることが。
 自分の愁いに気付き、心配してくれることが。
 嬉しくて、心地好くて、突き放せない。
 離してくれと叫びたいほど、切なくて苦しいのに。
 いずれ永久に失われる温もりだと分かっているのに。
 優しい腕を振りほどけない。
 自分の醜い弱さに、唇を噛んで目を閉じかけた時。

 ───君が望むなら、夢を現実にすることもできるんだよ。

 ふいに、耳の奥に兄弟子の言葉が蘇って。
 ぞくりと、思わず身体が震えた。
 自分を抱きしめている彼が、それに気付かないはずもない。
 まずい、と思うよりも早く、
「呂望?」
 耳元で古い名を呼ばれて。
 甘やかな響きの声に、堅く目を閉じて小さくかぶりを振る。
「何でもない……」
 そう答えれば。
 少しの逡巡の後、彼は抱きしめていてくれる腕の力を少しだけ強くした。
 そのことが、更に胸の痛みを深くする
 彼は優しいから。
 本当は何一つごまかされていないくせに、ごまかされたふりをしてくれる。
 言いたくないのなら、それでいいから、と。
 何も訊かずに。
 ただ、抱きしめてくれる。
 そういう彼だから。
 ───絶対に、夢を現実にすることはできない。
 彼を傷つけるのは、これが最後。
 夢を見たいと思ったこと自体が愚か過ぎるのに、夢を現実にしたいなどと、これ以上愚かなことは思わない。
 これが、最初で最後の夢。
 たった一つの、おとぎ話だから。

「楊ゼン……」

 今はただ。
 目を閉じ、彼を抱きしめて。
 うたかたの夢にたゆたおう。









....To be continued









というわけで、1月ちょっとぶりの「夢見る頃を〜」です。
相変わらず、何の進展もないストーリーですみません_(._.)_ もう少し先に進むと、話に動きが出てくるのですが・・・。
まぁ、不穏な雰囲気のまま、トロトロとストーリーは進んでいきますので、気長にお付き合いいただけたら嬉しいです^^
マジで、これは結構長い話なので・・・(ー_ー;)



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