SACRIFICE  -ultimate plumage-

15. country road








 乾いた大地はどこまでも続き、蒼い空が見渡す限り続く。
 風に吹かれ、まなざしを上げてみれば、光はいつでもそこにあった。






 カシュローンから東へ向かう道を選定するにあたって、道なき荒野を走るのではなく、街道を選んだのは、ひとえに安全性だった。
 もとより前線地帯である。街道を外れて走行していれば、たちまちのうちに軍の偵察に発見される。
 無論、基地の偵察能力や斥伺部隊の行動経路は熟知している二人だったが、それでも用心にしくことはない。
 だから、廃虚の遺跡を出た後は、まっすぐに街道を目指し、少し南に下ってから北東へと向かう脇街道へビーグルを走らせた。
 軍の放出品のビーグルは古いものだったが、楊ゼンが徹底的に整備をさせたらしく、部品も交換できるものは交換してあって、走りは快調だった。
 途中、数度の休憩を挟んで、ひたすら東を目指して。
 日没近く、辿り着いた小さな街で、ビーグルを停めた。




 ドーハス、という名の小さな街は、地平に沈みゆく夕日に照らしだされた影絵のようだった。
 豊かな街でないことは、一目で見て取れる。夕刻ということもあるだろうが、バザールの賑わいはさほどでなく、通りに面した商店でも営業していない店がところどころ目に付き、入居者募集の貼り紙がある建物も少なくない。
 カシュローンとは異なり、長く続く戦争に関わる需要を得られず、疲弊した小さな街の典型だった。
 だが、そんな街でもバザールに面した通りには、他の街と同様に宿屋が営業しており、一階の食堂を兼ねた酒場には、くたびれた風情の男たちが集ってきている。
 その片隅のテーブルで温かな食事を取りながら、呂望のまなざしはさりげなさを装いつつも一心に周囲を見つめていた。
「さっきからずっと見てますね」
 黒っぽくて皮の硬い、酸味のあるパンは、それだけだと美味とは余り言えない味だが、塩味の聞いた肉と野菜のスープには良く合う。
 質素な夕食ではあったが、戦場で摂る食事に比べられるものではない。
 十分に満足しながら、楊ゼンはそっとテーブルの向かい側の呂望に問いかけた。
「ああ、うむ。あまりこういう風景は見たことがなかったからのう。珍しくてな」
「そうですか」
 目の前の食堂兼酒場の光景は、どんな街にもある風景だ。それこそカシュローンにも日常的にあった。
 だが、非番になれば、その光景に混じることができなくもなかった楊ゼンに比べると、特殊な立場にあった呂望は、街に出るにしても行く場所は限られていたのだろう。もともと外見も、十代半ばの少年である。
 珍しい、という言葉は楊ゼンには十分に納得できるものだった。
「これから何度でも、見ることはできますよ。それこそ毎晩のように」
 穏やかにそう告げると、呂望のまなざしが楊ゼンの方を向いた。
 深い色の瞳が、思いがけないことを指摘されたかのように丸くなり、それからふっとほのかに微笑みを帯びる。
「……そうだな」
 改めて何にも縛られない今を実感したのだろう。深い表情で目線を手元に落とし、重みのあるパンを指先で一口大にちぎって口に運ぶ。
 そして、美味いな、と呟いた。
 そうですね、と楊ゼンも返す。
 料理の善し悪しではなく、気持ちが味を決める。戦場では、どんなに質の良いレーションでも血の味がした。
 ましてや呂望が口にしていたのは、わずかな生脳と有機金属を維持するための特別なエネルギー飲料が主体だったのである。味気ないなどというものですらなかっただろう。
 こうして街の食堂のテーブルに座り、敵襲を警戒する必要もなく温かな食事を取れることが、どれほど幸福なことであるか。
 戦場を離れなければ、そんなことも分からなかった。
「いつかはこういう食事に慣れるのかもしれませんけれど……」
「うん?」
「忘れたくないですね、今の気分を」
 楊ゼンがそう呟くと。
「……うむ」
 呂望も静かにうなずく。
 そして、長年まともな食事をしていなかったとは思えない綺麗な所作で、スープの最後の一口を口に運んだ。
 テーブルの上の食事が全て胃袋に収まった所で立ち上がり、主人に食事の代金を払う。そして、泊まれるかどうかを尋ねた。
 二人共に元軍人である以上、野営だろうが車中泊だろうが気にしない。
 だが、先を急ぐ必要のある旅でもなし、また使う当てのなかった楊ゼンの俸給は十分すぎるほどに口座に溜まっている。
 資金の面で言えば、呂望の方も、死亡に伴い没収されそうになっていた『伏羲』の口座を太乙が研究資金という名目で差し押さえており、それを呂望が特殊型の能力を生かして新規に作った『呂望』の口座に資金移動させたから、これまた何の心配もない。
 金の問題もない以上、追われているわけでもないのだから、わざわざ野宿する理由もないのである。休むのなら、きちんとした屋根の下で休むのが人間らしい生活というものだった。
 交渉はすぐにまとまり、素泊まりということで二人部屋の鍵を渡される。
 料金を前払いして、二人はそれなりに賑やかな店内の隅にある階段を上り、客室へと上がった。
「上等、だな」
 鍵を開け、室内を見渡して、呂望がわずかな茶目っ気を含んだ声で感想を述べる。
「そうですね」
 楊ゼンも小さく笑ってうなずき、窓際に近付いて街を見下ろした。
 この街の食堂兼宿屋は、建物が古いだけに客室も古く、また狭い。ベッドが二つと小さなテーブルがある以外は何もない部屋だった。
 だが、屋根と壁があり、窓にはひびのないガラスがはまってベッドがあれば、休むには十分過ぎる。
 ほどほどに掃除の行き届いた室内を一通り確認してから、呂望はベッドのうち窓際の方に腰を下ろした。
「楊ゼン、地図を見せてくれぬか?」
「あ、はい」
 呂望の声に応じて、楊ゼンも手荷物の中から折りたたんだ地図を取り出す。
 そして、呂望の隣りに腰を下ろした。
「こうして見ると、一日でそれなりに移動したな」
「ビーグル1台きりの移動ですからね。行軍速度とはわけが違いますよ。街道は全舗装されてますし」
「ふむ」
 二人共に士官級の軍人であった以上、地図や地勢図を見るのはお手の物である。
 地図には書かれていない今現在の軍事情報をも交えながら、ルートの再確認をしてゆく。
「トゥラホ河の増水さえなければ、ウールまで二十日余りか。大陸の東の果てと言っても、案外に近いな」
「そうですね」
 二人が目指している土地は、東の果てにあるウールという小さな村だった。
 いずれも身寄りのない者同士、どこへ行くかという話になった時に、傍にいた太乙がふと言ったのだ。
 玉鼎は、大陸の東の果ての生まれじゃなかったか、と。
 その言葉で楊ゼンが思い出したのが、幼い頃に師父に聞いた昔語りだった。
 高山連なる山脈のふもと、秋も深くなるとウールの赤い実がたわわに実る村。
 村の名にもなっているウールの実と、幾人かの職人が細々と作っているウール木細工以外、産業らしい産業は何もないが、穏やかで静かな土地だと、寝物語に繰り返し聞かされた。
 楊ゼンがその話をすると、呂望もまた、その深い色の瞳に遠い憧憬を浮かべた。
 ───穏やかで静かな暮らし。
 それこそが、軍人であり稀人である彼らが長年、望んでも決して得られなかったものなのだ。
 無論、ごく薄く細い縁(ゆかり)しかない村に、稀人の二人連れが受け入れてもらえるかどうかは分からない。だが、他に当てがあるわけでもない。
 加えて、楊ゼンはその村を見てみたかった。
 養父が生まれ育った村。
 大切な大切な人の思い出の場所を。
 そして、呂望もそんな楊ゼンの思いを汲み取ってか、ウールへ行ってみようか、と言ったのだ。
 彼らしい、静かな微笑を浮かべて。
「多分、予定通りに行けば、ウールに着くのは遅い春の初めの頃ですよ。村が一面、ウールの白い花に覆われている頃です」
 ほのかに薄紅色を帯びた白い花が、村のすべてを包み込む。秋の赤い実に並んで美しい光景だと、師父が懐かしそうに目を細めながら語るのを何度聞いただろう。
「村一面の花か。美しいだろうな」
「ええ」
 その光景を脳裏に思い描いて、二人ともに表情を緩める。
 楊ゼンも呂望も、戦場にいた頃は花に目を留める余裕など殆どなかった。むしろ、花に心を慰められる暇などあってはならなかったのだと言う方が正しい。
 最前線を転戦している最中に、そんな気の緩みは命取りに繋がる。それを防ぐには、常に心を固く冷たいもので鎧(よろう)しかなかった。そうでなければ、己に課された使命を果たし、生還することなどできなかったのだ。
 だが、今はもうそんな真似をする必要はない。美しいものを美しいと、素直に愛でることができる。
 それはどれほどに素晴らしいことであるか。
 戦場を逃げ出したことへの後ろめたさは常に心の奥底に巣食っていても──いつかそれが耐え難いほどに膨れ上がる日が来るかもしれないとしても──、今は戦場から離れて生きられる喜びの方が遥かに勝って、しみじみと感じられた。
 呂望の方も、そんな楊ゼンの思いと同じだっただろうか。
 夢見るような微笑が淡く、口元に浮かんでいる。
 決して純粋な幸せなだけではない、悲しいような切ないような何かを秘めた儚い笑み。
 だが、穏やかで美しいその笑みを見た時、ふと楊ゼンの心が動いた。
 それはこれまでであれば、抑えられた感情の動きだった。情動、と呼んでも差し支えないかもしれない。
 戦場にあっても後方の基地にあっても、抑制されてしかるべきそれを、しかし今、止めるべき理由を見つけることができず、楊ゼンは心のままにゆるりと右手を持ち上げる。
 そして、指を伸ばして呂望の頬にそっと触れれば、彼は大きな目を更に大きくみはって楊ゼンを見つめた。
 世界の表も裏も全て見通しているような深く澄んだ瞳には、嫌悪も拒絶も浮かんではいない。ただ、小さな驚きと、それよりも更に小さな戸惑いがあるだけで、残りのすべては楊ゼンの指先を許容している。
 ゆるりと親指の腹を薄くすべやかな肌に沿わせて動かすと、その感覚がくすぐったいのか、呂望はわずかに目を細めてまばたく。
 その瞬間、二人の間にある空気は、この世界の何もかもを忘れてひどく甘やかであるように楊ゼンには感じられた。
 窓の向こう、丸二日も北西に進めば、そこには南北に延びる長い長い戦線がある。そこでは、つい先日までの僚友たちが銃を構え、哨戒に神経を尖らせている。あるいは束の間の休息を得て、長過ぎる戦いに疲弊した心が見せる安らかでない眠りをそれでも貪っている。
 だが、今、ここにはそれらの全てが遠かった。
 青空を翳らせる砲火は見えない。大地を渡る風の音を掻き消す銃撃の声も、悲鳴も罵声も聞こえない。
 階下の酒場のざわめきが細々と響いてくるばかりだ。
 二人きりなのだと、今、ここには自分たちしかおらず、そしてどちらも何も──他者の生命を背負ってはいないのだと、夜の静けさの中で楊ゼンは初めて深く実感する。
 そして、同じ感慨と理解の色は、呂望の瞳の中にもあった。
 見つめ合うまなざしと、指先と頬のわずかな触れ合い。
 今、二人が手にしているものは、たったそれだけだ。
 だが、それだけのためにどれほどの犠牲を払わねばならなかったことか。
 呂望は何もかもを失わねばならず、楊ゼンも右目を失い、戦場に背を向ける惰弱者の汚名を選び取らねばならなかった。
 そこまで何もかもを剥ぎ取られ、あるいは投げ捨てねば、この一時を得ることはできなかったのだ。
 だが、これは間違いなく勝利でもあるということを楊ゼンは分かっていたし、呂望もまた、そうであるだろう信じていた。
 とはいえ、呂望の深い色の瞳を見つめる楊ゼンの内には、この期に及んで浮かぶ言葉など何もなかったし、何かを言おうという気にもならなかった。
 物心ついた時から戦場が身近にあった楊ゼンは勿論のこと、呂望は、通常の稀人の寿命の倍の時間を戦場で過ごしたのだ。今更口先だけの言葉で慰められるものなど一つもない。
 ただ指先を触れたまま、黙して見つめていると。
 ふわりとまばたいた呂望が、小さく頬を傾けると同時に楊ゼンの手に自分の手を添えて、指先だけではなく手のひら全体を頬に沿わせる。
 そして、軽く目を伏せて、温かいな、と呟いた。
「ええ」
 手と手、手と頬。
 二人の肌の触れ合う部分から熱が生まれる。優しい優しい命の温もり。
 人肌が温かいということくらい、知っている。だが、それ以上に、その温もりが失われていく場面を知っている。
 それどころか、触れるまでもなく遠目でも肌色だけで、或いは気配の有無だけで、その肌が温かいか冷たいかを察することができる。できるようになってしまっている。
 そんな自分たちが、今こうして互いの小さな温もりを感じ合っている。
 そのことをどう捉えれば良いのか、楊ゼンには正しい答えが分からなかった。
 喜べば良いのか、悲しめば良いのか、或いは、恥じれば良いのか。
 分からないまま、しかし、手に感じる自分のものではない熱が、そこからじんわりと全身に広がってゆく。
 そして、それが心臓の芯にまで沁み透った時、呂望が小さく呟きを零した。
「……おぬしが三人目だ」
「え……?」
 言葉の意味が分からず、何のことかと問い返す。
 すると呂望は、しんと夜の空気に溶け入るような声で再度呟いた。
「わしが人でなくなってから、わしを恐れることなく触れた人間の数だよ。──一人目は最初の管理者。わしらガーディアンは彼の創造物だったのだから、創造主が己の従属物に触れることを恐れるはずがない。ましてや、彼のことはかすり傷一つ付けることも許されぬよう、我々に組み込まれた電脳は制御されていた。彼は間違いなく、我々五人を心の底から愛でていたよ。己の才能の偉大さを賛美するために」
 淡々と紡がれる言葉に、楊ゼンは返すべき言葉を見つけられないまま聞き入る。
 だが、呂望も相槌を求めている気配はなかった。
「二人目は──おぬしも分かるだろう」
「……ドクターですか」
「そうだ」
 事実を確かめるだけの楊ゼンの問いかけに、呂望は応じる。
「我々の管理者は全部で十三人、居た。任期が長い者も、短い者も居ったよ。八年前、新しい管理者の名前を知らされた時、わしは何の興味も抱けなかった。初代を除けば、誰も彼も変わりばえのせぬ連中ばかりだったからな。……だが、歴代の管理者の中で唯一人、あやつは、わしが予想もしなかったことをした。わしを呂望と呼び、人間として扱ったのだ」
 その言葉に、楊ゼンのうちにいつか太乙と会話した時の記憶が蘇る。
 灰白色の病室で、世界を圧倒するような純白を身にまとった青年科学者は、言葉ばかりは静かに語った。
「ドクターも僕におっしゃったことがあります。あの子は人間だ、と」
「……そんなことまで話したのか」
 楊ゼンの言葉を聞いた呂望は、一瞬、静止した後、ふっと微苦笑する。
 その淡い笑みは、楽しげでもあったし、ひどく悲しげでもあって。
 過ぎた日を思う痛みに満ちていた。
「そう、あやつが管理者になってから、わしは何度も、もっと強く感情を抑制して欲しいとあやつに頼んだ。人の心を持ったまま、戦場を五十年以上に渡って駆け続けるのは、あまりにも苦しかった。なのに電脳に制御されているせいで、発狂することもできない。そして、わし以外の四人は感情を保つことを強いられたが故に、守るべき兵士達を失うことに耐え切れず、戦場で散った」
「──あなたも」
 魂も引き裂かれるようだった無残な光景が脳裏に蘇り、楊ゼンの声も低く、硬くなる。
 未だ完全に癒えたとはいえぬ胸の痛みを聞き取ったのか、呂望は一瞬だけ、言葉を探したようだった。
「──そうだ。だから、そうなる前に余計な感情を感じぬようになりたかったのだよ。そうすれば、それだけ長くわしは兵士達を守れる。苦しむことなく戦い続けられる。……だが、わしがそう主張する度、返ってくる返事は、君は人間なんだよ、だった」
「────」
「身勝手で残酷な男だよ、あやつは」
 その形容詞は、決して憎しみにも憤りにも彩られてはいなかった。
 ただ愛しく、切なく、二人きりだけの部屋に響く。
「あやつも、世界と己に絶望していた。科学者の持つ欲を、終わりのない戦争でしか満足させることのできぬ世界。終わりない戦争を喰らうことでしか、満足のできぬ自分。そんなあやつにとって、わしはたった一つの『生命ある研究対象』だった。だから、太乙は『呂望』を殺せなかったのだ。己のために」
「──けれど、そうと理解していても、あなたはドクターを愛した。違いますか?」
 静かに楊ゼンが問うと、呂望は僅かな時間、押し黙る。
 そして、ほろ苦く笑んだ。
「これはただの言い訳だが……わしはもう何十年も独りだったのだよ。一人ずつ仲間が減ってゆき、最後に妹を亡くし……。太乙は、二十年ぶりにわしを人として愛してくれた存在だ。あやつも、わしが人としての触れ合いに飢えていることを一目で見抜いた。あやつ自身も、他者との繋がりに飢えておったのだから当然だ」
 だが、それでも、と呂望は続ける。
「わしとあやつは、管理するものとされるものであり、互いに観察し、監視されるものであり、親子であり、兄弟であり、友であり、その全てだった。──八年だ。八年間、わしらはあの場所で、共に生きた」
「僕が師父と共に暮らしたのも、同じだけの年月です。拾われてから、士官学校の幼年学校に入るまで……」
「……そうか。ならば、おぬしにも分かるだろう。わしらにとって、互いの存在がどんなものであったか……」
「はい」
 呂望の想いが痛いほど胸に染みて、楊ゼンは深くうなずく。
 残酷で冷たい孤独な世界で得た、たった一人の家族。
 十年近い月日を支え合い、慰め合って過ごした存在。
 そんなかけがえのない存在であるのにも関わらず、呂望は、父を、子を、兄を、弟を、友を、共犯者を、あの修羅の地に見捨ててきたのだ。かの人が望んだこととはいえ、それは魂をもぎとられる行為に等しい。
 僅かに伏せられた呂望の瞳は薄い玻璃にも似て、今にもひび割れてしまいそうなほどに張り詰めていた。
「分かってはおるのだ。誰が最愛の存在の負担になることを望むものか。わしらと共に行けば、太乙は……」
「ええ……」

 人と月人との亜種である稀人の最期を蝕み、死に至らしめる苦痛──老化。
 その死にも勝る痛みをを抑制する薬は、必要とするのは稀人のみであるが故に、広く流通しているものではない。そして、その絶対量の少ない物資を最も入手しやすい場所は、大陸の東西を問わず、軍だった。
 特に東軍では『老化』により退役した稀人には、その死を迎えるまで恩給と共に必要十分な薬が配給される。
 対して軍施設の外では、限られた量を限られた場所でしか入手できない。当然ながら高価でもあるが、それ以前に、金を積めば買えるというほどにすら出回っていないのだ。
 故に、殆どの稀人は軍をその生きる場所に選ぶ。
 その畏怖され嫌悪されるべき力は、戦場でならば味方を守り、敵を撃破する強力な兵器となる。親しまれはせずとも、遠巻きには存在を許容してもらえる。そして、戦場で散ることがなければ、最後には安らかな死を与えられるのだ。
 そんな悪意に満ちたからくりが政府によって意図的に作られているのだと分かっていても、大概の稀人は、その安楽さに逆らえない。
 逆らえば、畏怖され、嫌悪され、最期まで心身ともに苦痛に耐える生しかないと、誰もが知っているからだ。
 そしてまた太乙も、一人の稀人として、稀人に課せられた業を痛いほどに理解していた。
 呂望の見る限り、彼ほど稀人としての生を貫き等した者は、さほど多くない。彼はあらゆる矛盾を抱え、だが、揺らぐことなく軍に在り続けた。軍の横暴を恨み、己の強欲を呪い、それでも尚、自分自身のために生き続けたのだ。
 とはいえ、既に彼は稀人としての最晩年にある。余命幾許もないはずの今の彼ならば、その業を──彼の欲を満たしてきた軍の研究所を捨てて共に来ることなど、本当は容易かっただろう。直接戦場に立つことのなかった技術将校ではあっても、苦痛に満ちた最期を厭うほど彼の性根は惰弱ではない。
 だが、太乙は、共に来る道を断固として選ばなかった。
 彼は、その苦痛に満ちた最期の姿を呂望たちに見せたくなかったのだ。呂望を兄弟とも親とも子とも思うからこそ、彼はそれを拒絶した。
 そして、呂望もまた、太乙を兄弟とも親とも子とも思うからこそ、彼の人生の最後に彼の望まぬ終章を歩ませるだけの覚悟を持てなかった。
 苦しむ場面を見せたくないと太乙が望むのなら、黙って立ち去り、その望みを叶えてやることしかできないほどに太乙を愛していたのだ。
 そんな呂望に、太乙も最後まで笑顔しか見せなかった。
 それは何にも変えがたい、浅ましく、痛ましく、切なく、何よりも愛おしい、人と人の繋がりだった。

「──あなたはドクターの願いを叶えた。これが僕たちにできた、最善です」
「……分かっておる。分かっておるのだ、楊ゼン」
 楊ゼンの言葉に力なくうなずき、呂望はずっと楊ゼンの手に重ねたままだった己の手に、わずかに力を込める。
 縋るというには、あまりにも儚いその仕草に、楊ゼンの心も締め付けられて。
「呂望」
 知らず、唇から目の前の人の名前が零れ落ちる。
「僕もずっと独りでした。師父を喪ってから、ずっと」
 そう告げると、ずっと伏せられたままだった呂望の目が、楊ゼンを見上げた。
 張り詰めた玻璃のような瞳に映る己の目は、やはり同じように静かに張り詰めている。
 独りきりだった。自分も、彼も。
 長年の心の支えだったたった一人の存在を喪い、鉛のような心を持て余して立ち止まっている。
 二人は今、確かに似た者同士だった。
 そんなつもりで、ここまで共に来たわけではない。だが今、互いにしか理解できないものが二人の間には確かに生まれていた。
 呂望の深く澄んだ瞳を見つめて、楊ゼンはひっそりと言葉を続ける。
「でも、あなたがドクターに出会ったように、ドクターがあなたに出会ったように、僕もあなたと出会った。伏羲ではない時のあなたにとってドクターが全てだったように、あなたも出会った時から僕の全てです」
「楊ゼン……」
 唐突にも聞こえる告白に驚くでもなく、呂望の瞳は静かに楊ゼンを見つめる。
 分かっている、知っていると告げるような呂望のまなざしに、そうだ、と楊ゼンは思う。
 分からないはずがないのだ。
 これまで言葉にしなかっただけで、おそらく呂望も記憶を取り戻して以来、楊ゼンが己の中でどんな存在であるか、ずっと自問を重ねていただろう。直ぐには、それは答えは出なかったかもしれない。だが、こうして戦場を遠く離れた今、互いの存在こそが何よりも雄弁な答えだった。
 独りと、独り。
 世界に二人きりであるかのような、この寂しさ。
 独りきりではない、この幸福。
 玉鼎も太乙もいない今、分かち合えるのは、もはや互いしかいなかった。
「呂望」
 言葉を交わすうちにいつの間にか彼の頬から離れてしまった手は、今、互いの間で僅かに指先同士が重なり合っている。
 その小さなぬくもりを楊ゼンは強く意識した。
「僕は、あなたが居る限り、もう二度と孤独にはなりません。この先も必ず最後まで生きてゆける。でも、あなたは……」
 どう言葉を紡げば、心の内を言い表せるのか分からなかった。
 これ以上言うべきかどうかを迷い、けれど、楊ゼンは続く言葉を口唇に上らせる。

「あなたは、どうですか。あなたにとって僕はどんな存在ですか? 『三人目』の僕は……?」

 窺うように、そう問えば。
 十年近くも傍にいた相手から遠く離れた痛みにひしいでいた呂望の瞳が、ふっと揺らぎ、そして和らいだ。
「──そういえば、わしは二度とも、おぬしに返事をしていなかったな」
 唐突に言われて、楊ゼンは一瞬、戸惑う。
 だが、確かに呂望の言う通り、楊ゼンが想いを告げる言葉を口にした記憶は、過去に二度あった。
 一度目は、カシュローンの街中で。
 二度目は、シュクリスの基地内で。
 それらに対して呂望は、態度に幾らかの差異はあれ、どちらの時も楊ゼンの求めに直接的には応えず、遠回しな拒絶を意味する言い訳を試みて、しかし、そのいずれも最後まで言い終えることができずに無残な状況を迎えてしまっている。
 そのことを思い出したものの、楊ゼンは、やや困惑して呂望を見つめた。
「僕は別に、あの時の返事を聞かせて欲しいわけでは……」
 あの時と今とでは、余りにも心境が異なってしまっている。大切だと、言葉にしてしまえば同じだが、意味合いがあまりにも違った。
「分かっておるよ」
 楊ゼンの困惑を感じ取ったのだろう。呂望はかすかに笑み、まなざしを二人の間の手に落とした。
 指先と指先が重なり合い、淡く触れ合っている。ほんのわずかに身動きすれば離れてしまうだろう。だが、それでも互いの温もりを確かに感じ取ることができる繋がりだった。
「過去のいずれの時にせよ、わしはおぬしに返すべき言葉を持たなかった。拒絶するしかなかったのだ。あの時のわしとおぬしとでは、あまりにも違い過ぎたからのう」
 共に生きることなど夢見ることも無理だった、と呂望は静かに呟く。
「おぬしもわしも稀人だ。戦況が変わる度に最前線に再配置される。あそこで出会ったのは一瞬の偶然で、共にあることなど叶うはずもないし、最期を看取ることなど夢のまた夢だ。ならば、受け入れぬ方がよい。その方がまだ少し、楽に生きられる──。おぬしの意見は違ったようだがな」
「──そうですね」
 刹那的だった己の過去の言葉に、楊ゼンは苦く微笑む。
 軍人であり、稀人であり、永遠どころか長い生を求めることすら不可能だと分かっていたからこそ、一瞬の温もりを得られればそれでよいと考えていた。
 一瞬でも想い合えればよいと考えたからこそ、呂望の正体を知った後でも想いを告げることができたのだ。
 それが、長い時をたった一人で生きる彼にとって、どれほど残酷な行為であったかを考えることすらできず。
「僕は……あなたを傷付けた」
「そうだな。何も言わずに転属していってくれた方が、わしは楽だった。だが、それでも──」
 仄かに触れ合った手に落とされていたまなざしが、ゆっくりと上がって楊ゼンを捉える。
「わしはあの時、喜んだよ。嬉しかった。わしがガーディアンだと知ってもなお、畏れながらも好きだとおぬしが言ってくれて。嬉しかった」
「呂望……」
 真っ直ぐに目を見つめ、切ない微笑を浮かべて。
 呂望は触れ合っていた手をそっと動かして楊ゼンの手を取り、持ち上げて頬に当てた。
「身勝手な話だ。稀人に生まれ、稀人ですらなくなり戦闘人形として数多の敵を殺した。だが、あの最後の時……。わしはおぬしのことを考えたよ。無論、カシュローンの一万を超える兵士たちのことを守らねばと思った。それがわしの使命だった。だが、それ以上に……おぬしを、わしを好きだと言ってくれたひとを何としてでも守りたいと……そう思った」
 静かに告げられて、楊ゼンは言葉を失う。
 あまりにも壮絶な告白だった。
 ならば、あの時、目の前で呂望が散ったのは。
 美しく優しい、儚いかけらを残して消えたのは。
「僕の……せいですか」
 問う声がかすれた。が、返ったのは、呂望の低く小さな笑い声だった。
「何故そうなる。つくづく、おぬしは真面目だのう」
 困ったものだと言いたげな呂望のまなざしが、楊ゼンを温かく見つめる。
「わしが力を使い切らねばカシュローンは廃墟と化していたよ。一万の兵士もろとも、だ。わしとて無事ではいられなかっただろう。それとも、わしと心中する方が良かったと言うか?」
「当然でしょう!」
 何を馬鹿なことを、と楊ゼンは思わず声を荒げる。
 目の前で大切な人を失うのと、共に息絶えるのと。どちらが幸せであるのかなど、考えるまでもないことだった。その瞬間的な選択には千だろうが万だろうが、他人など存在し得ない。
 否、天秤にかける方が最初から間違っているのだろう。一人と一万人であろうと命は命だ。そして、その一万人の中には楊ゼン自身も、何があっても戦場から生きて連れ帰るべき部下たちもいた。選ぼうとして選べるものではない。
 ゆえに、楊ゼンの言葉も死ぬなら共にが良いということであり、味方一万人を道連れに心中したいという意味ではなかった。
 だが、そんな楊ゼンの情動を理解しているのか、呂望は小さく笑う。
「そうだな。おぬしは、そういう奴だ。我儘で身勝手で、情が深い。ここ最近でよく分かったよ」
「──何なんですか、それは……」
「うむ? 真理を言ったつもりだが」
 悪戯に微笑み、呂望は楊ゼンの手を、感触を確かめるかのようにもう一度握り直す。
「だがのう、楊ゼン。わしとて無念だったのだよ。もっと生きたかったとは思わなかったが、それでも、もっと守りたかった。兵士たちを守るために、どんなに苦しくとも戦場に在り続けたかった。そして、せめておぬしが退役するまでは……同じ戦場にある限りは、守りたかった」
「呂望……」
「だからのう、記憶が戻った時は嬉しかった。それまでは、もう守護天使でもなくなったのに、何故生き続けなければならないのか分からなかった。だが、記憶が戻った途端に分かった。わしを生かしたのは、おぬしのエゴだとな。無論、太乙のエゴも多分に入っておるが」
「それ、は……」
 エゴだと断定されて、楊ゼンは困惑するとともに己を恥じる。まさにその通りだったからだ。
 呂望を蘇らせることを画策したのは太乙だったが、それの最後の一手を指させたのは、間違いなく楊ゼンだった。
 だが、呂望の声は明るく、そして優しく。
「嬉しかったと言っただろう、楊ゼン。おぬしと太乙のエゴのおかげで、わしは全てから解放された。おぬしのためだけに生きることができる存在として、生まれ直すことができた」
 告げられる言葉の意味を、楊ゼンは上手く受け止められない。
 ただ、仄かに笑みをたたえた瞳でじっと見つめてくる呂望を呆けたように見つめ返し、ようよう出てきた言葉は。
「……僕を、恨んではいないんですか」
「どうしてそうなる」
 楊ゼンの問いかけに、呂望はくくっと楽しそうに小さく笑った。
「おぬしと太乙の気が合うわけだよ。あやつもわしに聞いた。私を恨んでいるかとな。まあ、あやつの言い方は、おぬしより遥かに気楽だったが」
 そして、再び楊ゼンを見つめる。
「では、逆にわしから聞くぞ。わしは太乙に何と答えたと思う」
「……まさか、とか、とんでもない、とかじゃないですか」
 反射的に浮かんだ答えではあったが、考えても他には想像できない。目の前の相手は、間違いなくそういう物言いをする人物だった。
「ずばり正解だ。分かっておるではないか」
「……はあ」
 確かに言われてみれば、その通りである。
 だが、過去、確かに楊ゼンは恐れたのだ。一旦は失われた命を取り戻すことを。その自然の摂理に逆らう行為をではなく、その結果、呂望に恨まれることを太乙と共に畏れた。
 だからこそ、全てを受け止めようと覚悟していたのだ。どれほど憎まれようと恨まれようと、それは正当に引き受けよう心に決めていた。
 けれど。
「確かに……分かっていたような気はしますね。今から思うと」
「うむ?」
「あなたを再生させると決めた時、恨まれても仕方がないと覚悟したんです。でも、どこかであなたが許してくれることを分かっていたような……。そういう甘えが心のどこかにあったような気がするんですよ。情けのない話ですが」
「それは正しい甘えだな」
 楊ゼンの述懐を咎めることなく呂望はうなずく。
「人間は誰しも、他人に対してそういう期待を持つものだ。こうすれば、きっと相手はこう反応してくれるだろうとな。過分に過ぎれば、それは単なる我儘だが、この場合は間違っておらぬよ。おぬしと太乙がわしを理解していたからこその当然の心理だ」
 そして、楊ゼンを見つめたまま、静かに微笑んだ。
「のう、楊ゼン。『きっと許してくれるだろう』──わしに期待したものは、それで終わりではないだろう?」
「え?」
「おぬしは本当はこう言って欲しいと思ったのではないのか。『生まれ直させてくれてありがとう。これでやっと、わしは人間として生きることができる。』と」
 その言葉に。
 楊ゼンは目を見開いた。

 ───ありがとう。
 ───やっと、人間として生きることができる。

「は……い……」
 震える声でうなずく。
 確かにそう言って欲しかった。
 そう言って、笑ってくれることを期待した。
 否、願っていた。
 必死に必死に、祈っていた。

「ならば、おめでとう、と言うべきだな。この言葉はおぬしのものだ」

 そして今、本当に目の前で呂望が笑んでいる。
 衝撃を受けている楊ゼンが可笑しいと、でも、その存在が大切なものなのだと言わんばかりの優しい笑みで。
 その微笑みに、どうしようもなく胸が詰まる。
「ありがとう…ございます……」
 どうすれば、この感情の嵐を受け止められるのか分からなかった。
 ただ震える声で礼を告げ、たまらずにずっと重なり合っていた指先に力を込めて、細い指をぎゅっと握りしめる。その手は決して振りほどかれなかった。
「楊ゼン」
 そんな様をどう見たのか、呂望が笑みを納めた声で名を呼ぶ。
「薄々分かっておるやもしれぬが、わしは扱いにくい人間だ。幼い頃はさほどでもなかったと思うが、戦場であまりにも長く生き過ぎた。わしが殺した人間の数はおぬしの頃した人間の数とは桁が違うし、人の醜い面もこれ以上ないほどに見てきた。性根が曲がったとまでは言わぬが、相当に歪んでおるだろう。そんじょそこらの人間など比べ物にならぬくらい、今のわしは面倒で扱いにくい性格をしておる」
 楊ゼンの手に手を預けたまま、呂望の静かな声が語る。
 だが、楊ゼンは、そうだろうか、と思うばかりだ。
 確かに呂望は、精神面では若いとは言えないだろう。楊ゼンなど太刀打ちもできない深さと凄味が彼の内にはある。
 しかし、それは辛酸を舐めながら七十年余を生きた人間であれば、当然に持っているべき老獪さであり、思慮深さであるように思える。彼の言動をどれほど思い起こしても、歪みという表現は当たらないような気がした。
 それに、呂望が戦場で歪んだというのであれば、自分もまた同様である。何しろ戦場しか知らないのだ。
「僕はあなたを面倒な人とは思いませんが……。それに戦場で人間性が歪んだというのなら、僕も一緒でしょう。年数はあなたに及びませんが、僕もひどい最前線ばかりを渡り歩いてきた元軍人ですよ」
 正直にそう告げれば、呂望は浮かべた笑みを仄かに深めた。
「知っておるよ。だから、こうして共に居られる」
 そう言い、楊ゼンの手の中にとらわれた自分の手にまなざしを落とす。
「わしはのう、記憶が戻って以来、ずっと迷っておった。わしのこの碌でもない人生に、おぬしの残り人生をを付き合わせるのは罪悪なのではないかと……」
「それは……知っていました」
 共に行くことについて、ずっと呂望は困惑顔だったし、本当に良いのかと直接尋ねられたこともある。その度に楊ゼンは、自分がそうしたいのだとはっきり告げてきた。だが、呂望の顔が晴れることは、少なくとも出発前まではなかったのだ。
「そうだな。わしも隠しておらなんだしな。正直、覚悟が定まったのは今朝、太乙と別れた時だ。あの隠し扉から研究室を出た時に、やっとわしはガーディアンでなくなったような気がした。わしがわしに戻った気がしたのだよ」
「呂望……」
「そんな心地のまま、地下通路を歩いているうちに心が定まっていった。もうガーディアンではない、もう何をしてもいいのだ、ならば、わしは何をしたい……そう考えていったら、答えは一つしか見つからなかった」

「楊ゼンと共にいきたい」

「一生わしと付き合うのが嫌だと言うのなら、その途中まででも良い。とりあえず、おぬしといきたい。おぬしと行こう。遺跡の出口に辿り着く頃には、そう心が定まっておったよ」
 いきたい、は、行きたいなのか生きたいなのか。
 分からなかったが、どちらでも良かった。どちらにしても同じ意味だ。少なくとも今、この場では。
 そんなことを頭の片隅で思いながら、楊ゼンは必死に応えるべき言葉を探す。
「……遅すぎ、ますよ。そんな土壇場になってですか」
「仕方がない。もう随分と長い間、自分の意志で行く先を決めることなどなかったのだ」
「……そういうことにしておいてあげてもいいですけど。今回だけは」
「今回だけか。おぬしは存外にケチだのう」
「あなたは僕が思ったより、遥かに食えない人ですよ」
「なんだ、気付いておらなかったのか。鈍いな」
「鈍くありません。あなたがずるい人なんです」
「褒め言葉にしか聞こえぬのう」
 碌な言葉を紡ぎだせない楊ゼンに、呂望は言葉遊びのようにして付き合ってくれる。
 ───たまらないほどに好きだと思った。
 憧れでも憐憫でもない。
 目の前の人が、ただひたすらに、どうしようもないほどに、純粋に好きだと思った。
「好きです」
「わしも、おぬしが好きだよ」
 衝動的に口走った告白に、何のてらいもない真っ直ぐな言葉が返る。
 泣きそうだと思った。
 それが現実になる前に、楊ゼンは重ねたままだった手を引き寄せ、愛しい人を抱き締める。細い小さな体は、いっそ他愛のないほどにたやすく胸の中に収まった。
 楊ゼンの腕の中で、呂望が小さく笑う。
「ずっとずっと一緒に行こう。どこまででも、世界の果てまででも、おぬしと共にいきたい」
「はい」
 うなずくのが精一杯だった。
 あとはひたすらに抱き締める。
 不器用なことこの上なかったが、呂望はその不器用さを咎めることなく、その優しい両腕で楊ゼンを抱き締め、随分と長く離さなかった。

*               *

 翌朝もまた快晴だった。
 この大陸は全般的に乾燥気味であり、山地でなければ雨は決まった季節に幾らかまとまって降るのみで、あとは大体、年間を通して晴天が続く。
 埃っぽい街並みを窓越しに眺めながら身支度を整えた楊ゼンと呂望は、出立前に朝食を取るべく階下へ降りて行った。
 店主にその旨を告げようと、カウンター内に姿を探した時。
 食堂内に満ちていたざわめきを二人の耳が拾った。

 ───爆発があったらしい。
 ───大丈夫なのか。
 ───カシュローンが無くなったら、この街だって危ういぞ。
 ───東軍が来たらどうすれば……。

 カシュローン、という固有名詞に二人は軽く目をみはる。それ以上の反応を示さずに済んだのは、これまでの経験の賜物だった。戦場にいれば、この上なく不吉かつ凄惨な報告を聞くことなど日常茶飯事になる。
 だが、それでも平静を保つことは無理だった。何しろ昨日の今日のことなのである。
 そして、何よりもあそこには、まだ太乙が居るのだ。他にも楊ゼンの元部下や上官、僚官が大勢いる。呂望に至っては更に顔見知りは多い。
 一体、何があったのか。彼らは無事なのか。
 楊ゼンがそう思いを馳せた時。
「まさか……」
 呂望が低く、緊迫した呟きを漏らした。
「いや……だが、タイミングが……」
 良過ぎる、という呟きと同時に、呂望は顔を上げ、目の前に来ていた店主に向かって声をかけた。
「店主、この近くに公共端末を使える場所はあるか!?」
 今更ながらのことだが、中身がどうあれ呂望の外見は十代半ばの少年である。そんな少年に突然緊迫した声を掛けられて店主は驚いたようだったが、楊ゼンに目線を移し、それからまた呂望を見て、通りの二ブロック先に利用所がある、と戸惑い顔ながらも教えてくれた。
「そうか、ありがとう」
 短く礼を告げ、呂望は「行くぞ」と楊ゼンに短く声をかけ、そのまま駆け出す。
「ちょっと待って下さい!」
 宿泊費は前払いだから、このまま出立してしまっても咎められることはない。楊ゼンは慌てて、店主に会釈してから呂望を追って表通りへと出た。
 右方向を見れば、既に朝の商売が始まっているバザールの店舗や行き交う人の向こうに呂望の小さな後ろ姿が見える。舌打ちして、楊ゼンはその後を追った。
 単に脚力だけで言えば、今やただの少年の体力しかない呂望より楊ゼンの方が遥かに上である。ましてや身体型稀人という有利もあり、楊ゼンが呂望に追いついた時、呂望は公共端末利用所の空いているブースに取りついたばかりだった。
「呂望、一体……」
 食いつくように画面に向かっている彼の後ろに立ち、声をかけようとして絶句する。
 食堂を飛び出す前の呂望の呟きを耳にしているため、楊ゼンも彼の抱いた懸念の内容が全く分からないというわけではなかった。だが、それ以上の深い説明を求める前に、楊ゼンは端末を操る呂望に目を奪われる。
 公共端末は、装置の正面空間に必要なだけの光式画面を複数浮かび上がらせる仕組みで、利用者はその光でできた画面達に手指を触れることで信号を送り操作する。しかし、その普通のやり方に比べて、呂望の操作法は全くの異常だった。
 一枚限りの光式画面には触れている。だが、指先を軽く触れさせているだけであり動きはない。ないのに、猛烈な勢いで画面に表示される情報がめまぐるしく更新されてゆく。
 そして、呂望の眼もまた、目の前にあるその画面を見てはいなかった。もっと遠くの何かを見てるのか、あるいは見ていないのか、まばたきすらしない。
 ───特殊型のうちでも稀少とされる電脳感応能力。
 楊ゼンもこれまで軍の通信部などで、そういった稀人を見たことがないわけではない。だが、何度見ても圧巻だった。
 彼らは己の感覚神経と大脳を電脳と直接繋げることができるのだ。ゆえに、端末に触れるだけで情報の海を電子の速度で泳ぎ回ることができる。
 その貴重な能力ゆえに、かつて、このタイプは軍部に狙われ、守護天使とされるべく肉体を改造されたのである。
 そして、脳を含む肉体の大部分を有機金属に置き換えられる改造に耐え抜いた守護天使達のその天与の能力は、機能面では大きく制限されていたと楊ゼンは聞いていた。不必要な情報には触れられないよう、心理的防壁を電脳に組み込まれ、任務遂行の目的以外にその能力を自由に使うことは愚か、使いたいと思うことすらなかったという。
 徹底して、守護天使は軍の道具──兵器だったのだ。
 痛ましさと感嘆の双方に溺れているうち、何秒が経過したのか。呂望がふっとまばたきをした時、光式画面には一つの映像が映し出されていた。
 それまで身体型の動体視力をもってしても追えないほどの速度で動いていた画面が止まったことに楊ゼンも素早く気付き、目線を走らせて──絶句する。
 あまりにも鮮明な写真画像。
 だが、あの周辺に一般の映写機などあるはずもない。明らかにこれは軍部の記録として撮影され、保存されたものに違いなかった。
 しかし、楊ゼンを驚愕させたのは、そんな軍事機密をあっさりと呼び出した呂望の能力にではない。その画像そのものだった。
 カシュローン基地の西翼から大量の黒煙が青空に向かって広がりながら立ち上っている。それだけでもとんでもない非常事態だったが、それ以上に、主棟の影になってはっきりとは分からないものの、黒煙の発している元の場所には──…。
「……太乙だ」
 震える小さな声で、呂望がその名を口にする。
「あやつに違いない。あやつが……」
 殆ど接触するほどの距離で立っている呂望に目を落として、楊ゼンははっとなる。細い肩も黒髪に包まれた頭も見て分かるほどに小刻みに震えている。
 いけない、と楊ゼンは素早く手を伸ばして画面を通常のトップ画面に戻し、履歴を端末内から完全消去する。身体型とはいえ情報処理の能力がないわけではなく、この程度の操作は極短時間でできた。
「行きましょう」
 そして、身体を震わせている呂望の肩を強引に抱くようにして利用所から連れ出す。そのまま足早にバザールを抜け、街の入り口に停めてあったビーグルまで急ぎ歩いた。
 鍵を解除し、車内に入って、ひとまず呂望を座席に座らせて自分は運転席に乗り込み、車両を発進させる。
 街道を少し走ってから脇の荒れ地へと道を逸れ、短い草が生えるばかりの乾いた丘陵を一つ越えた所でその陰に車を止めた。
「呂望」
 そうしてやっと、助手席の呂望を顧みる。
 端末から引き離した時と同じ、恐怖と衝撃に色を失ったままの顔で呂望は呆然とうつむきがちに宙を見つめていた。堅く握り締められた手も白く血の気を失い、膝の上でかたかたと震えている。
「呂望」
 楊ゼン自身も強い衝撃は受けていたが、それどころではなく震える体を強引に抱き寄せた。
 強く抱きしめてやっても呂望の震えは止まらない。だが、かけられるような慰めの言葉を楊ゼンは持ってはいなかった。
 そんなはずはない、と言えれば良かった。だが、楊ゼンもまた、この数年のうちに太乙のことを良く知るようになっていたのだ。そして、呂望のことも。
 己の死をもって全てを隠滅し、二度と悲劇を起こさせない。そんな真似を太乙ならば、やりかねない。
 そして、呂望が……誰よりも太乙に近しい存在が、太乙がそうしたというのであれば、それはもはや推測ではなく事実だった。
「……前に、言ったのだ。わしがやろうと……」
 かすれた細い細い声で呂望が呟く。
 切れ切れに、声を震わせながら。
「わしが記憶を取り戻した後だ。もう必要のない守護天使の記録は消去しようと……。だが、太乙はいいと言ったのだ。古い型の記録媒体も大量にあったから、随分と時間のかかる作業になるし、君がいなくなれば私は暇になるからやるよ、と……。過去を消す作業なんかより、君は未来に進む方を選ぶべきだねと……」
 太乙らしいというべきだった。
 あまりにも彼らしい。したり顔で、そう言っている表情すら浮かぶようだった。
「だが、まさか……こんな……」
「呂望」
 わなわなと呂望の声が震える。否、声だけではなく全身が大きく震える。
「……老化……」
 はたと何かに思い当たったように、呂望は呟いた。
「もしかしたら……既に老化が始まっていたのかも知れぬ」
「え……」
「太乙も、もう三十六だ。稀人ならば、もういつ老化が始まってもおかしくない。むしろ遅いくらいだ。ましてや、あやつは複数の……」
 そう呟いたところで、呂望は絶句する。
 楊ゼンもまた、同時にその意味を悟って愕然となった。
 太乙の持つ、解析能力と──遮蔽能力。
 彼の二つめの能力をもってすれば、共に暮らしている呂望の目から老化の苦痛を抑える薬も、その摂取している姿も隠してしまうことは、あまりにも容易い。
 そして、複数の能力を有している頭脳型としては、太乙はかなりの長命だった。本来ならば、もう五年も前に命が尽きていても何もおかしくない。それが統計上の平均寿命なのである。
 本人は、私は生き汚いからね、と笑っていたが、その『生き汚い』という言葉に隠されていた意味は。
 ───命を永らえるためならば、なりふり構わない、ということではなかったか。
 軍でも特に重要な地位にある稀人に配給される薬は、相当強力に老化の進行を鈍らせるともっぱらの噂だ。その薬を受給する権利を、優れた技術将校である太乙は間違いなく有していただろう。
 そして、何よりも。
 彼には岩に齧りついてでも生き続けなければならない理由があった。
 つい、昨日までは。
「──あ…、ああ…っ」
 見えてしまった彼の企みの全貌に、呂望の口から悲嘆と苦痛に満ちた抑え切れない苦鳴が零れ落ちる。
 もし呂望に言った通り、守護天使のデータを完全消去するだけの時間が本当に彼にあったのならば、彼はそうしただろう。わざわざ派手に自分の無残な死を知らせる狼煙(のろし)を上げる必要もない。
 だが、彼は万が一を恐れたのだ。
 もし消去の作業半ばで己が斃(たお)れるようなことがあれば、また悲劇が繰り返されるかもしれない。或いは、呂望の生存を知られる可能性すら否定できない。
 そんな危険性を放置するわけには決してゆかなかったのだ。彼自身の科学者として、そして人間としてのプライドにかけても。
 ───君たちは、前だけを見て行けばいい。
 独特の静かな笑みでそう言った人は、同時に己の死を見据えていた。
 そして、きっと。
 己の手で全てに片をつけられることに安堵し、誇りと達成感さえ感じて、笑って───。

「う、あ…ああああああ……っ…!!」

 楊ゼンの腕の中で呂望が咆哮する。
 かの人の名を呼ぶことも出来ず、全身全霊を搾り出すようにして慟哭する。
 そんな呂望をきつく抱き締めながら、楊ゼンもまた、こらえ切れない熱い雫が目から零れ落ちるのを感じた。
 呂望とかの人ほど近い関係ではない。けれど、養い親とも親しかったかの人を、歳の離れた兄のようにいつか感じていた。そして、呂望を挟んでは、父兄と交際相手のような関係であり、更には共犯者でもあった。
 師父を亡くして以来、天涯孤独であった楊ゼンにしてみれば、世界で最も近い肉親にも等しい存在だった。
 その人すらも居なくなったのだ、という耐え難い喪失感が胸にひた迫ってくる。
 永久の別れは、昨日のうちに既に済ませていた。だが、それとその死を知るのとでは天と地ほどにも違う。
 しかも、只の死ではない。
 軍の研究所を己の戦場とした彼は、最後までそこで戦って死んだ。壮烈な戦死であり、また最後の守護天使の管理者としての殉死でもあった。
 彼は、伏羲という名を持つ最後の守護天使を己と共に殺すことで、呂望という一人の人間を軍の頚木(くびき)から永遠に解放したのだ。
 今、呂望が感じている苦痛は、決して太乙という個人の喪失の痛みだけではない。
 今度こそ本当に、その背から守護天使の翼がもぎ取られた。その自由と解放を示す苦痛と混乱も、彼の内に少なからず存在しているはずだった。
 呂望を抱き締めたまま、楊ゼンは風防越しに空を見る。
 大陸の空は、今日も悲しいほどに蒼かった。
 この空の下で己の運命に抗いつつ、殉じつつ生きたひとの、いかにも彼らしい見事な最期。
 今はもう亡き人を思って、楊ゼンは静かに瞑目した。




 呂望が鎮まったのは、時間にして一刻ほども過ぎた頃だった。
 ずっと抱き締めたままだった楊ゼンの胸を軽く押しやり、ゆっくりと顔を上げる。
 泣き腫らした顔は、僅かな時間のうちに痛々しくやつれてしまっていたが、変わらぬ深い色の瞳が真っ直ぐに楊ゼンを見つめた。
「生きねばならぬ理由が増えた」
 慟哭している間、側に居たことに対する詫びも礼も省略して、呂望は告げる。そこに楊ゼンは呂望の意思を見た。
 詫びも礼も、この場では最早、不要だった。
 共通する大切な人の喪失の前では、二人で一つの存在として在ることが当然であり、自然だった。
「わしの両親と、おぬしの両親と、玉鼎と、太乙に命をもらった。彼らによって生かされた。わしもおぬしも、もらったこの命を限界まで生きねばならぬ。どんなに無様でも、這いずってでも、最期の一滴(ひとしずく)まで正しく燃やし尽くさねばならぬ」
「はい」
 巌(いわお)のような覚悟を沈ませた言葉に、楊ゼンはただうなずく。
 すると、呂望はそっと両手を上げ、楊ゼンの顔に触れた。
 細い指先が、左のこめかみから頬にかけての無残な傷跡を癒そうとするかのようになぞる。
「共に行こう。どこまでも一緒に生きよう。ウールの村でも、どこか他の地でも、静かに暮らせる場所が見つかったら、そこでいつも笑って暮らすのだ。もう二度と誰も傷付けず、誰も殺さず、それぞれの命の最期の一滴が消えるまで、二人で一緒に」
「ええ、呂望」
 応えることに何の躊躇いも覚えなかった。
 最後の最後まで、生きる。
 人間らしく、生きる。
 そのために、ここまで生き抜いてきたのだ。生きることを選んできたのだ。
 そして、かの人もそれを心から願っていてくれた。
「僕はもう二度と、あなたを離さない。幸せだったといつか最期の時に微笑えるように、二人で一緒に生きましょう」
「うむ」
 呂望もまた当然とばかりにうなずく。
 そして二人はじっと互いを見つめ、それからどちらともなく互いを引き寄せて、そっと唇を重ねた。
 耐え難い悲しみを分かち合い、これからの幸いを誓い合う口接けが淡く、慰めるようにいたわるように繰り返される。
 最後に少しだけ長く温もりを分かち合って、二人はゆっくりと唇を離した。
「──行きましょうか」
「そうだな」
 既にどちらの目も、もう水気は乾いていた。
 うなずき合い、座席に姿勢を正して二人は前を見る。
 楊ゼンが内燃機関を始動させ、払い下げ軍用車のさほど心地良いとは言えない振動が二人の体に伝わる。
 そして、車両は動き出した。
 乾いた荒野を最初のうちばかりはゆっくりと、だが、すぐに加速して疾走し始める。

 ───悲しみも苦しみも、辛い記憶は全部連れてゆくから。
 ───君たちは、未来と幸福をその手に。

 東の地の果てにある楽園を目指して、砂埃を巻き上げながら車両はひた走る。
 どこまでも高く青く澄んだ空の下、今はもう亡き人の優しい声が聞こえたような気がした。
 

end..




これにて『SACRIFICE -ultimate plumage-』、閉幕です。
長きに渡る御声援をありがとうございましたm(_ _)m

蛇足的なあとがき→ こちら




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