SACRIFICE  -ultimate plumage-

14. long good-by








 良く晴れた朝だった。
 雲ひとつない空は不思議なほどに青く澄み渡り、太陽が白く乾いた大地を照らし出している。
 この地上のどこかに戦火が広がっていることなど想像すらできないほど──あるいは天地は人間の存在など、塵芥ほどにも気には留めていないのかもしれない──、世界は静かだった。









「本当に良いのか」
「だから、私を何歳だと思ってるんだい? 今更ここを出ていこうなんて、これっぽちも思わないよ」
「だが……」
 少しばかり迷いを残した瞳で、呂望は目の前でのんびりと背もたれ付きの回転椅子に腰を下ろした科学者を見つめる。
 呂望の足元には、軍の支給品としてはさほど大きくない、背に負っても苦にならない大きさの背嚢があり、そして、太乙はそんな呂望をどこか面白がるような表情で見つめ返していた。
「いいんだよ、呂望。私にとっては、軍は別に居心地の悪い場所じゃない。結構な特別待遇をされているし、こんな研究室を独り占めして、好きなだけ好きな研究もできる。どうせ先の長くない命なんだ。最後まで好きなことを好きなだけやって終わりにするのがいいんだよ」
「太乙……」
 言葉を選びきれず、小さく名前を呼ぶ。
 確かに、と呂望は考えた。
 太乙が自分の管理者となってから、今年で八年になる。ということは、彼は今、三十四歳だ。
 稀人の寿命は、どれ程長くても四十年。そして、稀人としての能力が大きければ大きいほど、その寿命は短くなる傾向がある。
 ゆえに、常識的に考えれば、太乙は既に老年期──最晩年といってもいい年齢に足を踏み入れていることになる。
 とはいえ、三十四歳は三十四歳であり、外見的にも内面的にも老化どころか、わずかな衰えさえ見当たらない。外見通りの研究者として、あるいは人間として最盛期を迎えつつある年齢のままに充実し、冴えを見せている。
 けれど、それでも。
「──おぬし……」
「ああ、違うよ。まだ大丈夫。まぁ、いつ『老化』が始まってもおかしくないのは事実だけどね」
 懸念を忍ばせた呂望の呼びかけに、太乙はひらひらと右手を振って見せた。
 その言葉と態度が、どこまで真実なのか、呂望には判別できなかった。
 彼の倍以上の年月を生きて、その間に数限りにない人間を見てきたのに、太乙以上に感情や本音を隠すのが上手い者を呂望は知らない。
 ただ、稀人特有の『老化』が……耐えがたい頭痛や吐き気と共に脳細胞そのものが変異し、壊れてゆく致死的な現象が、遠からず彼を死に追いやるのだということだけは、絵に描くよりも明白に分かりきっていた。
 そして、それは太乙も知っている。
 否、稀人ならば誰もが承知している、己の死の姿だった。
「さあ、そろそろ行きなよ。楊ゼンをあまり待たせちゃ可哀想だろう?」
「……うむ」
 うなずきながらも、ぐずぐずと呂望の足はそこに留まる。
 意味のないことだと、避けがたいことだと分かっていても、ここを──太乙の側を離れがたい気持ちはどうしようもなかった。
 軍にはもう、守護天使だった頃の記憶から生まれるかすかな痛みは残っているものの、未練などない。
 今日、こうして楊ゼンと共に基地を出て行くことは、新天地へ向かうのだという大いなる不安と高揚感をもたらすばかりで、そこに悲しみや苦痛の影はなかった。
 今、ここを立ち去る前に何らかの思いがあるとしたら、彼への未練、それだけだ。
「────」
 改めて、呂望は太乙をじっと見つめる。
 その姿かたちを、瞳の色を、時には得体の知れないと形容される口元に浮かぶ笑みを、瞳に焼き付けておこうとするかのように。
 ───事実、この時を限りに二度と会うことはないと、どちらもが承知していた。
 いつかどこかで再会することなど、自分たちには有り得ない。
 自分は軍の影響の及ばない遠く離れた地へと逃れ、太乙は遠からず、その生命を全うする。
 互いの未来について、どんな約束も交わすことはできないのだ。
 これが、軍人が僚友を戦地に送り出す時であれば、帰ったら飲もう、というような約束事が、たとえどんなに成就が絶望的であると分かっていても交わされるが常であるのに。
 それすらも、自分たちにはない。
「太乙」
「ん?」
「おぬしには……感謝しておるよ。おぬしがいなければ、わしは人間には戻れなかった。とうに人間であることを止めて、純粋な兵器と成り果てていただろう。そうなれていたら楽だったのに、と思ったこともある。だが……」
 込み上げる想いをこらえるように、呂望は一度唇を噛んだ。
「おぬしがわしに、呂望の名を思い出させてくれた。この六十年間、わしを人間として接してくれたのは、おぬしと楊ゼンだけだった。そのことに心から感謝している」
「そんな大層なことじゃないよ」
 黙って聞いていた太乙は、揶揄するでもなく、いつもの彼の笑みで静かに笑った。
「私だって、君の管理者に就任すると決まった時は、どうしたものかと思ったよ。何しろ君は、東軍の秘密兵器だったわけだし。でも、実際に会ってみたら、君はただの年下の男の子にしか見えなかった。だから、感じた通りに接しただけだよ。むしろ、君がそれを許容してくれたことの方が私には驚きだった」
 その言葉に、呂望の顔にもほのかな笑みが浮かぶ。
 だが、その微笑は過去を思い返す痛みと無縁ではなかった。
「そうだな。わしも驚いたよ。歴代の管理者は、おぬしの言う通り、わしを秘密兵器という目でしか見なかった。六十年も経ってから、今更人間として扱われるとは思いも寄らなかったから、呆気に取られて、おぬしの態度を咎めたり疑問をぶつけることを忘れてしまった。そうして、気がついたら、今のこの関係が出来上がっていたわけだ」
「おかしなものだよね」
 くすくすと笑いながら、太乙は立ち上がる。
 そして白衣のポケットに片方の手を入れた格好で、呂望の前に真っ直ぐに立った。
 いかにも非戦闘員らしく細身の青年は、しかしそれなりに均整の取れた体型の持ち主で、背も楊ゼンとほぼ同じくらいある。
 比べて、かつても現在も十代半ばの呂望は並んで立つと、彼の肩の高さにも満たず、いつも青年を見上げる格好になった。
「君は私の最良の友人で、君の方が遥かに年上だったけれど弟みたいな、子供みたいな存在だった。それは今も、これから先、どちらかが死んでも変わらない。そのことは覚えていて欲しいな」
「忘れぬよ」
 忘れられるはずがない。
 忘れられるはずがなかった。
「太乙」
 一歩踏み出し、呂望は両手を伸ばして青年を強く抱きしめる。
 太乙もまた、ためらいなく呂望を抱きしめ返した。

 ───もし、家族と呼べるものがあるとしたら。
 それは太乙だった。
 他愛のない茶飲み話をしたり、下らない冗談を言い合ったり、お互いが無茶なことをすると、呆れつつも本気で心配したり、時には喧嘩をして何日も口を利かなかったり。
 そんな当たり前の日常が、この研究室にはあった。
 妹を含む同胞を戦場で喪った時、もう二度と得られないだろうと思っていたぬくもり。
 身を削るようにして戦い続けた日々において、それがどんなにかけがえのないものであったか。
 今になって、過ぎ去った日々が目もくらむような輝きと重みを持って、怒濤のように襲い掛かってくる。
 ───離れたくなかった。
 子供が親を、弟が兄を慕うように、彼をここに残して行くのは、どうしようもなく心が痛んだ。
 けれど、太乙は共には行かないのだ。
 ここで、自分を見送る。
 それが、彼の選んだ生き方であり、別れの形だった。

「愛しておるよ。本当に感謝している」
「私もだよ。どこにいても、私が君の幸福を祈っていることを忘れないでくれ」
「うむ」
 うなずき、ゆっくりと呂望は太乙から離れた。
 言い尽くせない思いを残したまま、青年を見上げる。
「では、行くよ」
「うん。元気で」
「おぬしも」
「うん」
 そうして足元に合った荷物を取り上げ、片手を上げて、いつも外出する時のように地下研究室へと下りるエレベーターへと乗り込む。
 見つめ合うまなざしの先で扉がゆっくりと閉まり、旧式の昇降機はがたんという衝撃と共にゆるゆると下降を始める。
 その中で、狭い箱の壁に寄りかかり、呂望は込み上げてくるものを何とかしてこらえようとした。
 だが、こらえきれずに一しずくの水滴が床に落ちる。
 同時に、再び軽い衝撃と共に昇降機が止まり、扉が開いて。
 昇降機から降り立って、呂望は足を止め、広い室内を見回す。
 ───自分が二度、生まれた場所。
 そして、もう二度と戻らない場所。
 唇を噛んで、埃臭く薄暗い地下研究室を様々な実験装置や実験台を避けながら横切り、一番奥にある非常口の扉へと手をかけながら、呂望は声を上げて泣きたいと思った。
 けれど、誰も涙など望んではいない。
 自分も、望まない。
 旅立つ──否、巣立つのだ。
 全ての束縛を解き放って、自分は今。
 もう一度生き直すために、一人ではなく今も自分を待っていてくれるだろう青年と二人で。
 そこに涙は必要なかった。
「────」
 思いを振り切るように呂望は扉を開け、そして二度と振り返らなかった。










 楊ゼンはちらりと時計を確認した。
 自分がここに着いてから、もう半時ほどが過ぎている。そろそろ彼が来るだろう頃合だった。
 呂望は、漫然と相手を待たせて平気でいられる性格の持ち主ではない。むしろ几帳面な部類に入るだろう。
 だから、さほど自分が待つことになるとは今も思っていないが、だが、何の感傷もなしに、あの場所を旅立てるとも思わなかった。
 むしろ平然と旅立つのは、相当に困難だろう。
 そう信じられるだけの絆が、あの二人の間にはある。
 楊ゼンは静かに空を見上げた。

 太乙と呂望の間にあるものについては圧倒され、羨望を覚えつつも、嫉妬を覚えたことは楊ゼンはなかった。
 嫉妬を覚えるには、自分たちの置かれた状況はあまりにも差し迫ったものであり、また、彼らの繋がりそのものも、ありふれた情愛などの言葉で形容するには深く、切実に過ぎた。
 彼らの関係をあえて表現するのであれば、家族のような繋がり、だろうか。
 それも普通の家族ではない。
 たとえていうなら、ひどく傷ついて行き場のないもの同士が互いに支え合い、共同生活をすることで命を繋ぐような愛他心が、表面的にはどう振舞っていようと、あの二人の根底には流れていた。
 軍人としての太乙のことを、楊ゼンはさほど深くは知らない。
 ただ、稀人としての凄まじいばかりの能力と、稀人であることを理由に上層部に忌避され、謀殺された自分の養父と交友があったという事を考え合わせると、彼もまた平坦な出世街道を歩んできたわけではないだろうことは想像できた。
 どれほどの能力があろうと、人を殺すための発明を強いられて、そこに喜びがあるはずはない。
 少なくとも、楊ゼンの見た太乙は、自分の作った武器が高性能であることを誇るような歪んだ嗜好の持ち主ではなかった。
 彼が真実、望んだ生き方など知る術もないが、もし研究者としての自由が許される時代に生まれていたのであれば、きっと彼は心の赴くままに生活に便利な様々な道具を開発しただろう。
 突拍子もない事を好む彼のことだから、その中には、きっと珍妙なものも実用的ではないものもあっただろう。だが、次々に発明される品は、きっと人々を喜ばせ、楽しませたに違いない。
 彼はそれだけの能力の持ち主であり、またユーモアに溢れた人物でもあるのだ。
 だが、時代は──この世界は、彼に彼の望むような幸福を与えはしなかった。
 おそらく、彼は軍の研究所に安穏とし、兵器開発に従事する自分を誰よりも嫌悪していたのだろう。
 そうでなければ、究極の人間兵器である守護天使を、兵器としてではなく人間として扱ったことの説明がつかない。
 ましてや、機能停止した守護天使を、極秘にただの人間として再生し、それを逃がそうとするなど、軍の研究者としては正気の沙汰ではない。軍の上層部が、新たな守護天使を開発できないかと打診してきたように、もう一度新しい兵器を作ることを模索するのが正しい技術将校の在り方なのだ。
 おそらく、と楊ゼンは思う。
 太乙は、何かを作り出したかったのだろう。
 冷たく血なまぐさい人を殺す道具ではなく、もっと優しい、愛おしいものを。
 心をかけて愛せるものを。
 死と破壊の対極にある、幸福、を自分の手で生み出したかったのだ。
 その想いが、三年前の悲劇的な衝撃をきっかけとして飛躍し、科学者としての狂気とも思える呂望の再生という形で結実したのに違いない。
 確かに、人間を造り出すという彼の行いは身勝手と称されるものだろう。だが、それは科学者の傲慢でも何でもなく、一人の人間としての生と命に対する叫びであったことは、楊ゼンには痛いほどによく分かった。
 楊ゼンもまた、長年戦場に身を晒し、数多の生命を奪い続けていたからこそ、太乙がどれ程、ごく普通の生活に──当たり前の幸福に焦がれていたか理解できるのだ。
 戦争を憎み、軍部を嫌悪し、けれど、新しいものを開発したいという欲求を抑えることができず、優秀な科学者として潤沢な資金が得られる軍の研究室に納まっている。
 そんな自分に対し、太乙がどれほどのジレンマを抱えていたのか、楊ゼンには想像することしかできない。
 そして太乙は、管理者として守護天使──呂望と出会い、彼を人間として扱うことで自分を慰め、長年兵器としてしか扱われてこなかった呂望もまた、そこに安らぎを得た。
 互いに痛みを感じる関係でもあっただろう。
 聡い彼らが、それぞれの中にある矛盾や狡さに気付かなかったはずがない。
 だが、それでも彼らは軍部の中で互いに支え合い、共に歩み続けたのだ。
 そして、そんな彼らに、楊ゼンが惹かれないはずはなかった。

 軍の中で順当な昇進を遂げていたとはいえ、楊ゼンも所詮は稀人だ。
 太乙や呂望と知り合う以前にも、同じ稀人の僚友は幾人もいた。だが、いずれも軍部の方針により複数の稀人将校が一箇所に長く留まることはなく、作戦が終了すれば直ぐにばらばらに引き離されて新たな戦地に配置され、友人と呼べるほどの関係を作ることはできなかった。
 太乙と呂望は、初めて得た、痛みを共有できる仲間だったのだ。
 カシュローン基地に赴任し、軍属の少年を装っていた呂望と偶然に知り合い、養父の旧友であった太乙と面識を得て。
 ようやく楊ゼンは、行きずりの戦友に対する他愛のない言葉ではない、自分の本当の言葉を口にすることができた。
 そして、初めて知ったのだ。自分がどれ程、軍人であることに苦痛を覚えているかということに。
 軍人としてではなく一人の人間として、彼らや彼らと過ごす時間をかけがえないと、愛おしいと思い、──そして初めて、本当の意味で死にたくないと思った。
 彼らから離れて、どこか遠い戦場で命を落とすことが恐ろしいと思うと同時に、自分がいない場所で彼らの命が喪われることにも怯えた。
 本当に、いつ誰の命が消えてもおかしくないのだ。
 軍部に在籍する限り、戦場に立つ限り、死はいつでも自分の隣りにある。
 その恐怖から逃れるには、戦場から逃げ出すしかなかった。
 どれほど卑怯とそしられようと、惰弱を罵られようと、戦場には人としての幸福はない。
 そして、それ以上の理由など見つけることはできなかった。

「──結局、説得はできなかったな。しようと思う方がおこがましいんだろうけど……」
 太乙が、自分たちと共には行かないと言った時、楊ゼンが感じたものを言葉にするのは難しかった。
 行かないという理由そのものについては、即座に幾つも想像がついた。
 除隊の口実があった楊ゼンはともかくも、技術将校として抜群の成果を上げている太乙の除隊が認められる可能性はまずなかったし、あの地下研究所の処分をどうするかという問題もあった。彼自身の寿命という問題も当然、考慮に入っていただろう。
 比べて楊ゼンと呂望は、少なくとも残り十年近い余命がある。そこに、長くとも二、三年しか生きられないだろう自分が割り込む必要はない、と太乙が考えるのは当然とも言えた。
 寿命を迎えた稀人の末期は決まっていて、脳細胞の変異が始まってから半年から一年ほどで、自由に身動きすることは叶わなくなり、寝たきりとなってしまう。
 それは逃亡生活を送ろうという者たちにとっては致命的な足枷だ。
 そして、太乙の老化が始まるまでに安全な隠遁地を見つけられるという保証もない。
 また、自身の死を見せまいとする気持ちも、太乙の中にはあるような気がした。
 昨夜、最後に短い時間ではあったが、酒を酌み交わした時も、希望だけを見つめて行けばいい、というような意味合いのことを彼は口にした。
 必要最小限のものだけ荷造りしたら、後は全部置いていけばいいんだよ。空にはいつだって太陽が輝いているし、道だってどこまででも続いているんだから、わざわざ後ろを振り返る必要なんてない、と。
 そののんきな口調ながらも静かな言葉に、楊ゼンは、共に行きませんかと往生際悪く誘いかけた言葉を飲み込んだのだ。
 彼は残り、自分たちは行く。
 それが彼が最初から決めていた結論であり、覆すことは不可能だった。
 今、改めて考えてみれば、太乙が己の我を通さなかったことは、これまで一度もないのではないだろうか。
 守護天使の管理者となった時に呂望という本名で呼ぶようにしたことを始めとして、呂望を再生したことから、今日、二人を送り出したことまで、どれもこれも太乙の意に適うことばかりであったように思われる。
 とはいえ、それは他の二人の意思を無視したということではなく、結果的に全員にとって最も良い状況を導き出せるよう、彼が心を砕き、行動をしたということであって、楊ゼンも呂望も彼のやりように不満を感じたことはなかった。──唯一、彼が共に旅立たなかったことを除けば。
 この先、残り少ない時間を彼がどう生きてゆくのかは分からない。
 だが、もうどうすることも叶わない。
 ただ、彼が幸いあれと祈ってくれたように、自分たちもまた、彼の最期が平穏であるようにと祈るしかできない。
「やれるものなら、首に縄をつけてでも引きずり出したんだけどな……」
 おそらく、今感じていることは単純な言葉で表現できるのだろう。
 別れが──今生の別れが辛い。
 それだけのことだ。
 たったそれだけのことに、けれど、胸が潰れそうに痛む。
 養父が死んだのは戦場でのことであったから、こんな風に痛みを感じることはなかった。むしろ衝撃の方が強く、悲しみはその後から押し寄せてきた感じだった。
 呂望の時もそうだったし、僚友や部下の死もそうだった。
 目の前で斃れるところを見るか、一日の戦闘が終わった後、疲れ果てた鼓膜に無機的な報告を聞かされるか。
 戦場という場所には、あまりにもあっけない死が当たり前のように転がっていて、感傷的になるには死が近くにあり過ぎた。
 別れが辛い、と感じたことは、思い出せる限りこれが初めてであり、痛みもまた、初めて感じる種類のものだった。
 けれど、自分たちは行かねばならないのだ。
 それが自分たちの望んだことであり、彼の望んだことでもある。
 彼に言われた通り、空と大地だけを見つめて振り返らずに行けば、きっといつか求める地平が見えるだろう。
 それはきっと、どこまでも果てしなく、穏やかで静かで、生きる喜びに満ちた大地であるに違いない。
 それがたとえ子供じみた空想であっても、そう信じてゆくことが、今の自分たちに必要なことだった。
「────」
 遺棄された建物の扉が開閉する錆付いた金属の音に続いて、じゃり、と砂を踏む音が耳に届き、楊ゼンはそちらを振り返る。
「呂望」
 名を呼ぶと、彼は待たせてすまないというように小さく微笑んだ。
 右肩に背嚢を背負って近づいてくる彼の目が、少し赤いように見える。
 当然のことだろうと思った。
「行きましょうか」
「うむ」
 うなずき合い、カシュローンのバザールで安く手に入れた軍の払い下げのビーグルに乗り込む。
 そして二人は、乾いた大地に白くそびえる城塞(カスバ)の遺跡から、砂埃を上げて立ち去った。

















「ようやく行ったか……」
 昇降機の扉が閉まり、動き出すのを見届けた太乙は、一つ大きな溜息をついた。
 文字通り、大きな荷物を降ろした気分だった。
 その気の緩みが招いたのだろう。不意に脳裏を貫いて始まった激しい頭痛の発作によろめき、片手でこめかみを押さえる。
 半ば無意識にデスクの引き出しを開け、中を探りかけて、ふ、と太乙は小さな自嘲めいた笑みを零した。
「そうか。もう必要ないんだっけ」
 手に触れた小さなガラス瓶を目の高さまで持ち上げ、三分の一ほど入っている白い錠剤を軽く振る。と、からからと乾いた軽い音が響いた。
 そして、その瓶をデスクの上に放り出し、太乙は頭痛をこらえながらゆっくりと歩き始める。
 室内に幾つもある端末の一つ一つに、複雑なコマンドを打ち込み、全データを消去して自壊するようあらかじめ組み込んであったプログラムを呼び出して、キーとなる長い文字列を入力する。
 さほど時間をかけずに一連の作業を全て終え、めまぐるしく変化する端末画面がやがて沈黙するのを、身動きすることなく見守った。
 それから、足を引きずるようにして書棚に積み上げられたデータの記憶媒体や書類ファイルを、今度は随分と時間をかけて、全て昇降機に運び込む。そして最後に自分も乗り込んで、地下の研究所へと降りた。
「あいたた……。やっぱり見栄張らずに薬飲むべきだったかなぁ……」
 今にも崩れ落ちそうな体を、箱の壁にもたれることで支え、地階に着いた昇降機の扉が開くのを待って、一息ついてから半ば手探りでそれを開放状態に固定するようボタンを押し、そこでまた一休みする。
 脳細胞の異常を訴える頭痛はもはや耐えがたい程に、彼を苛んでおり、ともすれば集中力も途切れがちだった。
 だが、ぎりぎりのところで気力を拾い集めて、太乙は一つずつ、目立たぬよう物陰や研究机の引き出し、戸棚の中に隠してあった大量の仕掛けを配線で繋いでゆく。
 まるで蜘蛛が巣を張るのにも似た地道なそれが終わった時には、長い長い時間が過ぎていた。
 最後に昇降機内に積み上げたままの記憶媒体と書類の山に、注意深く抱えていたモノを置き、位置を確かめてから、ようやく太乙はその場に崩れるように腰を下ろした。
「これで終わり、か」
 苦痛から生じた額の冷たい汗を拭うこともせず、目を閉じ深く息をついてから、もう一度薄く瞼を開いて、ほの暗い天井を見上げる。
 動力の消費を極力抑えるため、小さな非常灯しかついていない研究室は長年の埃が降り積もり、廃墟そのままの姿を晒していた。
 だが、埃の下に埋もれているものは、決して前時代の遺物などではない。
 現に今、動力スイッチを入れれば稼動できるものばかり、そして、時代に合わせてほんの少し理論展開させるだけで現在でも十分に活用できる軍事技術ばかりが仮の眠りについているのだ。
 これらは決して、表に出してはならないものだった。
 数十年も前、戦乱で一時、研究者が散り散りになってそのまま忘れられたものを、守護天使たちがずっと秘して守ってきたものだ。
 もう二度と、彼らのような悲しい存在を作らないために。
 彼らの流した涙を再現しないために。
 彼らの最後の一人によって、自分に託されたものだった。
「知ったら怒るだろうな……。ごめんね、呂望、楊ゼン」
 浅く荒い息をつきながら、太乙は呟く。
「でも間に合って良かった。あと半年遅かったら、みっともないところ見せるところだったし、こんなことをあの子にやらせるわけにはいかないし、ね……」
 もう一度気力を振り絞るようにして、周囲の様子を確かめる。
 太乙の足元からは、無数に枝分かれした配線が室内中にくまなく延びていた。
 全ては呂望の再生を決意した時から計画して準備し、そして呂望には決して気付かれないように、彼が培養槽から出る前に隠匿してしまった仕掛けだった。
 電気抵抗の殆どない合金で作られたそれは、並列と直列の二重構造を持って、数十個の仕掛けのうち一つたりとも取りこぼしが生じないように完璧に組み上げられている。
 精緻を極めた蜘蛛の巣のようなその造形に満足して、太乙は手元の小さな携帯端末に短いコマンドを入力する。
 このまま夜が更けるまで待つつもりだった。
 長く待ち過ぎて、自分がしようとしていることを軍に気付かれる危険を犯すわけには行かない。なにしろ、地下とはいえここはカシュローン基地の内部なのだ。
 だが、彼らが戻ろうとは思わない距離を稼ぐまでの間くらいは、何とか耐えられる。
 もともと最悪の場合は、自分に埋め込んだチップを通して、脳波が途切れると同時に、メインデータバンクと主な実験装置だけは破壊するつもりだったのだから、最後の最後まで思う通りに事が運んだだけでも運が良かったのだと思わなければならない。
「悲しまないで欲しい、って言っても無理だろうけど……振り返るんじゃないよ、二人とも」
 悲しみも、苦しみも。
 辛い記憶は全て、ここに置き去りにしてゆけばいい。
 すべて、自分が連れてゆくから。
 ただ、未来と幸福だけを追って。
 自分にも、古い友人にもできなかった事を──手に入れられなかった世界を。
 君たちは、その手に。
「──うん。悪い一生じゃなかった。君もそうだっただろう、玉鼎?」
 苦痛の汗に濡れた顔に仄かな笑みすら浮かべ、心の底から幸福そうに呟いた太乙は、もう一度端末に視線を落として、それが正常にカウントダウンを始めているのを確認してから目を閉じ、壁に頭をもたせ掛ける。
 それきり、もう身動きをしなかった。










 ───その日、日付が変わる頃。
 カシュローン基地の東翼の地下から突如吹き上がった地上にまで達する巨大な火柱は、そこにあった全てを焼き尽くし。
 何一つ形あるものは、その後には残さなかった。






to be continued...










今回のサブタイトルは、R・チャンドラーの名作『長いお別れ』から。(似ても似つかない話ですが。)
太乙については、これ以外の結末はどうやっても思いつきませんでしたm(_ _)m

次回、最終話です。




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