SACRIFICE  -ultimate plumage-

13. leave the front








 突き通すような鋭い目が、ねめつけるようにこちらを見つめる。
 そんな時間がいったい何分続いただろう。
「──本気かね」
「はい」
 肘をついて両手を組んでいる上官の執務卓の上にあるのは、一通の封書。
 それを差し出した時、かすかに眉がひそめられたのは、彼がこちらの行動を予測していたからだったのだろうか。
 この連隊長には良くしてもらった方だと思う。稀人である自分が忌避されることもなく、かといって過酷な任務にばかりに駆り出されることもなく。
 部下に気を配り、上官の命に忠実である、そんな極普通の上官と部下の関係を築けたことは、自分にとっては大きな幸いだった。
「理由は」
「この左目です。診断書を添えておきましたが、義眼がどうしても合いません。同じく負傷した肩と足は、骨の培養手術を受けましたので、どうにか元に戻るようですが、戦闘力の低下は明白です。これまでのようにはもう戦えません」
「────」
 沈黙が落ちる。
 次に響いた言葉は、妙に重々しく室内に響いた。
「逃げるのか?」
 聞いてくれた、と思った。
「はい」
 答えた自分の声は、おそらくこの場に似つかわしくないほどに晴れやかだっただろう。
 本来ならば、もっと殊勝に口にすべき言葉だったに違いない。だが、除隊願を提出した今になってまで、表面を取り繕おうとは思わなかった。
 まさしく、自分は逃げ出すのだ。
 臆病風に吹かれて、果ての見えない泥沼の戦場から。
「綺麗事を言うつもりはありませんが、もう十分過ぎるほどに人の死を目の当たりにしてきました。自分はこれ以上、殺したくはありません」
「それで? 軍を出てどうやって生きていくつもりだ?」
「何とでもします。身体に多少の不自由は残りますが、人を殺さずに生きてゆける道は必ずあるはずです」
 静かに告げた自分に、何と思ったのか。
 また、しばしの沈黙が流れて。
「──君は、ここ十年の最前線における主要な戦いを殆ど経験している」
 重々しく、低い声で上官は切り出した。
「はい」
「それらでの戦功も突出していた」
「自分の運が良かっただけです」
「軍には直接戦闘に参加せずとも済む部署もある、というのは詭弁か?」
「はい」
 率直にうなずく。
「参謀であろうが補給部隊であろうが、今後一切、軍事に関わる気はありません」
「それを信じろというわけか」
「信じていただくしかありません」
 それしか言いようはなかった。
 自分が除隊願いを提出するにあたって、上層部が最も懸念するのは、自軍の戦闘力の低下ではなく、敵軍の戦闘力の増大なのだ。
 軍を辞めた士官クラスの軍人が、その後、どこへ行くのか。その行く先が西方であることを最も恐れ、絶対に阻止しようとする。
 分かっていたことだった。
 これを突破しなければ、どこにも行けない。生涯、戦場から離れられない。
「それを受理していただけるなら、自分は二度と、この地上のどこであれ、戦争には加担しません。ですが、不当にこの身を拘束しようとするのであれば、持てる力の全てをもって抵抗します」
「……上官を脅す気か?」
「いいえ。御理解をいただきたいだけです」
 身体型の稀人を拿捕しようというのであれば、それには同じく身体型の稀人を差し向けるしかない。あるいは、後顧の憂いを絶ってしまおうというのであれば、その驚異的な身体能力をもってしても避けようのない範囲を、まとめて爆薬で吹き飛ばすか。
 いずれにせよ、仕掛けるほうも、それなりの損害を覚悟しなければならない。
 だが、それらの損害も、万が一、身体型の稀人が敵に回った時の損害に比べれば、微々たるものなのだ。
 稀人を重用しているからこそ、東方軍は稀人を恐れる。
 しかし、それこそが西方軍との差異でもあって。
「自分のような稀人が、このまま戦場に立ち続けるつもりであれば、東方に所属していた方が絶対的に待遇がいいことは明らかです。西方では、稀人は侮蔑の対象です。能力を利用されこそすれ、人として生きることはできません。只人ならまだしも、稀人が西へ行く利点は、何一つありません」
「……人として生きたいだけだと?」
「はい。もう先の長くない人生です」
 正確な生まれは分からないが、養父が決めてくれた誕生日と年齢で数えるのなら、もう自分は二十七になる。
 身体型は頭脳型や特殊型よりも寿命が長いが、それでも四十年は持たない。あと十年かそこら。それが自分に残された時間なのだ。

 ───人として生きたい。

 それ以外に願うことなど、今更ありはしない。
 軍属から始まって十年以上もの歳月を戦場で過ごした。
 何か特別な考えがあってのことではない。養父が軍人であり、常に軍を身近に感じながら成長して、そのまま自分も軍に入隊した。それだけのことだ。
 戦う理由など見い出したことはなかったし、戦いの是非を問うこともしなかった。
 それしかなかったから──他に成すべきことがなかったから、命じられるままに方々へ出撃し、与えられた任務を果たしてきた。
 けれど、何のための戦いか、というかすかな疑問は、いつでも心の片隅にあって。
 それは、一つの存在との出会いを機に飛躍的に膨れ上がり、堰を切って溢れ出した。
 以来、この二年余りの月日は、ひたすら帰るためだけに戦った。死にたくなかった。生きたかった。ただ、それだけのために今自分はここにいて、こうして軍を辞めようとしている。
 臆病風に吹かれたのだと謗(そし)られてもかまわない。
 だが、もう機械的に敵兵を屠(ほふ)り、物言わぬ死体を増産するような真似はしたくない。そんなことのために、自分の力はあるのではないと思いたいのだ。

「──やむを得んな」
 長い沈黙の後。
 大きく息を吐き出すように、上官が告げた。
「戦意を失った兵士など、何の役にも立たん。どこへなりとでも行けばいいだろう」
「ありがとうございます」
 知らず緊張を帯びていたらしい肩の力が、ふっと抜ける。
「長年、お世話になりました。中将殿の御武運をお祈りしております」
 敬礼して、退出しようとしたその時。
「貴官が」
 呼び止められて、ドアの前で振り返る。
 上官は変わらず、執務卓の上で両手を組んだまま、こちらを見つめていた。
「貴官が戦場に疑問を持ったのは、『彼』の存在が原因か?」
「──はい」
「そうか」
 その代名詞が誰を指しているのか。
 確認するまでもなく、明白であり。
 無機質なデスクの向こう側で、上官がわずかばかり眉をひそめるようにして、小さな吐息を漏らした。
「今だから言えることだが、あの存在は我々職業軍人の目から見ても、痛々しいと感じる部分が多かった。あんな存在を創るべきではなかったのだろうな」
 低く紡がれる上官の声は、ひどく重いものを含んでいた。
 ───おそらくは、戦場であの美しい翼を目にした時、兵士が思うことは皆、同じだったのだろう。
 絶対的な安堵を覚える傍ら、本当にそれでいいのかと。
 ヒトを超えた存在であるとはいえ、たった一人の存在に危険を押し付けてもいいのか、と逡巡し、己や戦友ばかりでなく彼の無事帰還をもまた、祈らずにはいられなかったのだろう。
 創られるべきではなかったのだ、本当に。
 あんな哀しい存在は。
「行きたまえ。第四十師団から第四十六師団までは現在、全部隊を再編中だ。ゆえに待機中の貴官が、後任に引継ぎをする必要もない。いいタイミングだ」
「はい」
 うなずき、もう一度丁重な敬礼を贈って。
 静かにその部屋を出た。








「無事に受理してもらえましたよ」
 上官の執務室を出て、真っ先に向かったのは官舎の私室ではなく、既に馴染んだ研究棟の一角だった。
 おかえり、と迎えた面々に対する楊ゼンの第一声に、太乙と呂望は、それぞれに思いの泡沫がはじけたような表情を見せた。
「それは良かったね。君のことだから、もっとごねられるかと思ったのに……、そうあっさりいくと、ちょっと拍子抜けかも」
「妙な期待をしないで下さいよ」
 それよりも、と楊ゼンは、安堵ばかりではない微妙な表情をにじませた相手へとまなざしを向ける。
「呂望?」
 名を呼ぶと、その声に込められた問いかけの意味を正確に捉えたのだろう。深い色の瞳が、ほのかに憂いめいた色をたたえて楊ゼンを見上げる。
「いや……」
 いつになく沈むようなその声に、
「呂望」
 楊ゼンは改めて彼の名を呼んだ。
「気にしているんですか? 僕が軍を辞めるのは、御自分のせいだと……」
「!」
 問いかけに、呂望ははじかれたように顔を上げる。
 その瞳に浮かんだ表情に、楊ゼンは軽く溜息をついて見せた。
 呂望を責めるつもりは微塵もない。ただ、思い違いだけは正しておきたくて、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「別に僕は、あなたのためだけに軍を辞めるわけじゃありませんよ。僕自身がもう、戦場に立ちたくないから辞めるんです」
「楊ゼン」
「第一、僕とあなたが一緒に行くという話になったのは、僕が除隊すると言った後のことですよ。これに関しては、あなたの気にすることじゃありません」
「……それは分かっておるよ。おぬしが決めたことなのだし、わしがどうこう言うべきことでは……」
 けれど、とすっきりしない様子を見せる呂望は、楊ゼンが軍と戦場を忌避するようになった理由の根底に、自分自身の存在と、永訣となるはずだった一度目の死があることにうすうす気付いているのだろう。
 瞳を伏せるように言葉を紡ぐ表情は、呂望が楊ゼンのことを思い出して以来、時折見せるようになったものだった。
 ───自分と出会わなければ、また違った未来があったのではないか、と。
 今もまた、そう考えているのに違いない。
「呂望」
 彼の考えが全く的外れだと言う気は、楊ゼンにはなかった。。
 この二年、呂望の存在は自分にとって何よりも大きく、重かったのは事実である。
 だが、それだけで全てを決められるほど、呂望と出会う以前の歳月が軽かったわけでもないのだ。
「本当は、僕はもっと早く軍を辞めるべきだったと思ってるんです。それこそ七年前、義父が死んだ時に辞めるべきだったと……」
「──楊ゼン…」
「軍にとって、稀人は便利な道具……使い勝手のいい武器でしかない。稀人でもあり、軍人でもある義父を見て育ったんですから、それは分かっていたつもりでした。けれど、仕方のないことだと僕は諦めていたんです。こんなご時勢で、稀人がまともな職にありついて生きていくのは難しいのだからと、悟ったような気分になっていました」
 呂望の深い色の瞳が、まっすぐに楊ゼンを見つめる。
 その瞳の色が、何よりも好きだと、ためらいもなく楊ゼンは思った。
「それに、軍人であることを辞めるのは、軍人として生きて死んだ義父に対する裏切り行為のようにも思えて、僕は軍を辞める決断ができないまま、今日までずるずると戦場に立ち続けてきたんです。そして、この七年の間に一体どれだけの命を奪ったのか……。もう思い出すことも数えることもできません」
「楊ゼン」
「『ひと』に戻りたいんです。稀人であっても、『ひと』として生まれたはずなんですから、最期は『ひと』として死にたい。この手で散々殺してきて、今更虫が良すぎるとは思いますが……」
 ───おそらくは、戦場で赤黒い血を撒き散らしながら死ぬのが、自分にはふさわしいのだろう。
 これまで、数百数千の命をそうして奪ってきたように。
 けれど、もう嫌なのだ。
 これ以上、命を奪うことにも奪われることにも耐えたくない。
 ただ。
 ただ当たり前のように、笑って、泣いて、生きて。
 そうして、いつか……それほど遠くない年月の果てに死ぬ。
 たったそれだけの、けれど戦場からは呆れるほどに困難で遠い生き方が欲しくて、自分のものにしたくてたまらないから、卑怯にも戦場を逃げ出すのだ。
 恥じる気も言い訳をする気もない。
 自分は、たったそれだけのちっぽけな存在なのだから。
「だから、あなたが責任を感じる必要はないんです。僕が自分で考えて、決めたことなんですから」
「……うむ。それは分かっているつもりでおるよ。ただ、……」
「ただ……、何です?」
 声にすることをためらうように言葉を濁らせた呂望に、静かに問いかける。
 と、呂望は己の手を小さく握り締めるようにして。
「おぬしが軍を辞めるという理由の中には、わしのためという部分も全く無いわけではないだろう……?」
「──否定はしませんが、それこそ僕の勝手な感情ですよ。あなたが気に病むようなことじゃありません」
「そうではなくて……」
 言いにくそうに言葉を捜しながら、呂望は楊ゼンを見上げた。
「誰かに、何かをしてもらうということが……慣れぬのだよ。居心地が悪いというほどではないが……」
 どう受け止めればいいのか分からない、と困惑に沈んだ瞳を伏せた、その様に楊ゼンはかすかに眉をひそめる。

 ───戦場において、ガーディアンを庇護する存在など有り得なかった。
 兵士の命を守るために、戦線において最も過酷な座標へと身を投じる。それが六十年もの間、彼の唯一の使命であり存在意義だった。
 最後の最後まで、そうして文字通りに身を削り続けた彼が、今更、誰かに手を差し伸べられても、困惑するしかないのは当然のことだ。
 それは本当に自分に差し伸べられたものなのか。
 手を伸ばして触れてもいいのか。
 そんなことすら分からず、躊躇って立ち尽くすしかないに違いない。

「……そう、ですよね」
 呂望がこれまで歩んできた道程に思いを馳せて、楊ゼンは自分の至らなさに溜息が零れかけるのを、かろうじて推し留めた。
「あなたが戸惑われるのは当然のことでしょう。すみません、僕も配慮が足りませんでした」
「そんな、おぬしのせいでは……」
「いえ、こういうことは、どちらか一方が悪いということはありませんから。ですが、呂望」
 名を呼んで、深い色の瞳を覗き込む。
「うむ……?」
 呂望は、まなざしを逸らすことなく、少しばかり戸惑うように楊ゼンの瞳を見上げた。
「この先行動を共にするのであれば、僕があなたのために何かをするという機会は、増えはしても減りはしないでしょう。それは一緒に居る以上、当然のことですし、そうしたいという僕の気持ちもあります。
 ですから、我儘を言うようですが、少しずつで構いませんから、新しい関係に慣れていってもらえませんか? 代わりに、僕も過剰な気遣いはしないように気をつけますから」
「──新しい、関係」
 どこか不思議そうに、そして、少しばかりの新鮮さを味わうように呂望は呟く。
 その言葉に、楊ゼンはうなずいた。
「あなたはもうガーディアンではありませんし、僕も今月末で軍人ではなくなります。もう、以前のような一方的に守り、守られる関係は、もう終わったんです。僕とあなたの間には、もう何の義務も責任もない。あるとしたら、自分たちのそれぞれの意志だけです」
「────」
 穏やかに告げた楊ゼンの言葉に、呂望は小さくまばたく。
 そして、改めて物を思うように、わずかに瞳を伏せた。
 そのまま、しばらく沈黙して。
 やがて呂望は、小さく息を吐き出した。
「──そうだな。わしのガーディアンとしての役目は終わった。この体は生身のものだし、この背にももう翼はない。受け入れなければならぬのだろうな、全て……」
「はい」
 己に言い聞かせるように言葉を紡いだ呂望に、楊ゼンははっきりとうなずく。

 ───この場で、事を曖昧にして良いことは一つもなかった。
 非合法な甦生の結果であったとしても、現実は現実であり、彼は文字通りに自身が生まれ変わったことを受け入れなければならないのだ。
 有り得ないはずの、二度目の命。
 新たな肉体。
 戸惑わないわけがない。
 けれど、楊ゼンとしては、どれほど身勝手な想いであろうと呂望には生きて欲しかった。
 全てをむしり取られ、心身を削るばかりだった一度目の生の分までも、過酷な任務に縛られることも、思考を制限されることもなく自由に、そして叶うことならば、一人の人間として幸せに生きて欲しかった。
 間違いなく、それはエゴだろう。
 あの頃の彼は、ぼろぼろに疲れ果て、全ての力を使い果たして尽きた時には、初めて見る穏やかに安らいだ表情を浮かべていたのだ。
 だが、それが分かっていても。
 理不尽としか思えない形で失われた命を、この世界に取り戻したかった。
 自分も、太乙も。
 そして、その命を今度こそ守り通すためならば、どんな犠牲を払うことも厭うつもりはなかった。

「僕は軍人ではなくなりますが、稀人としての力は変わりませんし、それはあなたも同じでしょう? ガーディアンとしての能力と体は失っても、稀人としてのあなたの力はそのままなんですから。あなたはあなたにできる事を、僕は僕にできる事をすればいい。そう思いませんか?」
「……共に行くのなら?」
「ええ」
 うなずき、楊ゼンは手近にあった椅子を引き寄せて腰を下ろす。
 そして、わずかに首を傾けるようにして呂望の顔を見つめた。
「今更、共には行けないとは言わないで下さいね。僕はもう、決めているんですから」
 はっきりと一音ずつ発音しながらそう告げると、呂望は少しばかり困惑するように瞳を揺らす。
 ほんのかすかなものではあったが、しかし、それを見逃す楊ゼンではなかった。
 近い距離で、まっすぐにその深い色の瞳を見つめ、言葉を続ける。
「僕はもう二度と、間違えたくないんです。何が一番大切なのか、自分が何をするべきなのか。あなたが僕を思い出して下さったからこそ尚更に」
「楊ゼン……」
「今の間だけでもいいんです。軍の影響が薄いどこかの町か村へ辿り着くまでで構いませんから、それまでは傍に居させて下さい」
「───…」
 真摯に紡がれた言葉に、呂望は楊ゼンをじっと見上げ、それから内心の戸惑いと揺れを示すかのようにまばたきをして瞳を伏せた。
 そして、ぽつりと呟く。
「……逆、だろう?」
「逆?」
「今となっては、わしの方がおぬしよりも遥かに無力で、単独で逃亡することは難しい。わしの方が、共に来て欲しいと頼まねばならぬ立場だ」
 呂望の声は、自嘲を含むかのようにひっそりと静かで、楊ゼンはかすかに眉をひそめる。
 どうして彼が、そんなにも自身を卑下しなければならないのか。
 軍のエゴによって、一時、人ではないモノに造り替えられた。そして、再び他者のエゴによって再生させられた。
 彼に、常人との差があるとしたら、それだけのことだ。
 何一つ彼の責任ではなく、それ以外、今の彼には普通の稀人と何の差異もない。
 彼の再生に加担した立場に居る以上、勝手極まる感情ではあることは百も承知だったが、楊ゼンは彼にそんな物言いをさせたくなかったし、して欲しくもなかった。
「呂望、あまり御自分を卑下しないで下さい」
「楊ゼン」
「あなたがあなたであることに、あなた自身は何一つ責任はありません。責任があるとしたら、それは、あなたに生きて欲しいと思った僕たちが背負うべきものです」
「───…」
「そして、それとは別に、僕はあなたと行くことを負担だと思ったことも、嫌だと思ったこともありません。それは決して、あなたの命に責任を感じているからじゃないんです。
 勝手だということは百も承知していますが、あなたに思うがままに生きて欲しいと思うから、あなたが自由を得たいと思われるのなら、それの手助けをしたい。それだけなんです」
 決して、責任感や義務感からではない。
 ただ生きて欲しいから……、その側に居たいから、共に行くことを望むのだ。
 それだけは知って欲しい、と願いながら告げる。
 黙って聞いていた呂望は、少しの間考えるようにしてから、
「──正直、おぬしの言葉を今すぐ受け入れて、了承するのは難しい。だが、おぬしが本気で言ってくれていることは分かるから、受け入れられるように考えてみるよ」
 楊ゼンの目を真っ直ぐに見上げ、小さくうなずいてみせた。
 と、
「痴話喧嘩はそれくらいでいい?」
 不意に割り込んできた太乙の声に、二人は少しばかりの驚愕と共にそちらを振り返る。
 先程、楊ゼンが退役の報告にやって来た時、太乙は呂望と共に茶を飲んでいたのである。その後、彼はどこかに移動したわけでもなく、ずっとそこにいたのだから、会話に入ってくることは不自然でも何でもないのだが。
 さすがに、このタイミングと台詞をもって割って入られると対応に困る。
 第三者の存在を忘れていたのは、楊ゼンと呂望、どちらも同じだったが、しかし、立ち直ったのは楊ゼンの方が早かった。
「痴話なんかじゃありませんよ。そういう事ではないことを一番ご存知なのは、あなたでしょうに」
「うーん。そうかもだけどねぇ。──当事者の一方として、君のご意見は?」
「え……」
 話を振られて、呂望は戸惑ったように太乙を見、そして楊ゼンへと視線を走らせる。
 咄嗟の返答ができないその様子に、視線を向けられた楊ゼンもまた、少しばかり戸惑うような色をのぞかせて。
 そしてまた、そんな二人の様子をさりげなく見つめる太乙と、三者三様の中で奇妙な沈黙が落ちる。
「……ふぅん」
 その静けさを破ったのは、やはり、なんとも暢気そうで、かつ胡散臭さを忍ばせた太乙の声だった。
「ふぅん、とは何だ、ふぅんとは」
 おそらく反射的にだろう。呂望が過敏な反応を返す。
「別にー?」
 だが、噛み付くような呂望の詰問にも、太乙は片頬杖を付いたまま、のほほんと笑んで見せた。
「初々しくていいなー、と思ってさ」
「──ドクター…」
「何? 楊ゼン」
「……いえ」
 反論、あるいは訂正を求める言葉を見つけられず、楊ゼンは言葉を濁す。
 呂望もまた同様のようで微妙な表情のまま沈黙し、その中一人、太乙だけが快活に言葉を続けた。
「ま、とにかくさ。先行きが長いか短いかは分からないけど、当分、二人だけで行かなきゃいけないんだから、仲良くやりなね。人間同士、たまには喧嘩もいいと思うけどさ」
「太乙」
「楊ゼンの除隊日は月末なんだろう? じゃあ、その日に大脱走決行ということで、二人ともいいね?」
 至極簡単に日程を決められて、楊ゼンと呂望は太乙を見つめ、それから互いの視線を見交わす。
 だが、反論の言葉はどちらの口からも出なかった。






 月末まで、残り半月。
 その後のことがどうなるのかは、まだ確かな形では何も分からなかった。






to be continued...










かれこれ1年3ヶ月ぶりのSACRIFICE続編です。
もともと考え考え書いている作品ではありますが、今回はとりわけ難産でした。
正確なことはもう忘れてしまいましたが、書き始めてから足掛け半年以上かかったのではないでしょうか。
他作品(他ジャンル含む)に気を取られていたことも遅滞の大きな理由ではありますが、これだけ文章が流れてゆかなかったのは久しぶりです(-_-;)

ともかく、楊ゼンも無事に除隊願いを受理されまして、なんとか手に手を取っての逃避行に出られそうな模様です。
あと2話(分割したので1話増えました)ばかりではありますが、もう少しだけ話は続きますので、どうぞお付き合いいただけましたら幸いです。




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