Promised Night 4








 崑崙大学の医学部は、他学部から少し離れた所にあって、大きな大学病院が併設されている。
 市内を環状に走るモノレールを大学正門前の駅から三つ目の駅で降りた太公望は、早足で目の前にそびえたつ白亜の建造物に向かった。
 簡単に迷子になれそうな建物配置を入り口の院内案内図で確かめ、午前中の外来診療時間が終わりに近づいたこの時刻、多くの患者や職員、見舞い客などで混み合う通路を南棟へと急ぐ。
 4021号室、と呪文のように心の中で呟きながら、随分長く感じる距離を歩き、エレベーターに乗って。
「南棟四階は、内科の病棟か……?」
 降りた所の表示を確かめて、また歩き出す。
 そして、案内に従って幾つか目の角を曲がった時。
 廊下の壁にもたれて立っていた背の高い人影が、こちらを認めて軽く手を上げた。
 心臓がひどく騒ぐのを感じながら、太公望は途端に鈍った足取りで、ゆっくりと近付く。
「韋護……?」
「よう、先生」
 あまり手入れをしていないらしい癖毛に古びたチューリップハットを被った、なんとも構わない身なりの青年には、確かに見覚えがあった。
「ちゃんと来てくれたんだな」
「お…ぬしが来いと言ったのだろう?」
 先程の電話の時のようなややぞんざいな敬語さえも使わない、くだけた口調に、しかし注意をすることもできないまま、太公望は韋護を見上げる。
「ああ。さっきは何の説明もしなくて悪かったな。ただの過労だなんて言ったら、来てくれなさそうな気がしたもんだからよ」
「過労?」
「そう。今朝、突然ぶっ倒れたんだ。たまたま仕事で俺が昨日から泊り込んでたから良かったものの……。そうでなきゃ、これから年末年始の帰省ラッシュで市内の人口はぐっと減るし、下手したら一ヶ月後に腐乱死体で発見されてたかもな」
「な……」
 あまりと言えばあまりな韋護の物言いに、太公望は眉をひそめる。
 だが、気にする様子もなく、青年は表情も変えずに続けた。
「で、びっくりしてここに担ぎ込んだんだが、医者が言うには、ただの過労だそうだ。つっても栄養状態もあんまり良くなくて、ちょっと衰弱気味らしい」
「え……」
「大事を取って入院は三日。手続きは俺がしといたから、そんじゃ後はよろしく」
 そう言うなり、横をすり抜けてエレベーターの方へと向かいかけた韋護のコートの背中を、太公望は慌てて掴む。
「どこへ行く!?」
「どこって、楊ゼンのマンションに決まってるだろ。俺は仕事中だったんだって。これまでもほとんど実務は俺がやってたつもりだったんだが、いざ一人立ちとなると、あれこれ意外に面倒でさ」
「誰もそんなことは聞いておらん!」
 本気で帰ろうとしているらしい韋護のコートを、全身の体重をかけて引き止めるようにしながら、太公望は頭二つ分ほども背の高い青年を見上げた。
 が、無造作に伸びた前髪の隙間からこちらを見下ろす瞳のひどく冷静な色に、不意に気付いて。
 思わず韋護の顔を見直す。
「──あのさ、先生」
 その視線の先で、老成した顔立ちが、物言いたげな表情で小さく溜息をついた。
「何…だ?」
 それだけのことに、ひどく神経を逆撫でされるような気がして、太公望はその感覚を振り払うように数度まばたきをする。
「あんたは言われなきゃ分かんねーほど馬鹿じゃないと思うんだが……。まさか、楊ゼンが倒れた原因に心当たりがないなんて言わねーよな?」
「──!」
 ずばりと切り込まれて、太公望は目を見開く。
 その大きな瞳を見下ろして、以後は言葉を選ぶように自分の首筋を大きな手で掻いた。
「一応、話は全部聞いてんだ。あ、赤の他人の俺になんで話したって怒っちゃいけねーぜ。あいつ、本当にずっと心底悩んでたんだからよ」
「───…」
「でな、俺はあんたの気持ちが分かんなくもねーんだ。俺も家族がいねーからな。今更どっかの誰かと家族になるってのは、正直、かなり厳しいと思うよ。もう十年以上、一人きりだったんだからな」
 訥々(とつとつ)と喋る韋護の声は、不思議な温かみを帯びていて。
 太公望は、また先程とは違う意味で目をみはる。
 この経済的な理由により留年を重ねている青年は、自分より一つ二つ年上のはずだったが、単に年齢差だけではない何かを持っている、と冷静な瞳の色に、直感するように感じて。
 コートを掴んだまま、何も言わずに見上げる太公望に、韋護もまた、特に表情を変えないまま、言葉を続けた。
「でも、あんたは逃げ腰でも、あいつは真剣なんだ。それを無碍(むげ)にしちゃなんねーってことは、あんたも分かってるだろ? だったら、逃げ回ってねーで、ちゃんと話をするべきだぜ」
 降ってくる言葉は厳しい。
 だが、決して太公望を咎めるのではなく、淡々と諭すような物言いに、太公望は反論するきっかけを見つけられなくなる。
「付き合いを続けるにしろ別れるにしろ、ちゃんと話して、あいつが納得できるようにしてやってくれや、先生。あんたにプロポーズ断られてから、楊ゼンの奴、マジでまともに食ってもねーし寝てもねーんだぜ。ぶっ倒れるのも当然だって」
 それくらいあいつは真剣なのだと暗に告げて、韋護はさりげなく自分のコートを引っ張った。
「さっき点滴が終わったから、今は寝てると思うぜ。じゃあな、先生」
 するりと手の中から逃げてゆく布地を掴み直すこともなく、太公望は遠ざかってゆく背中を見送る。
 古びたコートのシルエットが、角を曲がり見えなくなって、ようやく太公望は中途半端に浮いたままだった手を下ろした。
「────」
 淡々と綴られた率直な言葉が、ゆっくりと太公望の内部を巡り、心に縫い止められてゆく。
 うつむき、廊下を見つめていたまなざしを上げて、太公望はゆっくりと4021号室のドアを見つめた。
 横にスライドするタイプのドアは、今は静かに閉ざされている。
 ドアの横にあるネームプレートは一人分で、ここが個室であることが知れた。
 二、三歩近付いて、白い小さなプラスチック板に黒マジックでかかれた名前を見つめる。
 そして、自動開閉ボタンを押すべく手を上げかけて。
 ───身の内を走った緊張に、動きが止まる。
 それでも、一旦小さく唇を噛んでから、ゆっくりとボタンを押したのは。
 今は寝ているだろうという青年の言葉に、背を押されたからだった。












 ドアは、小さな音を立てて開いた。
 だが、案じていた誰何(すいか)の声はなく、室内はしんと静まり返っている。
 そのことを確かめてから、そっと太公望は病室内に足を踏み込んだ。
 開けっ放しにするボタンを押されなかったドアは、その背後で開いた時と同じように、ゆっくりと静かに閉まる。
 わずかに薄紅の入ったやわらかなベージュで統一された室内は、おそらくやや高めの料金の病室なのだろう、それほど狭さを感じさせない。
 その中を見渡してから、太公望はゆっくりとベッドに歩み寄った。
 ───十二日ぶりに、見る顔。
 ベッドサイドに立ち、静かに眠る姿を見下ろす。
 何日も会わなかったことがないわけではない。太公望自身も国内及び海外出張がたびたび入るし、長期休暇のたびに楊ゼンも帰国していたから、半月以上会えないことも別段珍しくはなかった。
 けれど、三日以上声を聞かずに過ごしたことは、付き合い始めて以来、一度もなかったように思う。
 互いの仕事の都合で一日や二日、電話する暇さえ作れないことはあったが、それでもスケジュールの合間を縫ってできる限り連絡は取り合っていて、まったくの空白時間が十日以上も存在したことは、この一年間、一度もなかった。
 すぐには目覚める気配のない楊ゼンを見つめながら、別れの言葉を告げてしまえば、もう会わない日々が日常になる──もしかしたら、もう二度と会うこともなくなるのだ、と太公望は考える。
「────」
 もう二度と会えない。
 声を聞くこともない。
 そう考えた途端、強い拒絶の思いが胸の奥から突き上げてきて。
 その思いがけない圧力に、太公望は小さく顔をしかめる。
 ───けれど。
 だからといって、どうするというのか。
 結婚も婚約もしたくない。けれど、別れたくもない。
 真剣に二人の将来を考えている相手に対し、そんな勝手な言い分があるはずもない。
 我儘も大概にしろと自分を叱咤し、太公望は湧き起こる未練をやり過ごそうとする。
 そして、きつく唇を噛み締めたまま、改めて楊ゼンを見つめた。
 韋護が、求婚を断られて以来、まともに眠ることも食事することもしていないと言っていたのは、決して嘘ではないのだろう。もともと無駄のない顔の輪郭が、記憶にあるよりも少しだけ尖って、端正な顔立ちには隠しきれない陰りがある。
 だが、白い病院のシーツの上に、長い髪は変わらず鮮やかな抽象画のような流れを作っていて。
 それに指を伸ばしかけて、太公望は触れ合う寸前で手を止め、引き戻す。
 ───起きている間は別に何かしたいとは思わないのだが、同じベッドで眠る時には不思議と、さらさらながれる髪が気になり、飽きもせずに指を絡めていじることが良くあった。
 そんな時、楊ゼンは文句も言わず、ただ優しい瞳でこちらを見つめていて。
 それだけのことが何故か、とても安心できた。
「────」
 思い返してみれば、本当に優しい思い出ばかりだった。
 願望を口に出すことにためらいを感じる太公望に対し、楊ゼンはいつでも率直な言葉や態度をくれた。
 太公望が寂しさや不満を感じる前に、先回りして、会いたいと言っては本当にスケジュールの都合をつけて会いにきたし、どんなに忙しくても電話やメールを忘れることはなかった。
 太公望のためなら何でもしようとしてくれたし、逆に太公望が何かをしてやれば、それがどんなに小さなことでも、本気で嬉しそうな表情を見せた。
 だが、それらは一体どれほどの努力の上に成り立っていたものなのか。
 忙(せわ)しない日常の中で、どれほど楊ゼンがこちらの都合を優先していてくれたのか、こうして離れてみると今更ながらに良く分かる。
 努力することを放棄してしまえば、自分たちが何日も会わないでいるのは、こんなにも簡単なのだ。
 今にして思えば、付き合い始めて一番最初に、楊ゼンが一緒に暮らしたいと言ったのも、ただ恋の成就に浮かれての言葉では決してなかった。ただでさえ少ない共にいられる時間を、ほんの少しでもいいから長くしたいという切実な思いから出た願いだったのに違いない。
 けれど、太公望はその言葉にうなずけなかった。
 確かに高校時代から大学院を卒業するまでは、寮で共同生活を送っていた。
 だが、それは家族と暮らすのとはまったく異なる生活であり、年度が変わるたびに共同生活者の顔ぶれは、入れ替わるのが当然だったのだ。
 それなのに、何年も何十年も同じ相手と……しかも、元は赤の他人と生活を共にするというのは、長年、そういう暮らしから離れていた太公望にとっては、既に未知のもの、不安を掻き立てられるだけのものでしかない。
 韋護が指摘した通り、楊ゼンを受け入れた心に嘘はなくとも、簡単に乗り越えられるほど、一度は失った家族という存在に対する太公望の心理的葛藤は軽いものではなかった。
 それに加え、同棲を楊ゼンが口にしたのは、もう早々と将来的な別離をひそかに覚悟した後だったのである。
 不安を乗り越えようというエネルギーが、そもそもから絶対的に不足していたのだ。
 そして今回、楊ゼンのプロポーズを受け入れられなかったのも、つまりはそれと同じ延長線上のことに過ぎなかった。
 ───たとえ一生、想いが変わらなかったとしても、死は誰の上にも平等に訪れる。
 再び家族を得て一人でなくなることも、いつかまた、その家族を失い、一人取り残されることも。
 もう何一つ経験したくないのだ。
 楊ゼンという存在を得ることも、失うことも。
 どちらも同じくらいに、太公望にとっては恐怖の根源でしかない。
「すまぬ……」
 普段は偉そうなことを言いながら、どうしようもない己の弱さに、太公望は顔を歪める。
「失うくらいなら最初からいらぬなどと……。まるで子供のようだな」
 それが楊ゼンを苦しめていると分かっていても、どうしても怯える心を抑えることができない。
 楊ゼンのことは本当に大切に想っているはずなのに、扉の前で足がすくんでしまうのだ。
「本当に、こんなことになるくらいなら、最初からおぬしを受け入れなければ良かった。一年前、中央公園になど行かなければ良かったな」
 きっと寒空の下で、何時間も自分を待ち続けているのだろうと思っても。
 あえて心を鬼にして、見捨てるべきだった、と何度も何度も悔やんだことを、太公望はまた心に苦く噛み締める。
「わしは……おぬしが好きだよ。それだけは嘘ではない。だが……」
 怖いのだ、という言葉を飲み込んで、ぎゅっと目を閉じる。
「すまぬ」
 もう他に言葉は見つからなかった。
 そして。
 目を開き、もう一度寝顔を見つめてから、楊ゼンの髪一筋にさえ触れることなく、ゆっくりとベッドの側を離れ、病室を出るべくドアに向かう。
 韋護がせっかくの諫言をくれたのに、やはり裏切ってしまったなと思いながら、ドア横の開閉ボタンを押して。
 小さな音を立てて、金属製のドアがスライドした、その時。


「──師叔…?」


 穏やかな色合いの病室の空気を揺らした、かすれた低い声に。
 心臓が止まりそうになった。
「師叔」
 久しぶりに聞く、自分を呼ぶ声に。
 思わず身体が震えて、涙が零れそうになる。
 身動きもできずに立ち尽くした太公望の目の前で、開いたドアが再びゆっくりと、元通りにスライドして閉まる。
 それで、朧気ながらも状況を把握したのだろう。
「師叔、行かないで下さい」
 幾分はっきりした声で、楊ゼンが呼びかけてくる。
 一瞬、激しくためらったものの、その切ないほどに真摯な響きに抗うことはできなくて。
 太公望はぎこちない動きでベッドを振り返った。
 ───わずかに体を起こしかけた姿勢で、まっすぐこちらを見つめる瞳。
「太公望師叔」
 その瞳と声にいざなわれるように、太公望はためらいながらも、震えそうになる足でゆっくりとベッドサイドに戻る。
 そんな太公望を見つめたまま、やはり起き上がっているのは辛いのか、楊ゼンは元通りに枕に頭を預け、そして、先程よりも少しだけ距離をおいて枕元に立った太公望を見上げた。
 状況を把握しようとするように、楊ゼンは数度まばたきを繰り返し、
「──韋護君ですか」
 何がどうなって自分と太公望がここにいるのか、記憶の空白を繋ぐ存在に思い当たったらしく、落ち着いた声で問うでもなく呟く。
「少し痩せましたね……」
 それから、見上げる瞳に痛ましげな色を滲ませて、ゆっくりと手を上げた。
 ───優しい指先が、そっと頬に触れる。
「僕の、せいですね」
 そのいつもよりもずっと冷えた指先の感触と。
 自分自身を責める声に、太公望は楊ゼンには見えない位置で手を握り締める。
「別に痩せてなどないし、たとえそう見えたとしても、おぬしのせいではないよ」
「いいえ。ちゃんと測ってみて下さい。二キロ以上減っているはずですよ。ただでさえ、あなたは細いのに……」
 揶揄ではなく、本気の心配の滲んだ声で楊ゼンは呟く。
 その言葉の内容よりも、いつもより低く艶のない声が胸に突き刺さるようで、太公望はそれ以上の反論はできなくなる。
「───…」
 目線をベッドの端に落としたまま、立ち尽くす太公望を見つめて、楊ゼンはごく小さな溜息をついた。
「師叔」
 低い声に呼ばれて、細い肩がびくりと震える。
「何も聞きたくないでしょうけど……少しだけ、僕の話を聞いて下さい」
 この間は、感情的になってしまって言うべきことを全部言えなかったから、と静かに告げる楊ゼンに。
 太公望は、顔を上げないまま全身の緊張を強める。
 その張り詰めた気配に、太公望を気遣うような色を瞳に浮かべつつも、しかし楊ゼンは諦めはしなかった。
 ───これを逃したら、もう次の機会はない。
 どちらもが感じているそれは、おそらく事実であり、だからこそ太公望も、耳を塞いで病室を逃げ出すことは、もうできなかった。
 もしかしたら、これが本当に最後になるのかもしれないと思うと、どんな言葉でも聞かないわけにはいかなくて、太公望はぎゅっと手のひらを握り締める。
「韋護君から何か聞いたかもしれませんが……僕は、まったくあなたの気持ちが分からないわけではないんです」
 そんな太公望にゆっくりと言い聞かせるように、楊ゼンは言葉を紡ぎ始める。
「多分、あなたが家族を持つことに抵抗を感じていることも、その理由も分かっている。……多分、正確に理解しているだろうと思います。それでも、敢えて僕があなたにプロポーズしたのは、あなたの心理を理解できても、納得はできなかったからなんです」
 楊ゼンの声は、静かだった。
「これまでずっと一人でいたのに、いきなり家族という存在に慣れることができるはずはありませんし、せっかく得た家族を失うのが怖いという気持ちも、あって当然のものです。そういう感情を否定する気は、僕にもありません。
 ですが師叔、どうしてそれが僕たちが一緒に生きてはいけない理由になるんですか?」
「え……」
「人間は誰だって、いつかは死にます。けれど、それは明日かもしれないし、五十年後かもしれない。余命のはっきりした病気にでもならない限り、その人がいつ死ぬかなんて誰にも分からないんです。いいえ、医者の告げた余命でさえ当てにはならない。人の死なんて予言できるものではないんです。
 なのに、平穏無事に過ぎれば八十歳まで生きられるかもしれないのに、その六十年後の別れを避けるために、今、別れるというのはおかしな話でしょう? いま生き別れるのも、六十年後に死に別れるのも、身を引き裂かれるくらいに辛いのは変わりません。少なくとも、僕にとっては同じことです」
「───…」
「それに、家族という単位に慣れないのは、僕も同じです。むしろ、父親が多忙で滅多に家にいなかった分、僕の方が家族と過ごした経験は少ない。
 だから、一緒に暮らす上で無理をする気はないんです。全然違う環境で育った者同士、長い時間をかけて少しずつ生活習慣や考え方を擦り合わせていけばいい。やれることを一つずつ、やっていけばいいんです。
 確かに結婚してしまえば、法律的にお互いへの責任や義務は生じますけど、相手を裏切らない努力は恋人や友人でも必要でしょう? 伴侶への責任も、その延長線上にあるものだと考えれば、むやみに重く感じるようなものではないはずです」
 低く、ゆっくりと語る声を聞きながら、いつしか太公望はうつむいた顔を上げていた。
 まっすぐに見つめてくる瞳に視線を絡め取られ、目を離せないまま、楊ゼンの言葉が少しずつ、自分の心に染み込んでくるのを感じる。
 その慣れない感覚に、戸惑いを感じながらも、不思議に抗いたいとは思わなかった。
「それから、これはもっと早く言うべきだったのかもしれませんが……僕は、自分が引き継いだ後の金鰲グループを世襲制にする気はありません。僕の場合は、たまたま経営者としての適性がありそうだから早くに指名されたというだけの話で、今はもう企業の世襲制が通用するような時代じゃありません。
 だから、僕は自分の後継者は、血縁以外を選ぶつもりでいます。これは、あなたに出会う前から考えていたことで、父も了承済みです」
 そう告げる楊ゼンの瞳が、更に深く冴えた色を帯びる。
 その強い意思を宿した光に、太公望は、人の上に立つ者の瞳を見て、小さく目をみはった。
 楊ゼンと知り合ってからは、もう四年近くになる。
 だが、彼がこんな瞳を自分に見せたのは初めてだった。
「師叔、僕は、あなたの性格や考え方がまったく読めないほどの子供ではありません。あなたが僕の将来や世間体を気にかけて下さっていることくらい分かります。
 でも、それは余計なことだと言って、あなたは分かってくれますか?」
「───…」
「せっかく心配して下さっているのに申し訳ありませんが、僕は本来、世間体などどうでもいいと思っている人間です。自分と自分の大切な人さえ幸せなら、とりあえずはそれでいい。他人に何を言われようと、まったく気になどならないんですよ」
「楊ゼン……」
「だから、もしかしたら僕のそういう部分が、あなたには辛いかもしれません。僕はあなたとは逆で、あなたに金鰲グループ総帥の伴侶として、事あるごとにマスコミに注目されてしまう生活を耐えて欲しいと思っているんですから。
 でも、他人の目などというものは、気にしなければ本当にそれで済んでしまうものなんです」
 楊ゼンのまなざしは、どこまでも真剣で。
 太公望は反論することも、口を挟むこともできない。
「僕は、あなたを愛していることを誰にも恥じる気はありません。もし将来、子供が欲しくなったら……自分という存在を誰かに引き継いで欲しくなったら、養子を迎えればいい。
 親のいない子供、大人の手助けを必要としている子供は世界中にいくらでもいるんですから、本当に子供が好きなら、そういう子供たちの里親になって援助してあげればいいんです。血の繋がった実子でなければ嫌だと思うのは、親のエゴであって愛情ではないでしょう?」
 落ち着いた口調で楊ゼンが語る言葉は、これまで決して口にはしなかったことばかりだった。
 将来のことを話そうとすると、必ず自分が逃げていたからなのだろうが、すぐ傍にいながら彼がこんな風に考えていることさえ知らなかったことに太公望は少なからぬ衝撃を受ける。
 ……もしかしたら。
 楊ゼンは自分が思っていたよりも、ずっと成熟した人格を持っていたのではないか、と。
 彼をただの年下の青年だと思っていた、これまでは考えもしなかった可能性の存在に気付いて。
 自分の中の何かが、大きく揺らぐのを感じる。
「あと……、これは時期がくるまで、話すつもりはなかったことですが」
 みはった大きな瞳をまばたかせる太公望から、わずかに目を逸らして前置きし、楊ゼンは続けた。
「しばらくの間は無理ですが、将来的には本社は誰か適任者に任せて、僕はこっちで子会社を立ち上げて好きなように経営をやるつもりです。どんなに遅くとも、二十年後までには」
「な……」
 つまり、それは。
 ───太公望が崑崙大学の総長に就任するまでに、楊ゼンは金鰲グループの総帥を引退するということ。
「それは……!」
「その代わり、」
 驚愕と反論の入り混じった声を遮るように、楊ゼンはまなざしをまっすぐ太公望に向ける。
「それまでは、できることなら、あなたにボストンで一緒に暮らして欲しい。僕がどうしても、この春からは向こうに戻らなければならないように、あなたの都合があることも分かってますから、こればかりは無理は言いませんが……」
「そんな……、楊ゼン……」
 言葉を探しあぐねて、太公望は楊ゼンの瞳を見つめたまま、強い戸惑いに瞳を揺らす。
「金鰲グループはおぬしの父君が創り上げて、おぬしに引き継がせることを望んでいたものなのだろう? そして、おぬしもそのために幼い頃から努力してきたのではないか。それを、そんな……」
「僕の父は、確かに後継者としての僕に期待をしていますが、だからといって息子の幸せの邪魔をするような石頭でもありませんよ」
 太公望の反論を、楊ゼンはあっさりと否定した。
「そもそも父自身が、結婚に関しては、周囲の反対を蹴散らかして自分の意思を貫き通した人ですしね。やるべきことをやるという条件付きであれば、僕が愛する人と好きなことをしても、文句を言ったりはしません」
 その言葉を聞きながら、太公望はだが、と思う。
 そもそもそれらのことはすべて、伴侶に自分を選ばなければ生じない問題なのではないのか、と。
 けれど、その反論をも楊ゼンは許さなかった。
「師叔、僕が言いたいことはこれで全部です。何があろうと、僕はあなたとは別れたくない。この命が尽きるまであなたと共にあるためなら、どんなことでもできるんです。何一つ、惜しむ気はありません」
 そして、これまでで一番真剣な瞳で、太公望を見つめる。
「太公望師叔。しつこい、悪足掻きするみっともない男だと思われるかもしれませんが、もう一度だけ、僕との結婚について考えて下さいませんか。
 それで、やはり駄目だとおっしゃるのなら……今度こそ本当にあなたを諦めますから」
「───…」
 何か言おうとして、言葉にならず。
 痛ましいほどに静かな、覚悟をしつつも最後の望みをかけた瞳を、目を逸らせないまま見つめて。
「───分かった」
 随分と長くためらった後。
 かすかにうなずいた太公望に、楊ゼンは初めて小さく微笑んで、ありがとうございますと低く呟いた。
「そう言って下さるだけで……変な話ですが、僕は十分です。あなたがやっぱり結婚できないと言っても、これで受け入れることができる」
 決して嘘ではないとはっきり分かる、その剥き出しの言葉に、胸をかきむしられるような気がして。
「師叔、僕は一月末で、あの部屋を引き払いますから」
 暗にリミットを告げる言葉を最後に、太公望はそれ以上何も言えないまま、足早に病室を出た。






to be conthinued...










ようやく佳境に入ってきました。
年末年始で公開作業を終えるはずが、こちらも他ジャンルに気を取られて予定が大幅に遅れてしまいました。
もう桜も散りかけというのに、クリスマス前のお話ですよ……。

トレンディドラマなストーリーも残り3回といったところでしょうか。
できる限り作業を急ぎますので、よろしくおつきあい下さいませ〜m(_ _)m





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