Dusk Memory 2








「本当に寒くなってきたよねー」
「スイスの寒さに比べれば、どこだってマシだ」
 憮然と答えた声に、招かれざる客人は、あははと笑う。
「よっぽど寒かったんだね、あっちは」
「決まっとるだろう。辺り一面雪だぞ。何が楽しくてこの時期に、あんな場所でシンポジウムをせねばならんのだ」
「でも、一面雪だと警備が楽なんじゃないの? 見渡す限り真っ白なら、要人を狙ったスナイパーも身を隠しにくいだろうし」
「おぬしは007の見すぎだ」
 呆れた口調と声で言いながら、太公望は玄米茶の入った湯呑みを太乙に渡した。
 冬を感じさせる晩秋の夕方には、品良く煎れた緑茶よりも熱い玄米茶の方が似合う。
 太乙は、座って両肘を机についた格好で、太公望は机に寄りかかって立ったまま、それぞれの茶をすすった。
「でも、007はいいよね。ストーリーがセオリー通りなのはいただけないけど、それなりに毎回楽しめるし。けど私は、ゴッドファーザーの方が好きかなー」

 ───科学オタクであれば、さぞ最新の技術を駆使した大作を好むだろうと思いきや、太乙は案外、旧い映画のリバイバルばかりを見ている。
 本人曰く、SFを見ると、いちいちロボットの動きだのコンピューターの機能だのに突っ込みたくなって、科学考証の甘さに腹が立つばかりで楽しめないため、見るのをやめたらしい。

「スパイもマフィアもどうでもいいが、今日は何をしに来たのだ? 玉鼎は、わしと入れ替わりで今週中は出張だということくらい、知っておっただろうに」
「そりゃもちろん」
「では、何故この寒いのに工学部から経済学部まで遠征してくる?」
 熱い茶を飲んで温まったところで、帰り道にまた冷えるだろうと眉をしかめる太公望に、しかし太乙はのほほんとした笑みを向けた。
「でも、玉(ギョク)はいなくても君はいるしね」
 そして、またずずっと茶をすする。
「第一、近頃は玉も卒論修論指導で忙しくて、遊びに来てもあまり相手にしてくれないんだよ」
「それなら、最初から遊びに来るでない。おぬしだって卒論指導があるだろうが」
「でも、私から行かなきゃ、君たちは工学部まで会いに来てくれないじゃないか」
「当たり前だろう。普通に歩いたら十分以上かかる距離だぞ」
「それでも来るのが友情ってもんだろう?」
「───…」
 どうも会話が空回りしているような気がして、太公望は口をつぐむ。

 太乙は遠い姻戚でもあり、太公望が子供の頃から互いに知っている気心の知れた相手である。が、時々、彼が何を考えているのか太公望には把握できなくなる。
 単に五歳の年齢差だけが原因ではなさそうなのだが、いかんせん、どちらも既に成人しており性格が固定してしまっているため、すれ違いを打開しようという気もなく容認してしまっている。
 というより、むしろ諦め気味の太公望に対し、太乙の方は、それを面白がっているのが見え見えだった。

「そういえば、しばらく姿見てないけど楊ゼンは元気? 修論も、そろそろ大詰めの時期だろう?」
「──とりあえず論文は順調なようだよ。細かいことは知らぬが」
「ふぅん」
 頬杖をついて微笑を浮かべる太乙の様子が、ふと太公望の気に障る。
「……何だ?」
「いや、不満そうだなあと思って」
「わしが?」
「今、私の前に他に誰かいるのかい?」
 くすりと笑う太乙に、太公望は眉をしかめた。
 だが、気にも留めずに太乙は言葉を続ける。
「けど、君も意外にけなげだよね。恋人が愚痴を言ってくれないのが不満だなんてさ」
「な……!」
 羞恥なのか憤りなのか、太公望の頬にさっと赤味が差すのを太乙は面白げに見やった。
「忙しいし、疲れてるはずなのに、愚痴も言わなければ論文の執筆に関して相談を持ちかけることもない。できすぎた恋人ってのも、時と場合によっては歯痒いよね」
「───…」
 太公望は何か言い返そうとして、しかし、何を言っても墓穴を掘りそうなことに気付き、口をつぐんだ。

 口は達者なはずなのに、ことが恋愛絡み、年下の恋人絡みになると、途端に彼は言い逃れ一つをとってもおそろしく不器用になる。
 そんな彼が珍しく、また可愛いやら面白いやらで太乙を始めとする先輩同輩たちは絶好のからかいの種にするのだが、太公望自身はそれが大嫌いだった。
 しかし、そうと知っていても意に介すような面々ではないのである。

「彼も、あの歳で大したものだよね。さすがに巨大企業の後継者だけはある。まぁ、それくらいのタマでなければ、君の恋人なんかつとまらないだろうけどさ」
 君みたいに小難しい性格をしている人間も、そうそういないもんね、と続けられて、太公望は更に憮然とした表情になった。
「……どうせ、わしはひねくれておるよ」
「そのくせ、妙なところで不器用だったり素直だったりしてね。本当に見ていて飽きないと、私でも思うよ」
「────」
「でも、もう君たちが付き合い始めて一年近くになるんだね。時間の流れは速いなぁ」
「一年を短く感じるのは、年を取ったからだろう」
 脈絡のない感慨に、つっけんどんに太公望は茶をすすりつつ返したが、太乙は意地の悪い指摘に反論するどころか、しみじみとうなずく。
「ホントホント。若いつもりでも、一年や二年前の事なんて、つい先日の事に思えるしね。年を取るのは別に嫌じゃないけど、このまま体感時間が加速してったら、あっという間に墓場行きだよ」
 やりたいことはまだ山程あるのに、とぼやくように口を尖らせた太乙に、太公望はこっそりと溜息をついた。
 もともと太乙は、太公望が十五年前に知り合った頃から食えない性格をしていた。が、年々、神経が太くなっていくようで、昔はもう少し顕著に反応していた気がする嫌味や皮肉にも、近頃はまったく動じない。
 太公望としては、自分ばかりが遊ばれているようで、面白くないことこの上なかった。
「……そういえば、今年のお彼岸は一緒にお墓参りに行ったんだって?」
「──ああ」
 脳裏に彼への文句を並び立てていたために、一瞬、太公望の返事が遅れる。
 口調はさりげなかったが、それだけ唐突でもあり、また思いがけない話題でもあった。
「……おぬしも行ってくれたのだろう? 礼を言うのが遅れたが、わしが行った時、墓の周りが綺麗になっていて嬉しかったよ」
「都合がつかなくて、少し時期が早かったからね」
 頬杖をついたまま、太乙は穏やかに微笑した。それから、まなざしを伏せるようにして続ける。
「意外だった……と言ったら怒るかい?」
 静かな声に、何を、とは太公望は問い返さなかった。
 聞かなくても、彼の言葉が夏の終わりの一連の出来事を指していることは明白だった。
 実際、太公望の反応を待たずに太乙は、ゆっくりとした口調で付け加える。
「まさか、君に傷口を再確認するような真似ができるとは思わなかったから、夏の旅行先を楊ゼンから聞いた時には驚いたよ」
「……それこそ失礼な言い草だのう」
 だが、そう言われても仕方がないか、と珍しくも太公望は反論することなく溜息をつく。
「十年以上、わしが逃げ続けていたのは事実だからな」
「そういう自虐的な物言いは良くないよ」
 微苦笑するように太乙がたしなめる。太公望は答えないまま、空になった湯呑みを両手のひらの中でもてあそんだ。
「まぁ最初に意地の悪い言い方をしたのは私だけどね。だからといって、それを素直に聞いて自己嫌悪に陥る必要はないさ。気にしていたのなら、それはそれで可愛いけど」
「おぬしに可愛いと言われても嬉しくない」
「楊ゼンなら嬉しいんだ?」
「……一応、これでもわしは男だぞ。可愛いと言われて喜べるか」
 じろりと睨んだ太公望に、しかし太乙は、ぽんと手を打つ。
「ああ、そういえば楊ゼンもそんなこと言ってたかな。君が絶対に怒るから、滅多なことでは可愛いと口に出せないって、以前ぼやいてたことがあるよ」
「───あやつは……」
 一体どこで何をほざいているか知れたものではない、と太公望は拳を握り締める。
 羞恥心が強く、恋愛については秘密主義な太公望にとって、あちらこちらにのろけ惚気を告げて回る楊ゼンの口は鬼門にも等しい。
 楊ゼンは、気遣い応援してくれる人々へのいわば恩返しだと主張するが、だからといって、太乙たちに逐一報告する必要が一体どこにあるのかと太公望は思う。
「いいじゃないか。確かにごちそうさまとは思うけどさ、それを聞いて、仲良くやってるんだなって私たちも安心するわけだし」
「何故、わしが恥ずかしい思いをしてまで、おぬしらを安心させてやらねばならぬのだ」
「だって、私たちは皆、君の保護者のつもりだし」
「そんなもの、持った覚えはないわ!」
「つれない……」
 昔はあんなに可愛かったのに、と恨みがましいそぶりでよよよとなる太乙に、太公望はふんとそっぽを向く。
「茶化しに来たのならさっさと帰れ」
「ひどいなぁ」
 私は大真面目なのに、とぼやきつつも、太乙はけろりとして顔を上げた。
「まぁ、とにかくね、私は少し驚いたんだよ」
 元通りに頬杖をついて、のほほんとした印象の笑みを向ける。
「あの土地へ君が出向いたことも、墓参りに一緒に行ったことにもね」
「……旅行の目的地を決めたのは確かにわしだが、墓参りはあいつが勝手についてきただけだ」
「でも、去年までの君なら、そんなこと許さなかったんじゃないかい? 楊ゼンには内緒で、何も言わずに一人で出かけたんじゃないかと思うけど」
「───…」
 否定しきれずに、太公望は押し黙る。
 確かに、これまで太乙や、幼馴染の普賢とでさえ一緒に墓参に行ったことはない。いつでも家族に会いに行くときは一人だったのである。
 それを知っている太乙が、話を聞いて驚いたのも無理からぬことではあった。

「ずっと頑なで意固地になってた君が、いくら恋人とはいえ、そう簡単に傷をさらけ出すとは思いもしなかったからさ。大したものだと思ってね。彼はああいう気質だから、何か影響は受けるだろうとは予測してたけど、想像以上に君は変わったみたいだ」
「……おぬしの目から見て、わしが変わったように見えるのか?」
「見えるよ。外から分かるだけでもこれだけ変わったんだから、中身はきっと、それ以上に変化しているんだろうね」
「───…」
 渋い表情のまま、太公望は口をつぐむ。
 まなざしを落としたその表情は、戸惑いよりも愁いの方を強くにじませていて。
 そんな太公望に、太乙は微苦笑を口元に浮かべた。
 そして、からかうでもなく静かに口を開く。
「君は変わりたくなかったんだ?」
 空調のかすかな音だけが届く部屋に、太乙のものやわらかな声がしんと響き渡る。
 決して大きい声でも、強い口調でもない。だが、その声は深く、どこまでも遠く染みわたるようで。
 誰かの声に似ている、と太公望は頭の片隅で思う。
 懐かしい、誰かの声に。
「──変わりたくなかった、わけではないよ」
 その声に促されるように、太公望は口を開いた。
「ただ……、変わることも変えられることも考えてなかったから……」
「怖い?」
 穏やかな問いかけに一瞬、迷って。
「……かもしれぬ」
 太公望は左手を握り締める。
「じゃあさ、太公望」
 彼の弱さを咎めることなく、太乙は変わらぬ口調で続けた。
「意地の悪い質問を続けるけど、楊ゼンが変わっていくのはどう思う? やっぱり怖いかい?」
「────」
 太公望の握り締めた左手に、ぐっと力がこもる。
「彼の方はどうなんだろうね? 自分や君が変わったことに気付いていると思うかい? 気付いているとしたら、それをどう感じてるのかな?」
 穏やかな声で重ねられる問いかけに太公望は答えられず、二人しかいない研究室に静寂が落ちかかる。
 窓ガラスの向こうでは既に太陽も沈み、雲を色鮮やかに輝かせる残照さえも消えていこうとしている。
 黄昏色の沈黙の中で、太公望は唇を噛み締めた。
「意地が悪すぎたかな?」
「──いや…」
 いつもと変わらない、風に揺れる柳のようにのんびりとした太乙の声に、太公望はようやくそれだけを返す。
「指摘されたくないことばかりを指摘されて、嫌になるよね」
 それに対し、太乙は微苦笑するようだった。
「でも、難しいことを質問したわけじゃない。少なくとも、君の中には答えがあるはずだ。それが本当は考えたくない、認めたくないことではあってもね」
 考えることを拒否して自分の心を見て見ぬふりをできるほど、君は馬鹿になれない、と太乙は告げる。
「……おぬしは、分かったようなことばかり言うから嫌いだよ」
 溜息をつくように言った太公望に、太乙はおや、という表情をした。
「こういうことを言わなければ、好きでいてくれるのかい?」
「たわけ」
「……そこで即答しなければ、もっと可愛いのになぁ」
 くすくすと笑う太乙に、太公望はどことなく拗ねたような、憮然とした顔になる。
 いつもより子供っぽく見える表情を見て太乙はゆっくりと笑いを収め、再び口を開いた。
「──で? 君は何をどう感じてるんだい?」
 答えを催促する声に、太公望はふいと顔をそむける。
「……おぬしにはどうせ、予想がついておるのだろう。分かっておるなら聞くな」
「そうは言われてもねぇ。なかなか放っておけるものでもないし」
 のほほんとした返答に引き下がる気など微塵もないことを感じて、太公望は眉をしかめた。
「私は、逃げること自体は別に悪いと思わないんだけどね。一旦逃げて、体勢を立て直してまた頑張るというのは卑怯でも何でもないだろうし。ただ、今ここで君が逃げるのは、ちょっと違う気がするんだな」
「───…」
「君も案外、隠し事が下手だからね。秋に入ってから急に何か迷いだしたのは見ていてすぐに分かったよ。それがあまり性質(たち)のいいものじゃないこともね。君も、それは分かっているよね」
 そうでなければ言われっぱなしのはずがない、と微笑し、黙りこむ太公望を、やわらかなまなざしで太乙は見やる。
「ここまでお節介をするのは本意じゃないんだけど、このままじゃ埒が明きそうにもないから、こちらから言わせてもらおうと思ってさ」
 そう言って笑顔になり、おいでおいでと手招きをする太乙に、太公望は何度目になるか知れない溜息をついた。
 だが、無駄に逆らうことはせず、コの字型に並べられた長机の角を挟んで太乙と向き合う位置の椅子に、渋々ながらも腰を下ろす。
 そんな太公望を、太乙は満足げに見つめた。
「君の何が変わったって、こうやって素直に人の言うことを聞くようになったことだよね。耳に痛い話から逃げなくなったのは本当に偉い」
 幼児に対するような褒め方をされて、太公望はますます憮然とした表情になる。が、太乙はお構いなしだった。
「今から述べるのは完全に私の私見だから、異論があったら自由に発言してくれていいよ。そもそも、これは君の問題なんだしね」
「…………」
 他人の問題に嬉々として口出しをすること自体が間違っているのではないか、と太公望は思ったが、かといって強く出られる現状でもなく、沈黙して次の言葉を待つ。
 空になった湯呑みの輪郭を指先でなぞりながら口を開く太乙の、わずかに傾けた頬から、肩の辺りで切り揃えられた癖のない髪が幾筋かさらりと零れ落ちた。

「まぁ君自身のことは、君が一番良く分かってるだろうから置いといて……問題は彼の方だね。出来すぎなくらいに頭は切れるし、その上、君の事に関する勘の鋭さは尋常じゃない。頼りにするつもりなら、これ以上の相手はいないだろうけど、反面、逃げようと思ったら非常に都合の悪い相手だろうね」
「────」
「ただ、彼は君の心理に気付いていても、君に気を遣い過ぎて何も言い出せない。付け込む点があるとすれば、そこだ。実際、彼が何も言わないのをいいことに、君はだんまりを続けてる。
 けれど、彼も見て見ぬふりをずっと続けられるほど悟っているわけでもない。タイムリミットも迫ってきてるしね。それが分かってるから、君も最近、煮え詰まってるんだろうけど」
 面白くない顔をしながらも、太公望は反論はしなかった。
 太乙の言う通りなのだ。
 太公望自身が、ある問題については逃げ続け、そして、楊ゼンがそれを分かっていながら敢えて追求しないという構図は、一番最初からずっと二人が口に出さなくとも感じ続けていた、目に見えない刺だった。
 それが今、楊ゼンの卒業という転機を前にして、どうやってもごまかせない、無視し得ないところまで浮かび上がってきた。それだけのことなのだ。
「それで……、端から見ていて僕が一番問題だと思うのはね、この一年で君も楊ゼンもそれぞれ変わりつつあるのに、君は自分と相手が変化することに戸惑いを感じてるということだよ」
「────」
「変わってゆくものはどうしようもないのに、君は今になって、そこから目を背けようとしている。節目が目の前に迫って、もう限界だと思ったのかい?」
 穏やかだが、容赦のない糾弾に太公望はまなざしを伏せる。うつむいた表情は悔しげでもあり、また苦しげでもあって。
「これ以上、彼を変えてしまうこと、自分が変わってしまうことが怖い?」
「───…」
 何か言いかけて、結局言葉にならないまま、太公望は再び口を閉ざす。
 そんな太公望を何ともいえないまなざしで見やって、太乙は軽く溜息をついた。
「──一見しただけでは分からないけれど、君の中には恐怖の種がたくさん在る。強いように見えて、本当は君には怖いことばかりなんだ。誰かに好かれるのも、先の事を考えるのも」
 静かにそう言い、そしてうつむいた太公望の髪に手を伸ばす。
「でもね、楊ゼンはちゃんとそれに気付いてるよ」
 驚いて顔を上げた太公望の瞳を見つめ、やわらかな髪を撫でながら太乙は微笑した。
「分かってて、それでどうしたら君を怖がらせずにすむか、いつも考えてる。彼は本当に君を大切にしてるよ」
 その言葉に。
 見開いたままの太公望の大きな瞳に、一瞬、泣きたいような色がよぎった。
「それに彼は、自分が選んだ道を後悔するような子じゃない。どんなに苦労しても、自分が選んだことなら納得して人生に満足するタイプだよ」
 深い色の瞳を見つめたまま、そう言って微笑みながら、ただ、と太乙は付け加える。
「彼が背負ってるものは半端じゃないからね。それをどう考えるかは君次第だ。私としては、逃げないでいてくれた方が嬉しいけどね」
 迷って悩むのは仕方がない、と続ける穏やかな言葉に、太公望はまばたきした。
「……どうして」
「何?」
「どうして、そこまでわしのことを気にかける?」
「だって、君は私にとって弟みたいなものだし」
 気弱さを覗かせた小さな声に、太乙はあっさりと答える。
「君をからかって、お説教するくらいしか私にはできないからね。煮え詰まった時にはいつでも相手してあげるよ。伯圭の代わりには到底なれないけどさ」
 最後に付け足しのように太乙が口にした言葉に、今度こそ太公望は大きく目を見開く。
 そんな太公望の目の前で、太乙は屈託のない笑みを見せた。
「こうして見ると、あいつに似てきたね。君はお母さん似、伯圭は父親似で、昔はあんまり似てない兄弟だと思ってたんだけど。あの頃の君は、女の子と間違えられるくらい可愛かったしね」
 けれど、今の君は、知り合った頃の伯圭によく似ているよ、と。
「太乙……」
 微笑む彼の名を、太公望は呆然と呼んだ。

 ───事故で死んだ兄と太乙は、同い年で同じ大学に通い、親友といってもいい友人同士だった。
 当時、十七歳で既に大学院に在籍していた太乙が、親友とその家族の不慮の事故にどれほどの衝撃を受け、悲しんでいたか、太公望は今でも鮮明に覚えている。
 それ以来、ただ一人残された自分に、彼がどれほどの気遣いや優しさを示してくれたかも。
 人をからかってばかりいるような掴み所のなさに、いつも憎まれ口をたたいてばかりいるけれど。
 本当は、よく分かっている。

「別にね、あいつの代わりになろうと思ってるわけじゃないよ。あんないい兄貴には、なろうたってなれるものじゃない。ただ、私にとっても君は可愛い存在だし、第一、君が悩んでるのを見て見ぬ振りしたら、いつか寿命が尽きてあっちに行った時に、伯圭に口を利いてもらえないだろうと思ってさ」
 彼らしい、優しい韜晦(とうかい)を口にして、太乙は微笑った。
「あいつはいい奴だったよね。まっすぐな性格をしてて、すごく優しくて。頭は切れるくせに、妙なところで天然ボケでさ。傍にいると、人をほっとさせる奴だった。少し玉鼎にタイプが似てたかな」
「……そういえば、似ておるかもしれぬな。真面目にボケるところが……」
 こんな風に太乙が兄のことを語るのを聞くのは、初めてだ、と太公望は思いながら答える。
 むやみに喪われた人のことを口にしないのが、彼なりの優しさだったのだと、今更ながらに気付きながら。
「伯圭はもう少し、冗談が通じたけどね」
「優等生に見えても、兄さんは悪戯好きだったからな」
「そうそう。結構凶悪な悪戯するんだけど、人徳だか何だか誰にも恨まれないんだよね、何故か」
 笑ってうなずきながら、太公望は何故、太乙が毎日のように経済学部の研究室にくるのか、ようやくその理由を理解できた気がした。
 もちろん一番の理由は、玉鼎も太公望も大事な友人で、一緒に茶を飲みたいからということだろう。旧い面影を重ねて友人付き合いするほど、彼は弱い人間ではない。
 ただ──たとえば、玉鼎と太公望の語らいに。
 ふとして懐かしいものを感じることはないのか。
 彼が過去を過去として受け止められる人間であっても、帰らない日々を懐かしむよすがが欲しくないわけがない。
 本当に大切なものは、どれほどの年月が過ぎ去っても、いとおしさが消えることはないのだ。
 そのことに気付いて。
 太公望は、たまらなく切なくなる。
「太公望?」
 椅子から立ち上がった太公望に、どうしたのかと太乙は名を呼ぶ。
 が、太公望は答えないまま彼に歩み寄って。
 椅子に腰を下ろしたままの太乙の肩に、ことんと顔を伏せた。
「───…」
 思いがけない仕草に一瞬、太乙は驚いた表情をしたが、すぐに微笑して、その背中をぽんぽんとあやすように撫でた。
「ごめん。思い出させちゃったね」
「……そういうわけではないよ」
「じゃあ、何?」
 わずかにかすれた太公望の声に苦笑しながら太乙は問いかける。
「こんな風にするのは久しぶりだな。前は……私が高校に入った年だったから、君は八つか九つか……」
「八歳の時だ」
「そう? まだ知り合ったばかりの頃だよね。君が拾ってきた雀の雛が衰弱していて一晩持たなくて……。君も英鈴も、わんわん泣いて大変だった」
「子供だったのだから仕方なかろう……」
 庭の片隅に子雀の墓を作りながら泣きじゃくる幼い太公望と妹を、兄と泊りがけで遊びに来ていた太乙がそれぞれ宥めてくれたのだ。
 慣れている兄はともかくも、年下の兄弟がいない太乙はかなり戸惑っていて、それでも懸命に慰めてくれたことを太公望は覚えている。
「本当に大きくなったよねぇ。可愛いのは今も、あんまり変わらないけどさ」
「たわけ」
「いやいや本当に」
 太公望を抱きしめたまま、くすくすと太乙は笑った。
「だからね、望。私は君が幸せになってくれないと困るんだよ」
 昔のように名を呼び、そして、いつものやわらかな物言いで続ける。
「こんな近くにいるのに、君が不幸せになるのを見過ごしてしまったら、君の御両親と伯圭と英鈴に顔向けができなくなるからね」
「……そんな理屈があるか」
「よく見てごらん。世の中、こんな理屈ばかりで出来上がってるじゃないか」
 笑いながら諭して、太乙は太公望の頭を撫でた。
「とにかくね、後悔だけはしないようにしなさい。泣いてもいいし逃げてもいい。嘘だってついてもいいさ。でも、後悔をするようなことだけはしちゃいけないよ」
「…………」
「いつでも私はここにいるから。煮え詰まった時には、またちょっかいを出しに来てあげるから、頑張りなよ。君はもう、小さな子供じゃないんだ」
 太乙の声は、どこまでも優しく温かかった。
 その声に、やはり似ている、と太公望は思う。
 声質はまったく違うし、口調も違うが、その温かい響きは確かに兄によく似ていた。
「───…」
 込み上げるものを抑えきれず、太公望は太乙の肩口にぎゅっと額を押し当てる。
 それを受け止めながら、太乙はのんびりとした口調で笑った。
「楊ゼンが見たら大変だよ。どう見ても浮気の現場だ」
「……あやつは今、修論の詰めに追われておるから今日は大丈夫だ」
「そう? でも彼のことだから、気分転換に一緒に食事でもって君を探しに来るかもしれないよ」
「そうしたら、おとなしく殴られておけ」
「それって不条理じゃないかい? 確かに、君を泣かせたのは私だけどさ」
 かすれた小さな声に苦笑しながらも、太乙は太公望を突き放しはしない。
 そして、
「ああそうだ」
 ふいに明るい声を上げた。
「楊ゼンのせいで君が泣いたことにしておこう。それを慰めてたってことにすれば、私は殴られないだろうし。いいこと思い付いたなぁ。さすが私」
「……ダァホ」
 くすくすと笑い合って。
 そのままもう少しの間だけ、太公望は太乙の優しさに甘えた。









end.










というわけで、秋の章は、楊ゼン&韋護、太公望&太乙の短編2本でした。

いつもとは違う組み合わせは妙に新鮮で、どっちも兄弟みたいだな〜と思いつつ書いたんですよね。
韋護は、普段は弟を放っておくんですけど、時々様子を見てさりげなくアドバイスしてやる普通の兄貴で、太乙は弟が可愛くて仕方なくて、ついついちょっかい出しては怒らせる兄馬鹿という感じ。

でも、これ書いてた当時、太乙って本当に深いキャラだな〜という気がしたのを覚えてます。
まぁ今回に限った話じゃないんですけど、彼が本当に好きな相手って誰なんでしょうね。
一応、私の中ではいつも裏設定で、本命キャラを定めてあるんですが、書いていると分からなくなってくるんですよ。実は他の人が好きなんじゃないのかな、という気がしてくる不思議なキャラです。
すんごく書きやすいのに、書き手にも本心を見せないキャラというのは初めてかもしれないな〜。

ま、そんなこんなでストーリーは最終章になだれ込むのですが。
オフの在庫がまだほんのちょっぴり残っているので(2003年末時点)、再録はうんと先になります。状況次第ですが、1年後か2年後か。時期的にはクリスマス〜初春を狙います。
気の長い方は、その頃までこのサイトが残っていることを祈りつつ、のんびり待っていて下さいね〜。

・・・・でも最終章はすんごく長いから、正直再録したくないんだよな・・・・。
未来永劫、忘れた振りしたらダメですか?





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