Spring Moon 2








「そろそろかな」
 窓の外が夕闇に包まれたのを眺めて、楊ゼンはデスクの端に置いてある携帯電話をちらりと見つめた。
 ───絶対に!忘れるなよ!! 忘れたりしたら、この先一ヶ月、指一本触らせてやらぬからな!!
 そうしつこく念を押して、夕方出て行った年上の恋人のことを思い出し、小さく微笑する。
「あの人を怒らせると後が大変だからな……」
 怒り狂って拗ねてしまった恋人を、あの手この手で宥めるのも、また楽しいのだけれど。
 しかし、長かった春休みが終わって、ようやく2人でゆっくりと時間を過ごせるようになったのに、ヘソを曲げられるのはあまり喜ばしいことでもない。
 ここは大人しく言いつけに従って貸しを作っておくべきだろう、と楊ゼンは大切な恋人との約束を果たすべく、携帯電話に手を伸ばした。







             *            *







 ぎゃはははは、と多重奏の笑い声が黄昏の空に響く。
「おーい、ビール足んねぇぞ! ビール!!」
「てめぇ、それはオレが食おうと思ってたフライドチキンだぞ!!」
「ふん、貴様の反射神経が鈍いのだ!」
「なんだとぉ!?」
「いい加減にしないか、おまえたち! 崑崙大学の教授たるもの……」
「玉鼎、ビール瓶なんかに説教してどうするんでちゅか?」
「放っとけ、放っとけ。説教オヤジに絡まれるとしつけーぜ」
「誰が説教オヤジだと!? 私はおまえたちのことを思うからこそ……!」
「だから玉鼎、それは桜の木だってば……」

 ……阿鼻叫喚といってもいいような、正気の沙汰ではない光景から視線を逸らして、太公望は溜息をついた。
 黄昏時、朧月に照らされて、あでやかに咲きほこった桜の木の下には、レジャーシート。
 その上にはビールだのチューハイだのワンカップ大関だの、安酒の空き瓶が数えきれないほど転がっている。
 更に、某チェーン店のフライドチキンだのコンビニで買い揃えたスルメだのポテチだのビーフジャーキーだの、あげくはおにぎりだの焼き鳥だののおつまみが散乱しまくっていて、まぁ、ごく普通の花見の宴の光景である。
 が、そこに集っているのは崑崙大学の教授陣、つまり、特許だの著作だのでばんばん稼ぎまくっている気鋭の研究者たちなのだ。
 その花見が、こんなんでいいのだろうか。
 どう多く計算しても、一人2千円くらいの会費じゃないの、というしょぼさなのである。
 しかも、会場は崑崙大学キャンパス内、正門から図書館へと続く桜並木のど真ん中ときたもんだ。
 おまけにレジャーシートが引いてあるのは、街灯の真下である。スポットライトを浴びているようなもので、はっきり言って目立つ。目立つどころか、道行く人から丸見えだった。

 あーあ、と溜息をついて、太公望はワンカップ大関を傾ける。
 こうなることは分かっていたのだ。というより、こうならなかった宴会の記憶というものが基本的にない。
 外聞など気にしない崑崙大学の教授たちは、春から秋はキャンパス内のどこか、冬は学生御用達の安い飲み屋かキャンパス内の合宿所、とまるで貧乏学生のような宴会を年中繰り広げているのである。
 とはいえ、太公望とて、酒も飲み会も嫌いではないし、それが悪いとは思わない。
 が、
「望ちゃ〜ん、飲んでる〜?」
「わしが飲んどるこれは何だ?」
「ワンカップ大関〜。でも駄目だよ、もっときゅーっといかないと」
「やめんか!」
 ほらほら、と普賢がワンカップ大関にビールを注ごうとする。
 上体をひねって太公望は親友の攻撃を避け、慌てて安い日本酒を飲み干した。
 こんな飲み方はしたくないのだが、飲んでしまわないと否応なしにチャンポンにされてしまうのである。
 案の定、強引に腕を引き寄せられて、空になった広口の小ビンにすかさずビールが注がれた。
「あ〜、太公望ずるいよ〜。普賢の酒ばっかり飲んで〜」
 と、こんどは太乙がビール瓶をひきずりながらにじり寄ってくる。
「いい加減にせい! 一度にそんなに相手できるか!」
 何が問題かといえば、この酒癖の悪さだった。
 全員が全員、表現に多少の差異はあれど、絡み酒なのである。
「ひどいよ望ちゃん。僕のお酒が飲めないっていうの〜?」
「普賢にはビールを注がせたくせに〜。差別だ薄情だ意地悪だ〜! 昔の君はあんなに可愛かったのに〜」
 うりゃうりゃと酔っ払い2人に左右からビール瓶を突きつけられて、太公望はうんざりした表情になった。
 が、それも一瞬のこと。
「これが楊ゼンだったら、きっと望ちゃん、断ったりなんかしないんだよ〜」
「なっ…///」
「そうだよね〜。さしつさされつ仲良くさ〜」
 いきなり飛び火した会話に、思わず頬に血の気が昇る。
「あ〜赤くなった。図星なんだ〜」
「ラッブラブだもんね〜、君たちって〜」
「何をいきなり……!」
「お、何だ何だ?」
 まるで高校生のように騒いでいる3人に気付いて、道徳たちがにじりよってくる。やはり右手には紙コップビール、左手にはスルメをしっかりと握ったままだ。
「あ〜道徳、聞いてよ〜。太公望ったら楊ゼンの酒なら飲めるのに、私たちの酒は飲めないって言うんだよ〜」
「誰がそんなことを……!!」
「そーいえば、飲んでるところは見たことないけど、よく十州飯店で飲茶食ってるよな、おまえたちって」
「!!」
「なんかもう、見かけても声かけられないんだよなー。邪魔しそうでさ」
「そうそう」
「あー、そういや俺も前にどっかで見たぜ。イタ飯のVIVORIだったっけな」
「俺も、スーパーで一緒に買物してるところを見たことあるぜ。まるっきり新婚夫婦みたいでよ、思わず回れ右しちまった」
「小官もあるな。あれは……居酒屋の銀瓢亭だったか? 太公望」
 口々に騒がれて、太公望は真っ赤になる。
 が、それだけではすまなかった。
 どこで飯を食おうが人の勝手だろう!!と怒鳴りかけたその矢先。
「でも、大学の外だけじゃないよね〜。キャンパス内でもあっちこちでさ〜」
 普賢が意味深に、ちらりと視線を投げかけた。
「僕、この前見ちゃったもん」
 幼馴染の不穏な表情に、何を、と問いかけるのも恐ろしくて、思わず冷や汗が背筋を滑り落ちる。
 そんな太公望を横目で見つめながら、普賢は続けた。
「図書館前で、楊ゼンと望ちゃんがちゅーしてるとこ」
「●☆◆※△■!?」
「柱の影でさ〜。なんかもう、世界は2人のためにって感じで……ねえ?」
「なっなっ…!!」
「はいはーい、それなら私もあるよ〜。玉鼎の研究室に行く途中でさ、教授棟の階段のところでしてるの見ました〜」
「この前、教授棟の傍の芝生のとこでもキスしてたよな。昼寝だか日向ぼっこだかしながら」
「図書館の書庫でも、しょっちゅうだよ〜。人が入ってこないのをいいことにさ〜。しょーがないから入り口まで戻って、わざと足音立てながら近付くんだ」
 口を尖らせて言った普賢の言葉に、ぎゃははははと笑いが渦を巻く。
 大規模な図書館の場合、開架よりも閉架の方が何倍も広い。当然、崑崙大学の図書館もその例に漏れず、書庫に自由に入れるのは大学職員と、2時間の講習を受けて許可証を得た学生だけなのである。
 薄暗く人気のない5階建ての書庫は、恋人たちの逢引にはぴったりなのだった。
「あと、教授棟の太公望の部屋の前を通る時も、なんか緊張するよね〜」
「用があって電話する時も、一瞬、ためらっちまうんだよな」
「邪魔したら悪いからな〜。楊ゼンって根に持ちそうだし……」
「あいつ、嫉妬深いもんな」
「なー太公望、おまえも苦労してるんだろ?」
「いや、恋人が焼餅やいてくれるのは普通、嬉しいんじゃねぇのか?」
 馬鹿笑いし続けながら、教授たちは口々に楊ゼンと太公望のバカップルぶりを並べ立てる。
 ───馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿〜っ!!!!
 そのあまりの恥ずかしさといたたまれなさに、太公望は口も利けなくなったまま心の中で楊ゼンを罵倒し続けていた。
 キャンパス内でも、触れ合うだけの軽いキスを挨拶のように交わしているのは、情けなくも恥ずかしい話だが、事実である。しかし、周囲の安全確認はいつもしていたはずなのだ。
 なのに。
 ───なんで、よりによってこいつらに〜!!??
 いや、彼らでなければ見られていいというものでもないのだが、しかし、よりによって、と太公望は泣きたい気分になる。
 ───楊ゼンは、こいつらの存在に気付かんかったのか!?
 ───いや、そもそもからして、いつでもどこでもキスしたがるあやつが悪い!!
 ───わしがあれほど嫌だと、するなと言っておるのに〜!!
 拒みきれない自分の責任は棚上げして、ひたすらに年下の恋人をなじる。
「ホント、おまえらもよくやるよな〜」
「太公望」
 笑いながらそう言った黄竜を押しのけて、ずずいと玉鼎が前に出てくる。
 そして、厳しい表情で口を開いた。
「楊ゼンの師として、またおまえの同僚として、おまえたちが仲が良いのは喜ばしいことだと私も思う。だがな、おまえたちはまだ結婚前なのだ。となれば、やはり節度を持った交際をせねばならん。そんな破廉恥な真似を公衆の面前でしていいと思っているのか?」
 ………おそらく、本人は真面目に説教をしているつもりなのだろう。
 だが、
「だからさ〜、それは太公望じゃなくってビール瓶だってば、玉鼎」
 話しかけているのは、太乙が握りしめたままだったビールの大瓶である。
「何!? これのどこがビール瓶だというのだ!?」
 血相を変えて振り返った相手は、キャンパスの歩道と植え込みをへだてている柵の杭だった。
 彼は見かけに反して、非常に酒に弱い。ビールをコップに3杯も飲めば、気持ちよく常識を踏み外して、恐怖の説教ジジイと化してしまうのだ。
 それこそ、鍋物や焼肉をしている横でガスボンベに説教をしているとか、飲み屋の床の間の置物に経済学の講義をしているとかいうのは、毎度のことなので誰も気にしない。
 今度は杭に向かって説教をしている玉鼎のことなど放ったらかしにして、一同はバカップルを肴にビールを飲み続ける。
「まー確かに結婚前だけどな〜。でも、あいつはそんなこと気にしねぇだろ」
「ホントホント。婚前旅行だろうが婚前交渉だろうが、お構いなしって感じだよね〜」
「そうそう。なぁ太公望、おまえたちまだ一緒に暮らさないのか?」
「そーだよね〜。なんで望ちゃん、同棲しないの?」
 笑い転げながら、世界にその頭脳を誇る崑崙大学教授陣は、いかにも研究者らしい好奇心いっぱいの表情で最年少の同僚に問いかける。
「誰がどう見たって、きみたちラブラブの新婚さんなのにさ〜」
「どうせ、おまえが何かごねているのだろうが、楊ゼンはよく我慢してるものだな」
「確かにあいつはすごいよなぁ。こいつに可愛げがないとは言わねぇが……」
「セコいしずるいし我儘だし……」
 言いたい放題の連中に囲まれて、さすがの太公望も真っ赤になったまま地蔵のように固まる。
 が、その様子は、普段ふてぶてしい彼の姿に見慣れている面々にとっては、新鮮やら可愛いやらで、冷やかしの声はおさまる気配もない。
 何とかしてくれ、と普賢か太乙に視線を送ることもできず、(したところで、二人は無視しただろうが)、途方に暮れたまま心の中で楊ゼンを罵倒し続けていたその時。

 携帯電話の着メロが軽やかに音を立てた。

「!!」
 はっと太公望は自分の上着のポケットに手を突っ込み、取り出しかけて、はたと顔を上げる。
 と、案の定、にや〜と笑みを浮かべた同僚たちの顔が目の前には並んでいた。
「出なくていいのか〜?」
「だ〜れからかな〜?」
 その間にもピロピロと、やたらにテンポの速い着メロが周囲に流れ続ける。
 それをそのままにしておくわけにもいかず、太公望は彼らを睨みつけ、う〜〜とかすかにうなりつつも己の携帯電話を取り出した。

「──はい」
『僕です』
「ああ……」
「ねえ、やっぱり楊ゼン? 楊ゼン?」
『? どうなさったんですか?』(不思議そう)
「いや、ちょっとな……」
「ねー、楊ゼン、君もおいでよー!!」
「おまえの奥さん、可愛いぞー!!」
「うるさいぞ、おぬしら!!」
『……何となく分かりましたよ』(微苦笑)
「誰のせいだと思っとるのだ!?」
『あれ、お言葉ですね。ちゃんと言いつけどおりに電話したのに』(忍び笑いしつつ)
「タイミングが悪すぎるわ!!」

 つまり、本日の飲み会の主目的は、楊ゼンと太公望を冷やかし、からかうことであり、そのことは太公望も最初から分かっていた。
 だから、からかわれる前に、頃合を見計らって、さも用事があるかのように楊ゼンに電話してもらい飲み会を抜け出す、そういう計画を太公望は立てていたのである。
 が、2人の読みよりも早く宴はたけなわとなり、メインの冷やかしタイムへ突入してしまったのだ。
「とにかく、今どこだ?」
 反対側の耳に指を突っ込み、ぎゃあぎゃあと騒ぐ周囲を無視して、太公望は手早く会話を交わす。
「──分かった。すぐに行くから」
「きゃ〜、すぐ行くだって〜!!」
「お熱いねぇ!!」
「うるさいうるさい!!」
 すっくと立ち上がり、太公望は出歯亀たちを睨みつけた。
「わしはもう、これで抜けるからな! あとはおぬしらだけで勝手に騒げ!!」
「え〜、そんなのずるいよ〜」
「楊ゼン連れて戻ってこいよ。どうせ日付変わる頃まで俺たち、ここにいるからよ」
 ……いったい何時まで飲む気だおまえら。
「じゃあな」
 騒ぐ連中を無視して太公望は靴をはき、袖をつかまれる前にさっさと走り出す。
「旦那によろしく〜!!」
「結婚式には呼んでね〜!!」
 ひゅうひゅう、とまるで高校生のような野次を背に受けて、太公望は正門まで全速力でダッシュした。







             *            *







 中央改札を抜けて、きょろきょろと太公望は周囲を見回す。と、すぐに彼が右手を上げて合図するのが見えた。
 柱の傍らに立つ彼に小走りに近付いて、一つ息をついてから顔を上げる。
「この大たわけ!!」
「──は?」
 早かったですね、と声をかけようとした楊ゼンは、突然の罵声にきょとんとまばたきをする。
 そんな恋人を、太公望は頬に血の気を昇らせたまま、大きな目で睨み上げた。
「おぬしのせいで、大恥をかいたわ!!」
「………なるほど」
 先程の電話の件もあり、すぐに彼の怒りの理由を察して楊ゼンは微笑した。
「何を笑っておるのだ!? 一体、わしがどれほど……!!」
「分かってますって」
「何がだ!?」
 どうどうといきり立つ相手を静めつつ、楊ゼンはからかうような笑みを浮かべる。
「いくらでもお話は聞きますから、とりあえず場所を移しませんか? ほら」
 軽く視線を横に流した楊ゼンにつられて、太公望もそちらへ視線を向けて。
「!?」
 ここがまだ駅の構内であることに気付いた。
「ね?」
 行きましょう、と誘われて、さすがに気まずい顔になりながらも恋人を責める瞳だけは変えず、太公望は渋々うなずく。
「……どこへ行く気なのだ?」
 そして背の高い青年について歩き出しながら、拗ねたような声で問いかけた。
 楊ゼンが電話で待ち合わせに指定した、崑崙市の東端に近い位置にあるこの駅を、これまで太公望は利用したことがない。
 当然、馴染みの店などもなく、この近辺に何があるのかまったく知らないのである。
 まさか外で会おうと誘われるとは思っていなかったから、何故こんな所へ来たのか皆目分からず、そう尋ねたのだが、楊ゼンは太公望を顧みて甘く微笑んだ。
「行けば分かりますよ」
「─────」
 彼がこういう表情をした時、ロクでもないことが起きる確立と、すごくいいことが起こる確率は、半々である。
 それをよく知っている太公望は、いかにもうさんくさそうに彼を見つめ返した。
「そんな顔をしないで下さい。いいものを見せてあげますから」
 機嫌の悪い恋人に、楊ゼンは笑みを含んだ声で答える。
「……ふぅん」
 丸ごと信じたわけではない。が、疑ったところで事態が変わるわけでもなし、と半ば悟った気分で太公望はうなずいた。
 嫌だといっても有無を言わさず引きずっていかれるのは目に見えているのだから、行けば分かるというのなら、その場に着いてから怒るなり殴るなりする方が省エネには違いないのである。


 ……こうして朧月に照らされた春の宵の中、太公望は拗ねた表情のまま、年下の恋人について黙々と歩いたのだった。















お待たせしました。『Spring Moon』第2回です。
この作品も、もっとさくさく更新していくはずだったのに、何故だか(いや、理由は分かりきってるんですが)遅れております。桜前線が列島上にある間に終わらせたかったのに、既に北海道の桜も終わりかけ・・・(T_T)
しかし、やっぱりこの作品は本にしなくて正解でしたね。マジで馬鹿すぎ・・・。サイト小説だし〜、と敢えてラブコメ5割増、馬鹿モードを心がけてるのは確かですが。
まぁいずれにせよ、あと2回で終わる予定なので、もう少しこのバカップルに付き合ってやって下さい。m(_ _)m





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