Spring Moon 1








「───は?」
「だから、花見しよう、って」
 春休みも終わりに近付いた、大学図書館。
 人気ない書庫内で、にこにこと笑っている幼馴染の顔を、太公望は分厚くて重い資料用の本を抱えたまま見つめる。
「今週末辺り、ここの桜も見頃になりそうだからさ。皆、飲んで騒ぎたいんだって」
「…………先週も、卒業祝いだとか言って、方々の学部の卒業生やゼミ生や院生まで総動員して、キャンパス全体で大騒ぎしとらんかったか?」
「してたよ」
 鉄壁の笑顔のまま、普賢はうなずく。
「総勢200人越えてたよね、あの時は。面白かったよ。道徳なんか池で泳いじゃってたし」
「………なのに、まだ騒ぎ足らんのか、おぬしらは」
「だって、望ちゃん居なかったじゃない」
「──!!」
「そりゃね、久しぶりに恋人が合衆国から帰ってきたら、友達とお酒なんか飲んでいられないよね。望ちゃんが僕らの誘いを蹴って、楊ゼンのとこへ行っちゃったのも当然だと思うよ」
「べ…別にわしはそういうつもりでは……!」
「でも、楊ゼン迎えに行ってたんでしょ? わざわざ空港まで」
「あれはあやつが……!!」
「ストップ! のろけは今週末、皆の前でね。そんな楽しいこと、僕一人で聞いたら袋叩きにされちゃうよ」
 ……一体誰がおぬしをフクロにするのだ、と言い返す間もなく、
「土曜日の夕方6時、ここ図書館前。いいね?」
 にっこりと天使の笑みで押し切られて。
 うなずいたつもりもないのに、太公望の花見への出席は確定されていた。




 閲覧室で禁帯出本のページをめくりながら、太公望はシャープペンシルのヘッドをかじる。
 今週中に論文の草稿を作っておかなければいけないというのに、ちっとも内容が頭に入ってこない。先程から親友の天使で悪魔な笑顔が、脳裏をグルグル回って邪魔をしているのである。
「───…」
 溜息をついて、太公望はシャープペンシルを放り出す。
「何でわしは、あやつに弱いのかのう」
 口は達者なつもりだし、他者を自分のペースに巻き込むのも得意なのに、何故だか子供の頃から普賢にだけは勝てなかった。
 そして、鉄壁の笑顔に押し切られてふと気がつけば、いつでも太公望の方がまるで主導者であるかのように、物事の当事者となっているのだ。
 理不尽極まりない話なのだが、その幼い頃からの構図は、どうにも変わる気配がない。
「嫌だのう……」
 両頬杖をついて、ぼそりと呟いた時。
「何がお嫌なんです?」
 背後から涼やかな声が掛けられた。
「楊ゼン」
 慌てて太公望は振り返り、そして時計を確かめる。
 既に針は三時を過ぎていた。
「もうこんな時間か」
「どうなさったんです? ……なんだか、昨日からあまり進んでないようですけど」
 机の上に広げたメモ用のルーズリーフをちらりと見やり、楊ゼンは尋ねる。
 そのやわらかなまなざしに、太公望は肩をすくめた。
「ちょっとな。気分転換せねばどうにもなりそうにないよ。──学食に茶でも飲みに行こう」





「──で、一体どうなさったんです?」
 自販機でそれぞれに飲むものを求め、学食の安っぽいテーブルに向かい合って落ち着いたところで、楊ゼンが改めて切り出す。
「どうしたもこうしたも……」
 太公望は溜息をつき、妙に薄くて甘いカフェ・オ・レをすすった。
「わしが図書館に来てすぐに、普賢がやって来て……」
「助教授が?」
「そう。わざわざ理学部の研究室からここまで」
 大学の正門近くに位置する図書館と、広大な敷地の北の果てにある、普賢が助教授として闊歩している理学部とはかなりの距離がある。
 しかも、地形が平坦ではないから歩けば十五分はかかるだろう。
「どんな御用件だったんです?」
「花見」
「……ああ。メンバーはいつもの方々ですか」
「うむ」
 憮然としたまま、紙コップのカフェ・オ・レをすする太公望に、楊ゼンは微笑する。
「いいんじゃないですか、たまには」
「たまには〜〜!?」
 だが、その言葉に太公望が眉をはねあげた。
「今月は、もう二度も飲み会があったんだぞ!! 月初めの太乙の誕生日祝いと先週の卒業記念と!!」
「あ、そうでしたね。でも先週は欠席なさったでしょう? 僕の帰国と日程が重なっていて・・・・・・」
「ああ、あれは助かったぞ。酒は好きだが、そんな頻繁にあの連中と飲めるものか」
「酒癖悪いですからね、どなたも」
 小さく楊ゼンは笑う。


 実際、崑崙大学教授陣の酒癖の悪さは有名だった。
 揃いも揃って宴会好きで、しかも、それぞれが一癖ある酔い方をするときている。
 更に付け加えれば、酒が入ると必ずマイクを握りたがり、ジャイアンも真っ青な歌声を延々と披露してくれるのだ。
 だから、いずれの学部でも学生院生たちは、ゼミの最初のコンパを経た後は、ひたすら教授に「飲みに行こう」の一言を言わせないように、また天運なくコンパがある時には、欠席の言い訳に知恵をしぼる、というのが定石なのだった。


「でもまぁ、楽しいんじゃないですか、それなりに。何のかんの言っても、あなたは八割方、出席してますよ」
「行かんとうるさいからだよ。薄情だの友情の破滅だの……」
「そうですね」
 何度も愁嘆場?に遭遇している楊ゼンは、憮然としたままの太公望に苦笑する。
「太乙教授や普賢助教授は、あなたのことがお好きですから仕方ないですよ」
「昔馴染みだからな。ツボを知られてる分、わしもやりにくくて……。道徳や黄竜あたりなら、適当に言いくるめられるんだが……」
「泣き落とされると弱いんですよね、師叔は。僕も言ってみれば、泣き落としでしたし?」
「!!」
 笑みを含んだ声に、太公望はぱっと顔を上げる。
 が、秀麗な顔にやわらかな笑みを浮かべた楊ゼンに、咄嗟に返す言葉を見つけることができず、軽く眉を寄せて視線をさまよわせた。
 そのどこか拗ねたような表情に、楊ゼンは微笑する。

 二人が恋人同士になったのは、まだほんの三ヵ月前、クリスマスのことである。
 どれだけ求愛しても聞き流してしまう太公望に、業を煮やした楊ゼンがイブの夜、中央公園のベンチで延々三時間半も待ち続ける、という忠犬ハチ公のような真似をした結果、ようやく二人は結ばれたのだ。
 しかしその後、大学の長い春休みの間中、楊ゼンは実家のある合衆国に戻り、巨大コングロマリット・金鰲グループ総帥である父親の秘書をしていたため、実際のところ、二人が恋人同士として共に過ごした日数は、のべ一ヵ月ほどにしかならない。
 だから、『恋人』という互いの関係に慣れはしたものの、倦怠期までにはまだ程遠い、甘い日々を送っている二人だった。

「───言い忘れとったが」
 頬杖をついてそっぽを向いたまま、太公望がぼそりと告げる。
「誰にどう誘われようと、おぬしは来るなよ」
「……どうしてです?」
「………聞かねば分からぬのか?」
 ちらりと視線を向けられて、楊ゼンは首を傾げた。
「──言い遅れましたけど、先程図書館へ行く前に、研究室に寄ってきたんですよ、僕は」
「………は?」
「ほら、教授に帰国の挨拶をまだしてませんでしたから。向こうに戻っていた間、何度かメールをいただきましたから、そのお礼を兼ねて、ね」
「まさか……」
「ええ」
 にっこりと楊ゼンは微笑する。
「玉鼎教授に誘われました」
「なっ…!」
 その言葉に、太公望は思わず椅子から腰を浮かせかけた。
「まさかおぬし、出席すると……」
「言っていたら、どうします?」
 だが、悪戯っぽい光を浮かべた楊ゼンの瞳を見て、一つ息をつき、元通りに椅子に体重を預ける。
「──なんだ……。驚かせるでない」
「すみません。──まあ、あなたも居るし、行ってもいいかなとは思ったんですけどね。皆、まだ実家から戻ってきてないみたいですから、院生は僕だけというのも少々居心地が悪いかな、と。韋護君あたりも行くのならと思って、返事は保留にしてあります」
「なら、即刻断って来い」
「それは構いませんけど……そんなにお嫌ですか」
「嫌だ!!」
 太公望は即答した。
「おぬしが居らぬ間、どれだけわしが一人で耐え忍んだと思っておるのだ!? あやつらは人の顔を見るたびに、あれやこれやと……!!」
「教授方は全員、僕を応援して下さってましたからね」
「あれは、面白がっとると言うのだ!!」
 ばん、とテーブルを叩いて叫んだ太公望に、楊ゼンは小さく笑う。
「いいじゃないですか。付き合うのをやめろと言われるよりは」
「一緒だ」
 これ以上からかわれてたまるか、とぶつぶつ呟きながら、太公望は紙コップの端をかじった。
「とにかく! 絶対に来てはならぬぞ。ただでさえうるさい連中に、これ以上あれこれ言われるのは御免だ」
 そんな年上の恋人の渋い表情に、楊ゼンは内心苦笑する。

 ───楊ゼンとしては、全然構わないのだ。
 確かに教授たちは出歯亀を絵に描いたような人々だが、悪意はない。
 むしろ、自分たちの友人である名物講師と名物院生の交際を、面白がりつつも好意的に応援していてくれるのである。
 それにもともと楊ゼンは合衆国育ちでオープンな質だから、別に彼らの目の前で太公望とキスしろと言われても一向に構わなかった。
 しかし、それを実行した挙句、一旦機嫌を損ねるとしつこい(以前、ささいな口喧嘩が原因で、一週間以上口を利いてくれなかったこともある)恋人を怒らせるのは、やはり避けたかったから、大人しくうなずく。

「そんなにお嫌なら仕方ありませんね。いいですよ、もともとあまり行く気はなかったんですから」
「うむ」
 うなずきながら、太公望は紙コップをテーブルに置いた。
 そして、肘を突いて両手を組み、そこに顎を乗せる。
「ホントに……なんであやつらは、ああも騒ぎたがるのかのう。人の色恋沙汰など、どうでもいいことだろうに」
「それはそうですけど、でも師叔も他人をからかうのはお好きでしょう? それと同じことですよ」
 む〜っと口元をへの字にした太公望に、楊ゼンは苦笑した。
「あなたは普段、あまり隙がないですから。余計に面白がってるんだと思いますよ、あの方たちは」
「迷惑だのう……」
 溜息をついて、太公望は楊ゼンにちらりとまなざしを向ける。
 ───それもこれも元はと言えば、楊ゼンの強引な求愛に押し切られてしまったことが原因なのだ。
 しかし、だからといって、それを追求したところで始まらない。
 友人たちにからかわれるまでもなく、太公望が楊ゼンを決して嫌々ではなく受け入れていることは事実であって、それは何をどう言おうと否定できるものではなかった。
 それはとどのつまり、楊ゼンと別れるか、もしくは彼らが飽きるまで、からかわれ冷やかされ続けるしかない、ということである。
 面白くも楽しくもない現状に、太公望は小さく、だが深い溜息をついた。
「……まぁ、こんなとこでこうしてぼやいておってものう。わしの出席は、既に確定されてしまっとるわけだし」
 つまらなさそうな顔で紙コップを手に取り、よいせと立ち上がる。
「とりあえず、論文の草稿をなんとかせねばな。今週中に片付ければいいと思っておったのに……」
「仕方ないですよ。浮世の義理です」
 楊ゼンもまた、立ち上がった。
「それに、あなたもあの方たちのことはお好きでしょう?」
「……そりゃ嫌いではないよ。しかしのう……」
 甘やかな笑みで問いかけられて、太公望は溜息をつきつつも紙コップをダストボックスに放り込み、食堂を出る。
「まぁいいじゃないですか。──それより、今夜はどうします? どこかに食べに行きますか? それとも僕の部屋で?」
「そうだのう……」
 口元に指を当てて、太公望は考え込んだ。
 太公望は基本的に料理をしない。ものぐさな上、見事に適性がないこともあって、目玉焼きさえも作れないのである。
 一方、楊ゼンの方は、一人暮らしを始めた三年前からキッチンに立つようになったのだが、元が器用なために一通り何でも作れる。
 結果、二人が付き合い始めてからの食事は、必然的に外食か楊ゼンが作るかのどちらかになっていた。
「今夜は、和食の気分かのう」
「じゃあ、どこかに行きますか? 銀瓢亭あたりなら、ついでに一杯飲めますし」
「お、いいのうvv」
 途端に嬉しそうな笑みを浮かべた太公望に、楊ゼンは微笑した。
 華奢で細い外見によらず食い意地の張った彼は、食べ物と酒と甘い菓子で、簡単に機嫌が直る。崑崙大学設立以来の秀才も、そのあたりはまるっきり子供並だった。

 崑崙大学は設立されてからまだ歴史が浅い代わり、学内の設備は国内の他大学に比較すると格段に整備されていた。
 百万冊を軽く越える蔵書を誇る図書館も、そのうちの一つで、専門分野の資料は研究室の方にも一通り揃えられてはいるのだが、レポート程度ならまだしも学術論文となると、やはり図書館の資料なしではどうにもならない。
 だから、普段は研究室の方に居ることが多い太公望も、資料集めが中心となる論文執筆の初期は、図書館に籠もることが多くなる。
 週に一度しか講義を受け持っていない怠け者講師であっても、論文だの学会だのとそれなりにやらねばならぬこともあり、見かけに比べると実際はなかなかに忙しい日々を送っているのである。

「じゃあ、五時にまた迎えに来ます。それまで僕は情報処理センターに居ますから、何かあったら携帯で呼んで下さい」
「うむ」
 笑みを浮かべてうなずいた太公望の肩を抱き寄せて。
 楊ゼンはすばやく唇を重ねた。
「──ここをどこだと思っとる」
 やわらかな唇に触れるだけで離れると、太公望は軽く眉をしかめて睨み上げる。が、うっすらと頬が色付いていては、迫力など微塵もなかった。
「誰も見てませんよ」
 春休みも終わりに近付いたキャンパス内に、学生の姿はまばらにしか見当たらない。
 しかも、二人が今いるのは図書館入り口の柱の影である。恋人同士の甘い戯れを見咎められる可能性は楊ゼンの言う通り、ほとんどなかった。
「たわけ」
 そのことを太公望も承知しているからか、渋い顔で左手を上げ、楊ゼンの肩から流れ落ちた長い髪をぐいと抗議するように引っ張ったものの、しかし肩を抱く手を振り払おうとはしない。
 そんな年上の恋人に甘く微笑んで、楊ゼンはもう一度キスをする。
 色の薄い唇は、少女のようにやわらかくて温かい。
 さすがに場所が場所だけに口接けを深めることはせず、先程よりももう少しだけ長く互いの温もりを感じてから、ゆっくり離れた。
「──続きは、また後で…ね」
「なっ…、たわけっ!!」
 耳元での低いささやきに今度こそ本気で赤くなり、拳を振り上げる太公望から楊ゼンはすばやく離れて、エントランスの階段を下りた。
「愛してますよ、師叔」
「馬鹿…っ!!」
 笑いながら立ち去ってゆく年下の恋人を怒鳴りつけ、太公望は拳を握り締める。
「ったく、あやつは……!」
 そして、今更ながらに周囲を見回し、目撃者が居そうにないことを確かめて、ほっと息をつく。
 それから、そっと指先で自分の唇に触れた。
「………しょうがないのう…」
 赤くなった頬をごまかすようにくしゃりと前髪をかき上げ、もう一度軽く溜息をついて。
 気を取り直したように、太公望は図書館内へ向かう。
 約束の時間は五時。
 あと一時間半の間に、せめて草稿の形くらいはつけておかなければならなかった。















続き物第3弾。今度は同人誌作品のWEB版です。
本来は4月に本で出したかった季節ネタなのですが、あまりの時間のなさに本にするのは諦めて、サイトで連載することにしました(^^ゞ
が、はっきりいって、二人がイチャイチャしてるだけのバカップルストーリーなので、既発表作品を気になさる必要は一切ありません!! 本当に、設定に書いてある以上のことは何もないです。
そんなこんなで、これは内容がない上、さほど長い話でもないので、ちゃかちゃかと書いて、さっさと終わらせようと思っております。
申し訳ありませんが、今しばらくの間、このバカップルにお付き合い下さい〜m(_ _)m





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