恋の作法 3








「──?」
 自分の名前が呼ばれたような気がして、ふと少納言は顔を上げる。
 暖かな晩春の宵、新しく手に入った絵巻物を広げて、女房が詞書(ことばがき)を感情を込めた声で朗読している最中。
 妻戸の方にざわめきが立ったことに、少納言は嫌な予感を覚えた。
 思わずどこかに身を隠せないかと思った時にはしかし、既に遅く、
「女御様、頭中将様がおいでになられました」
 几帳の外側から声がかけられる。
「そうか、いつもながら熱心なことよ。少納言、出迎えてやっておくれ」
「───はい」
 美しく微笑んだ女主人に命じられてしまってはどうしようもない。このまま物語を聞いている方が余程いいのにと思いつつ、渋々少納言は立ち上がる。
 女御と側近達を囲むように配置された几帳を回り込み、更には母屋(もや)の外側にある廂(ひさし)の間に出る。
 と、そこには一人の青年が、柱に軽く寄りかかるようにして立っていた。
「良い夜ですね、少納言」
「……今夜は、宿直のお役目があるのではありませんでしたの?」
「ええ。ですが、正直に貴女に御挨拶に伺いたいと言ったら、一人を除いて心良く送りだしてくれましたよ」
「………一人を除いて?」
「ええ。どなたかは内緒ですが、その人物も貴女に焦がれているようでしてね。嫌がっている女性にしつこく言いよるのは、どうかと思うがとか何とか言われてしまいました」
「───わたくしは、その方の言い分の方が正しいように思いますけれど」
「だとしても、まだ期限までは半月ありますからね。その間は、誰に何を言われようと僕は退きませんよ」
 あっさりと言って、頭中将は手にしていた檜扇をぱちんと小さく鳴らす。
「本当に僕の想い人は、誰の目にも魅力的に映るようですから。一瞬も気を抜けません」
「迷惑ですわ」
 だが、甘やかなささやきにも、少納言は無情に返すだけだった。
 かといって、それでひるむような頭中将でもない。
「何と言われても構いませんよ」
 機嫌がいいとは到底言いがたい表情の少女に、あでやかに微笑んでみせる。
「約束は約束。無事に百日を経たあかつきには、どんな逃げ口上もお聞きしませんからね」
「────」
 頭中将の笑顔に、少納言の眉間のしわがいっそう深くなる。
 だが、そんな表情をしていても十分すぎるほどに可憐で美しい少女に、くすりと笑って、頭中将は柱から離れた。
「さて、今夜はこれくらいにしておきましょう。そろそろ蔵人所に戻らねばなりませんしね。また明日、御挨拶に伺いますよ」
「お忙しければ、来ていただかなくても構いませんけれど」
「そういうわけにはいきません。あと十七日、何があってもこちらには参上しますよ」
「……女御様にお願いして、長谷寺参りにでも行かせていただこうかしら」
「無理でしょうね。姉上は貴女の味方ですが、僕の味方でもありますから。もっともお出かけになられたところで、追い掛けるだけですがね」
「───でしたら、せいぜい頭中将様が難しい御用を言い付かることをお祈りしていますわ」
「だとしても、そんなことを障害にする僕ではありませんよ」
「───」
 ああ言えばこう言う頭中将に、少納言は不機嫌きわまりない顔で口をつぐむ。
 そんな少納言の様子に笑って、頭中将は踵を返した。
「それでは少納言、どうぞ良い夜を」
「女御様には御挨拶してゆかれませんの?」
「姉上は僕の多忙を御承知ですよ。不肖の弟で申し訳ないと、よろしくお伝えして下さい」
 肩越しにそう告げて、開けられたままの妻戸を頭中将は出てゆく。
 その背を見送り、渋い顔で少納言は女御や先輩女房達のいる母屋の奥の方を振り返った。
 このまま一人で戻れば、今日の頭中将様の御様子はどうだったのかとか、どんなお話をしたかとか、贈り物はなかったのかとか、根掘り葉掘り聞かれるのは目に見えている。
 だからといって、いつまでも馬鹿みたいに、ここに居るわけにもいかない。
 一つ溜息をついて、少納言は主人の側に戻るべく足を踏み出した。












 春の嵐と呼ぶにふさわしい激しい雨風が都を襲ったのは、頭中将と少納言の賭けの期限の三日前だった。
 既に初夏に足を踏み入れた空を、濃灰色の雲が多い、降り始めから激しい雷雨と風が新緑に輝いていた草木を打ち据える。
 誰もが不安げに空を見上げ、早く無事に嵐が過ぎることを祈ったが、一昼夜を経ても風雨は弱まることなく、いっそう強まってゆくようだった。





「ひどい天気ですこと……」
「本当に。鴨川の水も、かなり嵩が上がってきているとか。先程、近衛府の者達が見回りに出たそうですわ」
「恐ろしゅうございますわね」
 ひそひそと、しかし風雨の音に負けぬよう語り合う間にも、稲光りとともに雷の轟音がとどろく。
 途端に、女房達は短い悲鳴を上げてぎゅっと縮こまり、あるいは手近にいた同僚にしがみついた。
 蔀戸(しとみど)も殿舎の四隅にある妻戸(つまど)も固く閉めてあるが、それでも風雨ががたがたと頑丈な木板を揺らし、音を立てる。
 気の弱い女房の中には、先程から激しい雷の音に気が遠くなったままの者もいるほど、ひどい嵐だった。
 しかしその中で、飛香舎の女御は几帳の奥、常と変わらぬ凛とした姿を見せていた。
「これほどひどい嵐ではのう。民には被害が随分と出ようぞ」
「ええ……。殿上の方々も、昨日からほとんどお休みにはなっておられないようですわ」
「頭中将様も、ずっと清涼殿の主上のお側においでで、都の警備や内裏の壊れた箇所の修繕の指揮をしていらっしゃるとか」
「いざという時には、主上は必ず頭中将様をお頼りになさいますもの。きっと、お休みになる暇など片時もなくていらっしゃるのでしょうね」
「もっとも、それくらいでなければ、この私の弟は呼べぬがのう。……少納言、先程から浮かぬ顔をしておるが、いかがした? あれのことが心配か?」
 問いかけられて、近くに控えていた少納言ははっと主人を振り返る。
「いいえ、そうではありませんわ。ただ、あまりにもひどい雨風に、庭の藤のことを考えてしまいまして……」
 飛香舎は別名、藤壷と呼ばれるほど、庭園には見事な藤の木が植えられている。
 花の季節が近付いた今、確かにこの嵐は、藤の木にとって大いなる災難であるには違いなかった。
「そうか。てっきり、不眠不休で勤めに励んでおる、あれのことを気にかけておってくれるのかと思うたがのう」
「それは……」
 仮にも女主人の弟を心配していないと言えば、あまりにも薄情であるし、かといって心配していると言えば、やはりとはやされるに決まっている。
 返事に窮して眉をしかめる若い女房を、年嵩の女房達は楽しげに見つめた。
「意地がお悪うございますわ」
「おやおや。私の意地が悪いと言うか? そなたがほんの少し、素直になればすむことであろうに」
「女御様!!」
「まぁ、それはどういうことですの、女御様」
「やはり、少納言は頭中将様のことを?」
「わたくし、絶対だと思っておりましたわ。あんなに頑なに拒む方が、かえって怪しいというものですもの」
「皆様がた、いい加減になさって下さいませ!」
 先輩女房に口々に騒がれて、少納言は外の風雨にも負けないような声で叫ぶ。
 だが、女房達はころころと笑うばかりで、一向に効果はなかった。


 だが、その和やかな雰囲気を、一人の小舎人が伝えた知らせが打ち破った。


 何やら南の妻戸の方が騒がしい、誰か来たかと奥の女房達が言い合っていた所に、やや格下の女房が、女御と側近を囲んだ几帳の外から血相を変えた声をかける。
 端近にいた女房の一人が立ち上がり、几帳を回り込み、その女房と二、三、言葉を交わして驚きの声を上げた。
「何ですって!?」
 どうしたのか、と思う間もなく、女房が慌ただしく几帳の内側に戻ってきて、女御に向かい、使いの言葉を伝えた。
「大変でございます! つい先程、御実家の二条邸に雷が落ちて炎上したとのこと、頭中将様からのお知らせにございます!!」
「なんと……!」
 さすがに、気丈な女御も顔色を変える。
 女房達も一様に青ざめた。
「それで、弟はいかがすると?」
「すぐさま主上のお許しを得て、二条邸に戻られたそうにございます。女御様には、詳しいことが分かり次第お知らせするから、くれぐれも御心をしっかりお持ち下さいますようにとのこと……」
「──そうか」
 しばらくの沈黙の後、ほうっと息をついて女御は肩の力を抜く。
「女御様」
「大丈夫じゃ。弟が戻ったのであれば、後はあれに任せれば良い。宮中に居る私が気を揉んだところで状況は変わらぬ。今は弟からの知らせを待ち、怪我人が一人でも少なくすむよう祈るだけじゃ」
「───…」
 気丈な女主人の言葉に、女房達は気づかわしげに顔を見合わせ、だが主人がそういうのだから、とうなずき合う。
 そんな自分の女房達を見つめ、女御はそのうちの一人に目を留める。
「少納言」
「は、はい」
 主人に呼ばれて振り返った若い女房の顔は、常になく青ざめていた。
 いつもの気の強さがすっかり失せてしまったような少女に優しい微笑みを向け、女御は美しい声で言葉を紡ぐ。
「大丈夫じゃ、少納言。あれは、これしきの嵐如きでどうこうするような男ではない。心配せずとも、必ず今日のうちに内裏に戻ってこようぞ」
「────」
 女御の言葉に、少納言はどう答えたものか、迷うような様子を見せた後、ためらうように口を開いた。
「──別に、今日中に参内なさらなくても構いませんわ。わたくしは……」
 弱く語尾をぼかした少納言の言葉を、女御は問いつめることはなかった。
 そのまま、しばしの間、几帳の中は重苦しい沈黙に包まれる。
 外では無気味なほどに、激しい雨風が雷と共に荒れ狂い続けていた。












「───」
 自分用に賜った狭い局の中で、少納言は小さく息をつく。
 女房も交代で休まねば持たないと、一の女房である小宰相の君が仕切り、先程、少納言も局に下がるよう言い渡されたのだ。
 だが、まだおさまらない嵐の荒々しい音のせいか、昨夜もほとんど徹夜で過ごしてしまったというのに、眠気が感じられない。
 嵐自体は、午後、ちょうど二条邸に落雷という知らせのあった頃が最高潮であったようで、宵も過ぎた今は、少しずつ静かになりつつはある。
 かといって、横になる気は起きないまま、少納言は燭台の明かりを引き寄せ、文箱の蓋を開ける。
 そして、中に納めてあるものを取り出そうとした時、局の蔀戸を叩く音がした。
 嵐の物音にまぎれて聞き取りにくかったが、決して雨風の音ではない。もしや、女御に何かあったか、二条邸から知らせでもあったのかと、急ぎ立ち上がり、少納言は蔀戸を開いた。
 途端、強い風が吹き込んできて思わず目を閉じる。
 その耳に聞こえたのは。


「良かった、間に合いましたね」


「頭中将…様…!?」
「九十九日目。どうにか約束は守れましたね」
 そう言いながら微笑む頭中将の様子は、これまでには見たことがないものだった。
 おさまりきらぬ風と雨のせいだろう、髪も装束も濡れてしまって、普段ひとすじの乱れも見せたことがない分、大した乱れでなくとも随分と大事のように少納言の目には映る。
「ど…うして……」
「二条邸の火事は、庭木を焼いただけでどうにか収まったんですが、その後、風雨で壊れた築地塀(ついじべい)や屋根の修理の手配だの何だのをしていたら、こんなに遅くなってしまいましてね。とりあえず主上には使いの者を出して、僕は直接こちらに来させていただきました」
「直接って……でしたら、女御様は?」
「姉上にも使いはやりました。もう知らせは届いていることでしょう」
 あっさりと答える青年の手回しの良さと、何が何でも約束は守ろうとする執念に呆れて、少納言は絶句する。
 だが、そんな少女に頭中将は肩をすくめるようにして言った。
「こんな有り様で申し訳ないのですが、よければこちらで少し、休ませていただけませんか。この嵐のおかげで二日間寝てないものですから、さすがに限界なんですよ」
「でも……」
「大丈夫です。こんなに疲れていては、貴女に手を出したくても出せません」
「───仕方がありませんわね」
 嵐の深夜とはいえ、このまま立ち話をしていて、人に見られたら何と噂されるか分からない。
 少し迷ったものの、少納言は立ち位置を脇にのいて、局の中に頭中将を招き入れる。
「ありがとうございます」
 頭中将は微笑んで、その招きに従った。


「横になられます?」
「ええ。少しの間だけお願いします。今、校書殿(きょうしょでん:この内部に蔵人所がある)に戻ったら、まず眠らせてはもらえませんから……」
「困った蔵人頭様ですわね」
「大丈夫ですよ。僕がいなくても、まだ頭弁(とうのべん)殿がいらっしゃるし、部下も皆優秀ですから」
 話しながら、少納言は局の片隅に置いてある行李から手頃な布を取り出し、頭中将に差し出した。
「そのままでは風邪を引かれますわ。さすがに着替えはありませんけれど……」
「大丈夫ですよ。──女性の前ですが、失礼します」
 そう言い、頭中将は冠を外して、髪や装束の雨の水滴を軽く拭う。
 そして、布を返し、ふと気付いたように少納言を見直した。
「もしかしたら、貴女も休まれるところだったのではありませんか?」
 既に宵も過ぎている。
 普通の夜ならば、そろそろ寝る支度してもおかしくのない時刻だった。
「いいえ。この嵐ですから、わたくしたち女房は皆、交代で休みを取っているんです。わたくしはもう、先程少し休みましたから……」
「そうですか」
 少納言の言葉を追求することもなく、頭中将は薄縁(うすべり)の上に腰を降ろす。疲れているというのは、どうやら本当らしかった。
「頭中将様」
「ここで結構ですよ。さすがに貴女の寝所までお借りする程、図々しくはありません」
「……そうおっしゃるなら、構いませんけれど」
 仕方がないと、少納言は掛け物代わりの袿を奥に取りに行く。
 そして戻ってきた時、頭中将はもう自分の腕を枕に、床の上に横になっていた。
 少しためらったものの、そのまま肩に袿をそっとかけて、側を離れようとしたら裾を軽く引かれて少納言は振り返る。
「少しの間でいいですから、側にいて下さい」
「な……」
 横になったまま、微笑した瞳が少納言を見上げる。
 文句を言おうとして、結局何も思い付かないまま、少納言はその場に腰を降ろした。
 燭台の細い明かりの中でも十分に分かる、わずかに眉音を寄せた不本意そうな少女の表情を見て、頭中将は微笑う。
 それから、片手を伸ばして少納言が行儀良く膝の上に揃えている手に触れた。
「! 頭中将様!!」
「少しだけ、ですよ」
 不埒な真似を咎めて名を呼んだ少納言に、小さく笑いながら頭中将は目を閉じる。
 もちろん、少女のたおやかな手を離しはしない。
「ここに、いて下さい」
「……手なんか繋がなくても、逃げたりはしませんわよ。第一、ここはわたくしの局ですわ。こんな夜に、どこへ行くとお思いですの」
「それは分かっていますけどね……」
 くすくすと笑う声も、ぼんやりと睡魔にぼやけ始める。
「頭中将様?」
 名を呼ぶ優しい声に、心地よく青年の意識は眠りの底へと引き込まれてゆく。
 そうして、少納言の手を捕まえたまま、頭中将は眠ってしまったのだった。





「───」
 青年がよく眠っているのを確かめて、少納言は力の緩んだ大きな手から、そうっと自分の手を取り戻す。
 余程疲れていたらしい彼は、それくらいのことでは目を覚ますこともなく、無事に少納言は立ち上がることができた。
「本当に困った方だこと……」
 呟き、肩から少し滑り落ちた袿をかけ直して、自分は几帳の向こうへと回り込む。
 そして、文机の前に座った。
 先程、頭中将が訪れる直前に蓋を開けた文箱の中に手を入れて、色とりどりの薄様を一枚ずつ取り出して、そこに記された優雅な筆跡を眺める。
 短い詞書と、雅びやかな歌。
 いずれも巧みで、だからといって嫌味も感じさせない。
 時には誠実に、時には揶揄を込めて、あるいは哀れを誘うように寂しげに。
 様々に趣を変えて、ひたむきなまでに想いを綴ってある。
 それらを順番に眺めているうちに、自然と眠気を感じて少納言は小さなあくびをもらした。
 頭中将には少し休んだと言ったが、実のところ、この二日間ほとんど眠っていないのは少納言も同じである。
 もちろん、嵐の襲来に対して、帝の側近として禁裏及び都全体の被害の対策に采配を振るい、更には実家の落雷騒ぎに走らされた頭中将に比べれば、肉体的な疲労は多少少ないだろう。
 だが、疲れているのは間違いない。
 ようやく嵐が静まりゆく様子を見せ、そして女御の実家である二条邸が無事だったという知らせを聞いて、張り詰めていた気が緩んだのだろう。
 急に襲ってきた眠気に耐えきれず、少納言は文机に寄りかかり、自分の腕を枕に目を閉じる。
 そうしてそのまま、広げたままの薄様からほのかに感じられる、薫きしめられた香の残り香に包まれるようにして、静かに少納言は眠りに落ちていった。






          *          *






「────」
 ふと目覚めた頭中将は、二、三度まばたきして、自分がどこにいるのか思い出す。
 だが、戸の閉められた室内では、今の時刻が分からない。
 すぐ見えるところに部屋の主人である少女の姿がないことを確かめながら、物音を立てないように起き上がり、そっと蔀戸(しとみど)を開けて外に出た。
 よく眠った気がしていたが、意外にも外はまだ暗かった。
 夜明けにはまだ間があるようだが、嵐は去ったようで、風は強いものの雲の切れた空には星がまたたいているのが見える。
 どうにか過ぎたなと思いつつ、一つ深呼吸して雨上がりのしっとりと澄んだ空気を感じてから、局に戻った。
 そして、広いとは言いがたい空間を仕切っている几帳をそっと回り込んで、そこに求めていた姿を見つけた。
「───…」
 少女は文机に寄りかかって、静かに眠っていた。
 さらさらと流れ落ちる黒髪が、穏やかな横顔にも幾筋か零れかかっている。
 どこかあどけない、けれど可憐な寝顔がひどく愛しく感じられて、頭中将の口元に優しい微笑がにじむ。
 それから、少女を畳敷きの寝所に運んでやろうとして、彼は文机の上に広げられた何枚もの色とりどりの薄様に気付いた。
「これは……」
 かすかに目をみはり、ついで頭中将は小さく笑う。
「本当に貴女という人は……」
 小さな呟きと共に笑いを納めて。
 眠りを妨げないよう少女の身体をそっと抱き上げ、重袿だけを脱がせてすぐ横の寝所に横たえ、その重袿を衾(ふすま)代わりに掛けてやる。
 そして、自分は文机の側に戻って。
 少女が目覚めるまでの間、青年は見覚えのある美しい薄様と、少女の寝顔を交互に眺めていた。









「ん……」
 ぼんやりと意識が浮上するのに任せて、少納言は閉じていた目を開く。
 眠りから覚めやらぬまま、小さく寝返りをうち、二、三度まばたきをしつつ視線をさまよわせて。
「──!」
 はたと目を見開き、少納言は跳ね起きた。
 途端。
「お目覚めになりましたね」
 心地よい甘やかな声が起き抜けの耳を打つ。
「頭…中将様……。まだおいででしたの……って、何を見ていらっしゃいますの!?」
 寝所の側、局の一番奥に置いてある文机の傍らに腰を降ろした頭中将が手にしているものに気付いて、少納言は思わず高い声を上げる。
 そして、重袿を脱いだ下着にも等しい単(ひとえ)姿のまま、少納言は褥(しとね)を抜け出して、それを取りかえすべく手を延ばした。
 が、頭中将はすばやく彼女の手の届かない位置まで、自分の手を遠ざける。
 その手の内でひらめくのは──淡い紅の美しい薄様。
「駄目ですよ。乱暴にしたら破れてしまうでしょう」
「破れたって構いませんわ! どうして勝手にわたくしのものを御覧になっているんです!?」
「勝手にと言われても……見て下さいと言わんばかりに広げてありましたが」
「だからといって、見て良いということにはなりませんわ!」
「おや、そうなんですか? 僕はてっきり、貴女が口に出せない想いを察して欲しいと願われて、このように文が広げてあるのかと思いましたが」
「そんなはずがあるわけありませんでしょう!」
 完全にからかい口調の頭中将に、少納言は、憤りと羞恥に頬を染めて言い返す。
 そんな少女を、実に面白げに頭中将は見つめた。
「では、お伺いしますが、何故このように僕の贈った文ばかりが、ここには広げられているのでしょうね?」
「そ…んなこと、他意はありませんわ。ただ昨夜は寝つけそうにありませんでしたから、つまらない文でも眺めていれば眠くなれるかと思っただけです」
「なるほど」
 少女の言い逃れめいた反論に、青年はくすりと笑う。
「では、そのつまらない文を捨てずに取っておかれたのは何故です?」
「昨夜のような眠れない夜のためですわ」
 つんとすまして言い返す少納言に、とうとう頭中将は声を立てて笑い出した。
「何が可笑しいんですの?」
「いいえ、可笑しいのではありませんよ。貴女があまりにも可愛らしいものですから……」
「な……!」
 からかうような物言いにかっと赤くなる少納言に、頭中将は笑みながら言い聞かせる。
「だって、少し考えてみれば分かるでしょう。貴女は気に食わないものを大切にとっておかれるような方ではないし、ましてや、寝苦しい夜に嫌いな相手からの文を読もうという気になられるはずがない。となれば、答えは簡単ですよ」
「答えって……」
「いつも……、もしかしたら毎晩のように僕の文を読み返して下さっていたんでしょう? そうでなければ、僕が同じ局のうちにいるにも関わらず、無防備に文箱の中身を広げたまま貴女が眠ってしまわれるはずはありませんから」
「そ…んなわけが……!」
「ねぇ少納言」
 白い頬を薄紅に染めて言い返そうとする少女を見つめながら、頭中将は手にしていた薄様を文机の上に戻す。
 そして、この上なく甘やかな笑みを浮かべて、告げた。
「お忘れになっているようですが、もう夜明けなんですよ」
「……それが、どうか?」
「百日目です」
「!!」
 その瞬間、少納言の顔色は目まぐるしく変わった。
 赤から青、青から赤へと忙しなく変じさせて、最後に血の気の昇った顔で、きっと頭中将を見つめる。
「まさか、これを狙って昨夜……」
「あなたに求婚するのに、そんな姑息な真似はしません。昨夜は本当に体力の限界だっただけです。実際、たとえばあのまま蔵人所に戻ったとしても、こうして今起きているように、今日のうちに貴女の御機嫌伺いに来ることは十分に可能でしたよ」
「ですけれど……!」
「本当ですよ。第一、そんな真似をしたら、貴女は絶対に許して下さらないでしょうに」
「許せるわけがありませんでしょう!」
「とにかく、賭けは僕の勝ちです。貴女が何と言おうと、僕の妻になっていただきますよ」
「嫌です!」
「少納言」
「絶対に嫌っ!!」
「────」
 何が何でも、と強く拒絶する少納言に、頭中将は呆れ半分の溜息をついた。
 そして、改めて少女の女房名を呼ぶ。
「少納言。僕は百日の約束を守れなければ、潔く貴女を諦めるつもりでしたよ。そういう約束でしたからね」
「───…」
 生真面目な口調で言われて、少納言はぐっと押し黙る。
 そんな彼女を見つめて、頭中将は続けた。
「だからといって絶対に嫌だというのを、無理強いして結婚するのも本意ではありません。だから、僕を拒む理由があるのなら、今はっきりとおっしゃって下さい。それに納得できれば、この話はなかったことにしてさしあげますよ」
「…………」
「少納言?」
「────」
 呼び掛けても少納言は、ふくれっつらに近い表情でまなざしを落としたまま、うんともすんとも言わない。
 貝のように黙り込む少女に、頭中将は困ったように嘆息する。
「おっしゃっていただけないと、僕も反応のしようがないんですが……」
 そして、檜扇を軽く弄びながら、少女に語りかけた。
「少納言。僕はこうして賭けの結果を出すことにはこだわっていましたけれど、それは勝ちを楯に結婚を迫ろうと思っていたわけではなくて、糸口が欲しかったからなんですよ。貴女はいつでも僕から逃げるばかりで、何故、求婚を断るのか、その理由も教えては下さらない。
 確かに僕を嫌っている素振りもされますけれど、だからといって、それが本意とは思えませんしね。本当に嫌いな相手には、あなたはまなざしを向けることも厭われる方ですから。たとえ口論のようだとしても、僕が話し掛ければ一応、応じて下さる以上、まったく嫌われているというわけではない。そうでしょう?」
「───そんなのは頭中将様の自惚れですわ」
「それが本当なら、僕の目を見て言っていただきたいところですが……。そう言うと、貴女は本当にされそうですからね。話がややこしくなりますから、やめておきましょう。
 とにかく、貴女が僕を本気で嫌っているわけでもないのに求婚を断られるのは、正当とは言いがたい理由か、もしくは口には出しにくい理由があるからだと僕は踏んでいるんです。それを確かめたかったから、賭けを持ち出したと言えば納得して下さいますか?」
「そんなものは……。理由などありませんわ。嫌なものは嫌。それではどうしていけませんの」
「僕が納得できないからです」
 即答されて、思わず少納言は顔を上げ、目の前の青年の顔を見直す。
 すると、頭中将は僅かに笑みを含んだ、だが真面目な表情で少納言を見つめていた。
「その『嫌』とおっしゃる理由をお聞きしない限り、僕は引き下がりませんよ」
「───…」
 はっきりと言い切られて、またもや少納言は黙り込む。
 頭中将の真剣さに気圧されたようにも困惑したようにも見える表情は、彼女としては至極珍しいものである。
 だが、その表情を見ても、頭中将は引き下がらなかった。
「理由をおっしゃって下さいませんか。何故、僕の求婚を拒まれるんです? どんな理不尽な理由でも構いませんから、教えて下さい」
「…………」
「少納言」
「────」
 重ねて問い詰められ、とうとう観念したのか、少納言はきゅっと一旦唇を引き結んでから、小さく口を開く。
 が、薄紅の可憐な唇から零れたのは、青年の求めた応えそのものではなかった。
「──頭中将様は、何故わたくしに求婚なさいましたの?」
 唐突にも思えるその問いかけに、頭中将はわずかに首をかしげ、しかし、ためらうこともなく応じる。
「もちろん貴女を愛しているからですよ。他に理由があるように見えますか?」
「だから……。そうではなくて、何故ということですわ」
 あまりにも屈託のない返答に軽く頬を染めつつ、少女は問いを繰り返す。
「何故と言われても困りますが……」
 そんな彼女にくすりと笑みを零しつつ、頭中将は何かを思い出すように、少し遠い目をした。
「最初は一目惚れみたいなものでしたよ。姉上のもとに新参の女房がきたと聞いて見に行ったら、ちょうど取り次ぎに出てきたのがその方で……。可憐で聡明そうで、明るい笑顔に一目で夢中になりました」
「────」
 甘やかな告白に赤くなりつつも、少納言は答えを聞くために耐える。
 が、少女の葛藤を意に介す様子もなく、響きのいい低い声は睦言を紡ぎ続けた。
「飛香舎で顔を合わせて、貴女の聡明なところや優しい気遣いを目の当たりにするたびに想いは募っていって、半年も経つ頃には、妻にするのは貴女しかいないと思い定めてましたよ。それまで結婚などというものには、さして興味もなかったにも関わらずね。おかげで、姉上を含めてあちらこちらで冷やかされました」
「────」
「つまり、何故と言われても、貴女を愛してしまったからとしか答えようがないんです」
「…………それだけ、ですの?」
「他に何が必要ですか?」
「必要ではありませんか! 実家の経済力とか身分とか!」
 思わず少納言は声を高くする。
 しかし、青年は顔色も変えなかった。むしろ納得したように軽く嘆息する。
「やっぱり、それですか」
「やっぱりって……!」
「だって他には考えられなかったんですよ。貴女ご自身は非の打ち所のない女性ですし、僕を本心から嫌っているとも思えない。としたら、『男は妻柄(めがら)』というのを気にしていらっしゃるのかなと」
「!」
「とはいえ、貴女の口から答えを引き出さないと、問い詰めたところで、うまくごまかしてしまわれますからね。賭けをした甲斐はあったということかな」
 しれっと言う頭中将に、少納言は、またもや青ざめたり赤らんだり顔色をめまぐるしく変える。
 そんな彼女を見つめて、頭中将は極上の笑みを見せた。
「何も心配はありませんよ。経済力も身分も、僕の実家には有り余るほどにありますし、第一、貴女は飛香舎の女御のお気に入りの女房なんですから、それだけで十分な後ろ盾になります。
 それに、松の大納言殿が必要とあれば、貴女を猶子(ゆうし:養子のようなもの)として僕に嫁がせてもいいと申し出て下さいましたしね」
「は……?」
「大納言殿は、甥に当たる僕のことを買っていて下さいましてね。でも僕を養子にするのは父が許さないから、せめて僕の妻を世話したいということらしいです。ですが、残念ながら大納言殿には年齢の釣り合う姫君はおられませんから、僕がこれといった後見のない貴女を見初めたのは、渡りに船のように感じておられるんですよ」
 頭中将の言葉を、少納言は呆然と聞く。
 大納言といえば左右の大臣に次ぐ重職で、その姫君なら妃や尚侍(ないしのかみ:身分は女官だが事実上の妃)として後宮に入内できる身分である。
 さすがに元が少納言の姫では、猶子になったところで入内は無理であるものの、関白左大臣の子息を婿とするには申し分ない。
「そ…んな……」
「僕としてはどちらでも構わないんですけれどね。妻の実家に頼らなければ出世が出来ないほど無能ではないつもりですし、貴女を妻にしたことを妬まれて足を引っ張ろうとする輩がいても、それに引っかかるほど甘くもありませんから。
 ただ、貴女が安心なさるのなら、大納言殿のお申し出を受けてもいいとは思っているんですよ。大納言殿への可愛がっていただいている恩返しにもなりますし」
「────」
 少納言は、もう呆然とするあまりに言葉もない。
 そんな少女に微笑み、頭中将はそっと彼女に手をのばした。
 豊かに流れる艶やかな髪に手を滑らせ、一房を取って引き寄せる。
 そして、ほのかに甘い花の香が薫る髪に口接けた。
「貴女が心配されることは何もありません。もう少し、貴女の夫になろうという男を信用して下さい」
 それから、ゆっくりと華奢な身体を腕に抱き寄せる。
 驚きに動けないのか、雰囲気に呑まれてしまったのか、少納言は抵抗することなく従順に頭中将の胸に収まった。
「──返答は?」
「───…」
 耳元で甘くささやかれて、少女の身体が身じろぐ。
「………」
「何ですか?」
「……賭けの」
 わずかに身体を離して顔をのぞきこむ頭中将の視線を避けるように、少納言はうつむいたまま顔をそむけて、かろうじて聞こえる程度の細い声で答えた。
「賭けの条件を出したのは、こちらですもの」
「そうですね」
 いかにも彼女らしい返事の仕方に笑って。
 頭中将はもう一度、今度は強く少納言を抱きしめた。






          *          *






 飛香舎の女御は上機嫌だった。
 昨日、実家に落雷の報を受けて驚愕したが、それも実際の被害は大したことなく、嵐は無事に去って、そして夜が明けた今、目の前には可愛がっている若い女房と弟が並んで畏まっている。
 決まり悪くて仕方がないと言いたげにうつむいた女房と、晴れやかな表情の弟をつくづくと眺めて、女御は美しく微笑んだ。
「改めて見ると、実に似合いじゃのう。皆もそうは思わぬか」
「ええ、ええ。仰せの通りですわ」
「本当にお似合いですこと。どちらも本当に美しくて……」
「ほんによろしゅうございましたわね、女御様」
「うむ」
 側仕えの女房たちが口々に賛同してくれるのに、満足げに女御はうなずく。
 そして改めて、気に入りの女房と弟に、その美しいまなざしを向けた。
「だが、少納言が居なくなるのは寂しい。ゆえに、結婚してからも宮仕えを辞めることは許さぬぞ」
「ええ!?」
 当の本人よりも大きく反応したのは、傍らに居る夫となる青年だった。
「結婚してからも宮仕えを続けろとは……僕はどうなるんです!?」
「なにも少納言を遠くにやろうというのではない。この飛香舎に居るのだから、これまでと同様、いつでも妻の顔を見に来ればよいではないか」
「そういう問題ではありませんよ。僕は水入らずで……」
「水入らずと言っても、そなたは多忙な身。屋敷に居るよりも宮中に参内しておる時間の方が長いであろう?」
「だからといって、こんなところで新婚生活は送れません!」
「以前からそなたたちのやりとりは、時として目のやり場に困ることがあった。今更、誰も気にせぬぞ。のう、そなたたち気になるか?」
 最後の台詞は、他の女房たちに向けたものだった。
 彼女たちは顔を赤らめるもの、くすくすと笑うものと様々だが、いずれも嫌悪を示すものではない。
 そして肝心の少納言は、先程から半ば青ざめ、半ば赤面して固まったままだ。
「僕は嫌ですよ。せめて一年や二年は、僕に彼女を独占させて下さい」
「一年や二年も独占させたら、今度はややができたといって飛香舎に返そうとはせぬのではないのか?」
 人妻の過激な発言に、固まった少納言の顔が耳まで真っ赤に染まる。
 だが、言い争う姉弟は気付きもしないで、論争を続ける。
「何と言われようとも、こればかりは譲れません。最低でも一年は、少納言を里下がりさせて下さい」
「三ヵ月くらいならば許しても良いが」
「最低でも一年です」
「一年も少納言の顔が見れぬなど、寂しくてかなわぬではないか。この退屈な宮中で、少納言の愛らしさ聡明さにどれほどわたくしが慰められておるか、知らぬそなたではあるまい」
「それならば、季節の御挨拶には僕の代理として参内させますよ」
「そのたびごとに一ヵ月ほど、宮中にとどまるというのなら許しても良いが」
「だから、その間、僕にどうしろと言われるんです!?」
「いつでも妻の顔を身に来れば良いと言っておるではないか」
「ですから……!」
 いずれも引き下がろうとしない口論を、周囲の者たちは、はらはらしつつも楽しげに見守る。
 当人たちは至って真剣なのだが、しかし論点は、今をときめく女御とその令弟にはあまりふさわしくなく、その分、当事者以外には愉快なものと成り果てている。
 そして、埒のあかない口論は、とうとうもう一人の当事者へと飛び火した。
「少納言」
「あ、はい」
 女主人に名を呼ばれて、固まったままだった少納言は顔を上げ応じる。
「そなたはどうしたいのじゃ? わたくしに仕えるか、こやつと水入らずか……」
「僕を選ばれるに決まっていますよね!?」
「は……」
 思いっきり意気込んだ姉弟に見つめられて、思わず少女はまばたきした。
「そう……おっしゃられても……」
「貴女次第なんです。どうぞ僕と行くとおっしゃって下さい」
「宮中に居たいであろう? ここに居れば、そなたの好きな珍しい絵巻物も菓子も、次々から次に手に入るのだぞ」
「そんなものは我が家に居ても手に入りますよ! 第一、それらの大半は僕が献上しているものじゃありませんか!」
「ならば、妻の顔を見るついでに、これからもせっせと運んで来ればよい」
「それが、こんなに尽くしている弟に対する言い分ですか?」
「弟など他に使い道もなかろう。妹なら、あれやこれや共に楽しめようが……」
「あの」
 果てしのない口論に、思い切って少納言は割り込む。
 途端、二人の視線が少女に突き刺さった。
 その鋭さに少々引きつりながらも、少納言は自分の意見を述べるべく口を開く。
「わたくしは女御様のお側に、これからも今までと同様、お仕えしたく思いますわ」
「少納言!」
 二人の声が同時に重なる。
「よく言った! そなたこそは女房の鑑じゃ!!」
「何故です!? 僕との新婚生活は……!?」
「ですが」
 対照的な様相を呈した姉弟に、はっきりと少納言は告げた。
「このまま宮中に居続けては、頭中将様が臍を曲げて拗ねてしまわれるのは目に見えていますわ。それは得策ではないとはお思いになりませんか、女御様」
「──それはそうじゃのう」
「ちょっと、それはどういう意味です?」
「ですから、とりあえず半年の間、宿下がりをさせて下さいませ。そして、その後は月のうち十日ほどは、こちらに御機嫌伺いに参内するということではいけませんでしょうか?」
「ふむ」
「その後のことは……。何分、公卿の正妻が出仕するのは、そう例のあることではありませんから、頭中将様のお許しがいただけるのなら、再び正規に出仕するということにしていただけませんでしょうか」
「────」
 少納言の提案に、二人とも黙り込む。
 互いに内容を吟味するらしい長い沈黙を、女房たちも黙って見守った。
 やがて、先に溜息を着いて顔を上げたのは、頭中将の方だった。
「妥当なところでしょうね。姉上もこれくらいで折れて下さらないと、無理にでも僕は少納言をさらって二条邸に戻りますよ」
「仕方がないのう」
 女御もまた、溜息をついて衵扇(あこめおうぎ)をぱちんと鳴らした。
「それでよい。だが、少納言を屋敷から出すのを渋ったりしたら許さぬぞ」
「分かっていますよ」
 ようやく互いに納得し合い、姉弟は肩の力を抜く。
 そして、女御は改めて少納言を見つめ、慈愛に満ちた美しい笑みを浮かべた。
「少納言、前にも言ったが、そなたが妹になること、わたくしは本当に嬉しく思うぞ」
「勿体のうございます」
「何を言う。むしろ弟にこそ、そなたは勿体ないほどじゃ」
「それはないでしょう、姉上」
「うるさい。わたくしから少納言を奪うそなたに、口出しをする権利はないぞ」
「…………」
「とにかく、こやつはこんな男だが、それでもそなたのことは精一杯に大切にしようとするであろう。なにしろ、姉のわたくしから奪ってゆくくらいなのだし」
「……姉上」
「だから、そなたは幸せにならねばならぬぞ。こやつが何か悪さをしたら、すぐにわたくしに言えばきつく懲らしめてやるからのう」
 微笑みながらも真剣に言う女御に、少納言は固かった表情を緩めて微笑む。
「はい、女御様」
「どうしてそこでうなずくんです、少納言」
「女御様は、わたくしの大切な主君ですもの。温かいお言葉に感謝するのは当然ですわ」
「……いいですけどね。結婚してしまえば、こちらのものですから」
「そんな性悪なことを言っておると、少納言の里下がりを許してやらぬぞ」
「本当に僕に対しては意地がお悪いですね、姉上」
「どこがじゃ。そなたの恋をずっと応援してやっていたのは、このわたくしであろう」
「はいはい。心の底から感謝しておりますよ」
「全然気持ちが感じられぬのう。少納言、やはり結婚はやめておいた方がよいぞ」
「でも、賭けに負けてしまいましたわ」
「そんなものは無効でよい。わたくしが許す」
「冗談じゃありません! 彼女は僕の妻です!」
「おやおや、独占欲の強いことじゃ。これでは先が思いやられるのう」
「ええ、本当ですわ」
「少納言!」
「だが」
 にっこりと女御は微笑む。
「これほど惚れ込んでおれば浮気もできまい。少々嫉妬深かろうが、こやつは良き夫になろうぞ」
「女御様」
「幸せにならねば許さぬぞ、二人とも」
「勿論ですよ。何があろうと、最愛の妻を不幸にしたりなどしません」
「その言葉、真実となればよいがのう。のう、少納言」
「……はい。お心遣い嬉しゅうございます。女御様」
「うむ」
 ようやく和やかに微笑み合い、一同はほがらかな笑いに包まれた。








          *          *








「貴女が新しく出仕された女房の方ですか?」
「はい。少納言と申します」
「そうですか。僕は頭中将の責を帝より預かっている者です。度々こちらには参りますから、覚えて下さると嬉しいのですが」
「頭中将とおっしゃると……女御様の弟君でいらっしゃいますか?」
「ええ」
「お伺いしておりますわ。とても素晴らしい方だと、皆様方が聞かせて下さいました」
「それはそれは……嬉しいですね」
「わたくしも、お会いできて嬉しゅうございます。さあ、どうぞ奥にいらして下さいませ。頭中将様がおいでになられたとお聞きになれば、女御様もお喜びになられますわ」
「……噂通り、本当に可愛らしい方ですね」
「? 何かおっしゃいまして?」
「いいえ、何も」
「そうですか? ではこちらへ……」


 それは遠い日の、恋の始まりの物語……。






Happy end.










というわけで、ようやく完結しました『恋の作法』です。
まさか後編がこんなに長くなるとは……。オチが女御様、というのは最初から決めていたのですが、思っていた以上に低レベルの姉弟喧嘩を書くのが楽しくて、ついつい文章が増えてしまいました。
あと、少納言と頭中将の口論も、書いていて楽しかったです♪ 好きなんでしょうね、こういうやりとり。

初めて書いた平安物でしたけど、色々調べていて、やっぱり面白いなぁと思いました。いいですよね、雅の世界vv
資料も色々本棚に集まりましたし、機会があったらまた書きたいです。

ではでは、1年ンヶ月前に「女の子師叔で平安物」という素敵なリクを下さった湊ゆーや様、長らくお待たせして本当に申し訳ありませんでした。
こんなしょーもないもので良ければ、受け取ってやって下さると幸いですm(_ _)m





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