恋の作法 1








 恋はいつの時代も大騒ぎ。





 のどかな昼下がり。
 うららかな小春日とは対照的に、禁裏の後宮は華やかにざわめいている。
 昼を過ぎたこの時刻、早朝からの勤務を終えた殿上人(てんじょうびと)が、帰宅前に後宮に御機嫌伺いに来ることが珍しくないため、后妃たちに仕える女房たちもついつい、身だしなみに力が入ってしまうのである。
 その中の一角、今をときめく藤壺の女御が住まう飛香舎も、もちろん例外ではなかった。





「なにやら表の方が騒がしい……」
 若い女房を相手に碁に興じていた女主人が、ふと顔を上げ、手にしていた衵扇(あこめおうぎ)をぱちりと鳴らす。
 確かに、渡殿(わたどの)の方からか遠く女たちの騒ぐ声が聞こえてくる。何か事件があった風ではない。むしろ、黄色い声、というのが似合うざわめきである。
 しばしそれに耳を傾けてから、ふふ、と面白げに彼女は微笑んだ。
 そして、碁盤の向かい側に座っている若い女房にまなざしを向ける。
「少納言、そなた見てきてはくれぬか」
「私がですか?」
「うむ。おそらく、あれが来たのであろう。出迎えてやっておくれ」
「……私が、ですか」
「そうじゃ」
 にっこりと微笑む女主人に、若い女房はひどく渋い表情をする。
「ほれ、もうすぐ近くまで来ておるぞ。久方の弟の来訪に出迎えもせぬとあれば、飛香舎の名折れとなろう」
「………たかが3日の無沙汰を、久方と申すのには無理があると思いますけれど」
 女御(にょうご)様のご命令なれば仕方なし、と女房は立ち上がった。
 そんな彼女の態度を咎めるでもなく、女主人は面白げな表情で少女を見送る。
 そして、清楚な薄青に萌黄を重ねた衣が御簾の向こうに消えると、控えていた他の女房たちがくすくすと笑みを零し合った。

「女御様は意地がお悪うございますわ。少納言は、あの方にはほとほと困らされておるようですのに……」
「あら、女御様は意地悪をなさっておられるわけではありませんわよ。少納言がちっともなびく様子がないのを気に病んでおいでなのですわ」
「そうですわ。なんといっても頭中将様は、同腹の弟君でいらっしゃるのですもの」
「ですが、気が向かぬものを無理強いするのは可哀相ですわ。第一、頭中将様が少納言をお気に入られているために、他の殿方があの娘に文を下さいませんのよ。到底、頭中将様には敵わぬと思われて……」
「それは仕方ありませんわ。頭中将様より美しい殿方は宮中にはおられませんもの。家柄だって……」
「少納言もあの通り、可愛らしくて似合いではありませんの。あの娘なら仕方なしと皆、思ってますのよ」
「あら、そうでもないようですわよ。梅壺の右近殿はかなり、少納言の噂を聞いてぴりぴりしておられるとか……」
「あの方は器量自慢ですものね。頭中将様にも盛んに文を贈られているそうですわ。頭中将様は、ありきたりのお歌をお返しになるだけだそうですけど……」
「それはそうでしょうとも。頭中将様の見事なお歌に見合うだけの歌を返せるのは、少納言だけですわ」

「そなたたち、楽しそうじゃのう」
 かしましく騒ぎ合う女房たちを見やって、口元を扇で隠した女主人は優雅に笑う。
「女御様。女御様はいかがお考えですの?」
「ええ、私どもも女御様のお考えを承りとうございますわ」
 好奇心に満ちたまなざしを向けられて。
「さて、のう」
 実に楽しそうに、美しい女御は微笑んだ。







 先輩の女房たちがかしましく噂しているのも知らず、当の少納言は飛香舎の簀子(すのこ:建物の外側を取り巻いている廊下)にて仇敵とも言える相手と向き合っていた。
 姿を現した彼女を目ざとく見つけて、一人の従者を引き連れた背の高い貴公子が微笑する。
「萌黄が良くお似合いですね。少し前の氷襲も良く似合っていたけれど、あなたにはやはり春の装いが一番素敵ですよ」
 魅惑的な低い声が紡ぎだす甘やかな言葉に、しかしにこりともせず、むしろ不機嫌な仏頂面で少納言は、貴公子を見上げた。
「女御様がお待ちになっておられます。どうぞこちらへ」
 愛想のない、事務的な口調で告げると、くるりと向きを変えてさっさと歩き出してしまう。
 だが、そんな彼女に眉をしかめるでもなく、苦笑して彼は後を追った。
「僕は別に、姉上だけにお目にかかりたかったわけではないんですがね、少納言」
「わたくしは寒いのは嫌いなんです。早く暖かい局に戻りたいのに、頭中将様のお相手をしている暇はありませんわ」
 この時代、基本的に夏でも冬でも家の中では素足である。
 ようやく春めいてきたばかりのこの季節、吹きさらしの簀子を歩くのはかなり辛い。
 後宮に仕える女房らしくもなく、すたすたと足早に少納言は女主人の待つ局へと向かう。
 その小柄な後姿を、微苦笑を浮かべたまま見下ろしつつ、青年の方はゆったりとした、だが隙のない歩みで白木の廊下を歩んだ。

 そして、歩調の揃わないまま、美しい御簾の降りた局の前で立ち止まり。
 少納言は背後の青年を仰ぎ見て、立ち位置を譲った。
「どうぞおいでになって下さいませ」
 口調は丁寧だが、大きな瞳には「あんたなんか嫌い」とくっきり書いてある。
 それを正確に読み取って、頭中将は更に魅惑的な微笑を深めた。




「よう参ったの、楊ゼン」
「姉上もお変わりなく……」
「うむ」
 帝妃たる身分の女性にはあるまじきことだが、事の外、この同腹の弟を可愛がっている藤壺の女御は、御簾さえも遠ざけて、その美しい面にあたたかな微笑を浮かべている。
 よく面差しの似通った美しい姉弟が対面している様は、まるで一服の絵物語のような華やかさである。
 しかも、姉は、現関白右大臣の姫君にして今上(きんじょう)の寵妃、弟は若い公達の中では抜群の出世頭であり、二十歳を少し過ぎた若さで頭中将という重職を預かっている身とあれば、これ以上はないと言えるほどに贅沢な光景でもあった。
 その場に居合わせた女御に仕える女房たちが、うっとりとその光景に見惚れている中(但し、約一名を除く)、優雅に弟は姉に一礼する。

「本日は、二条邸の白梅が咲きましたので、是非とも姉上のお目にかけたいと思い、参上いたしました。どうぞお受け取り下さい」
「それはかたじけない。そなたの心遣い、嬉しく思うぞ」
 本当に嬉しげに微笑んだ女御は、女房が頭中将の従者から受け取った梅の枝に、細い指を伸ばしてそっと白い花弁に触れる。
 局の中は、先程からすがすがしい花の香りに満たされていて、誰もがそっと扇の影で息を深く吸い込み、春の香りを楽しんでいた。
「懐かしい……。二条邸に里下がりしたのは、昨年の夏以来じゃ。皆、変わりはないか?」
「ええ。老いも若きも皆、風邪さえも引かぬような元気さです」
「それは良かった」
 実家の面々を思うように一瞬、目を細めた女御だが、すぐに郷愁の表情を美しい微笑に変え、弟を見やった。
「せっかく参ったのじゃ。ゆっくりと寛いでゆくが良い。ここの紅梅もそろそろ見頃じゃからのう。あのような淡い薄紅の花は、二条邸にもなかろう」
「ええ。先程こちらへ来る途中で拝見しましたが、相変わらず淡い色合いが美しくて、心を洗われるようでした」
「うむ。やはり花は咲き始めが一番美しい。そうは思わぬか、少納言」

 突然話を振られ、幸せ色に染まったこの局の中でただ一人、口元に不機嫌さをにじませていた若い女房は、わずかに恨めしげな表情で女主人を見つめ返しながらもうなずく。
「はい。ですが、憐れだとも思いますわ。長い冬を越えてようやく花を咲かせたというのに、枝を手折られて……。それでは雪の重みに耐えた甲斐がありませんでしょう」
「相変わらず、少納言は手厳しい」
 少女の物言いに、客人である青年はくすりと笑う。
「ですが、美しい花であればこそ、手元に置いて愛でたいという心も抑えがたいものですよ」
「それは、人それぞれにございますわ。わたくしは在りのままに咲いている花のほうが好きです」
「僕はそれでは満足できませんね。美しい花は誰にも見せないように自分だけのものにして、大切に愛でたいと思いますよ」
「そうはおっしゃっても、飽きられればお捨てになって省みることもなさいませんのでしょう? それでは野にあって自然のままに枯れるよりも、更に憐れですわ」
「おや、そこまで大切に思う花に飽きることなどあるはずがないでしょう。この命が果てるまで、大切に雨風から守り通しますよ」
「まあ。殿方にそのような誠があるなどと、ついぞ聞いたことはありませんわ。口先では何とおっしゃろうとも、すぐに次の美しい花に目移りなさるのが殿方の常にございましょう」
「そのような決め付けはよくありませんよ。聡明な貴女らしくもない。もっと確かな目で男というものを見ていただかなくては」
「わたくし如きに頭中将様の御心配をいただく必要はございませんわ。恐れ多くてもったいのうございます」
「また心にもないことを……」

「2人とも、気が合うようじゃのう」
 不意に女主人の笑みを含んだ声が割り込んで、はっと少女は周囲に意識を向ける。
 いつの間にか、若い2人のやりとりに誰もがくすくすと声を殺して忍び笑っていて。
「し…失礼致しました」
 白い頬を淡く染めて、少女は非礼を主人に詫びる。
 それから、扇で口元を隠しつつ、その影で挑発した張本人である青年をきつく睨んだ。
 そんな彼女を見つめて、女御は鷹揚に微笑む。
「よいよい。そなたらの会話を聞いておるのは私も楽しい。のう、皆もそうは思わぬか?」
 女主人の言葉に、居合わせた3人の年かさの女房たちは大きくうなずいた。
「ええ、もちろんですわ、女御様」
「だから、頭中将様も私たちに気兼ねなさることはございませんわよ」
「どうぞお気がすむまで、少納言の相手をしてやって下さいませ」
「皆様方!!」
 なんとも心遣いに満ちた先輩女房たちの言葉に、少女は顔を真っ赤にして声を上げる。
「そんなお気遣いは御無用ですわ! 頭中将様はわたくしをからかいになっていらっしゃるだけなんですから!!」
「まぁ少納言。そんなことを……」
「中将様は御心配でいらっしゃるのよ。あなたはそんなに可愛らしいのに、色恋には無頓着なんですもの」
「ええ。どこぞのつまらない殿方があなたに言い寄るのではないかと、毎日やきもきなさっているのだわ」
「そんな心配をいただかなくとも、既に変な殿方が言い寄っているじゃありませんか!!」
「それは僕のことですか?」
 笑みを含んだ低い声で、問い返されて。
 はっと我に返った少納言は、慌てて己の大切な主人に向かってかしこまる。
「失礼致しました、女御様。女御様の大切な方に向かって……」
「僕には謝っては下さらないんですか」
「よいよい、それのタチの悪さは私もよく知っておる。そなたに悪気がないことは、ちゃんと承知しておるよ」
 女御は美しい笑みを浮かべて、にこにことうら若い女房と弟を見つめた。
「ひどいですね、姉上。僕の味方をして下さるのではなかったのですか?」
 いかにも楽しげな姉に、頭中将は笑いをにじませた声で、さりげない恨み言を述べてみる。
 が、
「おや、私が協力せねば、そなたは少納言を射止めることができぬのか? それはまた、情けのないこと」
 さらりといなされ、苦笑して引き下がった。
 しかし。
「女御様……」
 ダシにされ続けている少納言のほうは、そうもいかない。
 実に恨めしげな表情で、女主人を見上げた。
「不服そうだのう、少納言」
「そうではありませんけど……。ひどいですわ。皆様方でわたくしを玩具になさって……」
「あら、わたくしたちは少納言が可愛いだけですわ」
「ええ、大切な妹分ですもの。素敵な殿方があなたに文を贈って下さるのを、心から喜んでいるのよ」
「頭中将様は、何と言ってもわたくしたちの女御様の弟君。これ以上の素晴らしい方はいらっしゃらなくてよ、少納言」
「これは嬉しいお言葉ですね。さすが姉上は、女房方も素晴らしい方々ばかりを揃えておられる」
「まぁ、そんな……」
「もったいのうございますわ、頭中将様」
 肝心の自分をさしおいて、進んでゆく会話に。
 実に恨めしそうな表情で、少納言は頭中将を睨みつけ、女御はひたすらに美しく、面白げに微笑んでいた。





 自分を飛香舎の端まで送るよう命じられて、ひどく渋い表情を見せた後、すたすたと廊下を足早に進んでゆく小柄な後姿を微笑んで見つめていた青年は、
「少納言」
 ふと名を呼んで、足を止めさせる。
 そして、嫌々ながらと分かるゆっくりさで振り返った少女に、穏やかな笑みを向け、口を開いた。
「山高み思いかくれば春霞 晴れせぬ嘆き燃えまさるかな」
「……偽りのなき世なりせば いかばかり人の言の葉うれしからまし」
 読みかけられた歌に、愛想も何もない口調で即答して、少納言は頭中将を見上げる。
 その不機嫌な表情に、頭中将は面白げに笑った。
「どうして貴女は僕を信用して下さらないんでしょうね」
「信用しろとおっしゃる方が無理ですわ。頭中将様の美しき花々をめぐるお話は、噂話に疎いわたくしでも指折り数えられるほどに聞いておりますもの」
「ならば、それらは貴女が姉上のもとに出仕される以前のことだということも御存知でしょう」
「───信じられませんわ」
「では、どうすれば信じて下さいますか?」
 ずい、と一歩足を踏み出して、頭中将は少女との距離を詰める。
 姿よく背の高い青年に対し、小柄な少納言は青年の肩までの高さもない。
 だが、ひるみもせずに大きな瞳で女主人の弟を見上げた。
「このままでは埒が明かないでしょう。僕は貴女を諦める気はない。けれど、貴女は僕を信じる気にはなって下さらない。
 ですから、貴女が何か条件を出して、それを叶えることができたら、僕の勝ち。できなければ、貴女の勝ちということでいかがです?」
「……つまり、頭中将様がお勝ちになったら、妻の一人になれと?」
「妻の一人、ではありません。僕は貴女以外に妻を持つ気などありませんから」
「今時、側室を持たれない殿方がどこにいらっしゃいますの」
「貴女の目の前に」
 その言葉には答えず、少納言は少しだけ考え込んだ。
「……本当にわたくしが勝てば、諦めて下さいますか?」
「二言はありません」
「分かりましたわ」
 うなずいて、少納言は告げる。


「では、明日から数えて百日の間、毎日通ってきて下さいませ。どんな理由があろうと、文だけ、お使いの方だけというのは認めません」


「……3月半の間、毎日こちらへ来いと?」
「ええ」
 今はまだ2月に入ったばかりである。
 これから春の盛りにかけて宮中内外の年中行事はもちろんのこと、それぞれの貴族の屋敷での宴もひっきりなしに行われる。
 そうでなくとも、頭の中将という蔵人所の重職と、左近衛府の次官を兼ねている立場であれば、宮中に泊り込む宿直も7日に1度くらいの割合でめぐってくるし、迷信に従って生きているこの時代、物忌みだって馬鹿にはならない。
 少納言の出した条件は、一見、簡単なように聞こえて、実は相当な難題だった。
 唯一の救いといえば、彼女は実家にいるのではなく、会おうと思えばいつでも会える後宮で暮らしているということだろうか。
「──分かりました」
「本当によろしいんですの?」
「ええ。嫌だと言えば、その時点で貴女の勝ちでしょう? 難題だからといって怯むわけにはいきません」
「では、決まりですわね」
 にっこりと、今日初めて少納言は微笑する。
 まだあどけなさが微かに残るものの、いずれは宮中でも一、二を争うことになりそうな美しくも愛らしい少女の笑顔を見つめて、青年も微笑んだ。
「僕は百日の間、すべてを貴女との逢瀬に費やす覚悟をしましたから、貴女も3月半の間に覚悟を決めて下さいね。僕は必ず、貴女を妻にしてみせますから」
「いつまでその強がりが続くか……。わたくしも楽しみにしておりますわ」

 にっこりと不敵な笑みを互いに見交わして。
 一体いずれの見込みこそが甘かったのか、宮廷中の人々が注目する勝負は、こうして始まったのだった。






to be continued...










というわけで、久々の女の子師叔は、湊ゆーや様のリクエストによるものです。
ラブコメそのものも書下ろしでは久しぶりなんですが、女の子師叔だと結構楽しいのが不思議・・・。

大体お分かりでしょうが、少納言=太公望、頭中将=楊ゼン、女御=竜吉公主で、作中にある通り、楊ゼンと公主は姉弟です。で、太公望は公主のところの新参女房。となると、彼らがお仕えしている帝は・・・玉鼎?
平安時代の後宮は、それ以前の時代の後宮や、江戸時代の大奥と違って、男性の出入りは自由です。ですから、ラブ・アフェアは平安貴族の男女にとっては、嗜みともいうべきものだったのでした☆
ちなみに、2人の詠んだ和歌は、楊ゼンのものが、九條右大臣こと藤原師輔(道長の祖父)が勤子内親王に贈った恋歌、師叔のものが、古今集の詠み人知らずの恋歌です。

何だかすれ違っている2人の恋の行方がどうなるのか、頑張って続きも書きたいと思いますので、気になる方は待っていて下さいね〜。





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