冬物語 〜15. ココア〜












毎月購入している雑誌を買いに、足を踏み入れた駅前の書店で、一昔前のラブソングを耳にした。
いつもなら甘いだけ、空虚なだけと聞き流すその歌詞が、ふと耳に止まって。
一番大切な・・・・誰よりも大切な人のことを、想った。










「ただいま戻りました」
「おかえり」

リビングに居た太公望は、いつもと同じようにソファーにくつろいだまま、帰宅した楊ゼンを迎えた。
くつろいだ、とはいっても、ローテーブルにはノートパソコンが立ち上げられ、膝の上にもソファーの横にも難解な法学書やルーズリーフが積まれている。

もともと優等生としての地位を貫いている彼だが、大学に在籍するようになってからは少しアプローチの仕方が変わった。
“ゲーム”の一環として好成績をキープするのではなく、好きだから、あるいは、知識をより多く得たいからという思いが、専門書を広げる横顔に覗くようになったのである。
水を得た魚、というと、やや意味合いが変わるが、自分が本当に得たかった知識を得ることができるという喜びや楽しさを、心の底から満喫しているように見える。
その辺りは楊ゼンも似たもので、高校まではサボり続けた授業も、大学に入ってから一度も欠席も遅刻もしたことがない。
つまらない講義がないとは言わないが、それでも二人の在籍する法学部には力量のある教授陣が揃い、課されるレポートも、山のように専門書を読み、その上で、自分なりに考えて理論を構築しなければ到底合格点を得られないような難解なテーマばかりだった。
それらは、真の勉強、あるいは学問というのはこういうものだったのか、と、高校までの勉強にうんざりしていた青年に目から鱗が落ちるような思いをさせるには十分で。
意図したわけでもなく、楊ゼンも太公望と同じくびっしりと埋まった時間割と、次々に締め切りが迫るレポートに集中することになったのである。

「進みましたか?」
「資料を読むのはな。大体の構成と結論の形は見えてきたよ」
「そうですか」

手にしていた書店の紙袋をサイドボードの上に置いてロングコートを脱ぎ、ハンガーに掛けて、楊ゼンも空いているソファーに腰を下ろす。

「外は、かなり寒いですよ。平日ですから、駅も店もそんなには混んでませんでしたけど」
「だろうな」

楊ゼンの言葉に小さく笑って、太公望は膝の上に広げていた本をページを開いたまま傍らに置くと、座り心地のいいソファーから立ち上がった。

「ちょうど何か入れようと思っておったところだ。今日はココアの気分なのだが、おぬしも飲むか?」
「ええ」

うなずくと、太公望はちょっと待っておれ、と言って、続き間のダイニングキッチンへと向かう。
冷蔵庫を開け、それから琺瑯(ほうろう)製の白いミルクパンを手にする後ろ姿を見ながら、楊ゼンは恋人に呼びかけた。

「ねえ先輩」
「うん?」
「こんなことを聞くと笑われるかもしれませんけど・・・・僕は、あなたのことを上手に愛せてると思いますか?」

前置きもなく、そう問いかけると。
突然何を、という瞳で太公望は振り返った。

「そういう歌、あったでしょう?」
「──ああ、あれか」

一昔前のヒットソングにすぐに思い当たったらしく、太公望はうなずく。
そんな恋人に、楊ゼンは苦笑めいた微笑を向けた。

「さっき、本屋の有線でかかってたんですよ。それで・・・・」
「なるほどな」

納得した太公望の瞳が、小さく笑む。
その色は、面白がっているようでも呆れているようでもあって。

「そんなこと、今更確認することでもなかろうに」
「ええ。僕もそうは思ったんですけど」

でも、と楊ゼンは続けた。

「感じ方なんて、人それぞれに違うでしょう? 一方の愛情表現が、もう一方には全然愛情が感じられないものだったり、逆に過剰すぎたりするなんてことは、世間に幾らでもありますし」
「ああ、良くあるのう。男の方はデートするために一生懸命時間をやり繰りしておるのに、女性の方は、なかなか会ってくれないと不満を感じたり」
「相手のことを想って一生懸命プレゼントを選んだのに、物が欲しいんじゃない、気持ちが欲しいんだとか言われたりとかね。そういうすれ違いは、恋愛にはつきものじゃないですか」

そういうすれ違いを、自分と相手は違う人間なのだから、と受け止めて、理解し、差異を擦り合わせる努力を互いに続けられればいい。
けれど、互いが違うことを認められなかったり、努力の度合いが違ってしまったりしたら、その先、共に歩くことは難しくなる。

「どちらも居心地のいい、ちゃんと気持ちの伝わる関係なんて、奇跡みたいなものだなと思ったんですよ」
「なるほど」

シンクに軽くよりかかったまま、リビングの楊ゼンを見つめていた太公望は、口元に小さな笑みを滲ませてシンクを振り返り、牛乳を注いだミルクパンを火に掛けた。

「たとえば、あなたに何度好きだと繰り返しても、抱きしめても、それが自分本位だったら意味が無いんです。あなたが、僕の存在を『いいもの』に感じてくれて、初めての愛情表現でしょう」
「おぬしの言いたいことは分かるが・・・・そんな難しく考えるものでもないと思うがのう」
「・・・・・やっぱり、屁理屈ですかね」
「うむ」

ゆったりと、だが流れるような手の動きで、艶消しの金色をした縦長のココアの缶をシンクの上段から下ろし、二つのマグカップを用意しながら太公望は応じる。

「恋愛をするのに難しい理屈など要らぬよ。好きなら、相手を一生懸命大切にすればいい。それだけのことではないのか?」
「それだけのこと、がものすごく難しいんですけど」
「その難しいことを乗り越えようと努力するのが、愛情だろう?」

火から下ろしたミルクパンの中身をカップに注ぎ、太公望は穏やかに続けた。

「空を見て、風を感じて、花を綺麗だと思う。そういう当たり前のことができる人間なら、ごく普通に人を思いやって大切にできる。そういうものだろうよ」
「・・・・あなたの言ってることの方が、余程難しい気がするんですけど」

苦笑した楊ゼンに、リビングに戻ってきた太公望は手にしていたマグカップの一方を手渡す。
そして、楊ゼンが腰を下ろすソファーの傍らに立ったまま、深い色の瞳で見つめた。

「大切なものが何か分かっていれば、どうやっても想いを相手に伝えられる。難しいことではないよ」
「まずは人間として成熟する努力をしろ、ということですか」

厳しいことをさらりと言う恋人に微苦笑しながら、楊ゼンは渡されたマグカップを口元の運ぶ。
コーヒーとはまた異なる、知らずほっとするような深いカカオの香りと、心地好いほろ苦さの向こうに、ほのかな甘さが広がる。
それは、このココアを入れてくれた人にも似ていて。


───太公望の言わんとした事が、ふいにすとんと胸の裡に落ちた。


「・・・・そう、ですね」
「うん?」
「あなたの言う通りだ。カップ一杯のココアでも十分なんですよね。気持ちを伝えるのなんて」
「それを分かる相手がいてこそ、だがな」
「分かることのできる僕で良かったですよ」

心の底からそう思いながら、愛の言葉は決して口にしない、けれど存在の全てで大切に想っていてくれる人に、楊ゼンはそっと手を伸ばし、頬に触れる。
と、軽く笑んだ太公望は、手にしてたマグカップをローテーブルに置いた。

ゆっくりと、触れるだけのキスをして。
深い色に煌めく瞳を楊ゼンは見つめる。

「──精進しますよ。これからもずっと、あなたの傍に居られるように」
「うむ」

当然と尊大ぶるのではなく、ただ真っ直ぐに言葉を受け止めてくれる存在が、世界の全てに感謝したいほどに愛しい。
そう感じる自分の心をこそ、大切にしようと胸に刻んで、楊ゼンは恋人に触れていた手をゆっくりと引いた。
そして、湯気が優しく立ちのぼるマグカップを手に取る。

「すごく美味しいですよ、このココア」
「おぬし好みだろう?」

小さく、だが誰よりも綺麗に微笑んで、太公望もまた自分のカップを手に取って、レポートの資料を広げたソファーへと戻る。


そしてまた、二人で過ごす穏やかな午後が始まろうとしていた。















長らく続きました冬物語も最終回。
最後は一際甘く、優しい雰囲気で締めてみました。

呼吸をするように自然体で、お互いを大切にしている二人は、これからもずっと、それぞれの胸に大切なものを持ちながら一緒に歩いてゆきます。
二人の物語は、100のお題&碧水文庫でこれからも引き続きお楽しみ下さい。

なお、作中に登場する一昔前のラブソングは、CHAGE&飛鳥の飛鳥のソロヒット、『始まりはいつも雨』の歌詞、「僕は上手に君を愛せてるかい? 愛してるかい? 誰よりも誰よりも」をイメージしてます。
が、実を言うと、C&Aの大ファンである妹に数年間、続き部屋で大音量で彼らの歌を聴かされ続けた過去があるため、私自身はさほど彼らが好きではありません(-_-;)

それでは1ヶ月以上に及ぶ長い間、お付き合い下さいましてありがとうございました。
これをもちまして、年末年始企画・冬物語は完結です(^_^)



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