冬物語 〜14. 風邪〜












「───・・・」

途切れていた意識が、ふと浮上する。
肌触りの良い毛布が全身を包む温かさに言葉にできない心地好さを感じながら、太公望はぼんやりと目を開き、まばたきする。
と、すぐに穏やかな声が聞こえた。

「起きましたか?」

そんな言葉と一緒に、ソファーから立ち上がり、ローテーブルを回り込んでくる気配がして。
そして温かな手に、さらりと髪をかき上げられた。

「よく眠ってましたね」
「そうか?」
「ええ。もう四時近いですよ」

やわらかく笑んだような声を聞きながら、太公望はもう一度目を閉じて半ばまどろみに沈んだまま、ゆっくりと髪を梳く長い指の感触を楽しむ。
眠気に負けて、気に入りのクッションと毛布をお供にリビングのソファーに横になったのは、昼過ぎだった。
確かに昼寝というには、寝すぎたかもしれない。

「顔色も・・・・良くなったと言うと、前が悪かったみたいですけど、でもさっきよりはすっきりしてますね」
「ふぅん」
「本当に寝不足だったんですね。昨夜も寝たの遅かったですし」
「誰のせいだ」
「共同責任でしょう、これに関しては」

楊ゼンの声に、苦笑が混じる。
けれど、変わらず低めのテノールは穏やかな響きで。

「でも、一眠りしてすっきりしたのなら、良かったですよ。あなたに風邪を引かれるのは嫌ですから」

その言葉に、太公望は自分の口元にあるかないかくらいの淡い笑みが浮かぶのを感じた。
困りますから、でもなく、大変ですから、でもなく。
嫌だ、という言葉。
自分の感情をカモフラージュしないその言い方が、ひどく彼らしく思えて。

「そっちは進んだか?」
「ええ、それなりに」

レポートは、と主語を言わない台詞にも、楊ゼンは戸惑うことなく返答する。
改めて開いた太公望の目に映るのは、ノートパソコンと、何冊かの分厚い専門書、バインダーから外されてばらばらになったルーズリーフ。
二階に行けば普通のデスクもあるのに、何故か二人いつも、このリビングで課題を片付ける。
鉤型に配置されたソファーも、その手前に置かれたローテーブルも、元は一家団欒のためのものだからそれなりの大きさがあるが、法学部の学生二人が、それぞれにレポートのための資料を広げれば、たちまちのうちにスペースから溢れてしまう。
さすがにどうにもならなくて、隣りのダイニングのテーブルに片方が移動することはあるが、それでも、いっそ頑ななほどに、どちらも荷物をまとめて二階に上がろうとはしないのだ。

そんな会話を交わす間も、楊ゼンの手は恋人の髪と肌に触れたまま。
やわらかに撫でる指の動きは、艶めくこともなく、ただ温かく優しい。

「どうします? まだ昼寝するのなら、ホットミルクでも作りますけど」
「ミルクよりコーヒーがいい」
「起きるんですか?」
「いや。気が済むまでこうして転がっておるつもりだがな」

おぬしの入れたコーヒーが飲みたい、とうたた寝の気だるさを少し引きずったまま、ねだる。
と、楊ゼンが微苦笑めいた小さな笑顔を見せた。

「じゃあ、少し待ってて下さい」

言葉と共に、こめかみに軽く唇を触れて、楊ゼンは離れてゆく。
ダイニングへと遠ざかってゆく背中を、太公望はふかふかのクッションに頭を預けたまま見送り、それからようやく上半身を起こした。
軽く伸びをして一つ息をつき、よく寝たな、と呟く。
数時間の仮眠に過ぎないのに、楊ゼンに言われた通り、本当に気分がすっきりしている。

「妙なものだな・・・・」

本来、自分は眠りが浅い方だ。
子供の頃から、夜中の物音には大概、目を覚ました。
一人っ子で小学校に入った頃から一人部屋を与えられていたせいか、他人の気配も得意ではなく、合宿だの修学旅行だのといった集団旅行では、まともに眠った記憶がない。
けれど、今、目の前に広げられているノートパソコン、専門書、ルーズリーフ。
どれもこれも自分のものではないのだ。

現況に違和感など感じたことはないが、それでもひどく奇妙な気はする。
すぐ傍に誰かの気配を感じながら、ほんの数時間で爽快感を覚えるほどに熟睡するなど、実に自分らしくない。
もちろん、今でも夜中の雨音や風の音に気づくことは多いが、目覚めてもまたすぐに眠ってしまうし、寝つきそのものが良くなったように思う。
ベッドに入ってから眠りにつくまで1時間前後もかかっていたあの頃が、もう随分と昔のことのような気さえしていて。

「・・・・・そういえば、楊ゼンも前より眠りが深くなったと言っておったか・・・・」

以前に交わした会話をぼんやりと思い出して、呟く。
確かに、楊ゼンも眠りが浅い方だ。
自分が雨や風に気付いて目を覚ました時には、楊ゼンも大概、起きている。



───そこまで考えて。



「う・・・ん・・・・?」

不意に、思考がつまづいた。

「────」
「どうしたんです、難しい顔をして」

掛けられた声に、いつの間にかうつむいていた顔を上げると、楊ゼンがコーヒーカップを手に、リビングへと入ってくるところだった。
ソファーの傍らまでやってくると、そのままカップをローテーブルに置き、空いた右手をゆるやかな仕草でさしのべて。
温かな人差し指の指先が、そっと太公望の眉間に触れた。

「ここにしわが寄ってますよ」
「・・・・楊ゼン」
「はい?」
「おぬし、眠りは浅い方だよな?」
「ええ」

脈絡のない問いかけに、楊ゼンは一瞬怪訝そうな顔になった。
が、すぐに律儀に答える。

「まぁ、どちらかといえば、浅い方ですね。雨音なんかには大抵、気付きますし」
「うむ。わしが気づいた時は、大概、おぬしも気付いて起きておるものな」
「そうですね。──って・・・・」

は、と楊ゼンが、太公望の顔を見直す。
その表情だけで、十分だった。

「そうだな。おぬしの眠りの深さは、わしと大差ないはずだ」

瞳を見つめたまま、太公望が静かに言葉を紡ぐ。
見上げる瞳の深い色を見つめ、楊ゼンは、どう答えたものかと思案するように、僅かに苦笑の混じった笑みを滲ませた。

「気付きましたか」
「うむ。これまで気付かなかったとはな。自分でも呆れるが」

太公望の声も、溜息まじりだった。



───楊ゼンの眠りは、太公望と同じくらいに浅い。
深く寝入っていても、物音や気配がすれば、すぐに意識が浮上する。
逆に言えば、太公望がが目を覚ますような状況で、楊ゼンが眠ったままでいるわけがないのだ。



「・・・・馬鹿だのう」

ぽつり、と溜息をつくような呟きが零れる。

「そうですか?」
「うむ」

うなずきながら、太公望は楊ゼンがそっと伸ばした手に目を閉じた。

「馬鹿だよ、こんな何年も・・・・」

撫でるように髪を梳く手が、温かい。
背を抱き寄せる腕も、どうしようもないほどに優しくて。
いつになく太公望の声が低く、わずかにかすれた。

「最初から叩き起こしてこうした方が、おぬしにとっては余程簡単だっただろうに・・・・」

何度も・・・・何年も、夜中に飛び起きるほどに悪夢に苛まれ続けた。
おぞましい過去の残滓がしのび寄るたび、自分は酷いうなされ方をしていたはずだ。
なのに、その傍らで気付かないふりをし続けて。

───どうして、そんなにまでも。

「・・・・そうですね。僕も辛かったですよ」

穏やかな声が、静かに太公望の耳を打つ。

「でも、あなたの邪魔をしたくなかったから。こういう言い方をするのはずるいかもしれませんけれど、あなたを傷つけたくなかった」
「・・・・・うん」
「あなたは悪夢に負けるような人じゃない。だから、僕が余計な手出しをしていいことじゃないと思ったんです」
「うん・・・・」

そうだな、と太公望は呟く。

負けたくなかった。
夜毎襲い繰る悪夢になど、負けるつもりはなかった。
だから、気付かれたくなかった。
夜中に飛び起きて、隣りで眠ったままの楊ゼンを見るたびに、恋人の静かな寝顔に安心した。

───ずっと、そんな風に守られて。

「最近は、うなされませんね」
「うむ」

最後に過去の残滓にまみえたのはいつだったか。
3ヶ月前か半年前か、もう正確に思い出せないくらいに遠い。

「きっと・・・・もう二度と、あの夢は見ない」
「はい」

見るはずがない、と太公望は思う。
闇色の夢は、もう既に過去のことだ。
忘れはしないけれど、もう思い出すこともない。

たとえようもないほど優しく自分を包む温もりを感じながら、太公望も楊ゼンの背に腕を伸ばし、抱きしめる。

───いつでも温かな腕は傍に感じていたから、一人で闘っていると思ったことはなかった。
けれど、本当に一人ではなかったのだ。
すべて分かって、それでも何も言わないまま・・・・彼自身の辛さをも全て飲み込んで、傍に居てくれた。

「───・・・」

言葉にならない、言葉では到底足りない想いに、太公望は目を閉じる。
と、楊ゼンの優しい声が、また耳に届いた。

「定期試験が終わって春休みになったら、どこかに行きましょうか。あなたが過去に勝ったお祝いに」
「お祝い?」
「ええ。どこか静かな温泉にでも行って、ちょっと贅沢して美味しいものを食べて」

穏やかな声で語られる魅力的な提案に、太公望は小さく笑いを零す。

「そうだな。そういうのも良いかもしれぬな」

そして、広い背を抱きしめた腕をそっと緩めて、顔を上げた。
深い深い色の瞳が、甘やかなほどに穏やかな光をたたえて、楊ゼンを見つめる。

「ありがとう、楊ゼン」

そして紡がれた、飾り気のない素のままの一言と、ゆっくりと優しく触れて離れていった唇に。
楊ゼンは魅せられたように、かすかに目をみはって。

「──いいえ」

それから、やわらかく笑んだ。

「これまでずっと、あなたを見てきましたけど・・・・・」
「うん?」
「僕が知っているあなたの中で、今のあなたが一番綺麗です」

いつでも綺麗な人ですけど、と続けた楊ゼンに、今度は太公望の方が目をみはり、そして破顔した。

「馬鹿だのう」
「本当のことですよ」

くすくすと笑いながら、二人は互いを抱きしめる。
じゃれ合うように額や頬に小さな口接けを繰り返し、ついばむようなキスを何度もした後、ゆっくりと唇を重ねて。

「・・・・行こうな、温泉」
「ええ。試験とレポートなんか、さっさと片付けてしまいましょう」
「うむ」

内緒話をするようにひそやかに言葉を交わし、離れがたい想いのままに、また寄り添う。
指を絡め合い、互いの温もりを感じながら、とりとめもなく睦言めいた会話は続いて。
いつしか辺りには、静かな夕闇が近付いていた。















珍しく難産というか、数度書き直ししましたこの作品。
冗漫(=無駄に長い)に思えた昼寝前のシーンを削ったり、一人称を三人称に直したりしているうちに、二晩が無駄に過ぎてしまいました。

でもこの話はシリーズの重大な曲がり角の一つなので、手間がかかるのも仕方ないといえば仕方ないんですよ。
企画SSはもう1話エピローグが残ってますが、これで太公望も楊ゼンも一つずつ壁を越えたので、物語は100のお題に戻って、また新しい展開へと進んでいきます。
とはいえ、どこまでいっても相思相愛の熟年新婚カップルなのは変わりませんけどね。
乞う御期待です(^.^)



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