番外40:花茨







ひたひたと。
ざわざわと。
目を閉じても、耳を塞いでも。
叫んでも、泣いても、彼方から届いてやまぬもの。



海音が、聞こえる。












ふっと開いた瞳が、青い原始の空を捉える。
ここはどこか、と考えたのは一瞬。
すぐに、青すぎる青が幻であることを思い出す。

どれくらい意識を失っていたのか、感覚を測ってみるが判然とはしない。
夢幻の世界に時の流れはなく、すべては疲れ果てて眠りに落ちる前と変わらずに滞留している。
地に伏した身に直接響いてくるのは、大地が裂け、そして生まれる原始の波動。
意識を取り戻した以上、そろそろ起き上がらなければ、また厄介な暴君竜が襲い掛かってくる、と、どこかのろのろとした動きで身体を起こす。
そして、もう一度空を仰ぎ、あの青がせめて本物であれば、と、ぼんやりと思った。




数ヶ月に及んだ仙界対戦を経て、極度に疲弊した崑崙側の戦力を増強するため、西岐を発ったのは既に何ヶ月も前のこと。
ようやく辿り着いたこの地で、ふざけた遣り取りの挙句に、強制的に夢幻の世界に送り込まれてからは、一体どれほどの時間が過ぎたのかも分からないでいる。
邯鄲の夢のたとえ通りに、非現実の世界の出来事は、現実世界の時流にすれば一炊に過ぎないのか。それとも、そんな都合のいい話は文字通りに夢物語で、ここでの体感のまま、現実世界でも時は流れ続けているのか。
後者であれば、かなりまずい。
昼夜の区別のない世界では非常に曖昧ではあるが、己の感覚では少なくとも数ヶ月──下手をすれば半年近い時間が過ぎている。
が、心理的な意味でいうのであれば、前者の方がよほどにまずい、と思う。

どれほど時間が過ぎたように感じても、真実は刹那の中のこと。
そんな時流の流れから切り離された世界が、この世のどこかに存在したなら。
そんな世界に、偶然にでも辿り着くことができたらなら。

きっと、自分は永遠に、そこからこの世界へ還ることはしないだろう。
今いる場所から、もう一歩も前に進まずに済むのなら。




「───…」

口の中だけで呟いた声は、己の耳にすら届かない。
誰にも……当の相手にしか聞かせない、聞かせるわけにはゆかない。
そんな響きで呼ばずにはいられない今の己に、かすかに自嘲の笑みが唇をかすめる。

どうしているのだろう。
一人きり、遠い地に置き去りにしてしまった、あの男は。

……一人で旅立つことに、一言も文句を言いはしなかった。
もし理をおろそかにして感情のままに互いの言動を妨げてしまったら、たった一度きりのことであっても、自分たちの関係は崩壊してしまうと、そんな風に考えてでもいるかのように。
そうですか、とそればかりを答えて、この身を腕に抱きしめて。

行くのは構わない。
置いてゆかれるのも構わない。
ただ。
『今』だけは、遠い距離を隔てたくはないのだと。

あの夜の抱擁は、そう言われている気がした。





けれど。
どうして口に出せようか。
遠い遠い彼方から。
どこからとも知れぬ、もしかしたら世界の果てから届いてくる波の音。
寝ても覚めても……夢幻の世界にたゆたっている今ですら、聞こえてくる何かがあることを。

そして。

その遠い海鳴りを、呼び声、と解する己がいることを。
ここに居る、とざわめくものが、この胸の裡のどこか奥深く、偲びやかに、けれど確かに巣食っていることを。

どうして、あの男に言えるだろう。





───1度だけ、遠目にあの姿を見た。
記憶の中と寸分違わず、相変わらず不遜で、詰まるところは唯一の存在を除いてこの世界の何にも関心はないのだと、修羅に灼かれた眸に映るものなど在りはしないのだと、世界に見せつけるような傍若無人の強さ。
その名を呼びたい……と、あれほど焼け付くように思ったことはない。
他の誰にも聞かせない声で、名を呼び、呼ばれて。
自分のものではない体温を感じられたら。

けれど。
名を呼び、呼ばれ。
自分のものではない体温を感じたとしても。





果たして、今の自分はあの男が知るままの自分なのだろうか?





現実であれ、非現実であれ、遠く隔たったまま過ぎた数ヶ月の時間。
この時の流れは。
ただ一人の声に名を呼ばれることのない耳元で、朝な夕な止むことのない海鳴りは。
自分を変えていはしないか。
知らず、どこかで。
変わらぬはずの星宿も、やがては形を崩してゆくように。
見上げるばかりの岩山も、いずれは砂塵と化してゆくように。
もしかしたら、あの朝、庭園で艶やかに咲き誇っていた白い花が風に散るよりもたやすく、この身の何かが崩れてはいないか。



だとしたら。
真実、そうであったとしたら。
自分は。
あの男は。



「───…」

前にも後にも進まない。
永遠に、風の吹きすさぶ荒野に立ち尽くしているはずなのに。
永久に続く飢えに遠く心を干からびさせながら、背中合わせに自分のものではない体温を感じているはずなのに。

己、は。




閉じた瞼の裏に、音もなく舞い散る白い花びらの幻影が。

















「お帰りなさい」

僕の予想通り、ものの見事に遅刻ですけどね、とそう言って笑んだ、その姿を見た瞬間。



今、この瞬間に世界が終わればいい、と壊れるほどに。
心の底から祈った。










久しぶりの風葬シリーズ。
本当に、あと少しで終わりです。


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