#089:マニキュア







その店は今夜も客が少なかった。
知る人ぞ知るという穴場である上に、週の初めの平日であれば、両の手の指で足りるほどの人数しかいないのも無理はない。
だが、古いSP盤のジャズが流れる、間接照明ばかりの明かりに乏しい店には、その人気(ひとけ)のなさが似合いだった。
連れもなく、バーテンに注文をする以外、口も利かずに三杯目のグラスを傾けようとした時。

「相変わらずマルティネスなのね」

不意に横合いから声がかけられた。
なまめかしくも艶やかな甘い声に、思わず『出た……』と思ってしまったのは、仕方のないことだろう。
わずかに視線を向ければ、声の主は当然のように左隣の止まり木へと滑り込んで、バーテンに「ビューティー・スポット」と告げる。
そして、こちらへと美しい流し目を向けた。

「伝統そのままに、揺らがず阿(おもね)らず。あなたは私よりもずっと若いのにね」
「別にマルティネスしか飲まぬと決めておるわけではないがな」

好きだが、だからといって、そればかりを飲み続けるほど頑迷でもない。
ただ、マルティネス・カクテルは数あるマティーニの原型と言われており、その通りに基本はここにあると感じるから、最後はそれで締める。それだけのことである。
そうして言葉を交わしている間に、美しいマティーニのオレンジ色の底に赤い口紅のようなグレナデン・シロップが一滴沈んだカクテルが彼女の前に置かれた。
爪が宝石のように美しい赤に輝く細い指先で軽くグラスを掲げてから、優雅な仕草で口元へと運ぶ。
その様を冷めた心持ちで眺めてから、おもむろに問いかけてみた。

「敗北宣言か」
「ええ、そうよ」

投げかけた言葉の辛辣な選択にも、あでやかに笑んでみせる。
今夜の彼女は、深い色合いのクチュール・スーツに、よくよく見れば技術の粋を凝らしてあると知れる金細工のエクセレント・ジュエリーを合わせただけで、身に着けたものの価格はともかくも、別段派手な格好をしているわけではないし、化粧が濃いわけでもない。
だが、その笑みは大輪の真紅の薔薇のように美しかった。

「あんな伏兵が出てくるなんてね。さすがの私も予想外よ」
「言っておくが、わしが打った手ではないぞ。あやつが勝手にやったことだ。小遣い稼ぎだと言っておったがな」
「あら、そうなの」
「わしとあやつは確かに近しい位置にあるが、互いの携帯電話の番号も聞いたことがない。おぬしは自分の息子を見くびりすぎだ」

今回の一連の事は、要は企業の買収攻勢とその防衛戦だった。
彼女は複数の証券会社を通じて、崑崙グループ傘下の生命保険会社株を買い集めようとしていたのだ。
よくある手口ではあったが、買収のターゲットを保有株率五パーセント未満の少数株主に絞っていた上に、複数の大手生命保険会社株式をもカモフラージュとして購入していたため、一見したところでは生命保険会社株全体に一時、投機マネーが集中したようにしか見えず、期間も短かったためにニュースにもならなかった。
全てが終わった現在では、崑崙の元始会長の名で、M&A防止のために会長一族の株式保有割合を上げたというプレスリリースが出されているが、実際に何が起こっていたのか、真実に気づいている者は当事者以外、さほど多くはないはずである。
そして、買収攻防の結果、入れ替わった崑崙生命保険会社の筆頭株主は、他の誰でもない自分だった。
結局、グループの金を動かすよりも、個人資金を投入して売りに出された株式をサルベージする方が効率的だったのだ。役員会議を通す必要もないし、誰に文句を言われることもない。
そして、それに一役買ったのが他の誰でもない、楊ゼンだった。

楊ゼンは、別に難しいことを成し遂げたわけではない。
生命保険会社株の売買が盛んになっていることに気づいた投資家の顔で、彼もまた多額の資金を投入して株を買占め、値の上がったところで一気に売却しただけである。
無論、こちらにも何の連絡もなかった。連絡があったとしたら、それはインサイダー取引として犯罪となるから当然のことであるが、ただ、事態が膠着していた最中の白昼堂々、あまりにも潔い手放し方をした投資家がいたから、自分もそれと気づいたのだ。

タイミングとしては、一瞬のことだった。
ちょうど、グループ内の証券会社にある役員室でモニターをにらみながら、いつもの水曜のこの時間なら学食でランチを食べているのに、と思った瞬間、名の知れた幾つもの生命保険会社の株価が動いたのである。
傍に控えていた担当者に、反射的に購入の指示を出し、その結果、保有割合を三十パーセントまで引き上げることに成功したのだ。
あの時、あと十秒か二十秒反応が遅ければ形勢は逆転していただろう。結果から見れば、それくらいに危うい綱渡りだった。
そういう意味では、楊ゼンのしたことはあくまでも中立であり、必ずしもこちらの利益を図るものではなかったといえる。
無論、こちらが気づくだろうという確信があっての投資であり、売却であったのだろうが、彼自身は損をしないやり方であったし、投資家としての介入の仕方としては上手い立ち回り方だった。
もとより自分としては、楊ゼンを今回のことに関与させる気はなかったし、たとえ、値動きに気づくのが遅れて買収劇に敗北していたとしても、彼を恨む気にはなれなかっただろう。
そういう部分での馴れ合いは、自分たちの間には一切なかったし、これからも生じる余地はなかった。

「先に釘を刺しておくが、同じ手は二度と使えぬからな。おぬしが何をしようと知ったことではないが、崑崙に手を出せばわしが全て叩き潰す」
「あら、怖いこと」

ふふ、と彼女は笑う。

「でも、私も同じことを二度するのは好きではないのよ。そんなのは退屈ですもの」
「だろうな」
「それに今回は色々と興ざめだったから、その分も次で取り戻さなければね。あの子のことも、ちゃんと計算に入れて。──楽しみにしていて。きっと驚かせてあげてよ」
「要らぬ世話だ」

空になったグラスを置いて、彼女は立ち上がった。

「では、また近いうちに会いましょう」

そして、右手の美しい爪先でこちらの頬をなまめかしくかすめるように撫で、おそらくはオリジナル調合のパフュームの甘い甘い香りを残して、立ち去ってゆく。
その後姿を見送ることもせず、もう一杯分、時間を空けてから自分もまた、店を出た。

              *                 *

「あれ、珍しいですね。こんな所で会うなんて」

不意に声をかけられるのは、今夜二度目だと思いながらも、今度は肩をすくめて応じる。

「今夜は一人ですか」
「まぁな。美女に酒を奢ってもらいはしたが」
「へえ」

先程店を出る時、支払いはもう済んでいると言われたのだ。
大した金額でもなかったが、彼女のような女性に奢られるというのも後々のことを思うと、素直にありがたいとは思えない。
おそらく次回、何か仕掛けてくる時には、今夜の酒代もちゃんと上乗せされていることだろう。

「それで? 今夜はどちらに帰られるんです?」
「……マンションだ」

今回の騒動に際して一旦、グループの権限委譲を受けはしたものの、祖父はまだ元気であるし、自分も大学の講義には最低限、出席して卒業したい。
ゆえに、もう一度権限を祖父に押し付け返して、日常生活に戻ることにしたのである。
そして、その『日常生活』の中には、この幼馴染の存在も確かに含まれているのであって。

「じゃあ、一緒に帰って、お邪魔してもいいですか?」
「……先日、会長室まで押しかけてきただろうが」

まったく、と呆れるが、拒むほどの材料があるわけでもない。
いつまでも立ち話をしているのも馬鹿馬鹿しく、歩き出すと、楊ゼンもまた付いてくる。
が、動いたことで淡く空気の流れが出来たのだろう。

「あれ……」

ふと楊ゼンが、いぶかしげな声を上げた。

「この香り……」

その極小さな呟きに、彼女の残り香か、とはっとなる。
薔薇を基調にしたオリジナルの香水。
それに気づくということは、最近、楊ゼンもまた彼女と会ったということを意味する。
ずっと会うことを避け続けていたのに、いつの間に、とも思うが、彼なりに考えることもあったのだろう。
楊ゼン自身、長年自覚はしていなかったようだが、自分を捨てた母親について複雑な感情を抱えていたのは確かなのである。
もしかしたら今回のことが、図らずも彼が一歩を踏み出すきっかけになったのかもしれなかった。

「さっき、酒を奢ってくれた女性の香りだろう。わしが一人で飲んでいたら、向こうから声をかけてきた」
「──そうですか」

楊ゼンの瞳に剣呑な光が射したと見えたのは、一瞬の何分の一かの時間でしかなかった。
すぐにいつもの表情に戻り、優男めいた笑みを浮かべる。

「じゃあ、また僕とも一緒に飲みに行きましょう。『粋人』もあなたが留守をしている間に、品書きの入れ替えがありましたよ」
「ほう」
「聞いた話じゃ、地酒の銘柄も二三増えているようですから」
「それは行かねばのう」
「そうおっしゃると思ってました」

まるで何もなかったかのように、いつもと同じ調子で会話を交わす。
そうしながら、ああそうだ、と今更ながらに思う。




何が起ころうと、どれほど時が経とうと。
日は沈み、夜は明けて、また朝が来る。
そうして巡り続ける世界を、自分たちは背中合わせのまま、見つめている。
そこに相手が在ることを知りながら、まるでいないような素振りで。
見ていないのに、まるで見ているような素振りで。
寄りかかりもせず、寄りかからせもせず。
温もりが感じられそうで感じられない微妙な距離を保ったまま、ただ、立ち続けている。
彼も、自分も。




それが、自分たちが選んだ、二人の姿であって。




「とにかく一段楽したのだから、しばらくはのんびり講義を聴くつもりでおるよ。自分が会議室の中心に居るのには、さすがに飽きた」
「あー。なんとなく想像つきますよ」
「面白くないとは言わんがな。今回は毎日議題が一緒だったから、とかく新鮮味がなくて……」
「まぁ、仕方がありませんよね。企業買収劇の当事者だったんですから」
「今回はこちらもうかつだったからな。これを教訓にして、持ち株割合は身内だけでガチガチに固めることにした」
「父も同じようなことを言ってましたよ。先制防衛とか何とか、妙な四字熟語を作ってました」

これまでと同じような調子で、これまでとは少し違う内容の会話を交わしながら、夜の街を歩いて。
やがて二人分の足音はネオンの洪水から離れ、夜の片隅に消えていった。









ひとまず、Only youはこれで一段落です。
また思いついたら何か書くかもしれませんけれどね。
何の勘の言っても、この二人も書きやすいので・・・・・・。


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