#074:合法ドラッグ







エレベーターから優雅に降りて来た人の足が、不意にぴたりと止まる。
真っ直ぐに向けられた瞳を、正面から見つめ返せば、美しい瞳がふと媚惑的でありながら凍えるほどに冷たい輝きを帯びた。
そのまま、大理石の床にコツコツとハイヒールの音が響いて。

「あなただったのね」
「金輪際、声をかけないんじゃありませんでしたか」
「そのつもりだったけれど、わざわざ挨拶に来てくれたのでしょう? ならば応答するくらいのことは、私でもしてあげてよ」
「それはどうも」

短く答えると、彼女はじっくりとこちらの全身を眺め回した。

「前回に会った時よりはマシかしらね。あの時のあなたは、何の面白みもなくてどうしようもなかったけれど」

見上げてくる瞳は、まるで冬の夜空だった。
さざめくような星の光が、凍てついた虚空にきらめいている。
冬の女王のような、美しい美しい、女。

「とりあえず、今回のところは褒めてあげてよ。その代わり、私の邪魔をした代償は……分かっているわね?」
「好きなだけ付けておけばいいでしょう。ただし、僕も今後は容赦しません。貴女が僕とあの人に手を出すのなら、それなりの代償を払っていただきますよ」
「あら、あなたにそれだけのことができて?」

ふ、と彼女は笑んで、話は終わりだとばかりに傍らをすり抜けてゆく。
深紅の薔薇を思わせる甘い甘い香りだけを、後に残して。

「せいぜい足掻いてお見せなさいな。私は楽しめればそれで良いのよ」


久しぶりに足を踏み入れたロビーは、広々として美しかった。
豪壮な装飾があるわけではないが、イギリスの建築家に設計を依頼したという年代物の建物は、あくまでも端整で、たるみがどこにもない。
ほのかに流れているドボルザークがよく似合っている、と思いながら、受付へと歩み寄った。

「会長代理にお会いしたいのですが」
「はい。アポイントはお持ちですか?」
「いいえ。ですが、私が来訪することは会長代理は御存知のはずですから、御連絡を取っていただけますか」

そう告げて、滅多に示すことのない名刺を差し出す。
肩書きも何もない、名前と連絡先のみのカード。
だが、名前の上に鮮やかに箔押しされたロゴマークがすべてを示している。
あの人の名刺と、同じ。
ほんの一握りの、肩書きを名乗る必要すらない人間のための、特別な様式。

「お会いになられるとのことです。向かって右手のエレベータをお使いになって、最上階までお上がり下さい」
「ありがとう」

内線を取り、小声でやり取りをしていた受付嬢が、珍しいほど媚のない自然な笑顔で進路を指し示す。
おそらく彼女たちは、一介の市民であろうと総理大臣にであろうと、きっと同じように応対するのだろう。
そう思わせる品格に満ちた微笑に会釈を返して、エレベーターホールへと足を向ける。
高層建築ではあるが、近来のように高さばかりを競ったりしない美しい建物の階層表示は、たった27階までしかない。
だが、おそらく余程のことがない限りは建て直す気もないのだろう、とその揺るぎなさに小さく溜息をつきつつ、すぐに扉を開いた筐体に乗り込んだ。







「何しに来た」

三週間ぶりの再会の第一声が、それだった。
呆れるよりも先に笑いながら、大きな執務卓に歩み寄る。

「陣中見舞いですよ、もちろん」

はい手土産、と手にしていた上質の紙袋を卓上に置くと、そこに印刷された知る人ぞ知る蔵元のロゴマークだけで中身を察したのだろう。
彼は小さく肩をすくめた。

「会社にこんなもん持ってきてどうする気だ」
「今すぐ飲むんでなければ、持って帰ればいいでしょう」
「重いだろうが」
「たかが720ml二本ですよ。瓶の重量を入れても、せいぜい2kgってとこです」
「十分だ」

笑みの欠片もない顔で言いながらも、彼はかけていた縁無しの眼鏡をはずして、書類の上に置く。

「あれ、眼鏡外しちゃうんですか」
「眼鏡萌えなんぞと言ったら、金輪際、縁を切るぞ」
「言いませんよ、そんな品のない言葉。堅苦しそうな雰囲気にそそられるっていうだけで」
「今すぐ帰れ」
「嫌ですよ、三週間ぶりにあなたの顔を見たのに」

他愛のないやり取りが、ひどく懐かしい。
たった三週間であるのに、そう感じるのを我ながらどうかしていると思いながら、執務卓越しに手を伸ばして頬に触れる。
予想通りに振り払われることはなかった。

「──本当に何しに来たのだ、おぬし」
「だから、陣中見舞いですって」

唇を離した途端、じろりと睨まれるのすらおかしい。

「会いたかったんですよ、本当に」
「わしはさっき、受付からの連絡で名前を聞くまで、おぬしのことなんぞミジンコほども思い出さんかったがな」
「それもひどいですねえ」

つれないなぁとぼやきながらも、卓を回りこんで繰り返すキスは拒まれない。
久々に感じる甘さに、このまま溺れたい、と思う。

「今日はこの後、予定あります?」
「……ない、がな」
「じゃあいいじゃないですか。おあつらえ向きに、立派なソファーが置いてありますし」
「高校の生徒会室と一緒にするな」
「似たようなものでしょう」

あなたがいて、僕がいて、あなたは書類の山に少しばかりうんざりしていて。
こればかりは、あの頃から変わらない。
何一つとして。

「会長代理の執務時間は、一般社員と同じく九時−五時でしたよね、確か」
「まだ五時になっとらん」
「あと十五分ですよ。それくらいキスしてる間に過ぎるでしょう」

言いながら、ネクタイの結び目に指を差し入れて下に引くと、なめらかな絹の生地はしゅるりと音を立てて滑り落ちる。
と、呆れたのか諦めたのか、一つ溜息をついてから、スーツに包まれた細い両腕がするりと首筋に回されて。

「帰りは送れよ? 夕飯もおぬし持ちだ」
「分かってますよ」

答えて、ゆっくりと明確な意図を持った手で背を撫で下ろすと、華奢な背中がかすかにびくりと震えた。

「仮眠室のベッド、行きます?」
「……おぬしなんざ、ソファーで十分だ」
「了解」

思わず笑い出しながら、しなやかな革張りの執務椅子から細い体を掬い上げるように抱き上げる。
その瞬間、腕にかかる重みが記憶と違っていることに気付いた。
けれど、何も言わずに豪奢なジャカード織りのソファーへとその身体を横たえる。

「……無茶はするなよ」
「場所柄くらいはわきまえてますって」
「どこがだ」
「ですから、あなたを足腰立たないようにしない程度には」
「企業の会長室で会長代理を押し倒すこと自体、十分常識外れだろうが」
「あなただって拒んでないんですから、同罪ですよ」

黄昏時の部屋。
来客用なのに、仮眠用に使われているソファー。
余計な言葉などなく、絡み合う唇と唇、手と手、身体と身体。
あの頃と何一つ変わらない。
変わりはしないのに。

事後特有の気だるさの中で、そういえば煙草を忘れてきたな、と何となく手持ち無沙汰にちょうど胸のあたりにある頭を撫でるように、髪を梳く。
相変わらずの、さらさらとした手触りがひどく心地好かった。
彼は眠ってはいないものの、かなり眠そうな気配がしている。
おそらく最近は、あまり十分な睡眠が取れていなかったのだろう。
あるいは、睡眠ばかりではなく食事も。
三週間ぶりに触れた身体は、案の定、あちこち肉が削げ落ちていて、この人独特の透明な綺麗さを高めてはいたけれど、どこか痛々しかった。

───何一つ変われない、自分と彼。
何一つ、変わらないはずなのに、容赦なく時は動いてしまう。
変われない自分たちばかりを、置き去りにして。

「──学校、戻れるんですか?」
「……卒業はしたいと思っておるがな」

そっと問いかけると、ぽつりと返事が返った。

「まぁ、さすがに大学中退というのは、企業トップの肩書きとしてはアレですよね」
「肩書きなんぞどうでもいいが、これまでに払った入学金と授業料がもったいない」
「……あなた、大金持ちでしょうが」
「一円を笑うものは一円に泣く、がうちの家訓だ」
「それは知ってますけども」

思わず苦笑が零れる。
そう、この人は変わらない。
何があっても。
肩書きと環境が、どれほど変わったとしても。
そして、それは自分も。

「まぁ、あなたが大学に戻ってこなくても、僕はこうやって時々、お邪魔しますから。受付嬢に顔パスで通れるように言っておいて下さい」
「誰がおぬしなんぞに便宜を図るか」
「いいでしょう、それくらい。幼馴染兼情人の特権で」
「冗談も休み休み言え」

そう言いながら、起き上がる気配がして。

「とにかくジジィも、まだくたばったわけじゃないからのう。これ以上、隠居よろしくサボらせてやる気はないし、とりあえず来月には、講義に戻る」
「それでも一ヶ月丸々休んだことになりますから、単位は危ないと思いますけどねえ」
「そんなもの、試験でどうとでもなる。最初から出席重視の講義は選択から外しておるからな」
「そりゃまあ、僕もそうですけど」

彼が体の上からどくのに合わせてこちらも起き上がり、ひとまず最後のキスをする。

「帰ります?」
「その前に飯だ」
「はいはい。何でも奢りますよ」

そうして、二人は。

余計なことは何一つ言わず、聞かず。
何事も無かったかのように、あなたは服を着て、こちらを振り返る。
そして、自分もまた。

──お互い、この三週間の空白に何をしていたかなど口に出すまでもなく承知している。
けれど、それは言葉にすべきことではない。
言うなれば、ただお互いの義務を果たしただけのこと。
そこには言葉にするだけの価値すらない。

何一つ、望むことも求めることも知らない人間にとって、大切だと言えるものなど片手で足りるほどにもありはしない。
だから、二人は。
昨日も今日も、明日すらないかのように。
ただ刹那の快楽だけが、真実であるかのように。
今日も知らぬ顔で歩き去って。

「それじゃあ、行きますか」

その言葉を最後に、最上階の広い執務室の照明が静かに消えて。
後には、ただ静寂だけが残った。










というわけで、お母様編はひとまず終了。
企業MA戦争の詳細は、書いても面白くないので割愛。
単に買収合戦で、太公望側が勝っただけの話です。
あともう一話、太公望視点の後日談を書きたいなーと思っているので、そちらで簡単な概略は説明できると思います。


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