#077:欠けた左手







夜の静寂(しじま)に考えてみる。
あの時、あの瞬間の彼が、何を考えていたのか。












「──こんな所で何をしておる?」
「・・・・・・少し、考え事を」
「考え事?」

訝しむような口調で問い返しながら、太公望が近付いてくる。
大樹の幹に軽く寄りかかった姿勢のまま、楊ゼンは彼を待った。

深夜の荒野は、しんと静まり返っている。
目を凝らすまでもなく、宿営の火は赤々と燃えたままだが、数刻前までの喧騒はもうどこを探してもない。
わずかな歩哨の兵を残したまま、周軍は眠りについているようだった。

「何を考えるようなことがある?」
「まるで僕に悩み事が存在しないようなおっしゃりようですね」
「そんなことは思っておらぬ。ただ・・・・・」
「ただ?」
「・・・・・・少し気になっただけだ」

太公望の言葉に、楊ゼンはふと微笑を少しだけ濃いものにする。
月のない今夜は、星明かりだけが互いの姿を照らし出す。
その天から届く淡い光の中では紛れてしまいそうな、曖昧さで。

「想像してたんですよ」
「何を?」
「あの時のあなたの気分を」
「あの時?」
「左腕を失った時」

太公望は表情を変えなかった。
ただ、唇を閉じて楊ゼンの顔を凝視する。
咎めているとも取れるそのまなざしに、淡く笑んだ楊ゼンは、太公望から目を逸らして満天の星空を見上げた。

「あなたも想像してみませんか?」
「・・・・・・何を」
「左手を失くしたのが、僕だったら」

表情ばかりでなく声まで静かに笑んでいる楊ゼンに、太公望は再び沈黙する。
だが、今度沈黙を破ったのは、太公望の方だった。

「痛い、な」
「ええ」

ぽつりと呟いた太公望に、楊ゼンはうなずく。

「痛いですよ、とても」

けれど、と夜空を見上げたまま続けて。

「かつて情けをかけた子供があなただったら、僕も腕を失うことを選んだかもしれませんから」

もっとも、そんな相手は世界に一人きりで、あなたのように無節操に誰相手でもということにはなりませんが、と楊ゼンは淡々と告げる。
その横顔を、太公望は見つめた。

「本当に不器用な人ですね」

静かに最後にそう言って、楊ゼンは太公望に向き直る。
と、視線を向けられて、今度は太公望が視線を逸らすようにうつむいた。

「・・・・・すまなかった」
「いいえ」

けれど、穏やかに楊ゼンは、太公望の謝罪を否定する。
そして、口調を変えないまま、続けた。

「正直、嬉しいとも思うんですよ。あなたが左手を失ったことを『痛い』と感じられたから」
「───」
「あなたのこの腕が、僕に『痛み』を教えてくれた」

楊ゼンの手が、包帯に包まれた太公望の左腕に、服の上からそっと触れる。
包み込むように、確認するように、優しく。

「だから、いいんです」
「・・・・・そんな理屈があるか」
「ありますよ。僕の中には」

小さく笑って、楊ゼンは太公望を抱きしめた。
夜の冷気の中で感じる互いの温もりに、太公望の口から小さな吐息が漏れる。

「愛してますよ、太公望師叔」
「・・・・その言葉の意味は分かっておるのか?」
「ええ。あなたが腕を失う光景を見た時、この胸が痛みましたから」
「・・・・酷い奴だのう」

そんな言い方をされたら。
こちらまで痛くてかなわなくなる、と楊ゼンの腕の中で太公望は小さく笑った。

「仕方がないでしょう。痛かったんですから」
「わしだって、腕が痛かったぞ」
「でしょうね」

くすりと楊ゼンの口元からも、かすかな笑みが零れる。

そして。
静かに夜が更けてゆくまで、二人は互いの温もりを感じたまま、その場所から動かなかった。











また、『雪』の二人の登場です。
そういえば、仙界大戦以前の話を書くのって、もしかしなくても初めてじゃないでしょうか。

この二人の関係は、やっぱりどう書いても少し痛いですね。
でも、このささやかな痛さが好きなので、また登場します。


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