#038:地下鉄








「あ、ねぇあそこ」
「うん、珍しいよね。すごいラッキー」
「ホント」

一緒に食事をしていた女の子達が、突然きゃあきゃあと高い声をひそめて騒ぐのに、首をかしげる。
午前中の講義は先程終わったばかりで、そのまま語学クラスの面々と学生食堂に来たのは、ただのなりゆきだったから、それまでは相槌も適当に打っていたのだが、突然、跳ね上がった彼女たちの声のトーンに興味が引かれた。

「何?」
「あれ、知らないの? あの先輩のこと」
「あそこに居るでしょ、窓際の席」
「向かい合わせで喋ってる人?」
「そう、こっちから見て右側。凄く綺麗な人でしょ」

そう言われて、返答に詰まる。
少し遠くて、はっきりとした顔立ちは分からないが、確かに綺麗と言っていいだろう。
だが、どう見てもその相手は男である。一応、自分も男である以上、彼女たちの前でうなずいて良いものかどうか、楊ゼンは少々迷った。

「院の博士課程に在籍してるから、滅多に一般棟の学食なんかには来ないの」
「今日は、お友達が一緒だから、こっちに来たんじゃないかな」
「ラッキーだったよねぇ」
「ねー」

はしゃぐ彼女たちに対し、どんな表情をするべきなのか悩みながら、ふと周囲に視線を向けると、ほぼ満席に近い学食の中、半数くらいの学生が男女問わず、ちらちらと遠巻きに問題の相手を見ている。
一体どういうことなんだ、と思いながら、もう一度、その人の方へ視線を向けた。

「有名な人なんだ?」
「そうよ。どうして知らなかったの?」
「どうしてと言われても・・・・」

普通、何年も年上の院生のことなど、一般学生は知らない。
そう思ったが、反論できる状況ではなく、曖昧に楊ゼンは語尾を濁す。

「あっ、見て!」

一人が、鋭く低めた声を上げる。
何かと思って見れば、問題の人が、傍らの床に落ちたハンカチを拾い上げ、通りかかった女子学生に手渡しているところだった。
顔を赤くして恐縮し、頭を下げる女の子に向ける笑顔には何の気負いもない。

「あれ、絶対にわざとよね!」
「絶対よ!」
「・・・・ただ、ハンカチを落としただけなんじゃ・・・・」
「ううん、絶対わざとに決まってるわ!」
「あー、あの子、羨ましい」
「あ、また!」
「今度は誰よ!?」

何か勘違いしているとしか思えないような彼女たちの発言に、思考がとぐろを巻きそうになるのを感じながらも、楊ゼンは、彼女たちに合わせてそちらを振り返る。
と、今度は男子学生が、ルーズリーフを片手に話し掛けているところだった。

おそらく顔見知りの相手なのだろう。ルーズリーフを指差して何かを問うたらしい学生に、その人は笑顔で応じている。
そればかりでなく、そのルーズリーフを借りて、シャープペンで何かを書き、説明してやっているようだった。
その光景を見て、同席している女の子達のボルテージは更に上がる。

「羨ましい〜」
「誰か、あのルーズリーフ、強奪してきてよ」

楊ゼンがいるテーブルだけではない。
見回してみれば、周囲のテーブルすべてがそんな感じだ。誰も彼も、本当に男女を問わずと言っていい。
一体どういうことだろうと、もう一度、顔が引きつるのを感じながら楊ゼンは一人、冷静に茶を口元へ運ぶ。

実のところ、楊ゼンもかなりキャンパス内では目立つ存在である。
容姿のおかげで寄って来る女の子には不自由したことがないし、コンパや飲み会のレベルアップ目当てですり寄ってくる男子学生も大勢いる。
けれど、現在、食堂でちょっとした騒ぎを巻き起こしている人は、全くレベルが違うのだ。
男女を問わず誰もが遠巻きに見つめ、近付く人間には男女問わず、ジェラシーのまなざしを送っている。
これはもう、超人気アイドルといっていい状態だ。

だが、楊ゼンの目から見れば、問題の相手は女性のやわらかな雰囲気には程遠いし、顔立ちだけなら、もっと綺麗な女の子は沢山いる。
気負いなく落ち着いた雰囲気の中に、快活さと凛としたものが同居しているのは一目で見て取れるが、しかし、女の子達はともかくも、男子学生までもが熱く注視するような相手だとはとても思えない。
なのに、この現状である。
一体、何者なのだろう、と楊ゼンは首をかしげた。

やがて男子学生と話を終えたその人は、それを気に友人と促して立ち上がった。
そのまま雑談しながら、自分に向けられる視線など全く気にしない素振りで、テーブルの間を抜けて食堂を出てゆく。
どんなに鈍い人間でも、この状況で自分が注目を集めていることに気付かないはずがない。
にもかかわらず、そのあまりにも見事な無視加減に、楊ゼンは思わず感心した。

「行っちゃったね〜」
「もっと近くで見たかったなぁ」
「ああ、やっぱりさっきの子達、憎たらしいわ」
「羨ましすぎよね」

もう彼女たちの意識に、『同じ語学クラスのカッコいい人』である楊ゼンの存在はないらしい。
モテることを勲章と考えているわけではないから、別に残念だとか悔しいとかは思わないが、なんだかなぁという気分にはなってしまう。
でも、と学食を立ち去った人のことを考えた。

どういう人なのかは知らないが、食堂中からの注目をあれほど綺麗に無視し、ごく普通に振舞うなど、並大抵の人間にできることではない。
そして、同席している彼女たちを始めとする他の学生たちの熱狂振りだ。
単に綺麗な人というだけではない、何かがあるのかもしれないとも思う。

だが、そもそも興味のない事柄である。思考はそこまでだった。
間もなく昼休みは終わり、午後の講義が始まる。
ランチのトレイを片付ける頃には、その人のことは楊ゼンの脳裏から綺麗に消え去っていた。






*      *      *







楊ゼンが引っ越したのは、三回生になる直前だった。
これまでは大学のすぐ傍にある部屋を借りていたのだが、なにしろ周囲は学生アパートだらけで、顔見知りと近所で遭ってしまうことも少なくない。
おまけに、大学から近いせいで、「遊びに行きたい」だの「部屋を見てみたい」だのと言う女の子達が後を立たないのである。
もともと人付き合いが好きではない楊ゼンが、そんなこんなの面倒を振り切るために、地下鉄で5駅離れた街を新居に選んだのは、もはや当然のなりゆきだった。

5駅離れたとはいっても、所詮地下鉄である。時間にすれば10分ちょっと。
同じ大都会の真ん中であることに変わりはなく、風景も別段、代わり映えはしなかった。
広い道と行き交う車、都心のような超高層ではないけれど、それでも所狭しと立ち並ぶビルやマンション。
ごく普通の街だった。

それでも新しい場所での生活というのは、妙に心が浮き立つものがあって、引越しの片付けに追われながらも、楊ゼンは機嫌が良かった。
段ボールを開け、引越しの荷物をまとめる際に捨ててしまった日常生活に必要な小物を買い揃えつつ、近所を歩き回る。
感じのいい喫茶店を見つけて、コーヒーの味を試したり、最寄のコンビニの品揃えを確認してみたり。
そんな些細なことが、奇妙に楽しかった。








楊ゼンの通う大学は私立のため、土曜日でも講義がある。
世間は休みなのに、と思いつつも生真面目に出席した後、昼食は自分のマンションの近所にあるカフェで取るつもりで、まっすぐに地下鉄の駅に向かった。
改札を抜けて、数分おきに来る電車を待って。
いつもと同じ車両に乗り込み、何気なく車内に視線を向けた時。

その人が居ることに気付いた。

楊ゼンが立っているドアよりも、一つ進行方向寄りのドアの傍。
暗い地下鉄の窓の向こうを、見るともなしに見つめている。

その横顔に。
思わず、どきりとして。
慌てる。


───どうして?


確かに綺麗な人だけど。
いつも光がきらめき踊っているような瞳が、地下鉄の中で深い色に見えるのは趣きが違っていて、つい目が惹かれるけれど。
これまで何度、学内で擦れ違っても、その時は、ただ綺麗な人だとしか思わなかったはずなのに。

同じ車両の中で。
数メートルの距離を置いて、同じように立っているだけなのに。

「・・・っと」

目の前が明るくなり、ホームに車両が滑り込んだことに気付く。
いつの間に進んだのか、自分が降りる駅だ。
上着のポケットの定期を確かめ、彼はどこで降りるのだろうと、ちらりと隣りのドアへ視線を向ける。

───え?

開いたドアから条件反射的に足を踏み出して、降りる。
そのタイミングは、まったく同じ。

───嘘。

思わず目をみはる楊ゼンの目の前で、彼は迷う様子もなく、慣れた足取りで改札へと歩いてゆく。
数秒間、ホームで立ち尽くしていた楊ゼンは、はっと我に返ってその後を追った。

数メートルの距離を開けて、まっすぐに伸びた背中が前を歩いてゆく。
この一ヶ月で楊ゼンもすっかり慣れた道順を、そのままに出口へと続く階段を上がって。
眩しい外に後ろ姿が消える。

見失わないように走っても良かったが、楊ゼンは追わなかった。
それ以前に、心臓が常になく暴走していて、ごく普通の足取りで歩くことすら難しいほどだったのだ。
案の定、地上に出た時には、右にも左にも小柄な後姿はなかった。

けれど。

駅を出て、ほんの数メートルのところにあるコンビニエンスストア。
そのガラス越しに、横顔を認めた途端、楊ゼンは回れ右して店内に足を踏み入れていた。


───こんな偶然なんて、あるんだろうか?


大学から5駅も離れた、地下鉄の駅。
出口だって、6箇所あるのに。
まさか、この近くに住んでいるのだろうか。
買い物に来たとか、友人を訪ねてきたとかじゃなくて?

なんだか思考がぐるぐると超高速で回っているのを感じながらも、楊ゼンはいつものように雑誌コーナーへと足を向ける。
そこにいる先客の後ろを、心臓の鼓動を持て余しながら通り抜けて、大人一人分の距離を開けて、並んで立った。
ちらりと見ると、彼が手にしているのは昨日、発売されたばかりの雑誌。
ペラペラと中身を確かめるようにページをめくっている。

──この半年の間に、噂話だけは山程聞いた。
気難しい教授陣が揃って一目置いているほど、頭脳が切れるとか。
誰からも好かれていて人望厚く、目上の相手には厳しく、年下や女性にはとても優しいとか。
見かけによらず毒舌家で、発言は辛辣なのに、機知とユーモアに富んでいるから、聞いた相手は思わず笑ってしまうのだとか。


ものすごくモテるのに、何故かすべて振ってしまい、少なくとも大学入学以来、誰とも付き合ってはいないのだとか。


実のところ、楊ゼンはそれらを聞いてもピンとは来なかった。
なにせ、その人と直接話をしたことがないし、最も近くで擦れ違った時でも3メートル以上の距離があったのだ。
噂話だけを聞いて盛り上がれるほど、短絡的でもお子様でもなかったから、ただ、誰からも慕われている綺麗な先輩がいる、というそれだけのことでしかなかった。

けれど。

楊ゼンより頭一つ分低い位置で、艶のある髪がガラス越しの日差しにきらめいている。
雑誌に目線を落としているせいで、少し伏せられたように見える睫毛が長い。
顔立ちは整っているけれど、格別綺麗というほどではない、そう思っていたのに。
凛として見える、静かな表情は。

どうしよう、と思いながら楊ゼンは雑誌の棚を眺め、目に付いた1冊に手を伸ばす。
と、横合いから伸ばされた手が、重なりかけて。
どちらともなく、止まる。

「あ、すまぬ」
「──いいえ、どうぞ」
「いや、おぬしの方が先だったと思うし」
「いえ、いいですよ。僕は何となく手を伸ばしただけですから」
「そうか?」

それなら遠慮なく、と雑誌を取り上げた指が細い。
女性の手とは違うけれど、節が細いのか、男性的なごつさが感じられず、何気ない動きが綺麗に見える。
声も高くも低くもなく、歯切れのいい、落ち着いて澄んだ響きが耳に心地いい。
そして、何よりも。

向けられた笑顔が。

せいぜいが社交辞令。
意味のある笑顔ではない。
なのに。
小さく微笑んだ唇の形と、鮮やかに光がきらめいた瞳が。


───どうしよう。


胸の鼓動が静まらない。
二十一年生きてきて、初めてというくらいに心臓が高鳴っている。
昔、体育の授業で長距離を走った時だって、もっと下世話なことをいうのなら、初体験の時だって、こんな風にはならなかった。

今、初めて分かったような気がする。
何故、誰もがあんなにも騒ぐのか。
男女を問わず、彼のことを「綺麗」だと誉めそやすのか。

外見だけではない。
顔の作りだけではなくて、彼を形作るすべてが。
存在自体が。
綺麗な人。

───どうしよう。

跳ねる心臓を持て余して、楊ゼンは雑誌コーナーを離れ、ドリンクコーナーで昇った熱を冷まそうと、冷えた飲み物を物色する。
そして、ふと気になって背後を見ると、ちょうどレジで精算を済ませた彼が、さっきの雑誌を片手に振り返った。
楊ゼンの視線に気付いて、もう一度、小さな笑みを見せ、そのまま店内から出てゆく。
すぐに見えなくなった後姿を目で追って。
楊ゼンは溜息のような吐息をついた。

鼓動は、まだ静まらない。

「・・・・もしかして一目惚れで、これが初恋とか?」

自分で呟いた言葉に、思わず赤面してよろめき、ドリンクコーナーのガラス扉に背中を軽くぶつける。
端から見て怪しい人になっているのに間違いないことは分かっているけれど、足が動かない。
ただ、心臓だけがドキドキと高鳴っている。

───高嶺の花なのに。

彼はきっと、自分が同じ大学の後輩だということも知らない。
もしかしたら近所に住んでいるかもしれない、それだけしか接点はないのに。

「・・・・どうしよう?」












半端なようですが、これで終わり。
お分かりでしょうけど、コンビニの楊ゼンです。

結局のところ、楊ゼンもまた太公望の面の皮一枚に騙されたんですね。
確かに太公望は綺麗な人ですけど、ただ綺麗なだけじゃなかったんですよ。
綺麗な薔薇には刺がある。至言です。


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