#017:√







その昔、初めて数学で虚数というものを習った時のこと。
実際に存在しない数などという理不尽な数が、どうしてあるのかと不思議に思った。
今から振り返れば、あの頃は随分幸せだったと思う。
世の中は理不尽で、理屈に合わない、割り切れないことだらけだと知ったのは、もう少し大人になってからのことだ。










「まーたやっておる」

いかにも通りすがりという様子で、ブックバンドで束ねたバインダーとノートを抱えたまま、ふと立ち止まった太公望は呟く。
視線が向けられているのは、キャンパス内の通路のずっと先。距離にして20メートル以上あるだろうか、かろうじて人の顔が判別できるくらい。
敷地の外れに近く、人通りのほとんど無い真っ昼間のそこで、男子学生と女子学生が何か話している。
否、男子学生の表情は明らかに迷惑そうで、絡まれているといった方が正しい。

その様子を、太公望は足を止めて眺めている。
軽く首を傾けた表情は、楽しそうとか面白そうとかいう野次馬的なものではなく、無表情に近い。
見る者が見れば、彼が今、どんな精神状態にあるのかは直ぐに分かるに違いなかった。

「・・・・性格はどうだか知らぬが、見てくれはまあまあ、センスもまあまあ、か。わしの好みではないが」

呟く視線の先では、男子学生の方はどうにかして振り切りたいらしく、体は既に向きを変え、足も今にも歩き出さんばかりに爪先が明後日を向いている。
しかし、女子学生の方は、そんな気配を完全に無視して笑顔で話し掛け続けていて。

「大したレベルの女でもないが・・・・このわしと付き合っていて、言い寄られるとはな」

ふん、と鼻を鳴らして、太公望は男子学生と女子学生とは逆の方向へと歩き出す。

「楊ゼンのくせに生意気だ。女にモテるなんぞ、百年早い」










「・・・・先輩」
「なんだ?」
「──いえ、大したことじゃないんですけど・・・・」
「大したことでないのなら、わざわざ言うな」
「いえ、・・・・あの、聞きたい事があるんですけど、いいですか?」
「だから、話があるならさっさと言わんか」

太公望は溜息をついて、少々不機嫌そうな呆れ顔を上げた。

「これ以上、読書の邪魔をするなら叩き出すぞ」
「すみません・・・って、ここ、僕の部屋ですよ」
「そんなこと関係あるか」

あると思いますけど、と楊ゼンは小さく呟いたが、会話のそもそものきっかけが自分にあると分かっているため、勢いはない。
そして、何を言っても無駄だと諦めたのか、それ以上の追求はせずに本題に戻ろうとする。

「今日の昼頃なんですけど、本館の西側の通路、通りませんでした? 駐車場のこっち側の」
「通ったよ。図書館から院に行く時は、あそこを通るのが一番早い。知っておるだろうが」
「知ってますけど。・・・・やっぱり」

ああ、と溜息をつきながら、楊ゼンは片手で前髪をかき上げる。
それから、ちらりと太公望を見やった。

「──言い訳、させてもらっていいですか?」
「何についてだ?」

決まり悪げな視線を一蹴して、太公望はふん、と手元の本に目を落としたまま、続けた。

「女に絡まれた事か、それがわしがいつも通る道筋上だった事か、よりによってわしに目撃された事か。それとも、他にもまだあるのか?」
「・・・・・それだけですけど。でも全部、です」
「それなら、要らん」
「は?」

あっさりと言い切られて、楊ゼンは思わずまばたきをする。
が、太公望の方は、相変わらず年下の恋人の反応には一向に構わない。

「おぬしが迷惑がっておるのを、あの女子学生が綺麗に無視して絡んでおったのは、見ればすぐ分かることだ。だから、下手な言い訳なんぞするな。本当に叩き出すぞ」
「・・・・・すみません」

他に言い様もないのだろう。楊ゼンは、溜息まじりに頭を下げた。

「とりあえず、今日のところは不問にしておいてやる。だが、これ以上みっともない場面は見せるな。やるなら、わしには絶対に見えない所でやれ」
「分かりました」

楊ゼンがうなずくと、太公望は読んでいた本にしおりを挟んで、ぱたんと閉じる。
そして、ちょいちょいと指先で手招いた。
直ぐに察して、楊ゼンは手を伸ばし、そっと太公望の頬に触れる。
とりあえず、今夜のいさかい未満の会話は、これで終わりだった。










世の中には神経が無いのではないかと思えるほど、図々しい人間というのがいる。
相手がどんなに露骨に迷惑そうにしても、どんなに周囲の顰蹙を買っても気にすることなく、自分がやりたいようにやるタイプというのは、ちょっと見渡せば、そのあたりにうようよしている。
目にするだけでもあまり気分のいいものではないが、それに関わってしまった時の不愉快さといったら言葉にならない。

この数日の楊ゼンと太公望の気分は、まさにそれだった。






「何度でも言うけど、君と付き合う気はないよ」

うんざりしきった溜息まじりの口調で、楊ゼンは告げる。
もう、相手の目を見ることもしなかった。
あからさまに楊ゼンの顔と金が目当ての彼女は、どうせお得意の小悪魔的な表情を作って、こちらを見上げているに決まっているのだ。

「僕には大切な人がいる。その人以外とどうこうする気なんて、これっぽっちもない」
「別に彼女にしてくれなくたっていいのよ。お友達としてでも構わないわ」
「君みたいなタイプを友人に持つ趣味はないよ、悪いけど」
「あら、ひどいわ」

甘い声に、楊ゼンはつくづく嫌気がさす。
太公望の声は、内容はおそろしく意地が悪いが、その代わりに媚びる気配は微塵もなく、凛と透きとおっている。
耳に心地好く響く声を思い浮かべ、楊ゼンは、何故あの人を不機嫌にさせてまで、こんな女に付きまとわれなければならないのだろう、と自分の不甲斐なさを嘆いた。

別に、知り合うきっかけらしいきっかけがあったわけではない。
キャンパス内で一方的に目を付けられて、この十日ほどつきまとわれている、それだけの話である。
そして、その気などまったくない楊ゼンは、最初はやんわりと交際を断っていたのだが、そんなソフトな言い方では彼女には通用しなかった。
言葉は全て綺麗に無視され、懲りることを知らない厚かましさで迫ってくる相手に辟易して、この数日はもう、楊ゼンとしては珍しいほど直截的な物言いをしている。

「とにかく、もう迷惑だから、つきまとうのはやめてくれないか」
「そうは言うけれど、あなたの言う本命のお相手とは、上手くいっているっていう話は聞かないわよ?」

しかし、小首を傾げて見上げる彼女は、まったく楊ゼンの迷惑顔に頓着することなく、言葉を続けた。
とにかく、楊ゼンは見てくれだけは周囲から飛び抜けて良い。おまけに、かなり裕福な家に育っていることも、服装や持ち物を見ればすぐに分かる。
それゆえにブランド物のアクセサリーやバッグ代わりに、楊ゼンを連れ歩きたがる女性は数知れなく存在する。
もちろん楊ゼン自身は、そんな要望に応じる気は微塵もなく、更に太公望とつきあうようになってからは、女友達とお茶を飲むことも滅多にしなくなっていたのだが、目の前の彼女は、そんなことはどうでもいいらしい。
ある意味、楊ゼンを落とすこと自体が彼女のステータスになるのだろう。ひたすらに押しの一手で迫ってくるのだ。

「もともと、ちょっと顔が綺麗なだけで、意地が悪い先輩って有名だった人じゃない。そんな人にあなたを独占させるのは勿体ないわ」
「・・・・・君に何が分かるんだい?」

楊ゼンの声が低くなる。
もともと機嫌が良いとは到底言えなかったが、更にくっきりと温度が下がって。
他人には滅多に向けられることのない冷ややかな瞳が、女の顔を見つめた。

「あの人と直接話したこともない人間に、とやかく言われたくない」
「嫌だ、そんな真剣にならなくてもいいでしょ?」

だが、それでも彼女はひるまない。
にっこりと笑って、片手をそっと楊ゼンの腕に添える。

「そうね、言葉が過ぎたことは謝るわ。でも悪気はないのよ。あなたがあんまり素っ気ないから、ちょっと焼き餅やいただけなの」



「それは光栄だな」



突然、割り込んできた声に。
二人は揃ってぎょっとした表情になり、顔をそちらへ向けた。

すると、そこには噂の主であるキャンパスの超アイドルが、にっこりと笑って立っていて。

「──とでも言うと思ったか?」

言いながら、ゆっくりと楊ゼンの隣に歩み寄り、軽く首をかしげるようにして女子学生を見つめた。
目線は数センチばかり太公望の方が高い程度だが、その鮮やかなまでの微笑と、露骨に値踏みするまなざしに、楊ゼンが何と言おうと顔色一つ変えなかった彼女が、わずかに口元を引き締める。
その小さな仕草に、太公望は微笑を深めた。

「わしの存在を知っていて、こやつに言い寄るのは良い度胸だと褒めてやってもよいが・・・・・」

言葉と共に、すっと手が上がり、楊ゼンの腕にかけられたままだった女子学生の手首を軽く掴み、離れさせる。


「わしのものに、手を出すな」


凛と澄んだ声でゆっくりと一言ずつ、そう告げて微笑んだ顔は。
恐ろしいほどに綺麗で、恐ろしく凄味のある、まるで野生の虎を思わせるような笑みで。

その最高に綺麗で恐ろしい微笑に、神経が存在しないのではとさえ疑った女子学生が青ざめる。

「───・・・」

そして数秒間、太公望と睨み合ったものの、結局、捨て台詞も何もないまま踵(きびす)を返し、ほとんど走るような速度で立ち去って・・・・というより、逃げていった。
その後ろ姿に、ふん、と笑みを消して。
太公望は、隣りに立つ青年を見上げる。


その瞳も表情も、恐ろしいほどに不機嫌だった。


「このわしの手を煩わせおって・・・・・」

しなやかに獲物を打ち倒す猛虎の如き微笑も恐ろしいが、憤りに燃えている人食い虎の如き瞳は、それ以上に怖い。
何をされても仕方がない、と身構えたその瞬間。

ドコッと鈍い音が響いて、楊ゼンは鋭い膝蹴りを腹部にくらっていた。

「あんなもの、さっさと振り切らぬか! 連日うっとうしい場面を見せおって・・・・!」
「──努力は、してたんですよ・・・・」
「結果の出ない努力なんぞ、言い訳になるか!」

かろうじてうずくまるのは耐えた。が、さすがに声は痛みにかすれる。
だからといって、それを気遣ってくれる加害者ではない。

「第一、あんなのに付きまとわれるほど隙のある、おぬしが悪い! わしのものならわしのものらしく、ぴしっとしておらぬか!」
「・・・・だから、彼女みたいなのは例外ですって。女性相手に、あれだけきつい物言いをしたことはないですよ」

低く言いながら、楊ゼンはようやく背筋を元通りに伸ばして息をついた。

「手加減無しでしたよね、今。めちゃくちゃ効きましたよ」
「当たり前だ。タマを蹴り潰されんかっただけ、良かったと思え」
「それだけは許して下さい」

腹部でも十分痛かったのに、そんなものをくらったら死ぬ、と楊ゼンは思う。
だが、太公望の怒りももっともなだけに、神妙に頭を下げた。

「不愉快な思いをさせてすみませんでした。・・・・それから、ありがとうございました」

告げた言葉は本心からのものだった。
正直なところ、あそこで太公望が割って入らなかったら、思わず手を上げそうになる衝動を抑えきれたかどうか、楊ゼンは自信がないのだ。
女性相手とはいえ、これほど怒りを覚えたことは今まで記憶にない。
太公望がいつから見ていたのかは知らないが、自分の苛立ちが限界に達したからだけではなく、楊ゼンの心理状態をも察して、あのタイミングで二人の前に出て来たに違いなく、おかげで手を上げるまではしなくとも、女性相手に本物の怒気を向けるという不名誉な真似をせずにすんだのである。

「・・・・それで?」
「それで、と言われても・・・・」
「二度とこんな失態をせぬと誓うか?」
「・・・・努力する約束はします」
「不甲斐ない返事だな」

ふん、と言い捨てて太公望はきびすを返す。

「帰るぞ」
「はい」

すたすたと歩き出した太公望に従って、半歩送れて楊ゼンも足を踏み出す。
実のところ、まだ時計は正午を少し回ったばかりで、太公望も楊ゼンも、また午後からそれぞれに講義だのゼミだのがある。が、二人ともそんなことには、もう頓着していなかった。
これだけ不愉快な思いをしたのだから、気分直しをせずにいられるわけがない。
それは口にしなくとも共通の思いで、振り返りもせずにキャンパスを後にする。

そうして道を歩きながら、楊ゼンが問いかけた。

「一つ確認したいんですけど・・・・。先輩が怒った理由って、いわゆる焼き餅と、自分のものに手を出されたという独占欲と、どちらの割合が大きいんです?」

普通の恋人なら、ちょっかいを出してくる第三者に抱く感情は、嫉妬だ。
しかし、太公望に関しては、その常識が通用しない。
『わしのものに手を出すな』宣言をしてくれたことは、おそらく喜ぶべきことなのだろうが、素直にそうする気になれないのは、太公望の心理が読みきれないせいだった。

「何を言っておる」

太公望はあきれたような口調と表情で、楊ゼンを見上げた。

「おぬしはわしのものなのだから、他人にちょっかい出されて面白いはずがなかろう」
「だから、それって焼き餅なんですか、独占欲なんですか」
「おぬしに手を出されるのは気に食わん。それ以上もそれ以下もない」
「・・・・・・・・」

解かるようで解からない、太公望の難解な心理に楊ゼンは内心溜息をつく。
そもそも今回の事自体、太公望が先日、名前も知らない男子学生に女難の呪いの許可を出した結果の産物のような気がしてならないのだ。
でも、とりあえず女性が絡んできたせいで太公望が不機嫌になったのは確かなのだから、それでいいか、とまったく救いになっていない理論で、この件にはけりをつけることにして。

「ほれ、さっさと行くぞ。とりあえずは飯だ」
「はいはい」

肩越しに促されて、楊ゼンは足を早めた。











楊ゼンの女難編。
素人の呪いでも効果はあるようです。というか、怨念効果?

太公望が嫉妬していたか否か。それはきっと、誰にもわかりません。


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