#002:階段







汗の滲んだ額に張り付いた前髪を払ってやろうとした手が、肌に触れた瞬間、手荒く振り払われる。

「────」

行き場をなくした手を下ろし、楊ゼンは、やるせない想いに少しだけ眉をしかめて、自分の傍らに眠る人を見つめた。

まるで高熱にうなされているかのように、やや乱れた呼吸と、切れ切れに上がるくぐもった声。
先程、自分の眠りを覚ましたのは、そんな悪夢にうなされる恋人の気配だった。





こんな風に夜明け前に起こされるのは初めてのことではない。
本当は、ずっと知っていた。
いつでも朝までの浅い眠りの中、過去の残夢に苦しんでいる恋人。
毎日とまでは言わない。けれど、週に一度、十日に一度、そんなペースで太公望は夢にうなされる。
けれど、楊ゼンはほぼ毎回、気配に目覚めていながらも、太公望を起こすことはしなかった。

誰よりも大切な人が苦しむのを見ていることが、楽しいはずもない。
だが、手を出すことを許されているとは、楊ゼンには思えなかった。
見ていれば分かるのだ。
太公望は陵辱の記憶を、過ぎたことだと、大した問題ではないといい、実際、乗り越えようと真正面から、自分の負った傷を見つめている。
そして、そんな負けまいとする心が分かるからこそ。
自分を信頼して受け入れ、忌まわしい出来事を語ってくれた想いが、痛いほどに切なく染みるからこそ。
楊ゼンは、恋人がうなされる姿に気付かないふりを、ずっと続けていた。





「──っ・・・ん・・・」

苦しげにかぶりを振った太公望の前髪が、ぱさりと音を立てる。
何もできない自分の無力さに唇を噛みながら、楊ゼンはシーツの上に投げ出されていた太公望の手を、そっと自分の手で包み込む。
途端、すがるように・・・・あるいは、せめてもの抵抗を示すかのように、手の甲が傷つくほど、きつく握られ爪を立てられた。

楊ゼン自身はドラッグを使用した経験はないから、それがどれほど絶大な快楽をもたらすものなのかは、伝え聞いたことでしか知らない。
だが、肉体と意識の双方を狂わされ、尋常ならざる快楽を引きずり出されることがどれほどおぞましい暴力なのかは、悪夢にうなされ続ける太公望を見ていれば分かる。
飄々としているようで、その内側には野生の獣のような気高さと自由を愛する魂を持った太公望にとって、それが本当はどれほど屈辱だったのかも。
傍で見ていれば、すべて感じられる。

「・・・・僕が、居ますから・・・・。ずっと・・・・」

本当はなりふり構わず、叩き起こして抱きしめてやりたかった。
けれど、そうすることは太公望を傷つける。
楊ゼンの手を振り払うことは決してしなくとも、自分の力で悪夢を乗り越えられなかったことに、きっと太公望は寂しい瞳を見せるだろう。
それが分かるから、楊ゼンはただ、血の滲むような思いで太公望を見つめ続ける。





そして、どれほど時が過ぎたのか。
時間にすれば、ほんの10分かそこらだろう。だが恐ろしく長かった悪夢がようやく通り過ぎたのか、太公望の表情が安らいでくる。
楊ゼンの手の甲に突き立てられていた爪も力を失って、細い指はいつものしなやかさを取り戻していた。

「────」

片手を繋いだまま、もう片方の手でそっと汗に濡れた前髪を払ってやっても、今度は跳ね除けられなかった。
そのまま、すべやかな頬を包み込むように撫でると、手の体温が心地好かったのか、まるで猫のような仕草で小さく擦り寄ってくる。
その寝顔が微笑んでいるかのように安心しきっているのを見て取って、ようやく楊ゼンの表情も緩んだ。

ちらりと目を向けると、カーテンの向こうはまだ暗い。
日々、日の出が遅くなってきている季節ではあるが、朝までにはまだ余裕があるようだった。
一つ息をついて、楊ゼンは太公望を起こさないように、ゆっくりとベッドに横になる。
そして、腕に抱きこんだ太公望の髪を、そっと撫でた。





何も変わっていないわけではないのだ。
太公望が悪夢にうなされる間隔は、一緒に暮らし始めた頃は三日に一度くらいだったのが、五日に一度、一週間に一度、十日に一度と、間違いなく間遠になってきている。
うなされる時間そのものも、最初の頃よりは短いし、うなされた挙句に太公望が飛び起きることも殆どなくなった。
最近は大抵、今夜のように悪夢が通り過ぎれば、そのまま再び安らかな眠りへと戻っていく。
そして朝、目が覚めて視線が合えば、一瞬安心したように微笑むのだ。




その微笑がどれほど切なく、愛しいか。
きっと、太公望は知らない。




「──いつか、あなたが悪夢にうなされなくなったら・・・・」

その時には、今夜の想いも伝えられるだろうと思う。
実は自分もとても辛かったのだと、過去の笑い話にして、お祝いにどこか美味しいもののある綺麗な場所にでも旅行に行けたらいい。

「その時まで、ずっと傍にいますから・・・・」

無心に眠り続ける太公望の額に、優しい口接けを落として。
楊ゼンも目を閉じた。










連続ですが、Midnightの2人。『洗濯物日和』の対になる話です。

いくらなんでも、楊ゼンが太公望がうなされているのに気付かず、寝こけてるはずがありません。
そんで太公望もきっと、無意識のうちに守られていることを知っている気がします。で、いつか打ち明けられて、ああ、そうだったのかと納得するような。

しかし、珍しく甲斐性のある楊ゼンですね〜。
うちじゃ珍しいケースですが、甲斐性のあるもの同士、お似合いかもです。


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