幕間 −いつか見た空−






 ジョウストン都市同盟の最西にあるティントから竜口の村へと続く街道は、鮮やかな緑に包まれた山道で、足元はいささか険しく注意が必要であるものの、目に映る風景は美しい。
 宿敵ネクロードを倒し、これまで孤高を保っていたティント市の新都市同盟軍への加盟も決まって、当面の目的を全て果たした同盟軍軍主の一行は、強行軍だった往路とは打って変わって、新緑のさわやかな山道や、所々を流れる沢の涼やかさを楽しむかのように、いささかのんびりと進んでいた。
 無論、これから戻る本拠地であるクォン城には、正軍師のシュウが待ち構えているし、帰還したらすぐに、ティント市という有力な味方を得ての新たな軍略が動き始めることは、誰もが承知している。
 今回、新たに新同盟軍に加わったティント市がもたらしたのは、兵力ばかりではない。鉱山都市であり、またその豊かな資源を背景として優れた金属加工技術の集まる工房都市でもあるティントは、膨大な量の武器防具と、多額の軍資金をも提供することを約束してくれたのだ。
 勿論ティント市の財政の問題があるから無償ではなく、戦争が終わり次第、翌年から最低金利の十年賦で返済するということにはなったのだが、それでも豊かさと技術力を併せ持つティント市が、これまで出し渋っていた力を全て吐き出してくれるのは、ありがたいことこの上ない。
 そんなこんなで、前途が依然、厳しいことは分かってはいたのだが、それでも今ばかりは明るくセイたちは、初夏の山道をたどっていた。




「あれ、あそこ、誰か立ってません?」
 その人影に真っ先に気付いたのは、一行の先頭を歩いていたセイだった。
 視力には自信があるという少年は、目を細めて自分たちが歩いている街道の本筋ではなく、その先で分岐して、少し進むと断崖に突き当たって行き止まる細い道の先を見つめる。
「あそこからだと、この辺りの山並みが一望できるからね。旅人が風景を眺めながら、ちょっと休憩でもしてるんじゃないかな」
「ええ。すっごくいい風景でしたよね。……ねえ、マクドールさん」
 隣りを歩くティルをちらりと見上げ、名前を呼んだセイに、ティルは小さく笑みを返した。
 この場合、少年の言わんとしたことは考えるまでもなく読めていて。
「セイも寄り道したいんだ?」
 そう問いかけると、考えを読まれることを予測していたらしいセイは、くすぐったげに笑った。
「だって、行きはすっごくバタバタしてましたから、本当にちょっと休憩しただけだったじゃないですか。なかなか、ここまで来る機会はないと思いますし、ちょっとくらい寄り道してもいいかなぁ、って」
「──だそうだけど? ビクトールたちは?」
 肩越しに、ティルが振り返って問いかけると。
「おう、構わんぞ。竜口の村までまだ少しかかるし、ここらで一度、休憩してもいいんじゃないのか」
「うん。私も寄り道して、山を見たいな」
 口々に返事が返り、最後にシエラが無言でうなずくのを見届けて、それなら、とセイは、街道から分岐する細い道の方へと足を進める。
 天気もよく、木漏れ日が心地よく差し込んでくる道を、他愛のない会話を口々に交わしながら少し歩いたその先、山肌の際に差し掛かった道はそこで終わって、目の前には雄大な山並みが広がった。
 うわぁ、と行きにも見た風景のはずなのにナナミが感嘆の声を上げ、断崖の端へと小走りに近づいてゆく。
「走っちゃ駄目だよ、危ないから」
 その背中に声をかけながら、セイは、ちらり、とその場にいた先客の方へと視線を向け、ティルもまた、さりげないながらも油断のないまなざしで、そちらを注視する。
 賑やかしい一団が闖入してきたのに、さして警戒する素振りを見せるでもなく、悠然と断崖近くに立っている男は、四十代前半から半ばというところだろうか。
 身につけている装備からしても、旅慣れた剣士だろうということは推測できたが、それにしても隙がない、と旅人に歩み寄るセイについて歩きながら、ティルはわずかに目を細めた。
「こんにちは」
 セイもまた、男の隙のなさには気付いているだろうに、この少年の性分なのだろう、いつものように見えざる尻尾を小さく振りながら、男に声をかける。
 と、ゆっくりと男は振り返った。
 白い筋がわずかに混じった黒い髪に眼光鋭い黒い瞳、風格を漂わせる精悍な風貌は歴戦の戦士であることをうかがわせ、一目で、名のある剣士だ、とティルは直感する。
 が、その間にもセイは、人懐っこい笑みで男を見上げ、
「せっかく風景を見ていらっしゃったのに、うるさくしてしまってすみません、ちょこっとだけ休憩したら、すぐに僕たちは行きますから」
「──知っているぞ」
 礼儀正しく挨拶するセイを、じっと見つめていた男が、ふと口元を笑ませる。
 はい?と脈絡のない相手の言葉に、首をかしげたセイを見下ろしながら、男は低く響く声で続けた。
「お前が新同盟軍の軍主だろう。それから、お前はテオの息子だな?」
「──え」
 突然呼ばれ、楽しげな光を浮かべた黒い瞳を向けられて。
 ティルは目を見開いた。

 ──テオの息子。

 確かにそうではあるが、しかし、そんな呼び方をされたのは一体何年ぶりのことか。
 知っている人ですか?と言いたげに見上げてくるセイにも応じられないまま、ティルは、この男が何者なのか思い出そうと務める。
 父の名を呼ぶからには、父の旧知の人物であり、そして、マクドール将軍でもなく敬称をつけるでもなく、親しみを感じさせる口調で『テオ』と呼び捨てるからには、少なくとも同格以上の存在である可能性が高い。
 だが、旧赤月帝国の大貴族であり、将軍位の筆頭にあった父と同格以上の人物など、そう数多くいるわけでもなく。
「……ゲオルグ…」
 短い沈思の後、ティルは一つの名前を脳裏に蘇らせた。
「ゲオルグ・プライム? 帝国六将軍の一人だった……」
 まさか、という思いに、ティルは相手の黒い瞳を見つめる。
 だが、その視線の先で旅の剣士は、にやりと不敵な笑みをその精悍な風貌に浮かべた。








 一体どういう気まぐれなのか、新同盟軍に力を貸そうと言い出したゲオルグ・プライムを一向に加え、セイたち一向は夕刻、たどりついた竜口の村で宿を求めた。
 セイとナナミは、ゲオルグの名を知らなかったが、さすがにビクトールは「あの、二太刀いらずのゲオルグ!?」と声をひっくり返し、その後も、ちらちらとゲオルグの方を気にしては、ティル相手にこっそりと、まったく隙がねぇや、とぼやくように呟いてみたり、落ち着かないことこの上なかった。
 だが、そんな傭兵を適当にあしらいつつ、ティルにしても顔にこそ出さなかったが、気分としては、いささか複雑なものを感ぜずにはいられなくて。
 なにしろ今から十五年以上も前のことであるため、記憶も薄くなってしまっているが、幼い頃、確かに自分はゲオルグと会った事があるのだ。
 何を話したか、何をしたかなどということは、もう覚えてはいないものの、大きな人だ、と感じたことは朧気に残っている。
 今から思えば、確かに上背はあるものの抜きん出た長身というわけではなく、体格的には父親と似たようなものだった彼に、それでも「大きい」と思ったのは、既にカイから武術の手ほどきを受け始めていたあの頃の自分が、彼の持つ独特の凄みに反応したからなのかもしれない。

「マクドールさん」

 不意に名を呼ばれて。
「何? セイ」
 は、と我に返る。
 すると、隣りのベッドに腰を下ろして、荷物の整理をしていたセイが、少し可笑しげに微笑みながら、自分を見つめていた。
「さっきから気もそぞろですよ? 気になるのなら、行ってきたらどうですか?」
 言いながら、セイが立てた人差し指で示したのは床──階下であって。
「僕のことなら気にしなくていいですから。遅くなるようなら、先に寝てますし」
「……そう言いながら、結構待ってくれてるでしょ、セイは」
 気遣われたことに淡い苦笑いを浮かべながら、ティルはセイを見やる。
「そんなに気にしてるように見える?」
「見えます」
「そう」
 まいったな、とティルは小さく溜息をついた。
 セイの方は、少しばかりの物珍しさを込めて、けれど、やわらかな笑みで傍らの青年を見つめていて。
「行って来た方がいいと思いますよ。クォン城に戻ったら、また忙しなくなると思いますし、別にお話とかしなくても、一緒にお酒飲んでるだけで、落ち着くこともあるかもしれないですから」
「……いつの間に、そんな理屈を覚えたの?」
 滅多に酒なんか口にしないくせに、と揶揄するように問うと、セイは笑った。
「ゲンカクじいちゃんからの受け売りです。昔ね、そういう友達がいたんだって。今から思うと多分、カーン・ハニンガムさんのことなんだと思うんですけど」
「……なるほど」
 それでは敵わないと、ティルは苦笑しながら前髪をかき上げる。
 そして、
「そうだね、セイの言う通りかもしれない」
 あっさりとうなずいて、セイへと微笑を向けた。
「なにしろ父の知り合いだった人だし、話すにしても、その中身が思い浮かばなかったんだけど、直接向き合えば、それだけで済んでしまうのかもしれないね」
「はい。きっとそうですよ」
「うん。じゃあ、ちょっと行ってくる」
 立ち上がり、優しい瞳でセイを見つめて。
「本当は、じっくり話すのはちょっと嫌な気もするんだけどね。向こうは、僕が子供の頃を知ってる人だから」
「あ、マクドールさんでも、そういうこと気にするんですか」
「そりゃあね。僕も人間だから」
 あはは、と楽しそうに笑うセイのやわらかな髪を、ふわりと撫でて、ティルはさて、とドアの方に向かった。
「どうせ遅くなると思うから、本当に先に寝てるんだよ? 僕が戻るのを待ってなくていいから」
「はい」
「……セイって、返事だけはいつもいいよね」
「返事だけじゃないですよー」
「嘘ばっかり」
 くすくすと笑いながら、行ってくるね、と言い置いて。
 いってらっしゃい、という言葉を背に、ティルは宿屋の客室を出た。






 竜口の村の宿屋は、村の規模に比例して小さなものだが、それでも一階には、旅人が利用するというよりも主に村人の集う酒場がある。
 だが、夜も更けた今は、村人たちは既に引き上げたようで、テーブルについているのはゲオルグとビクトールの二人だけだった。
「お、来たな」
 階段を下りてきたティルを目ざとく見つけて、ゲオルグがグラスを軽く掲げる。
 それに笑みを返して、ティルは彼のもとへと歩み寄った。
「邪魔をしに来たんですが……ビクトールは、もう駄目っぽいですね」
「途中から飲み比べになってな。あいにく、俺は酒で負けたことはないんだが」
 ちらりとティルが視線を流した先には、殆ど酔いつぶれたビクトールがテーブルに突っ伏するように伸びており、うぅ…、と瀕死の熊のような呻きをこぼしている。
 ビクトールも十分に酒豪と呼べる体質のはずだが、伝説の剣士と向かい合って飲むのはさすがに緊張したのか、それとも、向きになり過ぎたのか。
 珍しいこともあるものだ、と思いながらティルは小さく首をかしげた。
「上に運んだ方がいいかな?」
「その辺りに転がしておいたところで、風邪を引くような季節じゃないだろう」
「……この辺は、夜はまだ結構肌寒いと思いますけど」
 まぁ、そこまで甘やかす必要はないか、とティルは呟く。
 セイが知れば、せめて毛布の一枚くらい持ってこようとするだろうが、あいにく自分はそこまで親切ではない。
「まあ、座れ。相手が居なくなって詰まらなかったところだ」
 ゲオルグもまた、放っておけばいいと、新たなグラスに琥珀色の酒を注いで、ティルの前へ置く。
 村人が帰った時点で、自分たちで適当にやると給仕を断ったのだろう。宿屋の人間の姿はなく、ランプの明かりだけが静かに周囲を照らしていて。
「それじゃ、遠慮なく」
 隣りのテーブルから椅子を引っ張ってきて、ティルは腰を下ろした。
「セイは、どうした」
「部屋に居ますよ。あなたが気になるのなら、一緒に飲んで来たらいいと送り出されました」
「ほう。随分と気の利いた小僧だな。さすが軍主というところか」
「ええ。色々と助けられてます」
 言いながら、ティルはグラスを傾ける。
 この辺りの地酒だろうか。ややきつい口当たりで、何かの果実によるものだろう独特の風味があるが、後味は悪くない。がぶ飲みする類のものではないが、それなりに心地よく酔えそうな酒だった。
「しかし、人生とは予測できんものだな。あの小さかった子供と、こんな所で酒を酌み交わすことになるとは思いもしなかったぞ。もっとも俺の人生で、予想通りに進んだ物事など数えるほどしかないが」
「初っ端からそれですか」
 いきなり子供だった頃の話を持ち出されて、ティルは苦笑する。
「あいにく、僕はあまり覚えてないんですよ。二度、でしたか。あなたが屋敷に来たのは」
「ああ。継承戦争の前と後に一度ずつな。お前はまだ、こーんな小さなガキだった」
 これくらい、とテーブルと変わらないほどの高さをゲオルグは手で示し、そしてティルを見やる。
「あの時、七つかそこらだったな。今は……二十二になったか? 時間が過ぎるのは早いもんだ」
「そうですね。もっとも、あなたは、あまり変わらないような気がしますが」
「ふむ」
 静かに答えたティルに、ゲオルグは考えるようにグラスをあおり。
「そうだな。見てくれはこの通り十五年分、年を食ったが、中身はそうは変わらんかもしれんな」
 うなずき、だが、と続けた。
「人間というのは案外、変わるようで変わらないもんだ。裏表のない奴なら尚更な。お前の父親も、俺が知っていたのは、せいぜいが継承戦争を挟んだ五年間というところだが、結局一生、気質は変わらなかったようだしな」
 ずばりと切り込んだ言葉に、ティルは一瞬、動きを止め、だが、すぐにうなずく。
「……はい。父は最後まで、おそらく、あなたが知っているままのテオ・マクドールだったと思いますよ」
「そういう奴だった、テオは」
 首肯し、ゲオルグは手酌で酒を注ぐ。
「お前が知っているかどうかは知らないが、テオは俺のような流れ者を配下から引き立てて、将として働けるよう皇帝陛下に推挙してくれた。そればかりか、兵を養うのに必要だろうと先祖伝来の知領を頒け与えて、名で呼ぶことまで許してくれた。
 挙句、俺が帝国を出てゆくと言った時も、それがお前の生きるべき筋なら、と一言も咎めなかったのは、テオだけだった」
 そして、改めて鋭い瞳でティルを見つめた。
「……何です?」
「テオに似ているな、やはり」
「そうですか?」
「ああ。顔立ちはセレンディアにそっくりだが、目がな。テオに良く似ている」
 そう言い。

「悔いてはいないんだろう? その手で父親を倒したことを」

 グラスを傾けながら、ゲオルグは低く響く声で、無造作に問いかける。
 ティルは、今度こそ軽く目をみはり。
 けれど、
「──ええ」
 静かにうなずいた。
「後悔はありません。何も」
「力及ばぬ部分があっても、やれることは全てやった、か?」
「はい。僕が間違っていたのか正しかったのかは、後世の人々が決めるでしょう。でも、今から振り返って、僕が悔やむことは何もありません」
「だろうな。そういう目だ、お前の目は」
 ティルの言葉に、ゲオルグはうなずく。
「そこいらの若造が言ったのなら、張り倒すところだがな。お前は、乱を起こし、多くの人々の命を奪った罪を知った上で、その代償を十分過ぎるほどに背負っている。テオも、お前が解放軍に全てを懸けたのと同じように、自分の全てを懸けて皇帝に尽くしていた。
 だから、お前のような息子を持って、父親が行く末を案じることはあっても、恥じることはなかろうよ」
「───…」
「何だ」
「いえ……。あなたの口から、そういう言葉を聞けるとは思っていなかったので、少し驚いて」
「失礼な奴だな」
 軽く目をみはり、いかにも意外だというように告げたティルに、ゲオルグは肩をそびやかす。
「テオ・マクドールは、付き合いそのものは短かったが、今でも友だったと思っているし、お前はその息子だ。加えて年の功というやつで、俺にはテオが考えていたことも、お前が考えていたことも大体は読める。ならば、俺がお前に言うべきことなど限られているというものだ。違うか?」
「……それはそうかもしれませんが」
 けれど、と手にしたグラスをティルは小さく揺らした。
「父を手にかけたことを、父以外の相手から肯定されたのは初めてでしたから。やはり驚きました」
「やれやれ。涼しい顔をして、案外にお前も苦労性だな」
「そうでもありませんけど、ただ、こればかりは一生背負ってゆくべき業だと思ってますから。肯定されると、かえって戸惑ってしまうんですよ」
「それを苦労性と言うんだ」
 呆れたように言い、ゲオルグは酒瓶を手にして、ティルのグラスに注ぐ。
「とりあえず今夜は付き合え。旧友の忘れ形見と飲み交わすことなど、そうそうあることではないからな」
「ええ、と言いたいんですが……」
「なんだ、不都合があるのか」
 誘いに対して曖昧に応じたティルに、ゲオルグは眉を動かす。
 そんな父の旧友に、微妙な笑みを浮かべてティルは続けた。
「多分セイが、僕が戻るまで起きて待っていると思いますから。また後日、時間のある時に付き合いますから、今夜は程々にしておいてもらえますか」
「……女房を貰いたての男みたいな台詞だな、それは」
 眉をしかめられて、ティルは肩をすくめてみせる。
「仕方ないでしょう。そういう子なんですよ、セイは。先に寝ているよう幾ら言っても、返事ばかりで聞かないんです」
「そんなのと同室になるな、と言いたいが、確かに護衛としての腕は、俺を除けば、この中でお前が一番立つんだろうからな。仕方ない、この一杯だけは付き合え」
「はい」
 うなずき、ゆっくりとグラスを傾けて。
 親子ほども年齢の離れた二人の飲み交わす時間は、静かに夜の静寂(しじま)に流れ消えた。






「あ、おかえりなさい」
 どうせ起きているのだろうと、さして気配も殺さずに二階の客室へと上がり、ドアを開ければ、案の定、やわらかな響きの声に出迎えられた。
「やっぱり起きてたね。先に寝るって言ったのに」
「嘘じゃないですよ。眠くならなかっただけですもん」
「それは屁理屈と言うの」
 やれやれ、と苦笑しながら、ベッドの端に座り込んで窓の外を見ていたらしいセイにティルは歩み寄る。
「ほら、こんなに肩も冷えてる。山地の夜は冷え込むんだから、油断してると風邪を引くよ?」
 一応、最初は毛布を羽織っていたのだろう。しかし今は、腰の辺りまでずり落ちて用を成していないそれを、そっと肩をくるむように羽織らせ直し、近い距離から甘い茶色の瞳を覗き込むと。
 気遣われたことが嬉しいのか、セイは、はにかむように小さく笑った。
「星を見てたんですよ。ほら、今日は月がないから、すごく星が綺麗なんです」
 言われて、窓の外を確かめてみれば、確かに真冬の星には及ばないものの、無数の星が夜空にきらめいている。
「確かに綺麗だね。──でも、駄目だよ、寝ないと」
「寝ますよ、もう。マクドールさん、帰ってきましたし」
「だから、待ってなくていいって言ってるのに」
「僕が待っていたいんだから、いいんです」
「どうして、そんなに強情かな」
 明るく言い切るセイに溜息をつきながら、ティルは上着を脱いで壁にかけ、寝支度を整える。
 その間にセイも、改めてベッドの上に毛布を広げ、そこにもぐりこんだ。
「ゲオルグさんと、お話、できました?」
「うん。沢山じゃないけど、そうだね、一番話したかったことは話せたのかな、お互いに」
「そうですか」
 よかった、と呟くセイに、ティルは優しい瞳を向けて。
「セイのおかげ。ありがとう、行けと言ってくれて」
「そんなの、御礼を言ってもらえるほどのことじゃないですよ」
「僕が言いたいんだから、君は黙って聞いておけばいいんだよ」
「……そういうとこ、マクドールさんだって十分強情だと思うんですけど」
「文句あるの? セイ」
「いいえ、ないです〜」
「……まったく……」
 お互いに軽く眉をしかめ、それから揃って笑い出す。
 そうしてティルは、片手を伸ばしてセイの髪をやわらかく梳いた。
「それじゃあ、おやすみ、セイ」
「はい、おやすみなさい」
 また明日、と微笑を交わして、セイは目を閉じ、その傍らを離れたティルはランプの明かりを消す。
 途端、小さな宿屋の一室は、淡い星明りに満たされて。
 穏やかな夜は、やわらかに過ぎていった。

End.

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