修羅 風塵の章

-古径-












 本街道から随分と離れた、荷車同士すれ違うのがぎりぎりの幅の街道とも呼べない街道は、鄙びた野の花に縁取られつつ、なだらかな丘陵地帯を貫き、点在する幾つかの小さな町や村をを繋いでいる。
 そこを驢馬(ろば)に引かれ、これまた、いかにものどかな速度で街道を移動していた大きな荷車は、その中でも一番大きい……といっても都市部に比べれば小さな町に入ったところで、重たげな軋み音を立てて止まった。
「着いたぞ、ボウズ」
「ああ、ありがとう。おかげで楽ができたよ」
「そりゃそうだ。馬とは比べ物にならん速さだろうが、歩くよりは楽に決まっとる」
「そうだね。このところずっと歩き詰めだったから。つくづく思い知った」
 笑いながら、少年は春野菜が山と積まれた荷台から荷物を取り上げ、身軽に路上に飛び降りる。
 年の頃は、十七、八になったばかり、というところだろうか。大人になりきるまで、あと二歩ほどはありそうな中背痩身の肢体は、すらりとしなやかで無駄がない。
 丈夫そうな布地の衣服に、左肩に背負った重たげなザック、そして手にしているのは、黒金(くろがね)の地の両端に美しい金の装飾を施した長い棒状の武器──長棍。
 ちょうど、少々腕に覚えのある少年が武者修行の一人旅をしている、というような風情だった。
「しかしまぁ、こっちも助かったからな。ボウズ、これを持ってけ」
「うん?」
 御者台に腰を下ろしたまま、荷台を振り返ってごそごそしていた農夫が、少年に向かって布袋を差し出す。
 さほど大きくも重そうでもないそれを素直に受け取った少年は、紐で縛られた袋の口を開き、中身を確かめて目をまばたかせた。
「干し無花果(いちじく)?」
「うちで取れたやつだ。美味いぞ」
「へえ」
 それなら、と遠慮なく一つ摘み出し、口に放り込む。
「うん、甘いね」
「だろう?」
「大事に食べるよ。ありがとう」
「ああ。気をつけて行けよ」
「うん。じゃあ村の人たちにもよろしく」
 明るい笑顔をひらめかせて、革手袋をした右手を振り、少年は荷馬車から離れて歩き出した。




 小さい町ながらも市が立つだけあって、大通りはそれなりに賑わっている。
「さて、と」
 どうしようか、と旅装の少年──シェンは通りの端に立ち止まり、呟いた。
 周囲へ何気ない視線を送る深い色合いの藍の瞳が、朝の日差しを透かして鮮やかな青にきらめく。
 ──本当なら今日の午後遅く、夕方前にこの町に辿り着くはずだったのだ。
 しかし一昨日、この町の一つ手前の村で一夜の宿を求めた折、たまたま村人がこの街道沿いの森に最近、モンスターが棲みついて困っている、という話をしていて。
 見るからに、多少は武器を扱えます、といった風情で現れた少年を何ともいいがたい目で見つめてきたから、とりあえず話を聞いてみたのである。
 別に知らぬ顔をして通り過ぎても良かったのだが、もしかしなくても宿代が只になるかも、という程度の計算は働いたし、それに何よりも村人の話の限りではモンスターのレベルも大したものではなく、あっさり打ち倒したところで派手な噂が流れるような可能性は低かったから、問題の森へ行くだけ行ってみてもいい、と答えた。
 そうして他愛なく、そこにいた金色猪の親子を退治し、巣穴となっていた岩穴を塞ぐよう村人に指示をして、目論見(もくろみ)通りに一泊の宿と酒食、それから驢馬に引かれた荷車という、次の町までの足を確保したのである。
 しかし、予定より早く次の町に着いてしまった分、シェンは夕刻までをどう過ごそうか、と考える。
 乗せてもらったのが市で売るための春野菜を載せた荷車だっただけあって、時刻はまだ昼にも程遠い。だからといって、先を急いでこの町を発つ理由もなかったから、シェンが出した結論は、
「とりあえず、市場に行くかな」
 という至極当然なものだった。
 朝とはいえ、既に日は仰ぎ見ることができるほどに高く昇り、町の住人も賑やかしく活動を始めている。
 この町は、ちょうど東西と南北それぞれの街道が交わる地点にあり、その分、人々の往来も盛んなようで、表通りを町の中心に向かって歩いていくだけでも、二軒の宿屋が看板を出している。
 酒場や食堂といった商店も複数あり、この分なら不自由はしなさそうだ、とシェンは心の中で呟いた。
 なにしろ、この町を出たら最後、どの方角に向かっても、昨夜宿泊した村と同じような小さな集落ばかりが続いているのである。ここで旅に必要な物資を補充しなければ、面倒なことになるのは必須だった。
 また、この地方の住人にとっても、この町の市場は貴重なものなのだろう。
 辺境で住民が少ないから町そのものも小さいだけで、活発な商取引が行われていることは、町並みを眺めただけでも十分に推測できる。
 その割に、やはり都会とは違うからか人々の表情は温和で純朴そうな色があり、いい町だな、とシェンは素直に思った。
 曲がりくねった石畳の道を、おそらく町の中央に配置されているだろう広場に向かって歩くと、次第に行き交う人の姿が増え、賑やかな物売りの声が聞こえてくる。
 立ち並ぶ露天は、近辺から運ばれてきたのだろう野菜や果実といったものが中心で、ふとシェンは、小さな籠に盛られた木苺に目を惹かれ、小銭を出して一籠買い求めた。
 赤く熟した果実は、今朝摘まれたばかりのものだろう、甘酸っぱい風味を楽しみながら、次から次へとシェンは露天をのぞいて歩いた。
 こういった日用品を中心に商(あきな)う市場で旅人が買うべきものは、実のところ、さほど多くはない。それでも日持ちのしそうな乾果、干し肉といった携帯食や、消耗品である薬草、細縄、油といった小間物を買い求める。
 その間もシェンのいかにも旅人らしい姿や、見目良く整った容貌に応じてか、買い物におまけをつけてくれる店主も少なくなく、充分に時間をかけて露天を回りきる頃には、日は中天に昇っていて。
 さて、と広場を中心にぐるりと一巡りして、その中で一番良さそうな食堂を兼ねた宿屋を選び、シェンは入り口をくぐった。
 長く旅を続けていると身に付く特技の一つに、良さそうな宿や食堂を、店の表を見ただけで判別できるというものがあり、これまでシェンは大きく自分の勘を外したことはない。
 案の定、この店も本当の昼餉(ひるげ)時には少々早い時間帯であるにもかかわらず、さほど広くない店内の席の大半が埋まっており、空いている席は端の方に僅かにあるだけだった。
 客たちの間をすり抜けて空いたテーブル席に落ち着き、注文をとりにきた女将らしい中年女性に、定食を頼むついでに宿の部屋の有無を尋ねると、多少くたびれた旅装ではあるものの、所持品は質の悪いものではなく、また良家の出自であることを窺わせる少年の容姿に、これなら泊めても大丈夫だと判断したのだろう。女将は快くうなずき、後で部屋に案内しますね、と請け負ってくれた。
 それから、さほど待つまでもなく運ばれてきた、この店の名物料理らしい鹿肉の煮込みと、まだ温かい焼きたてのパンをシェンはゆっくりと味わい始める。
 ───正直なことを言えば、右手の紋章を継承して以来、シェンは睡眠欲も食欲も、大して感じないようになっていた。
 やはり不老ともなると、どこかが常人とは変わるのだろう。爪や髪が伸びるのも遅くなったし、そのくせ怪我の治りは異様に早く、風邪の一つすら引かない。
 二日三日なら、睡眠や食事を摂らなくとも普通に動くことができるし、それで判断力が鈍るということもない。
 あきらかに人としては異常であり、それらの現象に気付いた当初、さしものシェンも強い違和感を覚えた。
 しかし、続けば感覚など慣れてしまうものだ。
 継承から三年余を経て解放戦争が終わる頃には、全ては当然のこととしてシェンの中にあったし、今も一人で旅を続ける上で、それらの特性は便利な体質という以上の何物でもない。
 けれど、だからといって美味を味わう楽しみを放棄する気はなかったから、シェンは極普通に一日三食摂る習慣を変えはしなかった。
 なにしろ先は長い。生きる上での楽しみは、一つでも二つでも多い方がいいに決まっているのである。
 そして今も、素朴な味付けながら素材の持ち味が生きた名物料理を堪能し、ご馳走様、と匙を置いて。
 その後、宿の二階の部屋に案内してもらい、一旦荷物を広げて整理し直してから、再び階下に下りて、女将に今度は、この町に研ぎ師はいないか、と尋ねた。
 無論、問題があったのは、故郷を出た後に新しくあつらえ直した天牙棍でも、巨匠メースの手による蒼牙刃(そうがじん)と銘のついた匕首でもない。それらの銘品は、下手な職人の手にかかると本来の生命を失ってしまう。
 シェンが研ぎを頼みたいと思ったのは、日用に使う小型ナイフだった。
 この程度の品なら自分でも研ぐことはできるのだが、先日、うっかりと刃先を大きく欠けさせたのが、そのままになっていたのである。
 高価なものではなし、別に買い換えても良いのだが、刃の重さと柄の握り具合が丁度よく使い勝手のいい品であるため、研ぎ直せるものであれば修復して、このまま使いたかった。
 そんなシェンの問いに対し、宿の女将はすぐにうなずいて簡単な道順を説明してくれて。
 シェンは礼を言って表通りへと出、その店へと向かう。
 古い地方都市では珍しくない、広場を中心に街並みがいわゆる同心円を形作っているこの町では、街路に直線というものが存在しない。
 おかげで、曲がりくねった道は見通しが全く利かないのだが、研ぎ師の店は広場に近く、表に看板が出ていたこともあり、さほど迷うことなく辿り着くことができた。
 初老の研ぎ師は、シェンが見せたナイフを、よく使い込んである良品だと称し、この程度の欠けであれば修復できると請け負ってくれ、急ぐのなら今日の夕方、余裕があるのなら明日の朝までに仕上げると応じてくれたため、それならば、急ぐものではないけれど早い方がいい、と夕刻に取りに来ることを告げて。
 それからまた、今度は純粋に暇つぶしのために、鄙びてはいても活気のある小さな町の中を歩き回った。
 地方の辺境ではあるものの、北方からの冷風が山脈に遮られるために、この辺りの気候は比較的温暖で、土地も雪解け水のおかげで肥えている。そんな自然環境が人々の生活にも、ゆとりを与えるのだろう。
 取り立てて大きな屋敷が街にあるわけでもなし、富裕な階層はこの町には存在しないようだったが、しかし、住宅の出窓には花が飾られ、街路も綺麗に毎朝、掃き清められているようで、ゴミが殆ど見当たらない。
 こういう町の町長の顔なら、ちょっと見てもいい、などと勝手なことを思いながら、シェンは一通り町を見て回り、そして広場に出ていた屋台で軽い果実酒を求め、行き交う人々を眺めながら休息した後、再び研ぎ師の店へと戻った。
 預けたナイフは欠けた分を補うために、わずかに刃先が短く形を整え直されてはいたが、それでも手にした感触は以前とさほど変わらず、満足して代価を支払い、店を出て。
 そして、黄昏が迫る中を宿へと戻る途中。
「──?」
 何ともいえない仄かな気配を感じて、シェンは足を止めた。
 敵意ではないし、殺気でもない。
 視線を感じるわけでもなく、誰かがつけてきているわけでもないし、すれ違った人物がいるわけでもない。
 立ち止まりはしたものの、今、自分は一体何を感じたのか掴めず、シェンは小さく首をかしげる。
 けれど、一瞬の気配は再び訪れることはなく、しばらくたたずんでいても、何事も起きず。
「……ソウルイーター?」
 もしや、と右手に呼びかける。
 既に馴染みのある、旧知の人物の生死に関する感覚とは全く異なってはいたが、この状況で自分に何かを感じさせる存在は他に思い当たらない。
 しかし、紋章は沈黙を守り、やがてシェンは諦めの溜息をついた。
「何かの警告ということは無さそうだけど……。どうせなら、もう少し分かりやすくしてくれないか」
 他者には聞こえないように小声で右手に文句をつけ、そして広場を横切って宿の入り口をくぐる。
 いらっしゃいませと言い掛けて、お帰りなさいませ、と笑顔で言い直した女将に軽く片手を上げ、そしてシェンは夕餉(ゆうげ)時を迎えて混み合っている店内を見回し、空いている席を探した。
 ───その時。
「!」
 自分が見ていたのとは対角上にある方向から、今度は明確な視線を感じて、シェンは鋭く振り返る。
 途端に映ったのは。
 ───一対の、真青な瞳。
 それと同時に。
 知っている、と自分の意識の外側にあるものが呟いた。
 久しい、と。
 それはこの上なく無機質でありながら、まぎれもなく歓喜だと確信させる何かがあって。
 唐突に全てを理解しながらも、ただ見つめることしかできないでいたシェンの視線のその先、同じように目をみはっていた相手が、ふと微笑み。
 卓上にあった酒杯を右手に取り、軽く掲げてみせる。
 その親しみの込められた仕草に。
 誘われたようにゆっくりと、シェンは彼の方へと歩み寄った。
 年の頃は、自分と変わらないだろう。十七か八か、それくらいに見える相手は、亜麻色の癖のない髪に、思わず目を奪われるほどに鮮やかな青い瞳を持っていた。
 シェンの瞳も青系の藍色ではあるが、彼のはそれよりも数段明るく、南の海を思わせる透明感のある深い色合いで、そこに浮かぶ光は、やはり波のきらめきのように透明で穏やかに澄んでいる。
「やあ」
 初対面の相手に向ける笑みは、それもまた、晴れやかな南の海を渡る風のようで。
 敵ではない、とシェンは思った。
「どうやら席の空きがないようだし、良ければどうぞ?」
 向かい側の椅子を勧める、ものやわらかではあるがよく透る声には、少しだけ南方の発音が混じっているようだった。
 どこもかしこも、一度だけ見たことがある南の海を思わせる彼は、やはり海際の出身なのかと思いながら、
「それじゃ遠慮なく」
 グラスに触れている彼の手もまた、食事中であるにもかかわらず、指無しの黒い革手袋に包まれているのを、さりげなく見て取りつつ、シェンも笑顔で応じて、勧められた席に腰を下ろす。
 そして、注文を取りに来た女将に幾つかの単品料理と、ややきつめの酒を頼んで、改めて相手を見つめた。
 そのシェンの視線に、彼はにこりと笑む。
「初めまして、だね。僕たちの手は違うようだけれど」
「そうですね」
 何とはなし、ごく自然にシェンは敬語で答える。
 確証があるわけではない、だが、ほぼ同い年に見える彼は、自分よりも遥かに年長だと、シェンは視覚以外の感覚で感じ取っていた。
「僕はシュリ。君は?」
「シェン」
 短い答えに。
「シェン……ああ、君が」
 すぐにシュリと名乗った彼は、思い当たったようで、一つうなずく。
 ───トラン解放軍の軍主だったシェイラン・エセルディ・マクドールの通称シェンは、ごく限られた人間しか使わない呼び名で、決して広く知られたものではない。
 だが、シェンという響きと、特異な紋章の気配から彼はこちらの正体を察したのだろう。温和な見かけよりも遥かに鋭い……あるいは経験値の豊かさから来る察しの良さかもしれないが、いずれにせよ、迂闊なことは言わない方がいい、とシェンは感じる。
 だが、シュリと名乗った相手の方は構わず、どこか、しみじみとした様子でうなずいた。
「じゃあ、君の右手にあるのは、やっぱりあれなんだね」
「──御存知なんですか、これを?」
「あ、ちょっと待って。料理が来るから」
 思わず目をみはったシェンを、目線をシェンの背後に動かすことで制し、シュリは少しの間沈黙して、
「お待たせ致しました」
 と明るい声で言いながら、女将が料理と酒杯を卓上に並べ終えるのを待つ。
 そして、彼女がカウンターへ戻っていってから、改めてシェンの瞳を見つめた。
「僕が知っている真の紋章というのは、あまり多くなくてね。でも、久しぶりだってこれが言うから。もしかしたらとは思ったんだけど」
「久しぶり、ですか」
 確かに、と思う。
 自分の右手が感じたものも、それに近い感覚だった。
 真の紋章に、人間の感情に類するものがどれほどあるのかは知らない。だが、あの一瞬の気配を人の感覚に変換するのならば、それは淡い淡い、けれど明らかな、再会の喜び、としか形容のしようがないものであって。
「うん。──ねえシェン、分からないかな。僕が何者なのか、君は知らない?」
 人懐っこい口調であるのに、馴れ馴れしさよりも、むしろ、やわらかな親しみやすさを感じさせる、そんな独特の物言いで、シュリはにこりと微笑む。
 その笑みに。
 シェンは考える。
 南方のものらしい公用語の発音。
 眩しい海を思わせる瞳、存在感。
 そして、知っているかと問いかけるからには、それなりの逸話を歴史に残している存在。
 それらのヒントを繋ぎ合わせると、浮かぶ心当たりは一つしかなく。
「……海王シュリ……」
 らしくもなく、呆然とシェンはその名を呟く。
 すると、彼は、浮かべていた笑みをいっそう悪戯っぽく深めて見せた。




 今から百五十年ほども昔。
 当時、赤月帝国の宿敵の一つであった南方のクールーク皇国は、赤月帝国に対抗するため、更に南方の群島諸国に侵略の手を広げようとしたことがあった。
 しかし、群島諸国は、一旦は大半をクールーク軍の勢力下に置かれながらも抵抗を続け、最後にはクールークの艦隊を壊滅させて、自分たちの故郷を取り戻した。
 その抵抗勢力の中心となったのが、群島諸国でも最大のオベル王国と、そして一人の若き英雄。
 精強を誇ったガイエン海上騎士団の若き団員であったという彼は、しかし上官殺害の濡れ衣を着せられて騎士団を追放された後、放浪の果てにオベル王国に辿り着き、そこで知勇を王に認められて、対クールークの抵抗勢力の要(かなめ)にまでなり。
 最後まで戦い抜いた後、平和を取り戻した群島諸国から、誰にも行く先を告げることなく姿を消したという。
 その英雄の名は、シュリ。
 人々は偉業を讃えて、海王シュリ、と彼を呼んだ。




「知っていてくれたのは嬉しいけど、その呼び方は止めてくれるかな。どうにも気恥ずかしくて」
 そう言って笑う彼は、どう見ても英雄という呼称が似つかわしいようには思えない。人当たりのやわらかな少年、という表現が一番しっくりとくる。
 だが、シェンは不思議に納得していた。
 ───心に刻みつくような、青い瞳。
 先程、初めて目と目が合った時に感じた、あの衝撃。
 今は穏やかなばかりに見えるが、最初からそうだったはずがない。
 目に見えるようだった。
 この青い瞳に比類なく強い輝きを宿し、凛と前を見つめる様が。
 誰も歩いたことのない道を、数多(あまた)の人々を率いて進んでゆく背姿が。
 彼もまた、間違いなく天魁星を背負っていたのだと、言葉にはできない部分で、すとんと事実が胸の奥深くに落ちてくる。
「とりあえず、食事にしようか。せっかくの料理が冷めてしまうから」
 だが、シュリは全ては過ぎてしまったことだとでもいうように、シェンに料理を勧め、自分もまたフォークを手に取る。
 それに反論する理由はなく、まだまだ夜は長い、とシェンもしばしの間、食べることに専念して。
 そして卓上に残るのが、酒杯と酒肴の皿ばかりになったところで、シュリが再び口を開いた。
「シェン、君も今夜は、ここに宿を取っているんだよね?」
「ええ」
「それなら部屋に行かない? ここで話を続けても、どうせ誰も聞いてはいないと思うけれど、やっぱり気になるだろう?」
「それはそうですね」
「じゃあ僕の部屋でいいかな」
「はい」
 耳目(じもく)を気にした方がいい内容になるのは違いないし、そもそも、シェンもシュリも外見は、とかく人目を惹く容姿の青少年である。
 店内の客はいずれも酒が回り、隣り合ったテーブルのことなど気にもしてはいないが、それでも用心に越したことはないと、二人は酒杯と酒肴の皿を手に立ち上がった。
 そして、女将に部屋で飲むことを告げ、追加の酒を頼んで。
 シェンが泊まる部屋から見ると、廊下を挟んで斜め向かいとなるシュリの部屋へと落ち着いた。
 所詮は田舎町の宿のこと、取り立てて調度品が備えられているわけでもないが、室内の掃除は行き届き、窓際には花が飾られている。
 丁寧にベッドメイクされた寝台のリネン類も、ありふれた品だったが清潔で、太陽の匂いがしそうな洗いざらしの風合いは好感が持てるものだった。
 そして極自然に、二つある寝台のそれぞれに腰を下ろし、サイドテーブルに酒杯と皿、追加の酒瓶を置いて。
 改めてシュリは、シェンの藍色の瞳へと向き直り、海原を渡る風を思わせるような微笑を青い瞳に浮かべた。
「こういう事を突然言うのはなんだけど、言葉を飾っても仕方がないと思うから。正直に言うよ」
 そう、前置きして。
「シェン、僕は君の紋章の前の持ち主を知ってると思う」
 告げられた言葉は、十分に予測できていたことだった。
 自分が受け継ぐ以前は、テッドが三百年の歳月にわたり所有していた、生と死を司る紋章。
 そして、シュリの名が歴史上に登場するのは、今から百五十年前。
 どう考えても、シュリが知っているのはテッドが所有していた頃のソウルイーターに他ならない。
 にもかかわらず、改めて聞かされると、言葉にならない衝撃をシェンは覚えた。
「──あなたのかつての仲間に、弓を得意として強力な魔法を使う少年が居ましたよね。名前も、所有していた紋章の種類すら、書かれてはいませんでしたけれど。それが、テッド、ですか」
「うん。君の読んだことのある書物に、何がどこまで書いてあったかは分からないけれど。偶然、海の上で出会って、ちょっとしたいざこざの後、あの戦いが終わるまでテッドには色々と手伝ってもらったよ」
「そう、ですか」
 どんな様(さま)だったのだろう、とシェンは思う。
 目の前の彼と、かつての友は。
 自分たちのような親しみを覚えていたのか、それとも全く異なる関係を築いていたのか。
「あのね、ちょっと右手を貸してくれないかな」
「……え?」
 自分の思いに沈みそうになっていたシェンは、シュリの唐突な申し出に一瞬、反応が遅れる。
「どうも、紋章同士も懐かしがってるみたいだから。もしかしたら、面白い芸当ができるかもと思って」
「……どうするのか知りませんけど、大丈夫なんですか?」
 にこにこと笑っているシュリに、しかし、何やら物騒なものを感じてシェンは眉をしかめる。
 だが、全く気にすることなくシュリは、大丈夫大丈夫、と気楽な口調で答えた。
「少なくとも紋章同士が反発し合って大爆発、なんてことにはならないはずだから。僕のと君のとは、元々同じ陰に属しているから、相性は悪くないはずなんだよ。これが陽に属する紋章とだと、どうなるかちょっと分からないけれど」
「──まぁ、いいですけど」
 相手の笑顔に、何とも言えない諦めを覚えながら、シェンは右手をシュリへと差し伸べる。
「ありがとう」
 そして、シュリは革手袋に覆われたままの己の左手の甲を、同じく革手袋に包まれたシェンの右手の甲に重ね合わせる。
 その途端に。
 暝(くら)い、けれど、やわらかく感じるほどに静かな漆黒の闇が、二つの紋章の間から膨れ上がり、二人を包み込んだのは、おそらく錯覚ではなく。


 ───どこまでも続く、蒼き波濤。
 飛沫を上げて、波を超えてゆく巨大な帆船。
 果てのない青空を背景に、白い帆にまとわりつく海鳥たち。
 そして。
 ───見たこともないような、ひどく素っ気無い表情で。
 変わらぬ笑顔の青い瞳の彼に、実に面倒くさげに応じている、懐かしい懐かしい──…。


「!」
 ふっと、闇が晴れるように目の前に広がっていた光景が消えうせて。
「あ……」
 そこは元通り、宿の一室に他ならず。
 シェンは、思わずまばたきをする。
 と、
「思ったより上手くいったね。上出来、上出来」
 シェンとはまた声質が違うが、よく透る声が、どこかお気楽な口調で感想を述べた。
「でも、そうか。テッドは君と居る時、あんな笑顔ができたんだね。そうなんだ。本当に良かった……」
 そう呟くように言う声は、ひどく優しく、懐かしさに満ちていて。
「──テッドは、あなたと居る時はいつも、あんな仏頂面を?」
「うん。そりゃあ酷かったよ。僕が何度声掛けても、第一声は、何の用だ、俺に構うな、しか言わないんだもん。陰では、『構うな君』って呼んでたんだから」
「『構うな君』……」
 ついぞ想像のつかないような呼称に、シェンは半ば呆然と鸚鵡返しに繰り返す。
 けれど、あの仏頂面が常だったとするのなら、そう呼ばれても仕方がないかとも、そういえば初めて出会った時の彼は、野良猫のように無愛想だったとも思い返しつつ、シュリを見つめていると、シュリは楽しげに言葉を続けた。
「でも、今、僕が見たテッドは、すごく楽しそうに笑ってた。あんな優しい、慈しむような目で誰かを見られるようになるなんてね。彼の生きた時間は、全然無駄じゃなかったんだなぁ」
 ───無駄ではなかった、と。
 しみじみと温かく呟くシュリの言葉に、本当にそうだったのだろうか、とシェンは思う。
 三百年前のあの日、この呪われた紋章を受け継いで。
 自分の告げた、いつか必ずもう一度会えるから、という言葉だけをよすがに、生き続けて。
 きっと苦しかっただろう。
 どんなにか辛かっただろう。
 そうでなければ、どうしてあんな人を寄せ付けない雰囲気をまとうだろう。
 けれど、それでも。
 彼は、生きて、生きて。
 最後の最後に、自分と再会して。
 幸せだっただろうか。
 本当に笑顔を思い出すことができていただろうか。
 お前は子供の頃に一度会ったきりの人に、ちょっと似てるんだ、という言葉が口癖だった彼は。
 それでも、追われる恐怖に眠れない日々を送っていただろうに。
「幸せ、だったと思うよ。テッドは。きっと本当に君の事を愛して、大切にしていたと思う。そういう目だよ、君を見ていた彼の目は」
「───…」
 微笑むシュリの、愛、という言葉は、とてつもなく広く、深く。
「……あなた、は?」
「僕?」
 思わず零れたシェンの問いに、シュリは意味を考えるように小さく首を傾けた。
「僕が誰かを想っているか、という意味? それなら見て分かるんじゃない?」
 そう言い、楽しげに遠くを想うような瞳になり。
「もう随分と前に居なくなってしまったけどね。その人は普通の人間だったから。でも、そうだね。その人と生きた……たった十年程度の話だけど、その記憶があるから、きっと僕はこの先も、永遠に生きてゆけると思うよ」
 たった一人の、誰かの記憶が。
 永遠をも越える、よすがになるのだと。
 何でもない事のような口調で言って、シュリはシェンを見つめた。
「僕がその人に出会ったように。テッドが君に出会ったように。君もいつか、誰かに出会うんじゃないかな。永遠を生きるつもりでいるのなら」
 そして、シュリは思い出したように、置きっぱなしになっていた酒瓶を取り上げて、まずシェンの酒杯へと注ぎ、それから自分のへと注ぐ。
「その人と僕は、十年も一緒に旅をしていたけれど、結果的に恋人にも伴侶にもならなかった。それでも、たった一人の相手だったと思っているよ。その人が居なくなってから百年以上過ぎた今でさえ、その人の存在は、僕にとって世界に等しい」
 全てが自分を置き去りにしてゆく時間の流れの中で、それでも自分が生き続けている理由は、明確にあるのだと。
 シュリは微笑って、酒杯を傾ける。
 その姿を、しかしシェンは一瞬、ひどく不思議なものを見るように見つめた。
 ───テッドは自分に出会ったと言い、彼は既に亡き人が永遠に等しいと言う。
 誰かをかけがえないと思う気持ちを知らないわけではない。
 だが、自分は永遠を生きる理由を、他人に求めたことはないし、求めようとしたこともない。
 それどころか、奪い去ることしか知らない紋章を宿し、己の狩った魂達を抱いて永遠を生きることを選んだ今、もはや、誰かに何かを与えようとも思わない。
 また、誰かに何かを与えて欲しいとも思わない。
 この紋章を継承した時から、自分は人であることを捨て、只人には決して辿り着くことの叶わない天の玉座に居ますことを選んだのだ。
 そして、天の与える慈悲など無慈悲に等しく。
 最後まで人であろうとしたテッドとも、目の前に居る彼とも、おそらく違う道を選んだ自分は、彼が言うような世界に匹敵する存在──つまりは人間など、この視界に捕らえる気など微塵もない。
 自分と、紋章と。
 それだけがあれば満ちていると感じる自分は、このまま天の玉座から独り、永遠に世界を遠く眺めているのであり。
 誰かを必要とすることなど在り得ない。
 それなのに自分と同じように真の紋章を宿しながら、たった一人の相手を世界に等しいと言う目の前の存在は、自分の感覚からすれば、ひどく不思議なものに感じられて。
 シェンは、まじまじとシュリを見つめた。
「まぁ、そんな難しく考えなくていいよ。僕に言わせれば、所詮紋章は紋章だし、僕は僕だし。それ以外の何になれるわけでもないから」
 つまみの干し果実を一つ摘み上げ、口に運びながらシュリは、どこかのんびりと言う。
「そのうちに分かってくるよ。自分がどんな道を歩いているのか、どこへ行きたいのか。そうだね、百年くらい歩き続ければ、嫌でも」
「百年、ですか」
「そう。現に百七十年ばかり生きてる僕が言うんだから、間違いない」
 あまりにも気の長い、と思えるシュリの言葉に、シェンは、内心を覆っていた淡い困惑の霞を押しのけて、苦笑めいた小さな笑みが込み上げてくるのを感じる。
 この浮世離れぶりは、彼の生きた歳月によるものなのか、それとも生まれ持った性質なのか。
 判断する術はないが、それでも今日、ここで彼と巡り会えたことは僥倖(ぎょうこう)だった、と思った。
 自分とは永劫に交わることのない道ではあっても、負の力を持つ真の紋章を宿しながら彼のように生きる道もあるのだと、それを知ったことだけでも、おそらく意味はあったに違いなく。
 そして、真の紋章と天魁星、二つの宿業(しゅくごう)を持つ存在が、同じ空の下に在るということを知ったのにも、自分にとっては、また一つの意味を持っているように思う。
 だからといって、自分の生き方に何一つ、悔いがあるわけではない。
 ただ、永遠を生きる上でまた一つエピソードが加わった、その程度の意味合いではあったが、それでも自分が今、感じているのはまぎれもない愉しさだった。
「堅い話はこれくらいにしてさ。君の知ってるテッドの話を、良ければ聞かせてくれないかな。僕の知ってるテッドの話も聞かせるから」
「ええ、いいですよ」
 笑ってうなずき。
 そしてシェンは、二度と口にする事も、耳にする事もないだろうと思っていた、たった一人の親友のことを静かに語りだした。




 もともと酒に強いのか、あるいは真の紋章を宿している影響があるのか。
 どちらも強い酒を傾けながら酔った素振りすらなく、ただ互いの語る旧友にまつわる思い出話と、己の記憶との落差に呆れ、笑い合っているうちに時は過ぎて。
 追加の酒瓶が空になったところで、朝まで少し仮眠を取ろうかと、自然に場はお開きとなり、シェンは自分の部屋に引き上げ、夜明けまでの束の間の眠りを得て。
 日の出から間のない時刻に、再び二人は階下の食堂で顔を合わせた。
 旅人は通常、夜明けから日暮れまでの時間帯に移動し、日没前には宿を求める。長逗留をする場合を除いて、それに外れた行動をすることは、宿屋の人々の記憶に残りやすく、印象に留められる可能性を低くしようと思ったら、やはり出立は早朝ということになるのが当然であり。
 そんなものだよね、と苦笑するように二人は軽い挨拶を交わし、温かな朝食を味わってから、昨日のうちに頼んでおいた日持ちのするように二度焼きしたパンを女将から受け取って、宿屋を出た。
 当てのない放浪の旅であるのは、シュリも同じなのだろう。
 朝の光の下で見ると、いかにも旅慣れて見える服装も荷物も似たようなもので、唯一、はっきりと見た目に異なっているのは、互いの武器だけだった。
「君は、これからどっちへ?」
「とりあえず南にでも行こうかと。行く先を決めてるわけではないですが」
「僕は東なんだ。じゃあ、途中までは一緒だね」
「そうなりますね」
 この町から四方に通じている街道のうち、南方と東方へ分かれる分岐点は、町を出て二里ほど南へと下った所にある。
 同じ道を行くのに、わざとらしく別々に歩くこともないだろうと、旅は道連れとばかりに歩き始めながら、シェンは、ふと気になったことを尋ねてみた。
「一つ聞きたいんですけど、あなたは双剣使いでしたよね? 少なくとも僕が読んだ歴史書には、そう書かれてましたけど」
 どう見ても、シュリの腰に佩(は)かれているのは、柄(つか)こそ凝った意匠ではあるものの、普通の片手剣で。
 そのことを指摘したシェンに、
「ああ、これ?」
 とシュリは、己の腰を見下ろす。
「珍しい双剣使いってことで人の記憶に残るのは、やっぱりちょっと嫌かな、と思ってね。単純な目くらましなんだけど……」
「だけど……、何です?」
 町を出てからすぐ、背後にちらちらと感じ始めた気配に、何となく続く言葉を想像しながらシェンが問い返すと。
 てへ、としか表現の仕様のない表情で、シュリは笑った。
「ごめん、シェン。僕のお客だと思う」
「──どっちかなー、とは思ってたんですけど」
 悪びれない彼の態度に、微苦笑まじりの溜息をつきながら、シェンは、まだ仄かに夜の名残を残した朝早い光の中を、街道の脇の木立へと道を逸れる。
 シュリもまた、それに続いて、雑木林の奥へと進みながら、嘆息してみせた。
「ほんの二、三日の滞在だったから、大丈夫かと思ったんだけどね。この脇街道に分岐する前の町で、振り切った積もりだったんだけどなぁ」
「……ここに辿り着く前、どこへ何をしに行ったのか、一応聞くだけ聞いてもいいですか?」
「うん? そりゃ勿論、ハルモニアしかないでしょ、この場合」
 さらりと答えられて。
 シェンは思わず脱力する。
「どうしてまた、そんな所へ……」
「うーん。強いて言えば、好奇心、かな。最近、どうもあの国の動きがおかしいようだから、一度見ておこうかと思って」
「にしても、さすがに命知らずですよ。そもそも、昔の事も、あなたの紋章が原因だったんじゃないんですか」
「だからこそ、だよ。トンズラするにしても、相手の手の内を多少でも知っておいた方がいいに決まってるし。雰囲気だけでも掴めればと思ってさ」
「……僕も仲間たちには散々、命知らずだの物騒だの言われてましたけど。上には上がいるもんですね」
「大丈夫。君も、あと百五十年後にはこうなってるから」
 にっこりと笑い。
 そして、シュリは雑木林の奥、やや木々がまばらになった空間に出た所で、不意に足を止め。
 シェンも同じく立ち止まり、肩に負っていた荷物を、とさりと下草の上に下ろした。
 ───包囲網を形成しているのは、およそ三十人といったところか。
 服装や武器は統一されていないが、連携が取れている構えを見る限り、隠密行動に基づいた正規部隊の変装か、あるいは、一団の傭兵部隊なのだろう。そこそこの使い手が揃っていることは、剣を構えた気配からも窺えた。
 おそらくは昨日、彼らの内の数名が斥候として、あの町の様子を探り、シュリを見つけたのに違いない。だが、街中で騒ぎを起こすのは得策でないと判断し、自分たちが町を離れるのを待って、街道といっても名ばかりの人気(ひとけ)ない田舎道で仕掛けることにしたのだろう。
 そう推測するのはたやすかったが、しかし、彼らに自分の正体は知れたのかどうか。
 探るようにシェンは男たちを見やったが、ここまで追ってきた標的に突然現れた同行者を気にしつつも、彼らの関心は、やはりシュリに集中しているようで、シュリもまた、それを心得ているかのように、口を開き、深く透る声を森に響かせた。
「ハルモニアから、わざわざ御苦労な事だけど、君達は分かってるのかな。僕の左手にあるものは、僕にしか制御できない代物だよ。君達の誰かが奪ったとしても、三年と持たずに所有者の命は喰われる。それでも欲しいの?」
「上官の命令にせよ、金に目がくらんだにせよ、欲しいから、こんな命知らずな真似をしてるんだと思いませんか? 聞くだけ無駄ですよ」
「……かな? やっぱり」
 シェンの溜息まじりの指摘に肩をすくめて。
 しゃ…と鞘走りの音に続き、かちゃりと金属同士が擦れ合う硬質な音がシェンの耳に届いた次の瞬間。
 ───シュリの両手には、一振りずつの片手剣が握られていた。
「え……?」
 目を疑ったのは、シェンばかりでなく、包囲する男達も同じだったのだろう。それまで沈黙していた彼らの間に、ひそかなざわめきが広がる。
「シュリ、それは……」
「後で説明してあげるよ。今は、鬱陶しい野次馬を片付ける方が先」
 通常の剣よりも、やや刃が薄く見える双剣を、なめらかな動きでまったく力みのない自然体に構えて。
 シュリは男たちを見据えた。
「他人の命を奪う代価は、己の命でしか贖(あがな)えない。それが解っているのなら、来るがいい」
 夜の波間に射す月光の如く、凛と響いたその言葉と同時に、得体の知れない生き物がうごめくように包囲陣が一気に収縮し。
 シェンとシュリは、同時に大地を蹴った。
 ──一振り、一払いするごとに、鮮やかな血煙が、未だ朝の光の届ききらぬ木立のうちに舞い上がる。
 シェンの棍術が神業の領域に達した凄絶な演舞であるのなら、シュリの双剣術は、神雷の光が閃くかの如き絶海の波濤だった。
 寄せては返す激しい波のように、一時たりとも停止することなく縦横無尽に動き、一合すら刃を打ち合わせることなく前後左右の敵を切り捨ててゆく様は、断崖すら跡形もなく打ち崩す海嘯を思わせるほどに苛烈で。
 これが、あのシュリなのか、と思うと同時に、ああ、これが彼なのだ、と相反した思いをシェンは感じる。
 そうして横目で、ちらりと相方の様子を窺う間にも、シェンの天牙棍もまた、一瞬の間すら置かない速度で立て続けに敵を屠(ほふ)っており。
 わずかに百を数えるほどの時もかけず、返り血の一つすら浴びはしなかった二人は、まるで朝靄のように血煙が漂う中、静かに動きを止めた。
「……この程度で真の紋章主から紋章を奪おうだなんて。随分と甘く見られたものだね」
「一応、殆どが紋章を装備してはいたようですけど」
 紋章魔法を行使するには、どうしても詠唱を唱えるだけの間が必要となる。
 無論、敵も事前に詠唱を始めていたようだったが、だからといって術を発動させるほどの間を敵に与えるほど、二人は愚鈍ではなく、結果的に地に伏したのは男達の方だった。
 おそらく、かの国も真の紋章持ちの存在に気付きはしても、本気で追っ手をかけたわけではないのだろう。加えて、シュリの正体にも気づいてはいなかったのに違いない。
 もし、あの大艦隊すら一瞬で殲滅する力を持つ紋章を宿し、凄まじい剣の使い手として歴史書に名を残している海王シュリだと知っていれば、いかに小手調べ程度の意味合いであったとしても、こんな白兵戦中心の襲撃をかけるはずがないのだ。
 否、それ以前に、シュリの正体が判明していれば、ハルモニアは最初から本気で紋章を奪いに来ただろう。
 それとも、最初から全て計算の上での罠が張り巡らされているのだろうか。
 だが、思いを巡らせるシェンに、シュリは考えても仕方がないと言いたげな声を聞かせた。
「ま、こんな程度で済んで良かったかな。悪かったね、シェン。結果的に巻き添えを食らわせちゃって」
 その言葉に、シェンは小さく笑う。
 確かに形だけを見れば巻き添えではあったが、シュリの立場はシェンの立場でもある。ゆえに、巻き込まれた、とは感じなかったし、また、今全滅させたはずの敵に別行動をしている仲間がいて、どこかへ自分たちの存在を報告していたとしても、それはそれで構うことではない、と思う。
 無粋な連中にちょっかいをかけられるのは鬱陶しいが、別の見方をすれば、それらは永遠という名の無聊(ぶりょう)を紛らわせる、ささやかな小道具にもなり得るのである。
 そして、この自分から何かを奪おうと刃向かってくるのであれば、相手が誰であれ容赦なく叩き潰す。それだけのことだった。
 おそらくはシュリも同じような事を思っているのだろうと考えつつ、シェンは微笑を彼へと向ける。
「構わないですよ。こんな程度じゃ食後の運動にもなりませんし」
「君も言うねえ」
 口元に笑みを刻みながら、シュリは双剣を濡らす血脂を荷物から取り出した布で丁寧に拭い、それから二本の剣を重ね合わせて、補助護拳(西洋剣の柄にある、剣を持つ手を護るための部分)に模した柄の留め金でかちりと止める。
「ああ、そうなってたんですか」
「うん。うちの軍のお抱え鍛治師の力作。旅に出る前に特別にあつらえてもらったんだ」
 通常よりも刃が薄いと見えたのは、道理だった。
 刀身の中央、いわゆる脊が普通の片手剣に比べると幅広の平打ちになっており、その平らな部分が刀身の裏─表を結ぶ対角線で、表裏に分かれるのである。
 その結果、やや扁平な菱型の刀身断面を持つ剣が二本、出来上がるという仕組みだった。
「よく出来てるでしょ。並より刃が薄いけど、硬さの違う鋼を重ねて鍛えてあるから、刃毀(はこぼ)れは滅多にしないんだよ。ちょっと軽いのが難点だけど、切れ味は抜群だし、一本にしたままでも使えるし。今みたいな乱戦だと二本の方が便利だから、そうするんだけど」
「みたいですね。史書の記述以上の海王の剣技、拝見させていただきましたよ」
 シェンの賞賛に、シュリは、うーんと首をかしげる。
「君に褒められてもねえ。一対一でやり合ったら、君の方が勝つんじゃないかという気がするんだけど」
「双剣と立ち合ったことは、数えるくらいしかないですから。それに、あなたなら、この天牙棍でも断ち切れるんじゃないですか?」
「…って、それも棍身は極上の鋼でしょ? しかも鋳鉄じゃなくて、鍛鉄の。鋳物(いもの)ならやわらかいから、その太さでも叩き切れないこともないけど、鍛鉄はさすがに無理。君も、よくそれだけの重量を自在に操れるもんだよ」
「慣れですよ。百錬鋼を使いつつ重量を軽くするために、芯は抜いてありますし、見た目ほどは重くありません。習い始めの頃は普通に白蛆杆(トネリコの一種)を使ってたんですけど、実戦だと、やっぱり刀匠が鍛えた黒金でないと役に立たなくて。これだと刃のある獲物とも、まともに打ち合えますから」
「それは分かるけど。でも、やっぱり君も人間離れしてるねえ」
「程々に」
 しみじみと慨嘆されて、シェンは苦笑する。
 人の寿命の三倍近くを生き、闘神と見まごう剣技を持つ存在に、人間離れしていると言われても、正直、返す言葉に困るのである。
 あなたにはまだまだ及ばない、という含みを込めて応じたシェンに、シュリも笑い、そうして二人は、それぞれの荷物を拾い上げて、雑木林の中を街道へと戻べく歩き出して。
 後には物言わぬ骸(むくろ)の一群れだけが残された。




「さてと。じゃあ、ここでお別れかな」
「そういうことになりますね」
 岐路に立って、シュリとシェンは目を見交わす。
 外見年齢が、ほぼ等しいこともあるのだろうか。こうして見ると、自分たちは髪や瞳の色も全く異なっているのに、それでもどことなく似ているような気がして、言葉にしがたい感覚を改めて覚えながら、シェンは革手袋をしたままの右手を差し出した。
 シュリも迷うことなく、指無しの革手袋に包まれた手を差し出し、それに応えて。
「また、どこかで遇うこともあるかもしれないね」
「ええ。その時は、また」
 永い永い道程を歩むもの同士、またどこかですれ違うこともあるかもしれないと、握手を交わして、シュリは東方へ、シェンは南方へと続く道へと足を踏み出す。
 最後に軽く片手を上げ、それきり振り返ることもなく。
 この数日の晴天に程よく乾いた道を歩きながら、シェンは、たった一晩限りの旅の連れのことを、もう一度心に思い返す。
 ───初めて出会った相手だったというのに、気が付けば、当初に意識したわずかな警戒すら解いて対していた。
 それまでに生きてきた環境の差を意識しながらも、肩の力を抜いて会話を楽しめた独特の雰囲気は、もしかしたら、久しく会っていなかった兄弟に再会した時、人が感じものに似ているのかもしれない。
 それとも。
「むしろ……君と出会った時に似てた、かな」
 出会った瞬間は、まったく異質の人生を歩んできた存在だと直感したのに、その翌日には、まるで長年共に育った兄弟か幼馴染のようにふざけ合い、語らっていた、たった一人の相手。
 奇(く)しくも、同じその存在を知っていた彼もまた、自分の中で同じような位置付けがされるのは、ある意味、当然の事なのかもしれないとも思える。
「もしかしたら君が出会わせてくれたのかも、なんていうのは、僕には似合わないか」
 らしくもない感傷的な妄想に、くすりと笑ってシェンは空を見上げる。
 いまだ早い時刻の空は、薄い雲が所々にたなびいているもののよく晴れていて、少しだけ、たった今別れたばかりの相手の瞳の色にも似ていた。
「どうせ南に行くのなら、このまま海まで出ようかな」
 故国を出奔してから比較的早い時期に、大陸南方の海へ向かったことはある。だが、その時は海岸沿いを通過した、という言い方が正しいほど短期間の滞在だった。
 今度は、もう少しゆっくりと船に乗って島巡りでもしてみようか、と考えなら。
 日暮れまでに次の村に辿り着くべく、シェンは緩やかに曲がりながらどこまでも続く道を、さして急ぐこともなく歩き続けた。

...to be continued.

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