修羅 風塵の章

-月下-












 湖上の岩城は船着場から屋上に至るまで、ありとあらゆる場所に篝火が焚かれ、遠目にはまるで城全体が燃えているかの如く、輝かしい姿を水面に映し出していた。
 既に夜更けであるというのに、堅固な城砦は昼日中のような明るさに包まれ、時を忘れて勝利の凱歌に浸っている。
 赤月帝国と皇帝バルバロッサの圧制に抵抗するべく、抵抗組織・解放軍が組織されてから、早幾年が過ぎたことか。
 脆弱な反政府組織でしかなかった解放軍は、オデッサ・シルバーバーグという名門貴族の血を引くリーダーを得て一つにまとまり、更には、同じく名門マクドール将軍家の嫡子であった新リーダー、シェイラン・E・マクドールによって強大な勢力へと膨れ上がり、とうとう五日前に、皇帝バルバロッサを倒したのである。
 居城グレッグミンスター城の空中庭園から愛妾と共に身を投げた皇帝の遺骸は、奇妙なことにその場から消え失せてしまい、発見することができなかったものの、皇帝の死と解放軍の勝利は明らかであり、帝国の頸木(くびき)から解かれた民衆の歓呼の中を解放軍は本日、本拠地であるトラン湖上の古城へと戻ってきたのだ。
 そして、日没直前から始まった勝利の宴は、未だ収束する気配すら見せることがなく。




 そこかしこで賑やかな声が上がり、酔漢たちが興の赴くまま歌ったり踊ったりしている狂乱の騒ぎの中、それまで片隅の席で、にこにこと機嫌のいい笑みを浮かべ、果実酒のグラスを灯火の明かりに透かして楽しんでいた一人の少女が、ふわりと席を立った。
 そしてそのまま彼女は、酒に酔ったと思(おぼ)しき、ふらふらとした足取りで大広間を出てゆく。
 その後をちらりと見やったシェンは、さりげなく、ちょっと、と周囲に断って立ち上がり、酔漢たちの間を縫って自分もまた、大広間の外へと出た。
 既に夜もかなり更け、酒も少々度が過ぎるほどに回っている。
 開け放れたままの大扉を抜ける瞬間、髪を短くした妙齢の女性が、ちらりとこちらを振り返ったようだったが、示された反応はそれだけで、場の主役が席を空けることを咎める者は一人とていない。
「やっぱりクレオは気付いたかな……」
 十年もの月日を共に暮らした、家族にも等しい女性の名を一人ごちながら、シェンはゆっくりとした足取りで、時折かけられる声を適当に受け流しながら、少女の後を追う。
 短い追跡劇はすぐに終わり、喧騒からやや遠ざかった人気(ひとけ)ない階段途中の踊場で、窓に寄りかかっていた髪の長い少女に、シェンは気安い調子で声をかけた。
「ビッキー、大丈夫?」
「…あー、シェイランさんだー」
 今から二年ほど前、大森林の中で突然降ってわいた素性不明の彼女は、自分の事は何一つ語らず、いつもぼんやりとあらぬ方角を見つめているが、今夜はその大きな瞳もとろんと酔いに霞み、にこにこと機嫌よく笑いかけてくる。
「少し飲み過ぎた?」
「えへへ。大丈夫ですよう。ここ、涼しくて気持ちいいんですー」
「そう? 気持ち悪くないのならいいけれど」
 ご機嫌な少女に、口元に苦笑を浮かべて。
「ビッキー、それじゃあ気分いい所に申し訳ないんだけど、今、瞬きの魔法を使えるかな?」
「あー、テレポートですかー? 大丈夫ですよー。どこ行くんですかぁ」
 ふにゃリ、と小首をかしげる、稀有な空間移動の魔法を自在に操る少女に、シェンは何気ない口調で一つの地名を告げた。
「グレッグミンスターまで。ちょっと忘れ物を取りに行きたいんだ」
「はーい」
 魔法使いの習性なのだろう、こんな時にさえ手放さずにいたロッドを構えると、
「行きますよー」
 少女は澄んだ声で歌うように詠唱を唱え始め、ほのかに生まれたロッドの先端の輝きがふわりと膨れ上がった瞬間、シェンはその場から消え失せて。
 そして、それと同時に、瞬きの魔法を行使した少女もまた。
「あれっ!?」
 という素っ頓狂な声と共に、その姿を消していた。




「…っ、と!!」
 通常空間に復帰した瞬間、目に映ったのは、いささか爪先よりも下方にある石畳の地面だった。
 考える間もなく咄嗟に膝をたわめて、直後に襲いかかった着地の衝撃を受け流す。
「……やっぱり無謀だったか、酔っ払ったビッキーに魔法使わせるなんて」
 無様に倒れるようなことはなかったものの、さすがに背筋に寒いものをかすかに覚え、深い息を一つついてから、シェンは立ち上がった。
 幸い、放り出されたのが、傍にある植え込みの樹高とほぼ同じ、地面から二メートル程度の高さだったから良かったものの、これがもし上空だったら、たとえ真の紋章主であっても、おそらく死んでいる。
 どこぞの街のど真ん中に墜落死体、などという怪奇現象を作り出すのはまっぴら御免だったから、今回ばかりは素直に自分の悪運の強さに感謝することにして、さて、とシェンは周囲を見渡した。
「──なんだ、ちゃんとグレッグミンスターに着いてるじゃないか」
 よくよく見るまでもなく、淡い月明かりの下に広がる光景は、見慣れたというほどではなくとも見知っているものだった。
 てんで異なるあさっての場所に飛ばされることも覚悟していた分、少しだけ拍子抜けする。
「どうりで、きな臭いわけだな。……最終的に小火(ぼや)程度で鎮火しただけ、良かったんだろうけれど」
 整然と石畳の並ぶ、幅広い通路。
 しかし、その石と石の隙間に生えた雑草や、通路の両脇に等間隔で並ぶ植え込みの枝の乱れ具合が、ほんの数年前まで壮麗を極めていた帝城の荒廃ぶりを物語っている。
 ───そこは、五日前、滅亡したばかりの赤月帝国王宮の庭園だった。
 黄金の都とたたえられた赤月帝国の帝都グレッグミンスターに、その象徴として威容を示していた帝城は、いまや人気もなく、廃墟としか形容しようのない様を晒している。
 とはいえ別段、反乱軍──トラン解放軍が大軍をもって、城内に攻め込んだわけではない。
 本隊は、街の外に広がる平原に陣を敷いたのみで最後まで動くことなく、軍主のシェン自身を中心に選抜した、ごく少人数の手勢のみで、解放軍は黄金皇帝バルバロッサと傾国の魔女ウィンディを追い詰めたのである。
 だが、しかし。
 結果としてシェンは、その手で主君と仰いだ人物を討つことはできなかった。
 黄金皇帝バルバロッサは最後の最後に、自ら命を絶つ形で、己が失政の決着をつけたのである。
 シェンたちが見つめる中、ウィンディを伴って宮殿最上階の空中庭園から投身した皇帝の遺骸は、しかし、どれほど捜索しても発見できず、落下現場には、ただ大量の血痕と幾許(いくばく)かの肉片のみが残されているばかりだった。
 現場の様子から判断する限り、あの高さを墜ちた皇帝の命があったとは考えにくく、またウィンディに関しては、皇帝の肉体が緩衝材になった可能性がなくもなかったが、いずれにせよ、傷ついた二人がどこかへ運ばれたような痕跡はなく。
 一体どこに、と誰もが首をひねったが、兵士たちから報告を受けたシェンは、しばしの黙考の末、少なくとも皇帝は死んだと結論付け、遺骸の探索をその日限りで打ち切らせた。
 軍主の即断に驚き、眉をひそめる者も少なくなかったが、シェンにしてみれば、たとえウィンディが生きていたとしても、彼女の妹である、あの卒のないバランスの執行者が、己も深く関わる悲劇の最終幕を看過するとは思えなかったのである。
 そして二人の肉体が発見できない以上、盲目の魔術師が何らかを為したのに違いないと判断して、それ以上、シェンは二人の行方について考えることを放棄したのだった。
「さてと。城門は……あっちか」
 皇帝が存命の頃は夜通し焚かれていた常夜灯も今は絶え、淡い月の光しか照らすもののない庭園の中を、シェンはゆっくりと歩き出す。
 ───かつての主君の死に際して、シェン自身が思ったことはさほど多くない。
 最後の戦いの折、荒れ果てた空中庭園で剣を交えるまでのごく僅かな時間ではあったが、シェンは三年前、初めて宮中に参内し、御前に伺候した時のように主君と向かい合い、短い言葉を交わした。
 かつては偉大なる英雄であった人。
 不滅の忠誠を誓った、唯一の主君。
 他者が知れば欺瞞だというだろうが、シェンにとっては最後まで、バルバロッサ・アウグスト・ヴァン・ルーグナーは尊崇に値する主君だった。
 ただ、ほんの少しだけ彼は間違えたのだ。
 愛する女を救う手立てを、ほんの少しだけ。
 だが、そのわずかな間違いから始まった歪みは、またたく間に広大な帝国全土に及び、それを糺すためには、臣民が全力を尽くさなければならなかったのは事実であって、その明らかな皇帝の罪については、シェンも否定しない。
 けれど、荒廃した赤月帝国において、罰されるべきだったのは皇帝だけではない、というのも冷静にこの国を見た時のシェンの実感だった。
 国の荒廃の責任は、公に係る全ての者が負うべきものであって、たとえ絶対無二の君主であっても皇帝一人に全責任を被せるのは、ただの厚顔無恥でしかない。
 だが、世間は、それほど物事を複雑には考えようとはしないのが常であり。
 全てが終わった今、おそらくは世界中の誰もが口を揃えて、赤月帝国最後の皇帝は愚かだったといい、歴史書も、名君が一人の女に惑わされて堕ちたと書き綴り。
 そして、シェイラン・エセルディ・マクドールを、家名も財も全てを投げ打って民衆のために立ち上がった英雄と褒め称える。──そんな『伝説』が流布するのが、目に見えるようだった。
 滅びたものは悪であり、勝利したものこそが正義であるという考え方は、単純明快であるがゆえに受け入れられやすく、広まりやすい。
 だが、シェンがこの三年間見つめていた現実は、そんな真実と乖離した『伝説』ではなかった。
 バルバロッサはただ、皇帝としての慈愛の示し方を少しばかり間違えただけであり、対して、自分もただ、皇帝を輔弼(ほひつ)し、国家を支えるべき帝国貴族としての責務を果たしただけであり。
 帝国全土を巻き込んだ三年もの長きに及ぶ動乱ではあったが、シェンにとっての真実はただそれだけのことであって、誇張され、美化された伝説になど笑止でしかなく、またそんなものに巻き込まれる気もなかった。
「……あの二人は、どうしたかな」
 広大な庭園を横切る石畳の道を、城門へと向かって歩きながら、ふと呟きがこぼれる。
 ───五日前の最後の戦いの折。
 騒ぎに倒れた燭台から燃え広がったものか、城内で火の手が上がり、その中を脱出する最中、シェンは二人の仲間に彼らの身を呈(てい)して庇われた。
 彼らの行為を当然と言う気はない。ただ、郊外で待つ本陣に戦勝を誰かが知らせなければならなかったし、シェンはトラン解放軍の軍主であり、彼らは戦場でのみ生を得る傭兵だった。
 そして何よりも、自分には生を放棄できない理由があって。
 シェンは彼らに最後の抵抗を見せる近衛兵たちを任せ、他の仲間と共に城内を突っ切ったのだ。
 だが、トラン湖畔の本拠地に全軍が帰還して、盛大な祝勝会が開かれた今日になっても、二人は仲間たちの前に姿を現そうとはせず。
「少なくとも、死んではいないはずだけど……」
 呟きながら、ちらりと革手袋に包まれた右手の甲を見下ろす。
 ───真の紋章の一つ、生と死を司る紋章を宿した時から、シェンの意識は奇妙に人の生死に敏感になった。
 紋章が魂を喰らうか否かとは別の次元で、近距離で人が死んだ時、あるいは、それなりに見知った人間が命を落とした時。
 ふと、右手の紋章が声ならぬ声で、ささやきかけてくるような気配がするのだ。
 最初の頃は驚きもしたが、この世を形作る真の紋章ならば、それくらいの芸当はやってのけるだろうと納得し、いつしかその不可思議な感覚にも慣れてしまった。
「マッシュが死んだ時は感じたけど……、真の紋章同士が近くにあると感度が落ちるからなぁ」
 一種の干渉現象を起こすのだろう。門の紋章を宿したウィンディの生死も、覇王の紋章を剣に宿した皇帝の生死も、しかとは判断できなかった理由はそこにある。
 傭兵二人の生死も同じ理由で判然とはしないのだが、しかし、何となく彼らは生きているような気が、それこそ根拠も何もないがしていた。
「平和な時代には不要な人間だとか言ってたし、グレッグミンスター周辺にはまだ帝国の敗残兵も多いし。まぁ多少の手傷を負って、その辺に潜伏してるってところかな。大体、あの二人は殺しても死ななさそうだし」
 ソウルイーターだって、あんな連中の魂は喰らいたくないよな、ちっとも美味しそうじゃないし、などと右手に向かって語りかけたその時。
「!」
 シェンはぴたりと足を止め、刹那、解放軍指導者の顔に戻った。
「誰だ」
 鋭く響く誰何(すいか)の声に。
 逃げる気配もひるむ気配も無く、がさりと植え込みを掻き分ける音がして。
「お前なぁ、黙って聞いてりゃ好き放題に言いやがって……」
「……ビクトール?」
 思いがけない人物の登場に、さすがのシェンも目を見開く。
 しかし、手足に何箇所か有り合わせの包帯を巻いてはいるものの、熊を思わせる大柄な体型も風貌も、まぎれもなく五日前に生き別れになった傭兵でしかありえず、シェンは一呼吸して無形の構えを解いた。
「何してるんだ、こんな所で」
「そりゃあこっちの台詞だろ。おまけに見れば、お前、丸腰じゃないか。武器も持たずに何、夜中にうろうろしてんだ」
「丸腰じゃないよ。天牙棍は置いてきたけど、これがある」
 言いながらシェンは、懐の隠しから匕首(ひしゅ)を取り出す。
 しゃ、とかすかな音を立てて鞘から抜かれたそれは、刃渡り一尺にも満たない小刀ながらも、見る者が見れば業物(わざもの)と知れる鋭い輝きを煌めかせた。
「メースに鍛えてもらった業物だからね、これ一本あれば、その辺りの帝国軍残党なんて物の数じゃない。他にこういうものもあるし」
 更に上衣に隠れた腰の辺りから、しゅ…と軽い衣擦れの音と共に取り出したのは、一見飾り紐のように見える、金属線をより込んだ長い細縄の両端に、鋭い角を持つ多面錐の錘(おもり)をつけた、双星錘と呼ばれる暗器の一種だった。
「無手の体術も、手近な日用品や衣服を武器として使う戦い方も、カイ師匠に手加減なしで叩き込まれてるし。そうだね、ロッカクのハンゾウ辺りならともかく、フウマやカゲくらいなら、わざわざ棍を使わなくとも十分に渡り合えるんじゃないかな」
「……あいつらは忍だぞ?」
「事実だよ。連中の鍛錬の仕方がぬるいんだ。僕なんてカイ師匠が屋敷に居候してた頃は、まともに食事もできなかったんだよ? 将たる者、いつ何時でも暗殺者に命を狙われていると思え、とか言って、時所構わず師匠が襲ってくるから。
 食堂で攻防を繰り広げるうちにシチューの鍋をひっくり返して、師匠ともども夕食抜きをグレミオに言い渡されたことも一度や二度じゃないんだ」
「……一体どういう日常だ」
「それが普通だったんだって、僕の場合。加えて今は、これもあるんだから、丸腰だろうが何だろうが僕には関係ないね。敵が武器を持って襲ってきたら、それを奪えば済む話だし」
 ひらひらと素肌を晒したままの右手を振るシェンに、ビクトールは苦虫を噛み潰したような顔で、盛大に溜息をついた。
「ったく、つくづく物騒な奴だな」
「お褒めに預り恐悦至極。──で? ビクトールはここで何してるわけ? フリックは?」
 呆れ返ったような感想をさらりと受け流し、シェンは問いかける。
 と、ああ、といった顔になって、ビクトールも答えた。
「俺は見ての通りだが、フリックの奴は、ちょっと脇腹の辺りをやられてな。今は、世話になってる家の納屋に転がってるよ。
 といっても大した傷じゃないし、明日辺りにはどうにか動けそうなんでな。今夜は偵察を兼ねて、俺一人で見納めに、ってとこだ」
「なるほど」
 やはり解放軍の仲間の元には帰る気はないのかと、納得顔でうなずくシェンを、今度はビクトールがうさん臭げに見やる。
「そういうお前こそ、何してるんだ、今時」
「ああ、酔っ払ったビッキーにね、飛ばしてもらったというか、飛ばされたんだよ」
「は…あ?」
「酔ってる事は百も承知だったし、てんであさっての場所に飛ばされる覚悟してたから、結果としては上出来なんだけど、さすがに地上二メートルの高さに放り出されたのはね。一瞬、ひやりとした」
「………」
 さらさらと答えるシェンを、ビクトールは眉間にしわを寄せて見つめた。
「──お前は、これからのこの国に必要な人間だと思ってたんだがな、俺は」
「冗談だろう? やるべき事は全部終わったんだ。僕はもう、僕の好きに生きる」
「……レパント辺りが泣くぞ」
「泣かせておけばいいさ。優秀な人材は揃ってるんだから、どうとでもなる」
 無情な台詞を平然と口にして、シェンは淡い月明かりの下、朧に浮かび上がる荒れた庭園へとまなざしを向ける。
 手入れする者を失った御苑は、無造作に樹木の枝が伸び、下草も好き放題に生えて、こんな夜の中では、往時の洗練を極めた美しさなど、どれほど目をこらしても見出すことは難しい。
 けれども、そこかしこに今も尚、人の世の移り変わりなど知らぬげに幾種類もの夏の終わりの花が開き、ひっそりと月の光を受けていて。
「腐敗した帝国を打ち倒した若き指導者は、内乱の終結と共に姿を消す。後に残るのは英雄の伝説のみだ。民衆は英雄譚の浪漫を心に抱いて、帝冠を戴かない新しい国を造るだろう。今度こそたやすく腐敗しないような、活力に満ちた国をね」
 悪い筋書きじゃない、と笑むシェンに、ビクトールは逞しい肩をすくめた。
「もっともらしい御託を並べやがって。要は、この国を出てゆきたいだけだろうが」
 皮肉な口調とは裏腹に、どこか苦いものをひそませたビクトールの声に、しかしシェンは、悪びれもせずにうなずいた。
「そうだよ。本当なら三年前に僕はこの国を出ているはずだった。けれど、シルバーバーグ家の兄妹が、僕に帝国貴族としての責務を思い出させたんだ。自分がやるべきことに気づいてしまった以上、仕方がない。それを果たすまではと思って、この国に留まった。
 でも、赤月帝国もマクドール家ももうない。僕は自分のやるべきことをやった。あとは何をしようと、誰にも文句を言われる筋合いはない」
「あっさり言うな。家が無くなったっていっても、お前はまだ生きてるし、パーンやクレオも居る。他にも、戦争が終わったんなら屋敷に戻りたいっていう使用人もいるだろう」
「……その辺りは、父上が全て始末をつけて下さった」
 感情のこもらない声で、シェンは答えた。
「最後の出陣の際、我が家の本領にある居城の城代に宛てて、遺言書を託してゆかれたそうだ。御自分の死後、僕が家に戻らなければ、全封領の返上と、帝都を含めた各地にある邸宅等の処分を、国主と協議の上で行うことと定めてあるらしい。それに際して、使用人たちについては、希望する者にはそのまま各邸で務め続けられるように計らって欲しいと……。
 僕も城代からの知らせを受けただけで、書面そのものは見てないけれど、父上のなさったことに疎漏はないだろうから。僕がこの国でやることは、もう本当にない」
「……国主、と言ったのか。皇帝、ではなく」
「そう」
 翳ったビクトールの声に対し、応じるシェンの声は、常と変わらず内にある感情は読み取れない。
「父上はそういう方だった。だから、僕は何の悔いもない」
「──後顧の憂いも、だろ」
「勿論。この戦乱を経て、この国の人々は目標のために団結し、共に力を尽くすことを学んだ。貴族階級も崩壊した今、おそらくマクドール候家にならって全ての封領は返上されることになり、民に分け与えられるだろう。当然、そこにも妬みや争いは生じる。不平等を減らす努力をしなければ、また国は崩壊する。努力をし続ければ、国は長く繁栄する。あとはこの国の人々が考える問題だ」
「で、自分は一人、悠々と旅の空、か。まったく、とんでもない総大将だな」
「それでも役目は果たした。そうだろう?」
「まぁな」
 ビクトールもそれ以上繰言を述べることはせず、うなずく。
 やるべき事はやったと仲間たちに別れも告げず、今夜を限りにこの国を立ち去ろうとしているのは、どちらも同じなのである。お互い、相手をとやかく言える立場ではなかった。
「で? お前はこれからどうするんだ」
 美しく敷き詰められた石畳の隙間から雑草が伸びる小道を、どちらからともなく城門に向かって歩き出しながら、ビクトールが問いかける。
「実家に必要な物を取りに戻ったら、後は足のむくまま気の向くまま、かな。そっちはどうせ、次の戦場目指して、だろう?」
「ちっとばかり、休むつもりではいるがな。まぁ俺もフリックも、嫁さんをもらって安穏と平和な生活ができるようなタイプじゃないからな。これまで通りだろうよ」
「二人とも女性に縁がないだけにも思えるけどね、それは」
「何を言いやがる。こう見えても頼りになる男だって言われるんだぜ」
「そう言って、都合よく使われてるだけじゃないのか?」
「そ、そんな訳あるか」
「声が裏返ってるけど」
 大して意味のない会話を交わしながら、しかし、
「シェン」
 ふと何かを思いついたかのように、ビクトールが歩む速度を落とした。
「この国を出る前に、一つだけ気になってることがあるんだが……」
「何?」
 何かを憂うように低められた声に、取り立てて表情を動かすことなく、シェンは問い返す。
「マッシュはどうした? 情報は全く外に流れてないようだが……」
 言葉を飾るということを知らない、単刀直入なビクトールの問いに。
「──明日、訃報が発される手筈になってる。レパントたちが忘れなければ、だけど」
 シェンは短く答える。
「……そうか…」
「僕が本陣に帰還した直後に息を引き取った。おそらく僕が戻るのを待っていてくれたんだろう。──でも一般兵士の祝勝気分に水を差すこともないから、本拠地に戻る途中に幹部だけでセイカに立ち寄って、村の人たちに立ち会ってもらって密葬した。マッシュの教え子だった子供たちが沢山、花を供えてくれたよ」
 淡々と静かに、シェンの声は荒れ果てた庭園に響いて。
 いつでも物事を冷静かつ他人事のようにしか口にしない解放軍軍主の、珍しくも皮肉さのないその静かな口調こそが、解放軍に尽くしてくれた名軍師への最大の弔意だということを、傍らの傭兵もまた、理解する。
「そうか。何事もなくセイカに帰らせてやりたかったんだがな……」
「彼だけじゃないさ。皆、無事に家に帰りたかったのは同じだろう」
「そうだな……」
 帝国全土を巻き込んだ三年余の長きに渡る戦乱と、それに伴う犠牲者のことをちらりと思うように、二人は短く沈黙する。
「生き残った人間だけが、物を言えるんだ。自分が反論できない場所でとやかく言われたくなかったら、岩に噛(かじ)り付いてでも生きるしかない。後世に名が残ろうが伝説が残ろうが、人間は死んでしまえば終わりだ」
「まったくもって、その通りだな」
 言葉を交わし続けているうちに、二人は広大な庭園を通り抜け、王城の正門へと辿り着いて。
 衛兵すら居ない壮麗な城門の中央よりやや脇、五日前に自分たちが破った鋳鉄製の瀟洒な門扉の前で、足を止める。
「ここにも警備兵を置いとくべきなんじゃないのか? 帝国の残党が立てこもったら面倒だぜ」
「それならそれで、残党を一気に殲滅できるから楽なんだよ。こんな平城は無理に責めなくても、周囲を囲んで待っていれば、敵は勝手に餓えて自滅する。まぁ、もう僕の知ったことじゃないけどね。誰かが必要だと思えば手を打つだろう」
 あっさりと言い捨てるシェンに少々複雑な苦笑いを浮かべながら、ビクトールは三年もの月日、共に戦い続けたリーダーを見やった。
「それじゃあな。お前のことだから、どこに行っても適当にやるんだろうが。たまにはこの国のことも思い出してやれよ」
「そっくりそのまま返すよ、ビクトール」
「ああ。──色々な事が有り過ぎるくらいにあったが、俺はお前と一緒に戦えたのは悪くなかったと思ってるぜ。リーダー」
「らしくない事を言うと、明日、嵐になる気がするけどね。一応ありがたく聞いておくよ。フリックにも、よろしく言っておいてくれ。出会った直後とコウアンの町での暴言の貸しは付けておくから、ってさ」
「ああ。忘れずに伝えてやるよ」
 フリックの奴はさぞ青くなるだろうと苦笑しながら、ビクトールはうなずく。
「じゃあ元気でな、シェイラン。……今度こそ、お前の大事な奴との約束を果たしてくれ」
「勿論だよ。もう寄り道は十分しすぎるほどにしたからね」
 最後にほろ苦さを込めて言ったビクトールに、しかし、シェンは彼らしい笑みを返し、ビクトールも応じて笑みを浮かべて。
 そして、互いに片手を軽く上げると。
 壮麗な王宮の門の下から、二人はそれぞれの方向へと歩き出した。
「……さてと。余計な時間を食ったな。できたら今夜中に、ある程度距離を稼いでおきたいものだけど……」
 朝になれば、自分の不在に気付いて、仲間たちは一斉に探索を始めるだろう。その足には馬を使われることを考えると、今夜のうちに、どこまで旧王都から離れられるかが勝負の分かれ道になりかねない。
 まぁ追っ手が誰であれ、連れ戻されてやる気は微塵も無いけれど、と懐の隠し武器の感触を確かめながら、シェンは考える。
 だからといって別に、一度は仲間と呼んだ人々を傷つける気はない。二、三時間眠っていてもらう方法など幾らでもあるのだ。
「でも面倒なことは嫌だし、どこかで馬を調達するかな」
 夜更けの通りの石畳は、淡い月光を受けて濡れたように光っている。その冷たく固い感触を靴の裏に感じながら、シェンは己の生家へと、さして急ぐでもなく歩いた。
 城門から時間にして十分もかからない。参内するのに馬車を使うのも馬鹿馬鹿しいくらいの、近所へ散歩に行く程度の距離こそが、何よりも如実に旧帝国における地位を物語るマクドール邸は、今夜も人気(ひとけ)ないまま、古色蒼然と星明りの下にたたずんでいて。
「懐かしの我が家、か」
 父親の死と共に、歴代の当主が常に身につけていたこの邸宅に関連する鍵は全て、シェイランの元に届けられていた。
 銀製の輪に通された鍵束のうちの一つを使って門扉の錠を解し、広大な庭園を通り抜け、ようやく辿り着いた邸宅の玄関で、呟きながら、美しい装飾を施された鍵を見つめ、ゆっくりと鍵穴に差し入れる。そして、鍵を差し込んだまま、正面扉周辺に隠された幾つかの仕掛を解除すると、かちりと小さな音がして錠が外れたことを主(あるじ)に教えた。
 旅立ちの荷物といっても、改めて持ち出すほどのものは何もない。
 三年ぶりに立ち入る二階の自室に上がり、月明かりだけを頼りに、シェンは必要最低限のものだけを手早く背嚢(はいのう)に詰める。
 当面の路銀さえあれば、大抵の事態は凌げるということはもう十分に知っていたし、金が尽きたところで稼ぐ方法、あるいは食事にありつく方法も知っている。
 良くも悪くも三年間の戦乱は、自分にあのままであれば一生知ることがなかったかもしれないことを幾つも教えた、とシェンは思う。
 ゆっくりと感情の浮かばない瞳で、三年間という空白の歳月が降り積んだ室内を見渡し、もう一度、己の装備を簡単に確かめて、部屋を出る。
 その後は、どこかの部屋に寄り道することもせず、入ってきた時と同じように真っ直ぐに玄関へと向かい、錠を閉め直して門へと進む。
 その足が、不意に止まった。
「……ルック」
 一体いつの間に現れたのか、鋳鉄製の瀟洒な門扉に寄りかかるように軽く腕を組んで、一人の少年が立っていて。
 朧月と星だけのごく淡い光源だけでも、彼の冷たい横顔は十分に見て取れた。
 氷蒼色の瞳がちらりとこちらを見て、薄い唇が動く。
「後始末を押し付けられるのは御免だからね、僕はもう魔術師の島に帰る」
「そう」
 こんな時間に?、とは言わなかった。
 この三年間、一度も意思疎通をしたいと思ったことはない間柄ではあるが、こんな時にまで気分の悪くなるやり取りをする必要はないはずだった。
「君は?」
「さあね。北でも西でも、南でも東でも」
「どこに行ったところで、真の紋章の主は簡単には野垂れ死にできないよ」
「どうでもいいさ、そんなことは」
 本気でそう思っているようにしか聞こえない声でシェンは言う。
 その響きに、ルックは軽く細い眉をしかめた。
「地上のことなど、もう僕には何の関係もない。僕は僕の約束を果たすだけだ」
「……無責任に国を捨てて逃げ出すことが、その約束とやらだとでも?」
「そうだよ。三年前に僕は約束した。この先永遠に、真の紋章と共に生きるとね。そして、この世に二十七しかない創世の力の一つを、この右手に宿した時から、僕は『人間』であることを捨てた。だったら、後はせいぜい『神様』らしく生きるべきだと思わないか?」
「……思わないね。馬鹿馬鹿しい」
 どこか楽しげにすら告げたシェンの声を、狂人の誇大妄想でも聞いたかのようにルックは切り捨てる。
「神だろうが何だろうが、太古から永遠に生き続けている紋章主など居ない。宿主はいずれ死に、紋章だけが永遠に存在する。君だって例外ではないよ」
「だから、そんなことは知ったことではないんだよ。今の僕にあるのは、ソウルイーターは僕のものだという事実だけだ。だから、誰にも渡さない。そして、生と死を司る紋章を宿した僕は、この世界のどこにも属さず、誰の命令をも受けない。吾(われ)が座すべきは天の玉座あるのみ、さ」
 この先、生きようが死のうが、それすらも関係なく。
 ただ自分は行くのみだと、シェンは薄く笑って荷物を背負い直す。
「それじゃあね、ルック。傍迷惑な君のお師匠殿に、物事を引っ掻き回すのも程々に、と伝えておいてくれると嬉しいよ」
 皮肉に満ちた別離の言葉に、ルックは眉をしかめ、けれど手にしていたロッドを、とん、と地面に衝いた。
「ルック?」
「これが最後だよ。君がさっさとこの国を出ていってくれた方が、僕としても気分がいいんだ」
 冷やりとした温度が上がることなど想像もつかない声で告げ。
 おや珍しい、とでも言いたげに軽く目をみはって振り返ったシェンを、ルックは月光をはじく蒼みがかった銀の瞳で見やる。
「東西南北。それくらい選んでよ」
「……どこでもいいんだけどね、本当に僕としては」
 少しだけ考えるようにして。
「そうだね、北の方に質のいい鋼鉄の取れる鉱山と職人の町があるそうだから。とりあえずは北へ」
「……獲物を置いてくるなんて、馬鹿な真似をするからそういうことになるんだよ」
「仕方ない。僕が天牙棍を持って歩いてたら、さすがに勘のいい連中は気付く」
「それでも酔っ払ったビッキーに飛ばしてもらうなんて、正気の沙汰じゃないけどね。……そういえば、あの娘も君を飛ばした時に、同時にどこかに飛んでいったようだよ」
「……おやおや」
「少なくとも、出た先はこの街じゃないだろうね。気配を感じないから」
 紋章の申し子と異名を得るほどに魔術に長けた彼のことだ。フィルジーク城における一部始終をも、シェンとビッキー、それぞれの持つ魔力の気配から察していたのだろう。
 言うだけ言うと、ルックはロッドを構える。
「あ、その前に」
「……何なのさ」
「ついでに、これを戻しておいてくれないか。フィルジーク城の僕の部屋か、クレアかパーンの部屋に届けておいてくれればいい」
 シェンが差し出したのは、つい今しがた用済みとなったマクドール邸宅の鍵束だった。
 月光の下で鈍く輝く銀輪をしばし見つめ、ひどく嫌そうな顔で眉をしかめながらも、ルックは渋々と手を出してそれを受け取った。
「悪いね」
「悪いなんてこれっぽっちも思ってないくせに。本当に君は最悪だよ」
 心底うんざりしたように悪態をつき、再度ロッドを構えなおす。
 そして、低いささやきのような詠唱が、淡い月の光の中、夜の大気へと流れてゆくのをシェンは何も言わずに耳を傾けて。
 ふわりと風が己の身を取り巻くのに任せる。
「……また、どこかで遇うかもね。二度と遇わないことを願いたいけど」
「僕だって御免だ」
 それきり、風景は巻き上がった風の向こうに融けて。
「……それで、一体どこかな、ここは」
 シェンは溜息混じりに、風が鎮まると同時に新たに目の前に広がった、生い茂った木々の間からかろうじて覗く空を見上げる。
 ゆるやかに傾斜している道は、人工的に切り開かれたものだろう。どこの山道なのかは知らないが、人々の往来も頻繁にあるようで、地面は固く踏みしめられており、轍(わだち)の痕も残っている。
「街道、ではあるんだろうな、一応」
 人間が行き来するのであれば、どちらの方向に向かっても、おそらく集落がある。荷車が行き来するのであれば、市場や宿も期待できるだろう。
 こちらの注文通り、北の国境の向こう側に飛ばしてくれたのであれば、ここは間違いなく旧赤月帝国の宿敵・ジョウストン都市同盟の勢力圏内だ。
 つい半年ほど前にも、旧帝国軍との戦いの際、マッシュ・シルバーバーグの知略で彼らの脅威を、敵の敵は味方とばかりに利用させてもらったばかりではあるが。
「……言葉で僕がグレッグミンスター周辺の出身だって事はバレるだろうけど。まぁ、帝国の崩壊と共に逃げ出した貴族か、富裕な市民の子弟くらいに思ってもらえたら上等か」
 多少の問題が起きたとて、どうにでもなるだろう、と結論付けてシェンは荷物を担ぎなおし、とりあえずは下り方向へと向かって夜道を歩き出す。
 ───己が背負うものは僅かな荷物と、右手の紋章。
 今夜を限りに故郷も仲間も捨て、己の歩む道がどこへと続いているのか。
 それらすべてに思いを馳せることを拒絶して、英雄の名を負った存在は、夜の闇の中へと静かに消えた。

...to be continued.

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