10 ジンジャークッキー







 シュリという青年は、案外に口数が多くない。
 話すべきことはきちんと話すし、寡黙というわけではないが、沈黙を続けることもまた苦にしない性格であるらしく、無駄口を叩くことをは決してない。
 一方、ヘルムートの方は、どちらかというと寡黙なたちで、考えていることを口に出すのは少々不得手にしている。
 そういう意味では、ヘルムートにとってシュリは旅の道連れとしては最適の相手だった。
 黙々と何時間も歩き続けることも平気ならば、その後、ふっと思い出したかのように話す言葉にも無理がない。決して会話を押し付けてこないのである。
 ゆえに、妙に波長の合った二人のここまでの旅路は、意外なほどに何の問題もなく進んできていたのだが。

 今朝から突然、シュリが口を利かなくなった。

 といっても、話せなくなったわけではない。
 朝起きた時は、「おはよう」と挨拶したし、宿を出立する時も普通に女将と会話していたのである。
 しかし、その後といったら必要最低限の単語しか口にしないのだ。
 しかも黙々と歩き続ける表情は明らかに不機嫌そうで、実に品のいい形をしている口元は、むーっと引き結ばれている。
 そんな様子を見れば、他人の感情には疎い自覚のあるヘルムートも、さすがに悟らざるを得なかった。

(拗ねている、んだろうな、これは)

 シュリは感情の起伏も、激しさには程遠い。
 幼い頃から貴族の使用人として、感情をあらわにしないことを厳しく躾けられていた影響も大きいのだろうが、喜びにせよ怒りにせよ、感情を爆発させるような場面をヘルムートは目にしたことがなかった。
 嬉しい時には南の海を映した青い瞳を輝かせ、辛い時や怒りを感じた時には、その瞳を伏せる。感情を表すにしてもその程度のことで、真のところは何を思っているのか傍目には把握しづらい。そんな青年だった。
 それは、軍主としては間違いなく良い資質であり、浮(うわ)つくことも激情に駆られることもないシュリのことは誰もが信頼し、慕っていた。
 そんなシュリだったから、少なくとも人前では露骨に機嫌を悪くしたこともない。
 それが、街道を歩きながら口元をへの字にしている。どんなに鈍い人間であろうと、シュリが機嫌を損ねていることは一目瞭然だった。

 だが、その機嫌の悪さを、拗ねている、とヘルムートが受け止めたのには理由がある。
 シュリは基本的に鷹揚(おうよう)な性格をしており、それに経験によって鍛え上げられた忍耐強さが加わって、余程のことがなければ腹を立てることがない。仕方がないこと、と流せる幅が、常人よりかなり広いのである。
 その義侠心ゆえに他人に対する非道は決して見過ごさないが、自分自身に対しては、杜撰(ずさん)とも言えるほどに、心無い仕打ちをされても気にしない。
 その辺りの性格はヘルムートも似たり寄ったりのところがあり、そして、そんな二人連れの旅が始まって以降、二人が感情を損ねるような事態を見聞きすることは幸い、一度もなかった。
 しかし、代わりに、自制心の強いシュリが腹を立てるのではなく、拗ねるような事態が一つだけ、昨夜起きていたのである。

 といっても所詮、拗ねる程度のことであって、内容自体はささやかなことだった。
 他人に甘えることを知らなかったシュリが、彼自身の中にある小さな甘えを自覚し、しかもそれを許容されて戸惑った。
 要約するまでもない。言葉にすれば、ただそれだけのことである。
 だが、その一連の会話の間、シュリの表情をじっと見ていたヘルムートは、それだけのことがシュリにとっていかに大きな問題であるか、薄々感じ取れた。

 甘えることを許されず、甘える方法すらまともに知らない子供時代を送った青年にとっては、自分の中に生まれた甘えの感情そのものがモンスターに等しいものに感じられたに違いなく、ましてや、それを構わないと言われてしまっては、どうすればよいのか分からなくなるのも仕方のないことだろう。
 甘えてもいいと言われて、戸惑いながらも少しだけ安堵した。
 だが、本当にそれでいいのかどうかも分からないし、他人に甘えてしまうこと自体が何だか悔しい。
 件(くだん)の会話から一夜明けたシュリの胸中は、そんなところではないかとヘルムートは推測していた。

 ゆえに、今朝からむっつりと沈黙を続けるシュリに対してヘルムートが取った手段は、放置、だった。

 拗ねている子供に構っても、更に機嫌を損ねるだけである。
 こちらに非のあることでもなし、機嫌取りなどしてやる必要もない。
 そもそもからして、単に新しい感情に戸惑っているだけなのだ。
 そしてシュリも、もう子供という年齢ではないのだから、そのうちに機嫌を直して、態度が悪かったことを謝ってくるだろう。
 そう確信できる程度には、ヘルムートはシュリの人格を高く買っていた。






 膠着していた事態が動いたのは、午後遅くなった頃合だった。
 今二人が歩いている街道はこの地方の主街道の一つで、約一日の行程ごとに複数の宿屋を備えた規模の町が連なっている。
 きちんと自警団らしき門番のいる町門をくぐり、今夜の宿はどこにしようかと広場で町並みを眺め渡している最中、シュリがふと、広場に立ち並んでいる屋台の一つに目を留めたのだ。
 広場の屋台は、飲食物を売るものが殆どである。シュリがまなざしを向けたのも、その類(たぐい)で、どちらかというと子供向けの駄菓子が並んでいるのが見て取れた。
 駄菓子であるから、どちらかというと素朴なおやつといった感じの固めの焼き菓子が多いようだったが、中でも目を引くのは、飾りのように軒から沢山ぶら下げられた人型のクッキーだった。
 ユーモラスな形に、白いアイシングで顔や模様が描かれている。どこにでもある珍しくない駄菓子である。
 しかし、シュリが目を留めたのは、その菓子だった。

 凝視というほどではない。だが、数秒の間、シュリの視線がそのクッキーに留まった。
 そして、その横顔だけで、ヘルムートが動く理由には十分だった。

「ヘルムート?」
 不思議そうに名を呼んだシュリには構わず、屋台に近づいて、一掴み分の焼き菓子を求める。代金を払い、その場で立ちすくんでいたシュリの元に戻って、飾り気のない麻布の袋を差し出した。
「シュリ」
 ヘルムートの顔と、差し出された菓子の袋を交互に見つめて、シュリはおずおずと布袋を受け取る。
 両手で菓子の包みを持つその姿は、まるで幼い子供のようだった。
「……ありがと」
「いや」
 こんな場面でも、ヘルムートは気の利いた台詞を口にすることはできない。だが、そんな必要があるとも思えなかった。
 うつむいたシュリの、亜麻色の髪の間から覗く耳がほんのり赤く染まっている。
 その様子に、こんな風に誰かに駄菓子を買ってもらったこともなかったのではないかと、目の前の相手の子供の頃を脳裏に描いてみる。
 と、シュリが小さく言った。
「……ラズリルの辺りじゃ、ジンジャークッキーは秋のお祭の時だけに作るんだ。あの屋台みたいに、穴にリボンを通して窓とかに飾って」
「……そうか」
「普段から僕は、スノウの遊び相手っていうことで、スノウのために用意されるお菓子を分けてもらえてたんだけど、秋のお祭の時だけは、スノウの……言葉は悪いけど、おこぼれじゃなくて、ちゃんと僕用に作ってくれたジンジャークッキーがもらえて。単に、スノウがジンジャーがあんまり好きじゃなかったからなんだけど」
 普段の話す時には話す、なめらかな口調ではなく、世慣れない少年のような訥々(とつとつ)とした調子でシュリは語った。
「そのジンジャークッキーが、すごく好きで。食べるのが惜しくて、お祭が終わっても何日も大事に、自分の部屋の小さな窓に飾ってた。……それだけのことなんだけど」
 そこまで言って、やっとシュリは顔を上げる。
 どうすればいいのか分からないような表情で、それでも、はにかむような子供とも大人ともつかない笑みをヘルムートに向けた。
「ありがとう、ヘルムート。僕、本当にこれ、好きなんだ」
「それなら良かった」
 ヘルムートが答えると、シュリの微笑みは更に照れくさそうなものに変わる。
 その表情はもう子供のものではなく、歳相応の青年のものだった。
「あと、ごめん。今日の僕、ものすごく態度悪かったよね」
「それは構わないともう言った。誰だって、機嫌の悪い日はある。無理に明るく振る舞われる方が、俺としては嫌だからな。お前が多少不機嫌なくらいは気にしない」
 八つ当たりされていることは百も承知だったが、しかし、所詮はむっつりと黙り込んでいただけで、嫌味を延々と言われていたわけでもない。
 シュリにしてみれば最大級の甘えの表現だったのだろうが、ヘルムートにとっては他愛ないと称する領域を超えておらず、二、三日続くようなら、さすがに何か言ってやろうかと思案する程度のことだった。
「──そういうとこ、ヘルムートって本当に器が大きいよね。感心する」
「お前に言われることじゃないぞ」
「そう? でもやっぱりすごいよ」
 言いながら、シュリは憑き物が落ちたような表情で笑う。
 そんな意図を持ってしたことではなかったが、結果的にジンジャークッキーが浮上するきっかけになったのだろう。
 すっきりした表情でヘルムートにまなざしを向けた。
「それじゃ、そろそろ宿に移動するか」
「うん。さっきの二件目の宿、良さそうな感じがしたな」
「看板に鹿が描いてあったところか」
「そうそう」
「なら、今夜はそこにしよう」
 目的地を定めて、二人は広場の石畳を歩き出す。
 傾いた日差しの中、シュリの手は、しっかりとジンジャークッキーの包みを握ったままで、そんな甘え下手の旅の相棒にヘルムートは声には出さず、小さく苦笑した。








end.







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